7.異国の賓客
(ばか、ばか、ばかみたい)
林に向かう足を止めもせずに、台与は両腕で顔を覆ってうめいた。突如台与の胸の中を覆った得体の知れない感情が、からだを勝手に突き動かしている。今はもう何も見たくなく、考えたくなかった。
(菜於が掖邪狗のところに使いに行って当然じゃない、なんでわたし、こんな……)
「うわっ」
がむしゃらに走って林に迷い込んだ台与は、木の根に足を取られて勢いよく転んだ。
「……いた、い」
立ち上がろうとするが、震えた手に力が入らない。早々に諦めて這いつくばった格好のまま、台与は呟いた。
「なにをやってるんだろう……わたし」
こんなみすぼらしい恰好をして、決死の覚悟で館を抜け出してまで、何を見たかったのか。
今となっては考えられもしなかった。
「ばか、馬鹿だ。何が一人前よ……何がおとなよ、何が巫女よ!」
手を振り上げて、台与は何度も何度も地面を叩いた。ムラの土とは違い、林の地面には木の根や尖石が入り乱れて傷つきやすく、握りしめた拳からはすぐに血が滲みだした。それでもやめられなかった。何かにぶつけていないと、わけの分からない怒りと悔しさと情けなさでどうにかなってしまいそうだった。
「もう――いやだ――」
「じゃあ、もういいだろう」
突然背後から振り上げた手首を掴まれて、台与はびくりと身を竦ませた。
「……あ」
振り返った先にあるその男の顔を見て、台与は思わず息を飲んだ。数ヶ月前、初めての月立が終ったあとの禊で一瞬だけ目をあわせたあの若者だったのだ。思いがけない人物との遭遇に、台与は呆然と掴まれた手を見ていた。
「血が出てる……無茶するちびだな。ほら、そこに座れ」
ぐいと容赦なく手をひかれて台与は仕方なく地面に座り直した。どうも相手は労わることが苦手な男のようだと、半ば呆れて思う。こんなときは掖邪狗なら――そこではっとして台与は唇を噛んだ。
こんな時にまで彼を思い出す自分に嫌気がさした。
目の前の若者は首に下げた袋から乾燥した蒲の穂を取りだし、台与の傷口に擦り付けている。
「いたい」
「我慢しろよ。このまま放っておけば膿んでくるぞ」
流石にそれは困る、とぼんやりと考えた台与が口を閉ざすと、若者は帯の下から出ている自分の裾を引き裂いて台与の手にぐるぐる巻き付けはじめた。
台与は間近にある男の顔をじっと眺めてみた。顔立ちは邪馬台の男とそう大差がないように思えるが、施された黥の形に見覚えがない。もしかすると他のクニから来た援軍の中の一人かもしれないと考えて、台与は無理に納得することにした。今はあまり思考がまっすぐ働こうとしないため、何を考えるのも億劫だったのだ。
「前も会った」
「え? 何処で。覚えてないぞ」
台与の呟きに若者は首を傾げた。まじまじと台与を見つめる遠慮のかけらもない視線は、以前と全く変わらない。溜め息をついて、台与はかぶりを振った。「うん、気のせいかも……そのほうがいいや」
「変な奴だな。ほら、できたぞ」
やっとのことで自由になった右手は布に巻きとられていて、掌を開くのも容易ではなかった。台与が持て余したようにぶらぶらと手を振っていると、若者はおかしそうににやりと笑った。
「叩くと地面が可哀相だろ、もう叩いてやるなよおちびさん」
「……なに、それ」
むっとして台与は男を睨み付けた。そういえばさっきもちびだのなんだのと言われ慣れない腹立たしいことを言われた気がする。もう一つ何か言い返してやらないと気が済まないと口を開きかけた台与は、しかし中断を余儀なくされた。
誰かが近づいてくる気配が台与にも解った。若者は身を低くして、台与の手を引き自分の背後に隠れるよう促した。何故そうなるのか台与には理解できそうもなかったが、とりあえず隠れて損な事はなさそうなのでおとなしく促されるまま男の背中にしがみ付いた。
やがて茂みが揺れ、若者が腰の鞘に手を伸ばす――
「マナシ。そこ、いるか」
茂みの向こうから聞えた声に、若者の緊張が霧散したのが台与にも感じ取れた。彼は一つため息をついて、脱力しきったような声で応えた。「ああ、いる。……驚かすなって言ってるだろう、もう」
茂みを掻き分けて現れたのは、長身の男だった。これといって特徴のない淡白な顔立ちをしているが、それは黥と文身がないせいでもあった。これまで黥のないおとなの男を見たことがない台与は驚きを隠しきれず、顔だけを覗かせたまま若者の背中にますますしがみついた。
「邪魔か」
「何を言って……あ、こらっ、もう離れろ」
しがみ付いている台与に気付いて若者は慌てて手を振り払った。自分から掴んだくせに振り払うとは何事だ、と台与は大層憤慨したが、文句を言う余裕はなかった。男に免疫がない台与は、見慣れない男を間近に見るとかなり緊張するのだ。その点で言うと、この若者を不審に思えなかったのは不思議なことでもあった。
「珍しい。マナシ、女子といる、初めて見た」
聞き取りにくい片言の倭語で話す男だった。ますます得体が知れなくなって、台与は眉をひそめた。この場から早く立ち去ったほうが賢明かもしれない、そう考えた時だった。
「手、ケガ」
男はまっすぐに台与を見て、その手当てのあとを目ざとく見付けたらしい。耳慣れない発音に、台与は微かな苦笑いで頷いた。
台与の警戒の姿勢を見て取ったのか、男は緊張を和らげるようににっこりと笑ってみせた。顔立ちは倭人と良く似ているが、少しだけ違うとすれば色が白く目鼻立ちがはっきりしているところだろうか。少なくとも日に当たって田を耕す農夫には見えない。
男は両手を胸の前で組み合わせて腰を折った。
「我、張政。魏国のもの。親書と黄幢、持ってきました」
「――え、……あ?」
思わぬ名乗りに、台与は仰天して立ちすくんだ。
目の前にいるその人こそが、大陸からやって来た邪馬台国最上の賓なのだった。
台与は信じられないといった面持ちながらもやっとマナシの背中から離れ、張政の前に立った。
張政は笑みを崩すことなく、じっと台与を、そしてその表情の変化を見つめている。
「張政。その子はただのムラの婢だ。何も知るはずがない」
マナシの呆れたような声に、張政は口許に手を当て考える素振りをした。どこか子供のようなその仕草に、台与は思わず笑みを誘われる。不思議なひとだと、そう思った。
「……ハシタメ、下女? そうか、何も知らないか……」
独り言のように呟く張政を台与は黙って見ていた。巫女だとばらすつもりは毛頭ないし、別に自己紹介をするつもりもないので構わないだろう。
じっと見上げてくる台与の視線に気付いたのか、張政は苦笑して話題を切り替えた。
「なにか、用、あるか」
「え?」
問われた意味が解らず、台与は怪訝な顔をした。張政が指し示したものをみて、ああ、と今更ながらに気付く。転んだ拍子に体から離れた蔓篭が、茂みの中に転がっていた。
「はい、若菜を摘んでくるように言われたので探しているんです」
この際何でもよかった。魏の貴人をこの目で見れた事だけでも大きな収穫だったし、このまま帰るつもりになっていた台与は場を離れる口実を探していた。
ところが張政は、思いがけずぱっと笑った。
「我知る。この林散歩する、その奥にある。我案内する」
「え――ええっ」
台与は驚いて後ずさったが、篭を拾い上げた張政に素早く手を掴まれ、歩かざるを得なくなった。
「張政! 気まぐれもいい加減に」
「マナシ、館で待つ、頼む」
声を荒げたマナシを振りかえって戒めた張政は、台与の手を引いて林の奥へと歩を進めていった。