おやすみ
「俺の好きなのは……朱希……だから」
「……りょう……もう! デートごっこはわかってるけど、そういう事不用意に言わない!」
「バレたか」
「バレいでか!」
なんと言ったら信じてもらえるだろう? いや、今は信じてもらえなくていい。学生だし、生活力もない。もっと大人になってから、ズルいとは思うけど兄貴達が夫婦の倦怠期を迎えたあたりで……。何しろ三組に一つのカップルが離婚するらしい。まだ、可能性は0じゃあない。
俺にムリヤリ『兄貴の嫁さんパートⅧ』のDVDを見せた悪友の鎌田が言っていた。(ムリヤリだ、俺は見たくなかった。朱希さんがあんな淫乱なわけないし、義理の弟をたぶらかしたりしない。……して欲しいけど)
『俺のおばさんなんかバツ3だぞ、滝田の姉ちゃんも離婚したし、神田のとこなんかバツ2同士の再婚。なんで離婚するのに結婚したがるんだろ』
知らん。知らんがそれはこの際どうでもいい。
大事なのはこの恋に希望がある、ということだ。
「楽しかったね」
「うん、楽しかった」
楽しい時間はあっという間だ。
本当は抱き寄せてキスしたかったけど、軽蔑されたくないから、もうすぐ家というところで繋いでた手を最後にギュッと握って……離した。
好きだ。凄く、凄く好きだ。
「涼平くん」
「ん?」
「彼女が出来たら紹介してね」
「は?」
「ちょっと嫉妬しちゃうかもだけど、応援するから」
「……」
こんな事言って俺の心をかき乱して……キスしたって許されるんじゃね?
「朱希!」
振り向くと眉間にしわを寄せて匡平が立っていた。
「匡平、おかえり」
途端に柔らかく微笑んだ彼女に涼平の胸は締め付けられる。
「なんだ……涼平か……ビビった」
「え?」
「朱希が男と歩いてるから……焦った」
「弟の後ろ姿くらいわかれよ……」
落胆を悟られまいと、冗談めかして言った。
「お前、そんなに背高かったっけ?」
「兄貴の身長なんてとっくに追い越してるよ」
「やっぱ、爺さん似だな」
匡平は二人の間に入って朱希の手を握った。
匡平に隠れて見えなくなった朱希に涼平の心は痛んだ。
すぐ近くにいたのに、もう遠い。
「お祖父さん背、高かったの?」
「うん、ジジイとは思えないデカさ。涼平が生まれる前に亡くなって、色々似てるもんだからコイツ爺さんの生まれ変わりかも、とか良く言われてたな」
「匡平にも似てるけどな……」
「そう?」
「似てないよ」
「俺に似てたら嫌なのかよ」
「嫌だよ」
「コイツ」
兄弟同士フザケてるのが面白くて朱希は声を立てて笑った。
*-*-*-*-*
三人揃って家に帰り、母のいつ子が用意してくれた夕飯を賑やかに食べ、ケーキを切り分ける頃には時計は午後9時を指していた。
「明日は休みだろ? 泊まってけよ」
父、周平の言葉に涼平は「え?」と凍りついた。
「なんだよ涼平、いやなのか?」
「……てか……泊まるとなったら兄貴と親父馬鹿みたいに飲むだろ……酔っぱらいうるさいし……」
「お前も飲め」
「未成年だよ」
「真面目だな、お前は」
ひとつ屋根の下で、好きな相手が他の男と眠るのかと思うと暗澹たる気持ちになった。
「親父ゴメン、明日朝から出かけなくちゃなんないから、俺ら今日は帰る」
「そうなの? 残念。朱希ちゃん、またいつでも来てね。匡平は置いといていいから」
「置いとくなよ。俺も来るよ!」
笑いの輪の中、涼平はホッと胸を撫で下ろした。
帰りがけ朱希が「涼平くんこれ……」と小さな包を手渡した。
「え?」
「遠慮するかも……と思って実はコレだけは用意しといたんだ。ありがちだけど万年筆。邪魔になんないし、良かったら使って?」
「あ……ありがとう」
「じゃ、おやすみなさい。ごちそうさまでした」
周平やいつ子にも頭を下げ、朱希と匡平は帰って行った。
涼平は『おやすみ、朱希』と心の中で言って、彼女に小さく手を振った。
*-*-*-*-*
帰る道すがら朱希は匡平に問いかけた。
「明日、どっか出掛けるの?」
「ウソ、朱希と早く二人きりになりたくて」
「もう」
そうは言ったが匡平はその夜、朱希に手を出さなかった。
いつもと違って静かな匡平に「疲れてるのかも」と朱希は優しく彼の頭を抱き寄せた。
「よしよし」
朱希に頭を撫でられながら、匡平は目にしてしまった情景を思い起こしていた。
愛おしそうに朱希を見つめる涼平。つながれた手と手。無邪気な朱希の顔。切なそうに手を離す涼平。
すぐには声を掛けられなかった。
「あいつ……あんな顔するんだ……」
「え?」
「ん? いや、涼平……小さい頃は可愛かったのにな、って」
「ふふ……今でも可愛いけどな」
「そう?」
「うん。だって私の弟だもん」
「なんだよ、それ」
「また、デートしてもらおう」
「ダメ」
咄嗟に口をついて出てしまった。
「ダメ、朱希は俺の」
匡平は朱希をギュッと抱きしめた。
「俺のになったから、涼平くんが弟になったんでしょ? 自分より一回りも上の嫁のことで兄貴が妬いてるなんて知ったら、涼平くんに笑われるわよ」
一回りも年の差があるようには見えなかった。涼平は俺よりも大人びた顔立ちだし、小柄な朱希と歩いているとちゃんとカップルに見えた。
「旦那さま?」
「いいね、ソレも一回言って」
「旦那様、仕事で何かあったんですか? 今日はナーバスですね」
「生理中」
「は?」
「だから、今日はエッチはダメよ」
「また、匡平ったら」
匡平は、くすくす笑う朱希に甘えるように彼女の胸に顔を埋めた。
その頃涼平は、映画の半券を大事にしまい、朱希のくれた万年筆を穴が開くほど眺めながらベッドに横になっていた。
この夜、年若い恋敵を憐れんで兄が彼女を抱かなかったことなど知る由もない。
ただ、彼女との楽しい時間だけを胸に描こうと、万年筆を握りしめて、ギュッと目をつむるばかりだった。
Fin.
最後までお読み頂きありがとうございます。
またご縁が有りますように!