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婚約破棄の夜に毒で倒れた私、目覚めたら十年後でした ~泣き虫だった従者が国王で、元婚約者は私の墓守です~  作者: 月城 友麻


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1. 十年経ちましたので

「お前のような女は、十年経っても誰にも選ばれない」


 収穫の夜会の音が止まる。弦の音も、杯の触れ合う音も。婚約者の王太子ジェロルド殿下は、婚約の破棄を告げたばかりの口で、杯を手にした私を笑った。香油で撫でつけた金髪。その腕に、侯爵令嬢の白い手袋が掛かっている。殿下の声だけが、広間の端まで届く。


「俺の隣に立つ女は、華がなければならん。帰りの馬車は出さん。歩いて帰れ」


 扇の陰から三つの笑い声。杯を持つ手が震え、袖口の飾りが鳴った。その小さな音まで、広間じゅうに聞こえそうだ。三年預かった帳簿の数字なら、いくらでも言える。杯の縁を見つめた。口だけが動かない。笑い声の切れ目に、何も差し込めなかった。背後の小姓に聞こえないほどの声で、私は礼をする。


「……承りました」


 震えを隠すつもりで、冷たい杯へ口をつけた。半分飲んだところで、伸び放題の黒い髪が目の前へ飛び出す。小姓のルツィオだ。私の袖を握っていた手を離し、殿下の前に立つ。私を隠そうとする背は、広間の中であまりに小さい。


「お嬢様は、本当に立派な方です! そんなことを言うのは――」


 殿下が小さな襟首を掴んだ。


「小姓の分際で、俺に口を利くな!」


 殴られた小さな体が、私にぶつかる。杯が落ち、割れる。残りが床にこぼれた。割れた音だけが、いつまでも耳に残る。拾おうとする膝が折れる。絹の袖が濡れ、頬に石の冷たさが触れる。すぐそばに破片があるのに、手は届かない。式部の官が、靴で破片を避ける。


「床が汚れる。早く運び出せ!」


「あぁっ! お嬢様ぁ!!」


 ルツィオの声が遠い。返事をしようとするうちに、意識が遠くなり――――目の前が真っ暗になる。


       ◇


 長い、長い夢を見ていた気がする――。


 目を開けると、枕元で見知らぬ青年が泣いていた。


 朝の窓を背に、琥珀色の目から涙が落ちる。通った鼻筋の先、鼻の頭だけが赤い。青年は寝台の縁を握り、私の唇が動くのを見て、顔を上げる。


「えっ!? お、お嬢様……」


「あら、あなたは……?」


 彼は私をじっと見ている。


「十年です。十年、お待ちしていました……」


 十年。何の数だろう。夜会から数えるなら、まだ一晩のはずだ。


「……どなた? 私の小姓は、どちらにおりますの?」


「ルツィオです。お嬢様の小姓だった、ルツィオです。……お返事を、もう一度いただけますか?」


 同じ名を言われても、見知らぬ青年は青年だ。枕から起き上がって、その顔を覗いた。


「ルツィオは十二歳ですわ。背は私の肩までですの。あなたのように、そんなに大きくはありません。私の小姓の名で、からかわないでくださる?」


 青年が立つ。見上げるほどの背と、窓の光を遮る広い肩。上着の裾が寝台から離れた。


「いまは、二十二歳です。お嬢様がお眠りの間に、背も伸びました。からかってなんかいません。お嬢様、ちゃんとここにおります」


「……伸びすぎですわ。見上げると、首が痛いではありませんの」


「ははっ、背が伸びたことまで、叱らないでください」


「叱ってはいませんわ。驚いているんですの」


 窓辺の老女が布を絞る。きつく結った真っ白な髪。昨日、私の髪を結った人の髪は、黒い。私は窓辺の人を見つめた。


「テレーズ? その髪は? ……お顔を、見せてくださる?」


 布がたらいの縁に落ちる。小柄な体が、まっすぐこちらへ来る。荒れた手が私の手を包んだ。深い皺の間から鳶色の目が見上げてくる。濡れた手の冷たさが、こちらにも移った。私の手は滑らかなままだ。テレーズの手の割れ目に、洗い水がしみそうで、握り返す力を緩める。テレーズはそのぶん、私の手を強く包み直した。


「お嬢様が、お返事を……婆やに、お返事を……」


 離れない手の向こうで、ルツィオが濡れた顔を拭う。


「杯に、眠り葛(ねむりかずら)という毒が入っていました。飲んだ方の時を止める毒です。お嬢様を覚ます薬が、ゆうべ、やっと出来ました」


 寝台の外へ足を下ろす。床は冷たい。足は昨日のように動く。手を離したテレーズが、私の靴を揃える。


「それで、あなたはいま何を? 小姓のお仕着せは、もう着ませんの? お勤めは、きちんとなさっているのかしら?」


「……国王を、しております。お勤めは、しております」


 上着の留め金を見ても、顔を見ても、あの子とは結びつかない。


「こ、国王!? ルツィオ。嘘はいけません。背と一緒に、話まで大きくしないで!」


 叱る声は、昨日と同じに出た。扉の外で、近衛が膝をつく。


「陛下、評定の刻でございます」


 叱られた青年の鼻が、また赤くなる。私の足は床についたまま動かない。テレーズは私の袖を直してから、告げる。


「陛下は先王陛下のお子でございました。あの夜のあと、お認めに」


 小姓が王なら、あの人はどこにいるのだろう。私はルツィオへ向き直った。


「では、殿下は? 私をお捨てになった方は、いまも王太子でいらっしゃいますの?」


「廃されました。いまは王家の墓地の墓守(はかもり)です」


 右手の筆だこを窓枠に押しつける。北の塔の真下に、落ち葉と墓石。その間で箒が動いていた。私は窓の下を見たまま、ルツィオに告げる。


「拝見したいわ。私の耳で、あの方のお声を聞きたいんですの」


 ルツィオはテレーズと顔を見合わせ、扉を開けた。


 昼過ぎ、ふたりと塔を下りる。廊下で礼をする侍女の列に、あの夜笑った三人の顔を見つけた。目尻に細い線がある。扇の代わりに、うつむいて口元を隠す。私が通っても、笑い声は一つも聞こえない。


 列の端の姿見に、蜂蜜色の髪が映る。夜会の形に結い上げた髪と、こちらを見返す紺色の目。昨日、出かける前に見た顔だ。


 私だけが十八歳のまま。


       ◇


 そして墓地には、なぜか私の墓がある。


 端の石に、ノエリナ、享年十八。自分の名を、石の上で読むのは初めてだ。彫りは深く、角はもう丸い。根方には、花を切られた蔓の茎が一本残っている。箒が落ち葉を集める音だけが聞こえる。箒を動かす男の後ろで、落ち葉の絡んだくすんだ金髪が揺れた。雑に括った頭が振り向く。


 日に焼けた顔の無精ひげが動く。鼻と顎には見覚えがある。水色の目が、私の顔を見て大きくなった。


「ま、まさか……。その、左目の下の泣きぼくろ……ノエリナ……」


 箒が落ちる。続いて腰が落ちた。ルツィオとテレーズが、私の後ろで立ち止まる。元婚約者は落ち葉の上から見上げている。私は礼をする。今度は、口が動く。


「ごきげんよう、殿下。十年経ちましたので、選ばれに参りました」


「な、なぜ生きて……? 葬儀も済んだんだぞ! 名まで彫ってあるのに、どうしてお前がここにいる?」


「殿下こそ、なぜ箒を? 馬車を呼ぶお仕事では、ございませんの?」


 ジェロルドが落ちた箒を掴み損ねる。


「これは……父上が! 俺をここへ置いたんだ! 俺が選んだわけではない!」


「まあ。十年経って、選ばれたお仕事がそれですの? ふふっ、失礼」


「ば、化けて出るなら王宮の外でやれ! 俺は毎朝ここを掃いて――おい、そこは掃いたばかりだ!」


 箒を拾おうと伸ばす腕が太い。手のまめに、土が詰まっている。私は石の上の葉を払う。


「存じませんでしたわ。お上手ですこと。私の名まで、きれいに読めますもの。掃き残しを探すほうが、難しそうですわ」


「ほ、褒めるな! 死人に褒められても嬉しくない! 掃き残しがあったら、それは風のせいだ!」


 磨かれた名の下には、苔もない。箒の届く所は、どこも掃き目が揃っている。石の脇にしゃがみ、殿下へ顔を向けた。


「この墓、誰が建てましたの?」


「知らん! 俺は掃けと言われただけだ! 建てた奴に聞け!」


 ルツィオは答えない。石の根方の茎を見ている。風が落ち葉を一枚、掃いたばかりの土へ戻す。私は自分の名の彫られた石に腰を下ろした。尻もちをついた殿下は、私の靴の先より下にいる。廊下では、あの三人も頭を下げていた。今度は、誰も笑わない。


「眠っていた十年で、私を笑った人は全員、私より下にいました」

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