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約束

       *     *     *



 気高き月の女神セレーネーが投げ掛ける光が、石造りの円柱群を照らしている。

 手の込んだ装飾などない、無骨な石の柱たちだ。

 だが、寸分の狂いもない等間隔で真っ直ぐにそびえ、小揺るぎもせぬその姿には、ある種の荘厳な美しさがあった。

 それは、まるで、スパルタの男たちの姿のようだった――



 レオニダスが息を切らして競技場スタディオンに駆けつけたとき、石柱の一本に寄り添うようにして佇んでいた金の髪の乙女は、慌てて柱から身体を離した。


「レオニダス!?」


 叫んだ声には、驚きだけではない、もっと複雑な感情が含まれているように聞こえた。


「なんだ、驚いたな。来るとは思わなかった。どうして、ここが分かった? 誰にも言わなかったのに――」


 笑顔のようなものを浮かべて早口に言い続けたリュクネは、そこまでで言葉を切った。


 レオニダスは、何も言わずに、ゆっくりと彼女に歩み寄っていった。


 リュクネの表情から、笑みが消える。

 彼女は素早く身構えた。

 肘と膝とを軽く曲げ、わずかに背を丸めたその姿は、しなやかな獣の身体が跳躍に備えるときの緊張を感じさせた。


 近付くにつれて、その姿勢はいっそう低くなり、構えた手がぴりぴりと震えているのが見て取れた。


 あと数歩。

 戦場であれば、あと一歩で、槍の穂先が相手を捉える距離。

 レオニダスは一気に踏み込み、慌てて身を引こうとしたリュクネの手を掴んだ。


 渾身の力を込めて振り払おうとしたリュクネは、自分を捕らえたレオニダスの手が微動だにしないことに気付いて目を見開いた。

 レオニダスもまた、驚いていた。

《牙を砕く者》という二つ名から、余程の強力かと思っていたのに、リュクネの力は、想像していたよりもずっとたおやかだった。

 もちろん、同じ年頃の娘たちと比べれば、ずっと腕っ節は強いのだろう。

 だが、レオニダスは7歳を迎えてからずっと過酷な訓練に身を晒し続けてきたスパルタの男だ。

 その強靭な筋力は、女の力の比ではなかった。


 だが、リュクネは易々とは諦めなかった。

 ぱっとレオニダスの懐に飛び込むと、自分の手首を掴んでいるレオニダスの手に思い切り噛み付いたのだ。

 思わず叫んでレオニダスが手を放した瞬間、彼女は素早く飛び退って駆け出した。


 伝説に謳われるアタランテーとも見紛うばかりの俊足で、リュクネの姿はあっという間に遠ざかる。

 レオニダスは無我夢中で追った。

 広大な競技場を、二人は物も言わずに疾走する。

 徒競走場を駆け抜け、林を抜け、レスリング場を横目に、幅跳びの競技場を通過した。


 レオニダスは必死だった。

 先程、ここまで走ったぶんの疲労が、重い砂袋のように脚の動きを鈍らせる。

 対して、リュクネの走りは野生の鹿のように見事だった。

 息が上がり、胸が痛み、喉の奥に血の味がした。

 

 それでも、ひらひらと手招くように激しく翻るリュクネの金の髪だけを見つめて追い縋るうちに、少しずつ彼我の距離は縮まっていく。

 リュクネは途中、何度か振り向いたが、その表情はほとんど見て取れなかった。


 やがて、二人は再び林に駆け込み――

 競技者たちが身体を清める泉の側で、ついにレオニダスはリュクネの肩に手をかけた。


 リュクネは激しく身を捩り、振り向きざまに右の拳を繰り出した。

 レオニダスの手がそれを受け止め、顔面を狙ってきた左手も同時に捕らえた。

 脇腹を狙った重い膝蹴りを、足を上げて防ぎ、その足で踝を強く払う。


「お……」


 二人、もろともに地面に転がった。

 リュクネの柔らかな身体が自分の真下にあるのを感じたとき、レオニダスは抑え難い昂ぶりを感じたが、


「重い! 重いぞ、レオニダス!」


 リュクネが素っ頓狂な悲鳴を上げたので、慌てて身体を浮かし――

 そのまま、どうすれば良いやら分からず、腕立て伏せの姿勢のままで硬直する。


 リュクネは、荒い息を吐きながら、こちらを見上げていた。

 レオニダスはそれを見下ろして、何か言わなくてはと思っていた。


 どれほど長い間、想っていたか。

 どれほど長い間、この時を待ち望んでいたか。

 ずっと、手が届かないと思っていたこと、リュクネの鮮やかなやり口に、一度は敗れたと思ったこと。

 その駆ける姿、今こうしている姿が、とても美しいことも。


 だが、何も言えなかった。


 息苦しそうに歪んでいたリュクネの口許に、やがて、ゆっくりと、笑みが浮かんだ。


「レオニダス。あなたの勝ちだ。降伏する」


 隙だらけの姿勢でいるのに、もはや彼女は抵抗していなかった。

 レオニダスは、頭を抱えたくなった。

 両手が自由でさえあったならば、実際にそうしたかもしれなかった。


 なぜ、スパルタにおいて、結婚が乙女の略奪という形をとるのか、今こそ分かったと思った。

 こんな風に穏やかに見上げられるより、暴れるものを押さえ付けるほうが緊張せずに済むという先人たちの智恵に違いない。


 戦いには慣れていても、女の扱いには慣れていない。

 女を抱いたことは幾度もあっても、近くにいるだけで心臓が激しく騒ぐほど想う相手に手を触れたことは、一度もない――

 何か気の利いたことを言ったほうが良いのだろうと思いながら、言えなかった。


 リュクネの穏やかな笑みが、やがて、少しばかり不審そうになり――

 それから、愉快そうになった。


「今、言葉は、無用だろう……?」


 彼女の腕が首の後ろに巻き付き、引き寄せる。

 レオニダスは彼女を強く抱きしめ、その長い髪に顔を埋めた。

 耳元で彼女が呟くのが聞こえた。


 あなたのような夫を持つ私は、幸せだ。

 私は、きっと、あなたの誉れとなるような妻に。

 


    *    *    *



 レオニダスは、妻となったリュクネのこの言葉を、生涯忘れなかった。

 スパルタの戦士すべてが、それぞれの心の神殿に、神聖な女神の面影を住まわせる。

 死と向き合う決戦の場で、過酷な行軍のさなかで、その面影が彼らに力を与え、戦う気力を奮い起こさせる。

 レオニダスにとって、リュクネのこの瞬間の表情こそがそれだった。


 

 リュクネもまた、この約束をたがえることはなかった。

 それが真実に証されるのは、この夜の7年後。

 ピュロス湾に浮かぶ、ある島の上でのことであった。


 だが、それはまた、別の物語――



       【完】

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