9.告白
結局欲張ってしまい、籠いっぱいに若菜やら花やらが詰め込まれた頃には完全に日も暮れてしまっていた。
張政は台与が何も言わずとも邸閣の近くまで送ってくれ、暗い林をさまよわずにすんだ台与は内心ほっとしていた。
「今日はありがとうございました。張政さんがいてくれて、本当に良かった」
「いいえ、こちらこそ楽しかった。またいつか散歩しましょう」
去りかけた背中に向かって、台与は声を上げて聞いていた。
「あの、一つ聞いてもいいですか? どうして、言葉が不自由なふりを?」
「言葉が伝わらない方が、その人の真実が見えることが多いからですよ? ふふ……我、此処、別帰。では、また」
わざとらしく口調を変えてみせた張政は、笑いながら賓の御館へ去っていった。
(真白の雪であるべきか、踏みしだかれて汚れた雪になるべきか……)
館の篝火を遠くに見つめながら、台与は考えを深めて歩いた。どちらが正しいとはまだ言い切れない。だが自分の心が選ぶ答えは、もうとっくに決まっていた。
「勇気を出すの、台与。他の誰でもない、わたしのことなんだから……」
「何の勇気です?」
楼観の前を通り過ぎようとしたとき、突然男の声がして台与は飛び上がった。張政は先ほど帰ったはず――
月光に照らされて歩み寄る人影は、掖邪狗だった。
「ヤヤコ……」
いくらかほっとして、台与は歩みを止めた。今日は予想外の出来事ばかり起こる。まさかこんなところで掖邪狗と遭遇する事があろうとは。
「随分と楽しんでこられたようですね。婢の服をそんなに泥だらけにして」
いつもの優しい声音とは打って変わった鋭い声。周囲の静寂に響くと寒々しいほどだった。
空気から彼の怒りを読み取った台与は、密かに息を飲んだ。
「お……怒ってるの? ヤヤコ」
「怒らないわけがないでしょう」
つめたく即答した掖邪狗は、台与の手を掴んで引いた。思いがけないその強さに、眠っていた痛覚が目覚め、痺れをともなった激痛が手の先から首筋へと走った。
「いたい……!」
その声が尋常の響きではなかったので、掖邪狗は掴んだ手を放した。
口をふさいだ台与は慌ててその手を背中に引っ込めたが、時はすでに遅し。
「……怪我をなさったんですか」
ただならぬ迫力だった。これほど冷たい掖邪狗の声を知らない台与は、どうすれば彼の機嫌が直るだろうかと必死に考えたが、混乱する頭では従順な姿勢を示すこと意外思いつかなかったので、散々ためらったあげくに小さく頷いた。
「呆れ果てました。一人前になられたというのに、この有様だ。私を心配させるのがそんなに楽しいですか。これではいつまでたっても、安心の一つも出来ない」
台与は身を竦めて掖邪狗の言葉を聞いていた。
黙ったままの少女に反省を見て取ったのか、掖邪狗はなおも続ける。
「あなたは一人前の女性となり、巫女となられたのです。あなたのその行動は、まるで子供の頃そのままだ。いつまでも子供でいることなど―――」
台与は、烈しい動作で傍らの蔓篭を掖邪狗に向かって投げつけた。
若草が散る。台与の理性とともに。
「いいかげんにして!」
今まで出したことのないほどのありったけの大声で、台与は叫んだ。思いもよらない形ではあったが、これが張政に諭された『正直になること』の第一歩だったのかもしれない。
「いつまでも子供でいるようにしたのはあなたじゃないの、ヤヤコ! いつだってわたしのことを子供扱いして、何一つ分かってくれようとしなかったし、教えてもくれなかった。何一つ知らないで、何一つ経験しないで、いったいどうやって大人になれなんて言えるの!」
掖邪狗は、投げつけられた拍子に散らばった草花を髪に絡めたまま、呆然と台与を見ている。それほど衝撃は大きいようだった。
「大人ってなに? 大人しく館にこもって、大人しく決められたことに随って、それでいつまで過ごせばいいの? そんな風に篭の中に閉じ込めて、わたしをどうしたいの? そんなに立派な女王になってほしいの? ――一体何のために! わたしの気持ちも知らないで、勝手なことばかり言わないで!」
激しく息をついで、台与は流れ落ちた涙を拭った。
上目で睨んだ掖邪狗の顔は、隠しきれない狼狽と戸惑いで蒼白になっていた。
「わたしは、大人になんてなりたくなかった。わたしと菜於は違う。わたしはヤヤコにあえなくなるのに、代わりに菜於がヤヤコにあうようになる。どうして? ――どうして、わたしは普通の子のように振舞うことが許されないの」
何度も頭の中で繰り返す、仲睦まじい二人の姿。
そのたびに胸の痛みはどんどんと増して、もう張り裂けそうなところまできていた。
「菜於がヤヤコを好きになるのはよくてもわたしはダメなの? わたしはヤヤコに会いたいし、一緒にいたいのに。わたしがヤヤコを好きになるのは、そんなにいけないことなの?」
掖邪狗の顔色が変わった。
台与は一瞬にして我に返り、思いもよらないことまで口にした自分の醜態に気付いて、一歩ずつあとずさった。
掖邪狗は何も応えずただ呆然と自分を見ている。その視線に堪えかねた台与は、踵を返してその場から逃げ出した。顔から火がでそうだった。なんということを言ってしまったのだろう―――
「……姫」
台与の後ろ姿も完全に見えなくなってから、掖邪狗は小さく呟いた。
「それは……口にするべきではなかった。でないと、私は……あなたを、巫女として見れなくなってしまう。心の内だけに秘めておくべきものだったのに……」
見張りのいなくなった楼観にもたれて、掖邪狗は座り込んだ。
地面を見つめて、そして空を見上げる。
星が瞬く夜空に、細い三日月がたゆたうように浮かんでいた。