一文のいち
気がついた時にはわたくしは見知らぬ天井を見つめていましたんですけれども、すぐに私はあの乙女ゲーム「黒薔薇の騎士姫」に登場する悪役令嬢ソフィア=ルクレールに転生してしまったのだという記憶がよみがえってきまして、前世で幾度となくプレイし最終的に破滅ルートで処刑台に散るというそのキャラクターの運命を知っている私は、このままでは断罪エンド一直線なことはわかっていましたから、せめて何事にも関わらず静かに読書でもして余生を過ごしましょうと思い、社交界もすべてほったらかして、本の世界に浸りまして、朝は紅茶を片手に詩集をめくり、昼は陽だまりの窓辺で歴史書を読み、夜は蝋燭の灯りの下で哲学書を抱いて眠るなんて、そんな穏やかな日々を送っていたのでございますが、ある日、王立図書館の最奥で同じ棚の同じ本に伸ばした指先が、誰かの指と触れ軽い電流のような感覚がしましたので、思わず目を上げると、そこにはビン底眼鏡をかけた青年が立っており、控えめに微笑みながら「お好きなんですねこの作家」と声をかけてきて、その姿がいかにも静謐な貴族風で眼鏡越しの瞳が穏やかに光り、とても好感を持ったものですから、私が少し緊張して「ソフィアです」と名乗りますと、彼はローレンスと名乗りまして、それからの日々は不思議なくらい早く流れましたのですが、毎日のように図書館で顔を合わせ、互いに読んだ書物について語り合い、議論を交わし、物語の解釈で言い合い、笑い合って、気づけば閉館の鐘が鳴るまで語り続けるのが日課になり、私は本を介して人と通じ合うということがこんなにも幸福なものだなんて初めて知ったということがございましたが、ある夜に、とある伯爵家の舞踏会に招かれ仕方なく出席した私の前に、金髪碧眼の超絶美形の貴族が現れて、その方が「私を妻に欲しい」と急におっしゃるものですので、「何を急におっしゃるの」と笑い飛ばそうとしますと、その公爵が眼鏡をかけまして、そこには私の友であるビン底眼鏡のローレンスがいたものですから、まさかあの図書館のローレンスがこの国の公爵閣下だったなんてと驚き、逃げようとしますと、彼は漆黒の髪をなびかせ完璧な微笑で私を捕まえて「ソフィア嬢、もう逃がしませんよ」と言い私の手を取って唇を寄せたので、慌ててパーティーを退出し、屋敷に逃げ帰りましたのですけれども、翌朝になってローレンス様の馬車が私のお屋敷にやってきて、正式に婚約の申し込みをされましたので、私は恐ろしくて逃げ回っていたんですけれどもローレンスは容赦なく私の周囲を包囲し始め、図書館ではいつも隣の席を確保し、社交界では私のエスコートを申し出て、婚約の話をわたくしの両親にも通し、王家にまで根回しを済ませるという徹底ぶりでしたので、その後も私は何とか逃げようと別荘に隠れてみたり、病気を装って引きこもってみたりしたのですけれど、彼は毎朝花束と私好みの本を届けてきて「君がこの本を読む声が聞きたい」とか「君が文字を追う瞳をこの手で守りたい」とか言ってくるのですから、頭が痛くなりましたのですけれど、彼は私のそうした静けさすら愛しいと言うのですから、私は抵抗することをいつしか諦めまして、どうせ逃げられないならせめて最終章だけは自分の手で綴りましょうと今日、この結婚の日を迎えましたのですけれど、この文章を見てくださっている方々に私が言いたいのは「本を閉じるのはまだ早い」ということなのでして、私とローレンス卿の物語はここからが始まりなのでございます。




