44.狗奴国 参
その日は、風の強い、そのわりに静かな日だった。
空も木々も、何かを待つようにじっとそこに佇んでいた。
少女は貯蔵穴から取り出したばかりの栃の実をいっぱいに詰めた壺を小脇に抱え、小鳥のさえずりに似た透き通る声で唱いながらムラを駆けていた。
族人は少女の姿を見るや、にこやかに手を振り、お元気ですかと声を掛ける。少女は微笑んで振り返り、「寒いわね、身体に気をつけて」と一人一人に言葉を返す。規則正しい歩調に、ふくらはぎまでの麻の裳裾が風に翻り、うなじで一つに束ねられた長い髪も細い背の上で踊る。
少女は族人からこよなく愛されていることを知っていた。そしてまた、自らもこのクニをこよなく愛していた。
風に乗って届く潮の薫り、鬱蒼と繁る木々のざわめき、冬の凍てつく寒さ、暖かい人々。かけがえのないものたち。
たとえ姫と呼ばれていても自分はこのクニに生きる一人の人間で、族人の一人として死ぬまでこの地で過ごそうと少女は決めていた。館に籠もり、貢ぎ物だけを糧にして生きるのではなく、少しでもこの土に触れて過ごしたい――いつか自分の還るであろう、この土に。
(そのとき、お兄さまのとなりに……眠ることが出来たら)
少女は弾む足を止め、夕陽に赤く滲んだ空を見上げた。
異母兄が去っていった西の空に、不吉なまでに紅い太陽が墜ちてゆく。
(どこにいるの……。お願い、ご無事ならどうか、早く帰ってきて……)
少女の異母兄がクニを旅立ってもうすぐ一年になろうとしていた。このクニを担うべく生まれてきた王子、そしてわずかな霊力を王脈に宿すため、占の力を宿した異母妹がその妻と定められた。だがそう定めた二人の父・彦覡は刺客の手であっけなく殺され、復讐を誓った兄は西へ向かった。少女とクニを残して。
(……信じたいの、お兄さま。わたしにあなたを信じさせて)
旅立ちの前日、少女は兄に向かって言い放った。あなたはこのクニを愛しているのかと。愛しているなら、この混乱の中すべてを残して一人で行ってしまえるはずがないと……けれどもそれは単に、自分をおいていく異母兄が恨めしかっただけかもしれない。
いまなら解る。妹として接していながらも、いつか訪れる婚儀の日を待ちこがれていた。
異母兄が自分を妹としてしか見ていなくとも、少女は彼が好きだったのだ。
ふと、茜の空を横切る一本の白い糸に気付く。
(何かしら、あれ……)
糸口をたどると、それは山の向こうの群青から細く細くたなびいていた。
横切っているのではない、風に流されている。
「……狼煙……」
誰にともなく呟いてしばらくその空を見つめたあと、少女は壺を放り出して駆けだした。
走る少女の耳に、ざわざわと凄まじい喧噪がよぎる。森が目ざめた――何かが来ると、風が云っていた。
「菊池彦! 狼煙が上がっている!」
少女が御舘に飛び込むと、広間には見慣れた重臣達が一堂に会していた。少女はびっくりして息を呑み、激しく上下する胸を押さえて戸口にもたれかかった。
「……小魚姫」
上座に座る青年が、こわばった表情で少女に告げる。「いえ、占姫……御兆しを」
少女は驚いて後退る。兆し、それは神殿に籠もり占を行うこと。だが実りのない今の季節、占を行う必要などないはずだ。
考えられるのはただひとつ――
「邪馬台の大軍が、狗奴を目指して出立した。峠に放った窺見が狼煙で報せたが……遅すぎた。明日には、ここへ到達するだろう」
少女はよろめいた。
「うそ、だって……そんな、ならば、なぜ……」
そこからは恐ろしくて声にならなかった。だが誰もが、その先を解っていた。
何故、狗奴彦は戻ってこないのか――。
裏付けるものは二つしかなかった。「死」か、そして「裏切り」か……。




