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眼炎く倭(まかかやく やまと)  作者: 鈴鹿
終章 邪馬台国
67/67

66.眼炎く倭

 上邪


 我欲與君相知

 長命無絶衰

 山無陵

 江水爲竭

 冬雷震震

 夏雨雪

 天地合

 乃敢與君絶


 東方の島国・倭。その小さな国の主導権を握る邪馬台に新たな女王が立って幾月かが流れた。

 日巫女の死後他国との戦闘や内乱など争いの耐えなかった邪馬台は、女王の即位とともに驚くほど静かになり、穏やかな時を過ごしていた。

 狗奴の戦で肉親を喪った女王は争いを好まず、その意をくみした首長もまた、新たな戦を行うことをよしとしないためだと人々は語る。


「姫、かのお方がムラに到着された模様です」

 傍らに膝をついた掖邪狗を振り返り、台与は微笑んだ。軽やかに椅子から立ち上がって表に向かう。

「やっとね。この日をどんなに待ったかしら」

「報告すべき事が山ほどありますね。狗奴との戦闘から、このクニが新しく歩み始めるまでの事など」

 台与の早足に従って、薄絹の裳裾がさやかに音を立てる。

 いまいましいほど広いこの舘にも今はかつてほどの女はおらず、建物だけが異様なまでの存在感でそこに在った。台与の勅で、多くの婢が邑に下り家族を持つことを許されたためだった。

「あの方はきっと全部ご存じよ。わたしが話すことなど、もうないかもしれないわ」

 館を出ると、つんと鼻に響く薫風が行き過ぎた。夏の草花の濃い薫りが思い出を運んでくる。

(初夏の林で初めて出逢って、一年になるのね……)


 広く淋しい大御館にはいつまでたっても馴染めそうになかったが、この丘から見る景色を台与はとても気に入っていた。

 ムラが一面に見渡せ、その邪馬台を囲んで遠い山々の緑が霧に霞むように揺れる。

 朝も夜も、時間ができれば台与はここでいつもそのときの景色を眺めた。日を変え時を変えるたびに、景色は全く新しいものになり、飽くことはなかった。

 掖邪狗は傍らで、台与と同じようにじっとこの景色に見入っていた。

 数年内には第一官・伊支馬の地位につくであろうと噂される、名実ともに邪馬台国の首長となった彼は、治国に勤しむ傍らよく台与のもとを訪れ、女王の意向に背くことなく治世を行っていた。

 しかしそんな掖邪狗にただ一つ足りないものがあるとすれば。

「……掖邪狗、本当に良かったの?」

 突然何の前触れもなく尋ねられて、掖邪狗は怪訝な顔で台与を見返した。「何のことです?」

「小魚を行かせてしまったこと。あなたなら小魚を幸せにできると思ったのに」

「ええ、良いのです。私は彼女を庇護することは出来ても、愛することはできなかったでしょう。それはきっと彼女も同じ……それにあなたは、こういうつもりで彼女を私に任せたのだと思っていますから」

 見上げた掖邪狗と目を見交わして、台与ははかなく微笑んだ。

 時を経るごとに台与の笑顔に混じる悲しみの色は濃くなってゆく。最後に満面の笑顔を見たのはいつだったか、掖邪狗も思い出せなくなっていた。

「掖邪狗には……本当に色々と迷惑をかけたね。数え切れないほどに。本当は、今でもわたしに仕えてくれることが信じられないのよ」

「信じてください」

 掖邪狗は台与の手を取って、その場に膝をついた。

 驚く台与の手の甲に額を押しあてて、まじないのように囁く。

「幾年流れ、やがてこの身朽ち果てようと、わが御魂は主のもとへ還りゆくことを誓う」

「掖邪狗」

 命が尽きたのちも、私はあなたとともに。

 その誓いを少しも恐れることなく口にして、掖邪狗は顔をあげた。そして、畏れと驚きで声も出せない台与に向かい、珍しくはにかんだような表情でつけたした。

「どうも私は、あなた以外には仕えられない性分のようなので……来世でもそばに置いてやって下さい」


「大君。御使者さまのご到着よ」

 長い黒髪をなびかせて、見目麗しい巫女が二人のもとへやって来た。「首長、お出迎えを」

 掖邪狗は慌てて立ち上がり、台与に礼をして騒がしくなった大門の方へ走っていった。それを見送った巫女は振り返り、からかいの混じった声音で台与にほほえみかけた。

「相変わらずお馬鹿な男でよかったわね、女王様。嫌がっても一生くっついたままでしょうよ、あの調子なら」

「総羽さんてば……」

 巫女にあるまじき冗談を飛ばした総羽はからからと笑い、彩り艶やかなかんばせに笑みを含ませたまま言った。

「あーあ、私も退屈な巫女生活やめて旅にでも出れば良かったわ」

「総羽さんならムラの男達が放っておかないわ」

 苦笑を交えて台与が返すと、総羽はむっとしたように唇を尖らせる。「やめてよ、私の理想はもっと――ああそうだ、何ならさっきの御使者さまでもいいわね。ちらっと見たけれど、割と好みだったのよ」

「それは光栄です」

 ぎょっとして二人が振り返ると、呆れたように額をおさえた掖邪狗の隣で柔らかく微笑む男がいた。

「……張政さん!」

「お久し振りです、トヨ。またお目にかかることができて、本当に嬉しい」

 台与の表情の変化を見た総羽は、心配そうな掖邪狗を引きたててその場を去った。これが女王ではなく『台与』に与えられる最後の思い出になるのだとすれば、思う存分二人きりで語り合う機会を与えたかったのだ。


「このたびはご即位おめでとうございます。伊都にその報せがついてすぐ発ってきたのですが、ずいぶんと遅くなってしまい申し訳ない」

 台与の傍らに並び立った張政は、久しぶりに見る少女の顔をじっと見つめた。

「あなたがこのクニの女王とは……何だか、不思議な気分です。日巫女と同じ、親魏倭王なのですね」

「本当に。わたしも時々、なぜここにいるのだろうと思うことがあります……」

 眼下に広がる倭の国々。それら同盟国の使いが数々の祝いを持ってやって来たときも、台与は顔を出さず神殿の奥に籠もっていた。霊威を損なわないようにという大人達の気遣いだったが、実際は何をするでもなくおとなしく館に籠もっているだけでいいという命令だった。

 この張政の直接接待は、台与と掖邪狗が必死で彼らを説き伏せて何とか掴み取った苦労の賜なのだ。

「一年の間に、あなたは随分変わられましたね。伝わってきます。あなたの背負っていた業さえ形を変えている」

「そうですか? ……髪は短くなったと思いますけれど」

 そう言って笑う台与が、張政には痛さを堪えて歯を食いしばっている子供のように見えた。その可能性は出会った当初から解っていたにもかかわらず、女王になることを何よりも畏れていた少女が今その地位にあるという事実が、力尽くで歪められた運命である気がしてならなかった。

「何か我に力になれることがあるなら、言って下さい。一使者の立場では限られたことしかできないが……」

「いいえ、そんな。とてもありがたいです……」

 台与の表情に初めて揺らぎが走り、沈黙が迷いを語る。そして意を決したように彼女は顔を上げた。

「マナシが、きっと伊都国へ行くはずです。その時は今度こそ彼を大陸へ連れていってあげてくださいね」

「マナシが?」

 張政は反芻したが、その名前を聞いて理解した。

 初めての世界に戸惑い泣いていた一年前の少女がこの国の女王として立つに至ったそこまでの経緯に、少なからずマナシという青年が関係していたのは確かだ。

 そして彼は、初めて台与に会ったときのことを思い出していた。

「マナシとあなたが初めて二人でいるのを見たとき、我はとても驚いたことを覚えている。二人は本当に似ていた。自らのさだめを畏れ、それでも立ち向かおうとする弱さと強さが一つに解け合って見えた。比翼の鳥というのはこういうものかと思ったものです。彼とはもう、会わないつもりなのですか」

「ええ、わたしがそう決めたんです――後悔しないって」

 素早く答えて気丈な笑みを見せるつもりだったのだろう。だがその言葉は上擦って鼻にかかり、途中で止まった。

 そのまま黙って草花を柔らかく揺らす風を受けて景色に見入っていた少女は、不意にぽつりと漏らした。

「でも……もし、逢えるなら。恋した人と二度と結ばれないと解っていても、もう一度逢いたいと思いますか。相手が自分のことを忘れていて、自分だけが相手のことを覚えていて、好きだったことも思い出も何もかも自分一人で抱えて……それでも逢いたいって、思いますか?」


 その言葉には何かを畏れるような響きがあった。

「逢いたくないと思うのですか?」

 即座に切り返されて、台与は戸惑い言葉に詰まった。「それは――ええ……」

「報われないなら逢わないと、そうお思いならそれで良いのではないですか?」

 微笑んで答える張政に、台与もおぼつかない笑みを返した。

「ええ、そうね……」


 そうなのだろうか。本当に?

 心の奥深くで響く自問を振り払うように台与は顔を上げ、風景を眺めた。

 戦火はもうなく、たたらの煙も細くなった。緑の森が広がり、人々の集落が点在し、たしかにこの国は栄えている。だがこの国を統べる立場にありながら、この世界が自分のものだとは思えない。

 そう思うことができたのは、たった一度だけ……マナシと二人で見た世界だけだった。

 急速に胸を締めつける痛みに耐えかねて、台与は景色から目をそらし張政を見た。

「最後に一つ、お尋ねしたいことがあるんです」

「なんでしょう?」

 張政の笑顔は、きっといつまでたっても変わることはないのだろうと思わせる、そんな笑みだった。

 台与は記憶を探る。行李を探し出して開けるとそこに探すものが見つかるように、台与の記憶は忘却を失い、すべてのことがありありと思い出せるようになっていた。かつての夜に天の理を歪めるほどの霊力を発露したせいで今身に宿る力は限られていたが、これが日巫女の力の一端なのだということは明らかだった。

 引き出す思い出はあまりにも鮮やかで痛く辛く、けれど色褪せることなくそこに残っていた。

 そして確かに聞いた、彼の言葉――


「上邪……

  欲與君相知 長命無絶衰

  山無陵   江水爲竭

  冬雷震震  夏雨雪

  天地合   乃敢與君絶」


 張政の目が、みるみる瞠かれていくのが判った。

「この言葉の意味を、教えてください。張政さんに教えてもらったって言ってたから……」

「マナシがあなたに、言ったのですね」

 台与が頷くと、張政はすいと視線を泳がせて眼下のクニを見つめた。

 風が行き過ぎ、張政の衣と台与の裳が音を立てて舞う。

 長い沈黙を不思議に思い始めたとき、張政はふいに唱うようになめらかにそれを綴った。



「神にかけて誓おう。

 あなたへの愛が、命ある限り永遠に変わらぬ事を。

 高い山が平地となり、大河の水が涸れ、

 冬に雷鳴がとどろき、夏に雪が降り、

 天と地が一つに合わさる、そんな時が来ない限り、

 我は、あなたを絶対に離さないことを―――」



 台与の身体中が、一つの鼓動を生む。

 張政は、震える手を口元にあてて俯いた台与に向き直った。

「昔、大陸でうたわれた詩です。愛する人に永遠の愛を誓う、神言です。戯れに教えたものを、マナシは覚えていたのですね……あなたに伝えるために」

 視界が揺れて崩れていくのが判った。まだこんな感覚があるとは思えなかった。

 すべてを失って、報われない来世での出会いをも諦めようと思った――傷つくのが嫌で、独りよがりな思いで彼を縛るのが嫌で。

 けれど、いまこの胸の奥から溢れてくる想いを止めることなどできなかった。

(逢いたい……)

 どんなに傷つくことになっても、けして報われなくても、かまわない。

 ただもう一度逢いたい。

 この想いさえあれば、きっと繰り返される転生の果ての日巫女との鬩ぎ合いにも負けることはないと思える。

(あなたを巻き込むわたしを許して。けれどわたしは願わずにはいられない。時を超えて、もう一度、あなたと世界を見たい)

 涙を拭い、張政に並んで眼下の世界を見渡す。

 広がるこの大地のどこかに、彼がいる。

「眼炎く世界を、二人で探すのでしょう? マナシ……」




「どうしたの? お兄さま」

 急に足を止めた青年を振り返って、少女は怪訝な顔で尋ねた。

 青年は、山の上から見える絶景に見入っているようだった。

 その傍らに寄り添い、少女も同じものを見た。どこまでも広がる大地と、輝く大空。

「……きれい」

 すべてを失い、絶望の果てにあった少女の目には、それは痛いほどに眩しかった。

 けれどこの世界を美しいと思えるのは、もう一度希望を手にすることができたから。

 愛しい人が隣にいる、それだけで世界は光に満ちていた。

「もう一度、この世界に一からわたしたちのクニを創りましょう。お兄様……いいえ、狗奴彦」

 青年はかすかに微笑んで頷き、歩を進める前にもう一度、空を見上げた。


 倭の空はどこまでも蒼く澄み渡って、遥か遠くの海の色を映す鏡のようだった。

《 眼炎く倭  完 》 

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