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『国語の教科書に載るような短編集』

#008『硝子の中の海』

掲載日:2026/04/29

『硝子の中の海』


 八月の終わりの生ぬるい風が、庭の雑草を気怠げに揺らしていた。

 見上げれば、空はどこまでも高く澄み切っているのに、地上にへばりつく空気は粘り気を帯びていて、呼吸をするたびに肺の奥に湿った真綿が詰まっていくような息苦しさがあった。

「ねえ、私たちって、いつからこんなに大きくなっちゃったんだろうね」

 隣でポツリと呟いた幼馴染の夏芽なつめの横顔を、僕は無言で見つめた。

 彼女の視線の先にあるのは、色褪せた水色のビニールプールだった。夏芽の六歳下の弟が昔使っていたもので、底には滑稽なほど陽気なイルカのイラストが描かれている。物置の整理をしていて偶然見つけ、なぜか「水を入れてみよう」という話になったのだ。

 高校三年の夏の夕暮れ。大学進学で東京へ行くことが決まっている夏芽と、地元の市役所に就職が決まっている僕。

 十八歳にもなった男女が、くるぶしまでしか水のない子ども用のビニールプールに足を浸して並んで座っている図は、客観的に見ればひどく滑稽で、痛々しいものだっただろう。

 しかし、太陽に熱せられてほとんどお湯のようになったそのぬるい水は、僕たちにとって、奇妙なほどの安心感をもたらしていた。

「大きくなったんじゃないよ。このプールが、小さすぎただけだ」

 僕は、足の指でプールの底のイルカの目をこすりながら答えた。

「……そうだね。昔は、ここが世界のすべてみたいに広かったのに。潜って、息を止めて、目を開けたら、まるで本当の海の底にいるみたいだった」

 夏芽はそう言うと、縁台に置いてあった透明なガラス瓶を手に取った。

 近所の寂れた酒屋で買ってきた、昔ながらのラムネだ。彼女が瓶を傾けるたびに、中に入っているガラスのビー玉がカラン、コロロンと涼しげで、しかし、どこか虚ろな音を立てた。

「ラムネってさ、意地悪だよね」

 夏芽は瓶の飲み口を指先でなぞりながら、ふふふっと力なく笑った。

「飲みたいのに、ビー玉が引っかかって中身がなかなか出てこない。喉が渇いてるのに、焦らされる。昔はそれが楽しくて仕方なかったのに、いまはなんだか、すごくもどかしい」

「……ビー玉が邪魔なら、瓶を割るしかないよ」

「割ったら、中身も全部こぼれちゃうじゃない。それに手を怪我するし」

 彼女はラムネの瓶を太陽の光にかざした。逆光に透けた青いガラスと、その中に閉じ込められた透明な球体が、彼女の瞳の中に小さな影を落とす。

 僕は、その「瓶の中に閉じ込められたビー玉」が、いまの僕たちの関係そのもののように思えてならなかった。

 僕はずっと、夏芽のことが好きだった。いや、「好き」などというありふれた言葉では括れないほど、彼女の存在は僕の人生の根底に組み込まれていた。しかし、その感情を言葉にしようとすると、喉の奥で硬いガラス玉が引っかかって、どうしても息ができなくなるのだ。

 言葉にしてしまえば、このぬるくて安全な関係性が壊れてしまう。瓶を割れば、中身はすべてこぼれ落ちて二度と元には戻らない。だから僕は、ずっとビー玉を喉に詰まらせたまま、息苦しい息を吸い続けていた。

「東京、怖い?」

 ふいに、僕は尋ねていた。

 夏芽はラムネの瓶を下ろし、プールの水面を見つめた。

「怖いよ。すごく」

 彼女の声は、微かに震えていた。

「東京には、このビニールプールみたいに安全な壁がない。どこまでも広くて、足がつかなくて、水は冷たいんだろうなって思う。私、上手く泳げるのかな。息継ぎ、できるのかなって」

「夏芽なら大丈夫だよ。昔から、僕よりずっと泳ぐの早かったじゃないか」

 慰めの言葉は、ひどく空々しく響いた。僕自身が、この小さな町というビニールプールから一歩も外に出る勇気がない臆病者だったからだ。

「……一緒に来てほしかったな」

 夏芽のその一言は、水面に落ちた水滴のように静かに、しかし、確かな波紋を広げた。

 僕の心臓が痛いほど跳ねた。

 彼女の横顔を見る。

 夏芽は僕を見ずに、ただ足元のお湯のような水をかき混ぜている。

 さっきの言葉が、ただの幼馴染としての甘えなのか、それ以上の意味を含んでいるのか、僕にはわからなかった。わからないからこそ、僕はまた、喉の奥のビー玉を飲み込んだ。

「僕が行ったって、足手まといになるだけだよ。それに、親父の店も手伝わなきゃいけないしさ」

「……そうだね。ごめん、変なこと言った」

 彼女は無理に明るい声を作ると、残っていたラムネを一気に飲み干した。

 カランとひときわ大きな音が鳴り、ビー玉が空っぽの瓶の底に落ちた。もう液体に守られていないその音は、鼓膜を直接叩くように乾いていた。

 日が落ち始めると、空気が急速に冷え始めた。

 プールの水も先ほどのぬるさが嘘のように冷たくなり、僕たちの足首から体温を奪っていく。

 それでも、僕たちはどちらからともなく「足を出そう」とは言わなかった。この水から足を出せば、いよいよ本当に、この夏が、そして僕たちの子供時代が終わってしまうような気がしたからだ。

「ねえ、これやろうよ」

 夏芽が縁台の下から引っ張り出してきたのは、去年の夏にやり残して、そのまま放置されていた花火のセットだった。湿気ているかもしれないが、ビニール袋に入っていたから大丈夫だろう、と彼女は言った。

 縁側に置かれた蚊取り線香の火を借りて、手持ち花火に火をつける。

 チチチチという微かな音と共に、オレンジ色の火花が弾けた。

 薄暗くなった庭で、花火の強い光は僕たちの顔の輪郭をくっきりと、残酷なほど大人びて浮かび上がらせた。

 火花が散るたびに、夏芽の瞳の奥で小さな星が爆ぜる。僕はその横顔を、網膜に焼き付けるように見つめていた。

「綺麗だね」

「うん。でも、あっという間だな」

 次々と花火に火をつけていくが、古いせいか、どれも十秒も持たずに儚く消えていった。最後に残ったのは、数本の線香花火だけだった。

「どっちが長く落とさないか、勝負ね」

 夏芽が笑って、二本の線香花火に火をつけた。

 息を殺し、指先の震えを抑える。小さな火の玉が膨らみ、そこから松葉のような繊細な火花が散り始める。世界が急に静まり返り、火花が弾ける微かな音だけが耳に届く。

(落ちるな)

 僕は心の中で祈った。

 この火花が落ちなければ、時間が止まってくれるのではないか。夏芽が東京に行くこともなく、僕がこの小さな町に取り残されることもなく、ずっとこのビニールプールの縁で、ぬるい水に足を浸していられるのではないか。

 しかし、現実は残酷だ。

 ポトリと先に落ちたのは、夏芽の火玉だった。ジュッという小さな音を立てて、コンクリートの上で光が消える。

「あーあ、負けちゃった」

 彼女が呟いた直後、僕の火玉も耐えきれずに落ちた。

 圧倒的な暗闇が、再び庭を支配した。

 そして、その暗闇の中で、強烈な匂いが僕たちの鼻腔を突いた。

 火薬と焦げた紙と、そして何かが決定的に燃え尽きたことを知らせる、強烈な花火の残り香だった。

「……終わっちゃったね」

 夏芽が、暗闇の中でポツリと言った。

「うん」

 その匂いは、ひどく感傷的で、同時に暴力的でもあった。

 花火が燃えている間の美しさは一瞬で消え去るのに、燃え尽きた後の硝煙の匂いだけは、いつまでも重たく空気にまとわりついて離れない。それはまるで、僕たちの共有してきた過去のようだった。

 美しい時間は終わったのだ。あとはもう、この残り香を肺の奥に吸い込みながら、生きていくしかない。

「私ね……」

 夏芽の声が暗闇の中で静かに響いた。

「この匂い、ずっと忘れないと思う。東京に行って、どんなに高いビルから夜景を見ても、どんなに綺麗なレストランで食事をしても。……プールの冷たさも、ビー玉の音も、この煙の匂いも、絶対に忘れない」

 それは、彼女なりの別れの儀式だった。

 彼女は僕という過去を箱に詰めて、リボンをかけて、引き出しの奥にしまおうとしているのだ。前に進むために。

 僕は深く息を吸い込んだ。むせ返るような花火の残り香が、肺の底まで広がっていく。

 喉の奥のビー玉が、痛いほど転がった。

 言わなければ。いま言葉にしなければ、僕は一生この後悔という煙に巻かれて生きていくことになる。

「夏芽」

 僕は、冷え切ったプールの水からゆっくりと足を抜いた。

 濡れた足裏がコンクリートに触れる。現実の地面の冷たさが、僕の背筋を貫いた。

「僕も……忘れない。君がいないこの町で、僕はきっと何度もこの匂いを思い出す。でも……」

 僕は縁台に置かれた空のラムネ瓶を見つめた。

「ビー玉が引っかかって、上手く言えないけど……。僕は、きみが広い海で泳ぐのを、ここでずっと祈ってる」

 本当は「行かないでくれ」と言いたかった。「ずっと一緒にいよう」と言いたかった。

 でも、僕の口から出たのは、そんな不器用で、ひどく臆病なエールだった。

 暗闇の中で、夏芽がふっと笑う気配がした。

「……うん。ありがとう」

 彼女もまた、プールから足を抜いた。

 ピチャリと水が跳ねる音がした。

「風邪引いちゃうね。中に入ろう」

「そうだな」

 立ち上がった僕たちの足元で、役割を終えた水色のビニールプールが、冷たい水を湛えたまま静かに横たわっていた。

 明日にはこの水も捨てられ、プールは空気を抜かれて再び物置の奥へと片付けられるだろう。

 縁側のガラス戸を開けると、家の中の生活の匂いと、明るい蛍光灯の光が僕たちを包み込んだ。

 振り返ると、暗闇の庭にはもう何も見えなかった。ただ、肺の奥にこびりついた花火の残り香だけが、僕たちが確かにそこで、一つの季節を終わらせたのだということを証明していた。



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