第四話 あなたにだけは、私ごと全部あげるわ
一年後の冬。
私はヴァレンシュタイン公爵家の応接間にいた。
ライオスと私の婚約は正式になり、春には結婚式を挙げることが決まっていた。
彼が選んでくれた薄青のドレスを着て、暖炉の前で、彼の膝に頭を預けて本を読む。
そこへ、来客が告げられた。
痩せて、髪が肩の上で不揃いに切られて、上等だが季節遅れのドレスを着た女が、床にひざまずいていた。
「お姉様」
蜂蜜色の巻き毛は艶を失い、青い瞳の下には隈があり、頬骨が浮いていた。
それでもまだ、彼女は上目遣いをしてみせた。
十八年間、それで世界のすべてを手に入れてきた角度で。
「お姉様、助けて。お願い。あの家はもう駄目なの。借金取りが毎日来るの。お義母様は私を叩くの。ジェラルド様は帰ってこないの」
「そう」
「お姉様は公爵夫人になるんでしょう? ねえ、少しでいいの。ほんの少しでいいの」
そして妹は、私の生涯で最も聞き慣れた言葉を、震える声で口にした。
「お姉様のもの、一口ちょうだい?」
応接間が、しんと静まり返った。
私は本を閉じ、立ち上がり、妹の前に膝をつくと、彼女の目線の高さに合わせて、しばらく黙って見つめた。
「アンヌ。あなた、一度でも、私に一口くれたことがあった?」
妹の唇が震えた。
「私、三歳のとき、薔薇の砂糖菓子が食べたかったの。七歳のとき、あの人形が欲しかったの。あなたが一口食べたあと、私は一度も、あなたに『一口ちょうだい』と言ったことがない。言っても無駄だと知っていたから」
「……そんな、昔のこと」
「昔のことよ。だから、もういいの」
私は心から、穏やかに微笑んで見せた
「私はあなたに、たっぷりあげたわ。侯爵令息も、伯爵令息も、子爵令息も、男爵令息も、書店の次男も、そしてこの国で一番の男も。私が三か月かけて探して、あなたのために選んだ人よ」
妹の顔から、血の気が引いた。
「え……?」
「あなた、あの日、私が泣いたのを覚えてる? あの涙、本物だったのよ。あんまり嬉しかったから」
私は立ち上がり、控えていた侍女に合図をした。
運ばれてきた銀の盆の上には、一切れのパン。
私が朝食に食べ残した、乾いた端のところ。
私はそれを、妹の手に握らせた。
「一口だけなら、あげるわ。それが私のできる、姉としての最後の施し」
「お姉様……っ、お姉様、待って、待ってよ、私、私はただ……」
「ええ、知ってるわ。あなたはただ、一口欲しかっただけ」
私は妹の頬に手を添えた。
彼女は驚いたように私を見上げた。
たぶん、私が優しく触れたのは、これが生まれてはじめてかもしれない。
「よく味わって。それ、あなたが自分で選んだ人生の味だから」
春が来た。
ヴァレンシュタイン公爵家の結婚式は、質素だが美しかった。
招待客は少なく、私が心から呼びたい人だけを呼んだ。
妹に食べられた人たちにも、私は一人ずつ謝罪の手紙を出した。
返事はさまざまだった。
怒っている人もいた……当然だと思う。
笑って許してくれた人もいた。
返事をくれなかった人もいた。
そのうちの一人は、こんなことを書いて寄越した。
『一口で落ちた自分にも責任はある。もう気にするな』
彼らは今、それぞれの場所で暮らしている。
一度齧られたくらいで、人生は終わらないのだ。
——後日談を、少しだけ。
ジェラルドは、その年の秋に高利貸しに追われて国を出た。
母と姉を連れて。
妻である妹は連れて行かなかった。
アンヌは実家に戻ったが、父は彼女を屋敷の東棟に住まわせ、生活費だけを与えて、社交界に出すことをやめた。
両親はいまだに彼女を「かわいそうな子」と呼ぶ。
彼女は今も、その言葉を食べて生きている。
私はときどき、思う。
あの子は結局、何を食べたかったのだろう。
それは、私だったのだと思う。
私の場所、私の順番、私が生まれつき持っていた「長女」という、彼女には決して手に入らないもの。
一口では絶対に足りない。
丸ごとでも足りないもの。
だから彼女は永遠に飢えていた。
永遠に「一口ちょうだい」と言い続けるしかなかった。
「ティナ」
書斎で、ライオスが呼ぶ。
五年間手紙を交わした人と、いま同じ部屋で暮らしている。
彼は今でも、廊下ですれ違いざまに手紙を渡してくることがある。
声で言えることをわざわざ書いて。
私もその手紙に返事をする。
二人とも、たぶん一生この癖は治らない。
「なあに」
「今日の焼き菓子、まだ残っていますか」
「ええ、一つだけ」
彼は少し悩んでから、いつもの静かな目で、こう言った。
「それ、一口ちょうだい?」
「あなたったら」
「あ、いや、その、失言だったな」
声を上げて笑う私を見て、彼は真っ赤になる。
本気で狼狽していたけれど、その姿すら愛しくなり、私は皿ごと差し出して彼の隣に座った。
「どうぞ。丸ごと全部。あなたにだけは、私ごと全部あげるわ」
見えないところに隠していたものを、はじめて、明るいところに出した日だった。
最後までお付き合いありがとうございました。
「一口ちょうだい」ができる信頼関係があれば良いのですが…
ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ





