69.新しい生活<挿絵あり>
ラピュータに来てから丸六日。
萌香は日本でいう研修のような感じで、まずはダン家のメイドとして働いた。覚えることが多く、毎日夜には頭も体もぐったりだ。
日本と違って休日は基本週一。江戸時代のように休暇は盆と正月というわけではないだけましだが、週一とはいえメイドが一斉に休めるわけでもなく、基本交代制になる。萌香が台所の下働きから、貴婦人の話し相手まで一通り体験させてもらうのは破格の扱いだろう。それでも萌香の聖女という立場から、派遣されるのはトゥークと呼ばれる王家ゆかりの身分限定とクリステルからは言われた。もしものことを考えると、少なくとも今年いっぱいは一般家庭に送るわけにはいかない、と。
萌香としてもそれに否やはない。
とはいえ、女王陛下に拝謁したときはある種の興奮状態でなんとかなったが、いざ仕事となれば話は別だ。先輩方の仕事を丁寧になぞるように吸収していくのが精いっぱいで、手帳の翻訳はなかなか進まないでいた。
「やっと休みだぁ」
明日一日はベッドで過ごそうか。
あまりにもくたくたでそんなことを考える。土曜を休みにしてもらったことで研修は五日間だったのが、今は心底ありがたい。明日はお昼を一緒に食べようとトムとメラニーから誘われてるが、それでも朝寝坊は出来そうでちょっと幸せな気分になった。
クリステルの用意してくれた離れはこじんまりしているが快適な部屋で、住み込みの上級メイドの寮のような感じである。萌香のほかには三人しか住人はいないが、とてもよくしてもらっていた。
「メラニーさん、もう一度見たい写真があるって言ってたけど、どれかしら?」
スマホを取り上げるものの、今は疲れていて見る気力がなく、結局しまい直す。
あの暗黒歴史写真のせいで途中で止まってしまった為、物足りなかったのかなと思い、充電だけ確認して電源を切った。
ベッドに横になり、ぼんやりと六日前のことを思い出す。
一条と二人で写った写真はもうないが、あんな写真を見られた恥ずかしさにのたうち回りたいし、皆の記憶から消し去りたい! あの時も、あまりにも情けなくて泣きたくなったくらいだ。
よりにもよって、あんなものを残していたなんて一生の不覚!
撮ったのも加工したのも一条。多分萌香に内緒でこっそりフォルダの底に入れていたのだろう。ちょっとしたドッキリが好きな人ではあったが、
「びっくりしすぎて、あやうくスマホを破壊しそうになったわ……」
――あのキス魔!
久々に見た一条の顔は(あ、この人こんな顔だったんだ)程度のものだった。特に感傷もない。
だが、ふと気づくとトムたちの視線が怖かった。だがそれは、よくも萌香を誑かしやがってと言う感じだったので、胸の奥がくすぐったくなる。
萌香は絵梨花ではないけれど絵梨花である。
それをどう理解したかは分からないが、それでも態度が変わらないのが心底嬉しくもあり、絵梨花に申し訳ない気持ちにもなる。事実、この世界に絵梨花が戻らない限り、この世界唯一の絵梨花は萌香だ。
だけどアルバートにだけは……
「アルバートさんは、私と絵梨花は別だって分かってはくれないんですか?」
二度目の求婚(!)のあと少しだけイラッとして、笑顔を保ちつつも皮肉な色が混ざってしまった。恋愛に縁がないと言った萌香に、彼が同情してるのか励ましてくれているのかのどちらかだということは分かってる。
それでも――。
地球が丸いことも、月が衛星であることも、世界には様々な国があり、言葉や習慣が違うことも理解してくれるのに。
萌香の話を真面目に聞いて、誰よりも理解を示してくれるのに。
なぜか、萌香がアルバートの知っている絵梨花ではないことだけは通じない。
萌香自身分かってるのだ。もし自分の友達や家族が「パラレルワールドから来た〇〇だ」なんて言っても信じないだろうということは。
それでも彼にだけはきちんと理解してほしいと願ってしまう。
他の話の時のように、わかってほしいと思ってしまう。
――だって専門家でしょう!
そう思うのはただの八つ当たりだと時間を置いた今ならわかるのだが、あの時はひたすらに(恋人だの結婚だのは、萌香の前ではとりあえず忘れてくれないかな⁈)という気分だった。
「いや、理解したつもりだ。双子みたいなものだろ?」
「んー、そんな感じに近いんですかね……?」
近いような、遠いような。いや、多分遠いんじゃ……?
「エリカのほうは捜索する。お前とエリカの二人がいるなら、エリカはエムーアのどこかにいるはずだ」
やっぱりわかっていないと、諦めにも似た感情が湧くのをグッと押さえつける。
「エリカを見つけて目の前に連れてきたら、今度こそ俺の話を真面目に聞け。いいな?」
アルバートの言い方は言葉だけなら命令だが、どこか懇願の色があり、萌香は口ごもった。
――きゅ、急に、雨に濡れた子犬みたいな目をしないでください!
大体そんなことを言われても、同じ世界に同じ人間が存在することなんてありえないだろう。昔読んだSFのように、同じ人間が会った瞬間世界が爆発したらどうするのだと考え、肌が粟立つ。
けれど腕をさすりながら萌香が周りを見回すと、アルバートの両親とシモンが何やら話しているのに気付き、しまった、と思った。
ここでの結婚は日本とは事情が違う。親同士が話を進めてしまえば決定してしまうのだろう。アルバートは恋愛結婚が許されている立場だと思っていたが、絵梨花に元々婚約者がいたことを考えると、条件のほうが優先される可能性があるのかもしれない。元々クリステルは「エリカ」とアルバートを結婚させたがっていたのだし、シモンも絵梨花に早く伴侶をと考えていたはずだ。今の冗談だか励ましのせいでアルバートがその気になったように見えたのなら、話は早いと考えるのは間違いない。
アルバートをチラリと見やり、胸の奥で動きそうになった何かの感情の封印箱をもう一度強く強く閉じ、ずーっと奥深くに沈める。
絵梨花がいないところでそんな話を進めちゃだめだ。
「わかりました。じゃあ絵梨花が見つかって一緒に話を聞けるなら、改めてお話を伺います」
シモンたちにも聞こえるよう、はっきりとそう答える。
「本当だな? 約束だぞ」
「約束します」
――だって、そんなことはありえないから。
我ながらひどい約束だが、それ以外の返事は見つからなかった。
「だいたい私と絵梨花の二人がいるって分かったなら、アルバートさんと私は知り合ってまだ二週間ですよ? わかってます?」
二週間イチジョー家で毎日顔を合わせ、色々な話をしてきた。不安な気持ちを励ましてくれたことには感謝しているし、やっぱり頼りにしている気持ちはある。
つい呆れが混ざった口調になってしまうが、アルバートはようやく緊張が解けたような表情になり、
「それもそうだな」
と、かすかに微笑んだ。
うん、それが分かったなら大丈夫でしょう。
これで彼が「萌香」に求婚を口にする日は二度と来ないはずだ。
萌香が察したとおり、親同士で進みかけていた婚約の話はいったん白紙に戻った。ストーカー対策としての婚約者候補をアルバートは続けてくれるが、仕事は「萌香」として行うので、その出番はあまりないだろう。仕事先が王家ゆかり限定なのはデズモンド対策もあるのかもしれないと思うと、クリステルには頭が上がらない。
萌香として働くにあたって、翌日から少しだけイメチェンをしてみた。
聖女の印はコンシーラーで隠すが、念のため髪でも隠すことにした。メイドキャップは存在しないようで、髪はまとめてあれば構わないという。そこで両サイドで三つ編みにした髪で耳の後ろが隠れるようにした。萌香がひそかにヴィクトリア女王風と名付けた髪型にすると、クラシカルなメイド服にも雰囲気が合う。メイクもおとなしやかに印象に残りにくいものにした。
クリステルでさえ一瞬誰だか分からないほど雰囲気が違うことに満足したが、実家に泊まっていたアルバートにはすぐばれた上に褒められてしまい、複雑な気持ちになる。
「そういえば、ヴィクトリア女王の旦那さんの名前ってアルバートだっけ。だからか」
特に意味はないが、そんな無理やりこじつけた理由で、彼から綺麗だと言われたことはすぐに忘れる。その後アルバートの父親と共にクリステルの髪型も褒めていたので、どうやらこれはダン家の風習か躾の賜物らしい。ダン家内において綺麗や可愛いは朝の挨拶みたいなものなのだろう。
――奥様、女タラシ育成してませんか……? あるいは旦那様からの遺伝とか? うーん、あり得るかも。




