45.狗奴国 肆
珂良のすすり泣く声がもの悲しげに響いていた。
いつもなら明々と焚かれている占火もなく、四方を閉ざされた神殿はひどく暗い。占を行うために神殿に押し込められたはずなのに、火がないわ、と少女は倦むような気持ちで思った。
「もう占の必要などないのかもしれないわね……」
少女に付き添っていた珂良は、その言葉を聞いて泣き出したのだ。
だが、少女の目から涙は出なかった。
あまりにも静か。静かすぎるのだ。滅びようとする国の、最後の息づかいすら聞こえない。
邑ではきっと、夜を徹して戦の準備が行われているのだろう。人々は恐怖に眠ることもできず、やがて来る血潮の波に呑まれてゆくのだ。
お元気ですか、と笑いかけてくれた族人たちの顔を順に思い出してみる。子持ちの女、老齢の翁、あどけない童、誰もが愛しい。失われてはならない。
けれどもう、為す術は残っていない……
「どうして、王子は……帰っていらっしゃらないのでしょう」
悲嘆にくれた声で珂良が呻いた。少女は顔を上げ、とがめるように美しい供人を睨んだ。心乱すあまりに主を気遣うことを忘れ去っている、そんな珂良に無性に腹が立った。一番考えたくもないことなのに。
「邪馬台の女王は身罷ったと、風の便りに聞きました。見事果たされたのなら何故、このクニへお戻りにはならないのでしょう。あのお方がもっと早くに帰っていらっしゃれば、わたくしたちはクニを立て直すことも、立ち向かうことも、できたはずです……」
「やめなさい珂良。お兄さまのことは言わないで。わたしたちが甘かったのよ。女王を失ったために、邪馬台は焦り始めた。あのクニに火をつけたのはわたしたち。お兄さまを行かせてしまった、わたしたちのせい……」
ふいに思った。日巫女を弑した彼は、最後の使命を果たそうとして、そこで王道を踏み外したのかもしれないと。
『お兄様にできるはずがない、だって優しいのよ、誰よりも』
かつての自分の言葉を思い出して、少女は嗤った。他国の後継者の少女を案じ、彼がその子を殺さずにいてくれることを願った――その顛末が、狗奴のこの状況なのだと思うと、もはや笑うことしかできなかった。
運命の螺旋という名の、なんという皮肉。
(可笑しいほど愚か。わたしは解っていたのに。お兄さまが戻ってこないかもしれないと……)
彼が西へ向かったのは、確かに復讐のためであったかもしれない。けれど、それは「父」の仇を討つためではないことを少女は解っていた――ほかでもない、同じ「彦覡」の血を分けた兄妹だから。
(それでも、信じていたかったの……)
(これは誰にも言わない、わたしとあなただけの秘密……。安心してね……お兄さま)
やがて、激しい鐸の音が鳴り響き。
判別も出来ないような混乱、錯綜、温度、喧噪、光彩、怒号、悲鳴、気配、呼吸――
煙の臭いとともに、熱く乱れた空気が流れ込んでくる。
闇の神殿に射し込んできたのは、紅い光だった。
「女が二人だ! 俺の、獲物だ!」
たとえ、どんなに深い絶望を迎えても。
生きよう、と。
少女は強く胸に誓った。




