番外:水沫なす
彼は邪馬台国の母村に生まれ、小さな頃からその聡明さを讃えられて育った。
両親は異母兄妹で、ともにこの村一の長老の血を引いていた。
長生きをして知恵を蓄えれば、それだけで地位は上がってゆく。だから彼は、生まれたときから大人となるべくして育てられた。
その頃にはもう、母村の東には大きな門があった。その奥は太陽のおわす場所、不可侵の聖域だと何度も教えられたために、村の童とあちこちを走り回って遊ぶときも、その門にだけは近づかなかった。その杜のざわめく音を聞いただけでどこか空寒い気分になって、誰からともなく離れたがったからだった。
その門が女王の居城だと知ったのは、女王の実弟である采迦が彼を見出してからだった。
十になったばかりの頃から彼は、采迦のそばにいつも仕えるようになった。だから、采迦が出産の知らせを聞いて産屋に駆けつけたときも、一緒になって喜んだし、その赤子の声も聞いた。
「それはそれは、白珠のような可愛らしい姫君です。おめでとうございます采迦さま」
「待ちこがれた巫女姫ですわ! 日巫女様のご立派な跡継ぎとなられるでしょう」
女達のくちぐちの寿ぎを受けながら、采迦は振り返って彼の肩を掴んだ。大きくて熱い手だった。
「掖邪狗、そなたに頼むぞ。私が傍で支えられぬときは、そなたが娘を支え、助けてやってくれ」
それは彼にとってこの上もない使命だった。掖邪狗がその手で支えた姫が、いつかはこのクニを動かす女王となるかもしれないのだ。そう、居城を囲む杜、その枝葉を騒がせる些細な風にさえ畏怖を吹き込む、日巫女のように……
その日はひどく日照りの烈しい、暑い日だった。
額に滲む汗をぬぐって、掖邪狗は何度となく振り返った丘の上を、また振り返った。
蜃気楼でも構わないから、そこに見出す一つの影が欲しかった。
一人前の成人として認められるようになった彼は、大陸への使節に選ばれるという異例の大役を受けた。壮年の大人に囲まれながらも、彼の聡明さと行動力は一目置かれ、采迦の勧めもあっての大抜擢だった。彼本人も、彼の家族も、誰もがそれを大喜びで祝った。
「姫さま、今度私は大陸へ渡ることになりました」
そして彼がいつものように馴染みの幼い姫に会い、笑顔で言ったときのことだった。
「大陸って、どこにあるの?」
無邪気に花輪を編みながら、少女は掖邪狗に向かって尋ねた。
「この倭の国から、ずっと海を渡っていったところですよ。何もかもが輝く素晴らしい地だと聞きます」
「そうなの? いいなあ、トヨも行く!」
掖邪狗は苦笑して、自分が編み終わった小さな花冠を少女の頭に乗せた。
「それはいけません、とても危険な旅なんです。姫さまをそんな危険な目に遭わせるわけにはいかないでしょう? とても長い旅になりますし」
少女の顔はみるみる曇り、眉根は不安げに寄せられる。
「きけんなの? どれくらい行くの?」
「そうですね、早くて一年……この花が枯れて、また咲く季節になるくらいまでは」
少女はぱちくりとまばたきをして、それから大声で叫んだ。
「だめっ!」
どん、と小さな衝撃がして、草原に倒れ込んだ掖邪狗の上に、のしかかってくる重み。何が起こったのか分からず目を白黒させる彼にしがみついて、少女は叫び続けた。
「だめ、行っちゃダメ! ヤヤコはあたしと一緒にいるんだもん!」
「……姫さま」
どこにこんな力があったのだろう、と掖邪狗は空を見上げてぼんやり思った。初めてこの身体を抱き上げてから、もう何年経ったのだろうか。触れるだけで壊れそうだった小さな小さな赤ん坊が、今自分と離れるのを嫌がって駄々をこねている。
「だって、危険なのでしょう? あたしそんなのやだ、怖いもん、ヤヤコだって怖くないはずなんかない! あたしヤヤコがいなくなるのなんかイヤだ! ほんのちょっとでも、イヤだもん」
掖邪狗はどきりとして思わず自分の胸元を掴んだ。
そう、栄誉には違いないと思いつつも、心の奥底ではひどく怯える自分がいた。長い船旅、未知の大陸。海が荒れたときには人柱が立てられる。大陸の人々は倭人を蔑みの目で見るという。そんな旅から無事に帰れるという確信が、彼自身にも持てなかったのだ。
(まったく、この姫は人の心でも読めるのか……)
深く息を吸ってから、掖邪狗はゆっくりと身を起こした。
「姫さまは、この花咲く季節を愛おしいと思うでしょう? 花々は枯れることを厭わない。それはまた次の巡ってくる季節に、ますます華やかに咲くためです。私も同じです、これは私の成長するための旅ですよ」
自分に言い聞かせるように口にした言葉は、不思議と心の中に染み渡った。これはきっと試練でもあるのだ。これを乗り越えたとき、何か別の世界が開けるような気がする――
だが、しがみついていた少女は急にがばっと立ち上がると、花冠を振り落として大声を上げた。
「ヤヤコのばか!」
一声怒鳴って、少女は一目散に自分の館の方へと走り去っていった。あまりに急なことで、掖邪狗には立ち上がって追うこともできなかった。
分かってもらえなくても仕方がないことだ、と諦めが頭をよぎった。
振り落とされた花冠と、少女の作りかけていた花輪が、彼の足元でそよそよと風に揺れていた。
だが、その日からこの出発の日まで、少女は一度も掖邪狗の前に姿を現さなかった。いつかは機嫌も治るだろうと見ていた掖邪狗は、意外な少女の頑固さに驚いた。かくなる上はと何度も謝りに出向いたりもしたが、少女は決して面会を許さなかった。相手の方が立場が上なだけに、こういう場合彼にはもうどうしようもない。
(このまま、もう会えないのか……)
あてつけのように大きな太陽だけが燦々と出発前の彼らを照らし出し、早くも体力を削ごうと頑張っている。そろそろ出立も近い。使節たちの家族や下人たちが大勢見送りに来ており、その中に彼は小さな人影を幾度も探したが、見つけだすことは出来なかった。
(最後に何か一言、まともな会話でもしたかったなあ)
そう思ってみて、掖邪狗は自分の滑稽さに思わず笑い出しそうになった。さっきからそんなことばかりを考えている。
(まったく、お役目大事もいいところだな。何であんな小さな子の事ばかり……)
「ヤヤコー!」
「え?」
反射的に振り返った丘の上に、一つの逆光の影があった。
「ヤヤコーっ、どこ!? 返事をして!」
「あっ、ここです!」
つられるように彼が手を挙げると、その黒い影はぴょんと大きく飛び上がってまっすぐ丘を駆け下りてきた。近づいてくるに従って、その小さくて華奢な手足やひらひら翻る裳裾にはっきりとした見覚えが甦る。
「姫さま!?」
どん、とぶつかってくる身体を両手で受け止める。浅い息を繰り返した少女は、いてもたってもいられないという風に手にしたものを掖邪狗に差し出した。
「これ、探し回って集めたの!」
その手には、世辞でも美しいとは言い難いかたちの花輪があった。その不格好さを補うように、連ねられた花々は色とりどりに美しさを競い合って、春をそのまま集めたような明るさだった。
「この花は枯れても綺麗なんだって、菜於が教えてくれたの。これなら、花の咲かない季節でも、忘れないでいられるでしょ? あたしのことも」
紅潮した頬で息継ぐ暇もなく捲し立てる少女を、掖邪狗は呆然と見つめた。
「まさか……これを作るために、ここ何日も?」
「うん、だってヤヤコはあたしのことなんかすぐ忘れちゃいそうなんだもん」
少女はどこかふてくされたような顔で、まっすぐ掖邪狗を見上げた。
「……大丈夫ですよ」
絞り出すように、掖邪狗は呟いた。「きっと何があっても、姫さまのことだけは」
そう言って、胸元にしまっておいたものを取り出す。
「じゃあこれは、姫さまが私を忘れないための、お守りです」
そっと少女の頭に載せられたそれは、あの日振り落とされた花の冠だった。それは摘んでからとっくに枯れ果てていても仕方がないほどの時間が経っていたのに、何故かまだ不思議と色合いを保って咲き続けていた。もう一度、少女の頭上に戴かれるまではと、力を振り絞って。
少女はにっこりと笑った。
「あたしは大丈夫だよ、毎日ヤヤコのことばっかり考えてるから」
それを聞いた瞬間、彼は奇妙に血が逆流する感覚をおぼえた。どういうわけか顔が熱くなった。
(ああ、この人のために、帰ってこよう)
そう思った瞬間、掖邪狗は自分の生還に強い確信を持った。恐れも不安も、何もかもがこの抜けるような青空に吸い込まれてゆく。
(私は強くなって帰ってくる。そしてそのとき、あなたがなおも私を必要としてくれるなら……)
出発の号令が、どこまでも続く空のもとに響きわたった。
たとえ、水沫のような命でも。
あなたのために生きよう。
※唐突に過去話を挿入してすみません。
過去サイトで「ヤヤコ主役の話」というリクエストに答えて書いた短編です。
ヤヤコから、台与とパパ上に対する憧憬のはじまりのお話でした。




