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眼炎く倭(まかかやく やまと)  作者: 鈴鹿
第一章 張政
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8.新緑に薫る森

(な、なんだか……すごく妙なことに……)

 張政のあとに付いて林の中を歩きながら、台与は微かな溜め息を漏らした。

 掴まれた手はマナシの姿が見えなくなるとすぐに放してくれたので一安心なのだが、それでも薄暗い林の中を知りもしない男と二人で歩いていると、どうしても神経が張り詰めてくる。おまけに暮れが近いのか、鴉の鳴き声が幾度も木霊して台与を驚かせた。

(どうしよう。このまま真っ暗になったら、わたし一人じゃ帰れない)

 信じられるのは目の前の張政一人で、しかしまだ抵抗がないわけではなかった。何のつもりでマナシを帰して二人にさせたのか、何のためにこんな林の奥までやってくるのか――それを疑い始めると恐怖に身が竦みそうだった。

(わたし、もしかしてはやまった? ううん、だめよ信じなきゃ、でも……)

 無言で林の奥に進むにつれ、台与の不審もどんどんと募ってきた。何度となく後ろを振り返りながら、台与がついに逃げ出そうかと思った、その時。

 目の前が急に開け、新緑が薫る草原が現れた。


「うわあ……!」

 林の中の暗影は茜色を帯びた夕陽に一瞬にしてかき消され、見渡す限り広がる草原は春のまま時を留めたようだった。吹きぬける風も新緑の馨りをいっぱいに含んでいて、肌から髪から萌葱に染められてしまうような錯覚すら覚える。

「素晴らしいでしょう?」

 張政の弾むような声に、台与は言葉もなくただ頷いた。

 風に揺れる草花を見ているだけで、緑が目に沁みて涙があふれてくる。

「我、邪馬台来る、初めてここ来る、とても、感動した」

 張政は風に揺れる草花を見つめて話した。

「マナシは、ここにいた」

「え?」

 思いがけない科白に、台与は絶景から張政へと視線を移した。

「マナシって、さっきの人のことでしょう。あの人も魏の人ではないの」

 今まで思い付きもしなかったことだが、張政にあの口をきける人物であるとすればそうとしか考えられない。だが張政は遠くを見つめたままゆっくりと首を振った。

「マナシと初めて会ったのは、ここだ。我がこの国に来て間もない頃……」

 突如、張政の口調が変わった。覚束ないながらもその言葉は片言ではなく、はっきりとした文脈を持った倭の言葉になっていた。台与は驚いて目を見開いたが、声には出さなかった。

「マナシは、初めて会った我に仕えたいと言った。理由は言わなかったが、今なら少し分かる。我と彼は似ているのだ」

 懐かしむように目許を和らげて張政は語った。台与は『似ている』の意味が解らなかったが、自分の入り込めない世界のような気がしてこだわらないことにした。

「マナシというのは彼の名前なんですか?」

「ああ、いや。本当は、彼は自分のことを『名無し』と言った。名乗る名はないと――だから我が名づけた。真の志を持つもの、真男志と」

(真男志……真の、志……?)

 あの強い眼差しに秘められたものは、真のこころざしなのか。


「あなたとマナシも、何処か似ている」

「え?」

 張政がじっと自分を見つめていることに気付いた台与は、首を傾げてみせた。実際に言われた意味が解らなかった。

「人が惹かれあうのは、かおかたちだけではない。その人のもつごうそのものに相対するものが、愛であれ憎しみであれ、激しく惹かれていくのだ」

「……業……?」

 三十路を越したか越さないかの張政の表情は、総てを悟った者の穏やかな笑みに包まれていた。

「あなたとマナシの業は、独りで支えきれるものではない。特にあなたは、まだ若すぎる」

 台与は返す言葉を失って、口を開けたまま呆然と張政を見上げた。人知を超える分析力、思考力、そして経験によって得る達観、そのすべてを張政は手にしているのだ。何の澱みもなく語られるこの国の言葉が、何よりも張政の能力を示している。

「知って、いるんですか。わたしのことを」

 乾いた声で台与が呟くと、張政は頷くでもなく独り言のように言った。「采迦というこの国の首長には、ひとり年の離れた娘がいると……そしてその娘が、やがてはこの国を担うであろうと」

「やめて! そんなこと聞きたくない」

 台与は耳をふさいだ。気色ばんだ台与を一瞥して、張政はむしろ淡々と語った。

「業は、誰もが持って生まれる運命だ。それは、独りで抱えて生きなければいけない荷物のようなもの。時には、誰かのもとに特別大きな荷物が与えられることもある。それは苦難も多ければ見返りも多い、怒涛の人生になる」

「……わたしは見返りなんていらない。いらないから、もっと普通の娘に、ううん、ここではないどこかに生まれるべきだった。わたしは女になれず、巫女にもなれない。大人にもなれない。知ることもできず、おとなしく操られることもできない……」

 涙があふれて、とめどなく零れ落ちる。緑に染まって揺らぐ視界に、目を閉じる張政の痛ましい表情が映った。

「物事を知るということは、汚れるということだ。あなたは汚れを知らなすぎる、我にはそう見える。それはあなたが、汚れてはならない唯一の存在だから」

 台与は涙に滲んだ目で張政を見据えた。

「汚れてはならないってなに? わたしが巫女だから? そうじゃない、そんなんじゃないの。わたしは知りたい、汚れても構わないから知りたい……ずっとそう思ってた。けど、今日」


 楽しげに語らう掖邪狗と菜於を見たときに初めて心にわき上がった醜い感情――嫉妬。


「初めて怖いと思った。穢れって、自分で生み出すものだなんて知らなかった。こんなんじゃ、わたしどんどん自分を嫌いになる! 汚れたくない、だけど知りたい。矛盾して、身動きが取れなくなる」

 張政は黙って聞いていたが、ぽつりと呟くように諭した。

「……それでも、あなたは決めなければならない。それが、あなたの決心になる。あなたが決めない限り先はなく、周りの運命があなたを飲み込むだろう。だがあなたが自分で切開く道を見つけた時に、それは、あなたの運命になる」

 言葉は託宣のごとく、胸に降り積もる。台与はただ泣いた。今まで声を上げて泣くことすら憚られてきた分までここぞとばかりに吹き上げてきて、嗚咽を漏らしながら何度も頷いた。

「私が口を出すべき事ではないが……あなたは多分、もっと自由に生きていい」

 張政の言葉は、濡れた頬を撫でる風のように優しかった。

「マナシは今、自分で歩き出したばかりだ。あなたも思うように動けばいい。皆の望むように生きることが、あなたにとって良い人生になるかは分からないのだから」

 俯いていた台与は、しゃくり上げながら訊ねた。

「わたしの選択で……たくさんの人たちが巻き込まれて、不幸になっても?」

 張政は少し困ったような表情で微笑んだ。

「人はみな、一度だけの人生を平坦に生きようとするのです。そのための犠牲になる者が、ある意味指導者だと言っていい。自ら進んで犠牲になることはない。正直に生きることが一番です」

 それは驚くほどに単純で明快な答えだった。けれど、それをずっと押さえつけていた台与にとっては、初めて人からもたらされた救いでもあった。無心にこくんと頷いた台与を見て、張政は再び視線を草原に向けた。

「あなたがたとえどんなに烈しい業を持っていたとしても、それ以前にあなたは一人の人間だ。この国の女王は自らの名前を捨て、日巫女という尊称を手に入れた。それとともに、一人の女としての人生も捨ててしまったのだ。……かわいそうな人だ」

 絶句して、台与は目の前の魏の使者を見つめた。日巫女を哀れむ人間がいるとは思いもしなかった。

 無二の霊力を持つ太陽の女王。しかし彼女もまた女で、自分のように悩んだ時期があったのだろうかと、台与は初めて考えた。

「あなたの名前を、まだ聞いていなかった」

 思い出したように両腕を合わせて張政が微笑むと、台与は慌てて涙を拭い、同じ姿勢で答えた。

「あっ、えっと、台与といいます」

「台与――それがあなたの名だ。巫女や女王といったものの前に、台与という一人の人間の存在を忘れてはならない。それがいつでも、本当のあなたなのだから」

「本当の……わたし……」

 水松みるのようにふらついていた足元が、徐々にしっかりとしてくるのが自分でも分かった。張政の言葉は、他の誰のものよりも力があった。暗闇に迷っていた台与の心に、一条の光を差し込んでくれた。

 今はもう、張政のことを不審に思う心はなかった。

「ありがとうございます。わたし、もし許されるなら……ううん、許されなくても、もう少し正直に生きてみることにします」

 やっと零れた台与の笑顔に、張政もまた穏やかに微笑んだ。

「ずいぶんと日が暮れて来ましたね。若菜はどうします?」

 張政がずっと持っていてくれたかごには、相変わらず何も入っていなかった。

 台与は少し考え、いたずらっぽく答えた。

「せっかくだから、少しだけ摘んでいくことにする。張政さん、手伝ってくださる?」

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