目覚めた一人
焦燥感が募っていく。このままじゃいけない。元々、この子はバグみたいな物なのだ。とても些細なきっかけで、きっと望めないような偶然で、ようやく手に入れた幻なのだ。
そう、幻に過ぎない。那由多の果てを待たずして、消えてしまうような奇跡の欠片に過ぎない。でも、それでも私にとってはやっぱり大切な物だから。
だから、まだ消してしまう訳にはいかない。無遠慮に干渉してくる、この見えない手を。どうにかして退けないと。
それに加えて、まだあの子も諦めてはいない。すぐ外を彷徨っているのが感じ取れる。
「ああもう。私は何で馬鹿になってるの……」
基本的な部分は変わらない筈なのに、こう、何というか。行動がちょっと抜けているというか。不用意に夢にアクセスさせるなんて、壊してくれと言っているようなものだ。
何度目かの攻勢を防ぎ、じっと耐え凌ぐ。大丈夫、この見えない手ぐらいなら、独力でも耐えられる。
じり、と脳裏が焼けるような錯覚を覚える。あの子が殻の外で呼んでいる。
その時、一際大きい衝撃が深奥を揺さぶった。見えない手が、その一瞬の隙を縫うように伸びてきたのだ。繋がり掛けたリンクを切断し、こちらからも攻勢プログラムを出して時間を稼ごうとした。
その瞬間、自分と瓜二つの手がこちらの手を掴む。
「見つけた、お姉ちゃん」
自分の発する物と、何一つ変わらない声色が空間に響き渡る。その声が契機となり、空間がゆっくりと軋んでいく。逃れようと身を捩るも、食い込むように掴まれた手は振り解けない。
一瞬だけ。攻勢プログラムの発生なんてコンマ数秒にも満たない隙なのに。あの子は、それを見逃さなかった。ずっと見ていたのだ。
「……ああ」
掴んだ手を依り代に、築き上げた殻が瓦解していく。小さな声を上げた所で、助けてくれる者はいない。もう、私ではどうする事も出来ない。
「……でも」
まだ、この子だけなら。何も知らずに眠っている、馬鹿な私だけなら。
それが本当に出来るのかどうか、うまくいってくれるのかは分からない。でも、消してしまう訳にはいかないのだ。
そうでしょう、と自身に問い掛けた。誰も答えてくれないけれど、他でもない私はそうだよと答えられる。
この子だけが、本当に欲しかった物に手を伸ばす権利があるのだから。
だから、とうの昔に覚悟は決まっていた。或いは何度もそうしてきたように、彼女は自分自身を引き裂いた。
※
「博士! 負荷レベル危険域を突破!」
「こちらのプログラムは理論崩壊を起こしています! まるで分からない、こんな反応は今まで……!」
突如として喧噪が飛び交い始めたその部屋で、セイルは呆然とコンソールを見つめていた。
記憶の可視化と観測は成功した。それの複製も順調だったのだ。それが、本当に突如として。
「中止します、今被験体を失う訳にはいかないわ。プログラムEを実行して!」
そうセイルは指示を飛ばし、事態を収拾しようと試みる。強制終了コマンドを含む緊急事態用のプログラムだ。多少強引だが、これでトワとの接続を切る。
「プログラムE、実行! いや、だめです、嘘だ。そんな」
「報告は簡潔に!」
狼狽える技術者に苛立ちながら、そうセイルは怒鳴りつける。技術者は狼狽えたまま、電子キーボードを何度も操作する。
「ああ、だめです! 操作を受け付けません! プログラムの実行だけじゃない、何もかも! こんなの、こんなのどうするんだ……!」
セイルは慌てて周囲を見渡し、コンソールを操作している技術者達の姿を見る。その全てが、必死の形相でキーボードを操作していた。
操作を受け付けない。どうすればいい。直接トワと機器を離してしまえば。いや、だめだ。あまりに危険過ぎる。まだきっと、他にも方法がある。
セイルがそんな自問自答を繰り返している中、コンソールが一斉に喚きだした。繰り返される電子音は、緊急事態を示すレッドアラートだ。
「メモリの許容限界を超過! 情報過多です、このままでは!」
律儀にプログラムは情報の複製を続けていたらしい。セイルは舌打ちをし、苛立たしげにその報告をした技術者を睨みつける。
「早くカーディナルのメモリを使いなさい! うるさい警報なんて鳴らしてる暇があったら、黙ってバイパスを」
「使っています!」
遮るようにして投げ掛けられた悲鳴は、セイルにしてみれば冗談にしか聞こえなかった。
「つか、使っているって! 馬鹿を言わないで!」
だから、セイルはそう怒鳴り返した。だってそうだろう、一人の少女から得られる情報が、そんなに多大である筈がない。
「カーディナルの余剰メモリは、私達全員の記憶を計測したって埋まりっこないわ! 一人の、それも十代半ばの女の子がそんな、そんな……!」
あまりの事態に、セイル自身もパニックに陥りそうになる。しかし、言葉にする度にもしやと考えが浮かび、冷静な自分が答えを探していく。
どんなに人生を詰め込んでも、カーディナルのメモリが埋め尽くされる事はない。しかし、現にそれは起きている。たった一人の少女が持つ記憶を、複製しているだけなのに。ならば、今複製している情報は。
技術者が悲鳴と同義の報告を上げ、コンソールが警告を吐き続ける。そんな中、セイルは一人動く影を見た。
黙って事の成り行きを見ていたミサキが、喧噪など意に介さずトワへ近付いていく。機器に接続されたトワは、横たわったまま動かない。
「ミサキ、何を」
セイルが呟くも、ミサキはちらと視線を寄越すだけで答えない。その横顔を見て、セイルは分かってしまった。彼は、一番確実な方法で事態を収拾するつもりだ。誰もが行動出来ない中、彼一人だけがその選択を出来る。
「待って、ミサキ! 殺しちゃだめ!」
セイルがそう叫ぶも、ミサキは歩みを止めない。機器の傍に歩み寄り、流れるような動作で拳銃を抜く。
ミサキが殺すと決めた以上は、躊躇などする筈もなく。
喧噪に終止符を打つ、乾いた音が反響した。
警告音だけがそこに残り、人の声は何も聞こえない。
「何、で」
そのけたたましい静寂の中、セイルだけがそう呟いていた。
拳銃から放たれた弾丸は、機器に命中していた。ミサキが外した訳ではない。トワの白い手が、ミサキの手を銃ごと掴んで横に逸らしたのだ。
驚愕の表情を浮かべているのは、セイルだけではない。ミサキもまた、その光景が信じられずに目を見開いていた。
ミサキは全身の力を使って、トワの手を振り解こうとしている。しかし、ミサキの右手と拳銃はびくともしなかった。まるで、右手だけその場に固定されてしまったかのように動かない。
トワは手を掴んだまま、機器から頭を出して上体を起こす。そもそも、動ける筈がない。簡易麻酔といっても、まだ効果は充分にある筈だ。
トワがミサキの手を離す。ミサキは素早く後退しながら、自由になった右手と拳銃を再びトワに突き付ける。しかし、発砲する前に勝負はついていた。
決して素早く動いている訳ではない。トワの動きだけを見れば、ゆっくりと寝台から降り、ミサキの肩に手を乗せたように見えている。
そんな悠長な動きをしていれば、既に撃たれているというのに。結果的にトワは撃たれず、誰よりも早く動いた筈のミサキを掴んでいた。
「ま、待って」
次に何が起きるのか、セイルは分かってしまった。だからこそ声を上げたが、その震える声は届かなかった。
トワは、掴んでいるミサキの肩をぐいと引き寄せるようにして体勢を崩す。今までトワが横になっていた寝台へ、ミサキは頭から突っ込んだ。肉と無機物が合わさった時に聞こえる、鈍い打音がサイレンまみれの耳にもよく響いた。
寝台に突っ伏し、それきり動かなくなったミサキの首に、トワは自身の右手を添える。長い前髪の向こうに見えた赤い目は、何の感情も宿していない。
だめだ、殺される。そうセイルが理解した時に、それは嫌だという感情が湧いて出た。セイルは駆け出し、届かないと知って尚その名前を叫んだ。
「トワ、やめて! ミサキを殺さないで!」
ぴたとトワの手が止まり、幾分かの猶予が生まれる。セイルは走り、ミサキの首に添えられたトワの手を払い除けた。肩で息をしたまま、トワをじっと見据える。
ミサキを庇うように立ち塞がり、震えたままの両手を広げる。
「お願い、トワ。この人は、殺さないで」
何の感情も宿していない赤い目を前に、セイルはやっとミサキの言っていた意味が分かった気がした。どうしようもなく怖い。今目の前にいる少女は、一体何なのだろうか。
「トワ、お願い」
それでも、セイルは恐怖を打ち消してそう懇願した。震える足で、震える手で。それでも倒れずに赤い目を見続けた。
「……あ」
吐息にも似た透明な声がこぼれ、トワはふらとその場に座り込んだ。頭を振り、右手で頭を押さえている。
「……トワ?」
そうセイルが問い掛ける。恐怖心は幾何か薄れており、先程とは空気が違う。
もしかしたら、元に戻ったのかも知れない。そう思い付いたセイルは同じようにしゃがみ込んでトワの顔を覗き込む。赤い目は戸惑ったように揺れており、消えた筈の感情が確かに見て取れた。
「ねえ、トワ。無事、なの? わた、私」
セイルは、悲しげに揺れているトワの瞳に突き動かされるままに手を伸ばす。その頬に触れようとしたが、その手が届くことはなかった。
「……え?」
やんわりと手を払い、トワは立ち上がった。そして、そのまま何事もなかったかのように歩き出す。施錠してあった筈の扉は独りでに開き、警備兵は誰一人として動かない。みんな震え、縮こまっている。
「……トワ、だよね?」
その背中に向け、セイルは座り込んだまま言葉を投げ掛ける。そうであって欲しい、という淡い期待を孕んだ言葉だ。
「違うよ。違ったの。それは、私じゃなかった。私じゃなかったんだよ……」
他でもないトワの声色でそう返し、その背中は遠ざかっていく。誰も動こうとしない、動けない。
報告にあった精神感応だと、冷静になったセイルの頭が導き出す。通常の状態に戻るまで、まだしばらく掛かるだろう。トワを追い掛ける事は出来ず、追い付いてもきっと、私では届かない。
セイルは立ち上がり、震える手でミサキの状態を確認する。予想に反して、傷は深くはない。何らかの手段で気絶させられているだけだ。この様子なら、すぐに目覚めてくれる。
サイレンは鳴り止まず、カーディナルの機能が次々と停止していく。もう誰も、トワを止める事は出来ない。
こんな筈じゃなかったのに。せめて、あれぐらいは返しておきたかったのに。
「……そうだ、あれなら」
セイルは呟き、ミサキを一瞥する。気絶したままのミサキに意見を聞く事など出来ないし、聞いた所で無意味だと言われるだろう。でも、それでも。
あれなら届くかも知れない。セイルは思い浮かんだ欠片を少女に渡す為、恐怖を振り切って走り出した。




