最終話
夜が更けた街道を抜け、二人は目的地である北東の拠点――古びた廃村へと差し掛かった。
街灯もまばらな道を抜けると、霧が濃くなり、視界は二十メートルほど先までしか届かない。
里沙が立ち止まり、霊力で周囲を探査する。
「……異常です。結界の歪みが、遠くまで拡がっています」
蓮司も目を細め、手元の霊具を掲げる。
「来てるな……奴らが。しかも、この歪み、まだ安定してない。結界が暴れれば、俺たちも危険だ」
二人が廃村の中心へ歩を進めると、古びた社殿が霧の中に姿を現した。
瓦は割れ、柱には霊的な痕跡が残る。
空気は重く、風がないのに木々がざわめき、微かな囁きが聞こえる。
里沙の霊力が微かに震える。
「……ここ、中心核の波動が強すぎます。もしかすると、六つ目の残滓と七つ目の影の両方が絡んでいるかもしれません」
蓮司は深く息を吐き、刀の柄に手をかける。
「よし。まずは結界の異常を確認して、安全に突入する」
社殿の前に立つと、霊障が視界に濃く影を落とした。
小さな結界の粒子が空中で揺らめき、まるで触れれば砕けそうな薄膜のように張り巡らされている。
里沙が手を伸ばし、霊力を結界へ送る。
「……結界が歪んでいます。微細な反応が……」
突然、空間の一部が赤黒く歪み、六つ目の影が最後の残滓を振り絞って現れた。
「……来るぞ」蓮司が低く警告する。
影は完全な形ではなく、残滓の状態でありながらも、圧倒的な存在感を放つ。
里沙の体内から微かな脈動が伝わり、七つ目としての力が呼応する感覚が走る。
「……里沙、暴走に注意!」
蓮司が制止するより早く、里沙の眼に赤い光が差す。
影との波動が触れ合った瞬間、彼女の霊力が微かに暴走し始めたのだった。
社殿の結界の粒子が揺れ、異常な風が巻き上がる。
北東の拠点で、六つ目の残滓と七つ目の影――里沙自身――との初接触が始まった。
影は、もはや獣でも人でもない――形を結ぶ直前の“意思”の塊とでも呼ぶべき存在だった。
黒い霧のようでありながら、眼だけが赤く二つ、空間に固定されている。
ガラス越しに睨まれているような視線が、皮膚の内側に触れてくる。
蓮司が刀を引き抜くと、周囲の霧が一瞬だけ怯んだように後退した。
「残滓の癖に、まだここまで力が残ってるとはな」
里沙が呼吸を整えようとして――
その瞬間、影の赤い眼が、明確に“里沙”を見た。
呼応するように、里沙の胸奥が脈を打ち、
ドクン――
影の霊波とぶつかる。
血の温度が上がる。視界が赤く染む。
「――っ……来る」
踏み出すより早く、影が伸びた。
霧が鎖のように形を取り、二人へ襲いかかる。
蓮司が横薙ぎに刀を振るう。
薄膜の霊障が刃に触れた瞬間、弾ける火花のように黒い霧が飛び散った。
「半端な封印じゃ、六つ目はくたばらねぇか!」
里沙は両手に札を展開し、同時に詠唱を重ねる。
「《降下せし微光、影の縫目……封》!」
札が光を帯びて縫い合わせるように霧を巻き付け――
しかし、霧は逆流するように里沙へ迫った。
――ドクン、ドクン。
さっきよりも強い。明らかに“繋がろう”としてくる波動。
影から発されているのに、なぜか拒絶できない。
(……私の中が、反応してる?)
霧が里沙の腕に絡み、皮膚の下へ影が染み込もうとする。
瞳がかすかに赤に揺れる。
「里沙!」
蓮司が叫び、影を切り裂いて里沙を引き戻す。
しかし影は、今度は蓮司に標的を変え、地面から無数の触手を伸ばした。
蓮司は短く息を吸い――右手の指先を噛む。
(ここで躊躇ったら終わる)
血が滲むと同時に、蓮司の背後に黒い影の形が立ち上がる。
人とも獣ともつかない影――
彼が封じてきた影を“食わせた”結果、蓮司自身に刻まれた、逆の力。
蓮司が低く囁く。
「《影食》――開帳」
黒影が触手へ噛みついた。
霧の束が砕け、影が悲鳴のような震えを上げる。
蓮司の身体の筋肉が軋んだ。
掌の血が黒く染まる。
「クッ……!」
「蓮司さん、だめ、その反動――!」
だが、押し返す力は圧倒的だった。
六つ目の残滓が、赤い瞳を揺らす。
恐れか、怒りか――理解したかのように、影が後退する。
影が形を保てなくなり、霧となって散った。
風だけが残り、静寂が戻る。
二人は荒い息を吐きながら、社殿の前で立ち尽くしていた。
里沙が蓮司の腕を掴む。
蓮司の血は黒く、指先は痺れ、意識は薄れていた。
「蓮司さん、しっかり!」
「……あぁ……問題ねぇ……いつもの反動、だ」
「いつもの、で済ませないでください!」
霧が完全に消えた社殿の奥、
封の間へ続く闇が、静かに口を開けていた。
だが、すぐに進むことなどできない。
蓮司の血を通じ、六つ目の影の残滓の“何か”が流れ込んできたのだ。
それは、単なる呪いでも霊障でもない。
――記憶
――意図
――視線
まるで誰かが、蓮司の内側から覗いているような感覚。
里沙は震える声で呟いた。
「蓮司さん……今、誰かと“繋がってる”感覚、ありませんか……?」
蓮司は顔を上げる。
影に噛みつき、影を喰った代償。
視界の片隅で、誰かの声が――
《そちらへは来た……やはり君たちは七つ目の鍵か》
声。
冷徹で、男の声。
蓮司と里沙が探し続けてきた「スーツの男」の声だった。
蓮司は壁に手をつき、呼吸を整えながら里沙の視線を受け止める。
「……大丈夫だ。動ける。まだ終わってねぇ」
それは強がりだったが、撤収を口にする理由もなかった。
六つ目の残滓を押し返した――しかし消してはいない。
結界も、閉じたのではなく“息を潜めただけ”。
霧が薄れた古社の奥――封の間へ続く暗い回廊。
その入口だけ、石畳に黒い影の痕跡が“焼き付いて”いた。
里沙が近寄り、膝をついて観察する。
影はただ漂うのではなく、まるで何かの文字のような配置で残っていた。
「……記号? 刻印?」
蓮司が息を呑む。
「陰陽術でも、神道符でも、密法でもねぇ……これは……影連の古式密符だ」
里沙が顔を上げる。
「影連……本当にスーツの男たちが?」
「間違いない。奴らが六つ目に触れた痕だ」
その痕跡は円形で、中心に空白がある。
だが蓮司は、その空白を見て眉を寄せた。
「……中心が抜かれている。本来ここに、“鍵”が置かれるはずだった」
里沙の胸が脈を打つ。
(鍵……私……?)
しかし、その瞬間。
封の間の奥から――微かな“風”が吹いた。
風は入口に描かれた密符へ触れ、
影がまるで《意志を持っているかのように》揺らめく。
――ザ。
石畳の影が、里沙の足元に伸びる。
蛇のように細く、静かに、確かな意思で。
蓮司の顔が歪む。
「まだ残ってやがる……!」
刀を構える蓮司と、里沙の札が反応したが――
違う。
この動きは攻撃ではない。
影は二人を避け、奥へ、封の間へと戻ろうとしている。
まるで “主の元へ帰る” ように。
里沙が低く呟く。
「……呼ばれてる。六つ目じゃない。もっと奥……もっと深く」
その時、蓮司の耳の奥で、例の声が囁いた。
《戻ろうとしている。核はまだ生きている》
蓮司だけに聞こえる声。
冷たく、分析的で、観察者の語り口。
《君たちの封は――不完全だ》
蓮司は眉を寄せ、声を押し殺す。
(……聞こえてるのか。俺を見てるのか。どこからだ)
影は封の間へ向かい、入り口の闇に溶けていく。
蓮司は一歩、踏み出しかける。
すると里沙が袖を掴んだ。
「蓮司さん。あれ、ただの残滓じゃない。核と繋がってる。奥に……何かいます」
蓮司は静かに頷いた。
「行くぞ。この場で潰す」
逃げられれば、この暴走は繰り返す。
七つ目が揺さぶられれば、里沙はまた暴走する。
そして敵は、もうここに踏み込んでいる。
蓮司が刀を構え直した時――
風もなく、森の木々が一斉に揺れた。
封の間の奥から、
冷気でも、霊気でもない。
もっと原始的な、
恐怖の源泉だけを抽出したような気配が滲み出す。
里沙の瞳が揺れ、半歩だけ後退した。
「……あれが、核の本体……?」
蓮司の目が細くなる。
「六つ目だけじゃねぇ。七つ目とも絡んでる。ここが“交点”だ」
ふたりは影の帰還した封の間へ進む。
そこには六つ目の核、そして七つ目へ繋がる何か――
そして、敵が残した目的の痕跡がある。
今、逃げずに進む以外の選択肢はなかった。
石畳の回廊は、光の届かぬほど深かった。
しかし、不思議と暗闇は完全な黒ではなく、
赤い脈動が薄膜のように壁や天井を照らしていた。
それは血潮か、それとも影が放つ熱の反復か。
里沙が囁く。
「生きている……この空間全部が」
蓮司は刀を構え、進む距離を計りつつ声を低く落とす。
「ただの遺構じゃねぇな。ここ自体が霊的器官だ。核の一部……いや、核そのものか」
やがて、通路の先に広い空間が開けた。
そこは“室”ではなく“脈動する胎内”を思わせた。
床一面に走る影の血管、
壁には網目のような紋様。
どれもかすかに赤い光を脈打ち、
その中心に——
それは“浮いて”いた。
石でも球でもない。
黒い結晶のようでありながら、
霧を纏い、輪郭ははっきりしない。
しかし中心には赤い光点がひとつ。
まるで《瞳》がそこにあるかのように。
里沙が足を止める。
胸の奥が熱くなった。呼吸が浅くなる。
(……これは……)
頭の奥で、
誰かの声が、まだ言葉にもならぬ感情が、
脈を刻むようにさざめく。
蓮司が低く呟く。
「六つ目……の核か?」
「いいえ」
里沙の声は震えているが、確信を帯びていた。
「これは……“七つ目も含んだ核”。きっと……私と、あなたが求められている理由」
蓮司が視線を向ける。
「七つ目……お前自身の影が、ここに?」
里沙は首を横に振る。
「違う。私の中の影は、ここから来た。《生み出された》のではなく……《呼び戻された》」
蓮司の手が僅かに震える。
影食の力が、核に反応して疼く。
彼の背後の黒影が、ごく薄く立ち上がった。
核は静かに、しかし確かに“生きて”いた。
存在を主張していた。
その時―——
蓮司の耳の奥で、再び声が囁く。
《核心に触れようというのか》
スーツの男の声。
《その核は、過去に封印されたものではない。未来からの投影だ》
蓮司は息を呑む。
(未来……?)
《時代の感情が行き場を失うとき、人の集団意識は“影”の形で具現する。それが七つ目——変質の予兆だ》
男の声は淡々と続ける。
《里沙本間は“器”ではない。人類の感情が集約した《受信端子》だ》
里沙の瞳が揺れる。
彼女自身もこの言葉に気づいている。
恐怖でも拒絶でもなく——理解の輪郭。
蓮司は歯を食いしばる。
「そんな理屈で里沙を使う気か。影の進化だか未来だか知らねぇが。彼女をただの端子扱いは許さねぇ」
《勘違いするな。君は“ただの護衛”ではない》
一瞬、声が柔らかくさえ聞こえた。
《君は、七つ目を制御するための“鍵”。感情を受容し、統合し、形にする唯一の存在だ》
蓮司の背後の影が息づく。
六つ目の残滓を喰ったことで、
彼自身も変質し始めている。
里沙は蓮司の横顔を見つめる。
言葉にならない感情が胸を満たす。
「蓮司さん……もし七つ目が私を飲み込む時、それでもあなたは、恐れずに側に」
蓮司は遮った。
「逆だ。俺が飲まれる時、お前が止めろ」
言葉は短く粗い。
けれど、その声には迷いがなかった。
二人の視線が交わる。
共に進むという意思。
制御でも封印でもなく、
“寄り添って共に耐える”
その道を選ぶ覚悟。
その瞬間―——
核が、脈動した。
風もない空間に、影が波のように押し寄せ、赤黒い光が壁から床へ走り、天井に達して霧散する。
核が二人を認識した。
六つ目と七つ目の交点。
蓮司の影がざわめく。
里沙の血が熱に震える。
この核を前に、逃げ道はない。
進めば終わるかもしれない。
だが進まなければ―——
世界の変質は誰かの意志で奪われる。
蓮司が刀を、里沙が手札を構える。
「―——始めよう」
封の間、その中心で。
六つ目の残滓、七つ目の核、そして“進化の意志”と向き合う戦いが、いま開帳する。
まるで――
空間ごと“息を吸い込んだ”ようだった。
音が止んだ。
鼓動も、呼吸も、衣擦れの気配すらも。
蓮司と里沙は、足元の石畳すら自分から離れてゆく錯覚を覚える。
次の瞬間――
世界が音を思い出したかのように、破裂した。
空気が裂け、壁面の影が《形》を持つ。
それは決して獣ではなく、人の輪郭でもなく、抽象と具象の中間にぶら下がる異形——
赤い脈の走った霧の刃。
刃でありながら霧。
霧でありながら、存在する“切断”。
蓮司が反射で刀を横に払う。
キィン、と金属より澄んだ音が響き——火花の代わりに黒い粉塵が散った。
「ッ、何だこの感じ……重さも軽さもねえ……!」
「蓮司さん、実体じゃない——感情の刃だわ!」
核の中心から放たれる赤黒い光は、
怒り、悲嘆、焦燥、憎悪――
人が捨てたかったすべてを凝縮した熱。
それは温度ではなく、皮膚下の神経に直接流し込まれる痛覚の幻像。
次の波、三方向から。
影は音もなく滑る。
蓮司の影が背から伸び、獣の顎のように噛み砕く。
「食えるか! これはッ!」
影食は応えた。
しかし、僅か——ほんの僅かに遅れた。
蓮司の腕をかすめた一閃。
血は出ない。
代わりに“記憶”が削られる。
走馬灯のように、幼い頃に見た景色が、焦点が、砂のように零れ落ちる感覚。
里沙が振り返ると、蓮司の目の奥に一瞬の空洞。
「今……なにを奪われた?」
蓮司は即答できなかった。
思い出そうとすると、そこに穴が空いている。
答えを探す途中、影の刃が里沙に向かって襲う。
里沙は後退し、指先で紙札を弾く。
封札が空中で裂け、赤い光をひとつ吸収して霧散。
しかし吸収し切れなかった感情の残滓が肩に触れた瞬間——
里沙の胸に、違う痛みが走る。
(……これ……私のものじゃない。誰かの絶望……顔も知らない人の……)
耳元で泣き声、叫び声、呻き、諦め。
無数の他者が「届かなかった感情」を置き去りにして消えていく。
それを核は攻撃の形に変え、放ってきている。
「これが七つ目の性質……感情の進化じゃない、感情の廃棄」
蓮司が息を荒げて叫ぶ。
「いらねぇ感情を、未来に押し付け捨ててるってのか!」
核が赤い光点を強く脈動させる。
意思か——あるいは本能か。
だが明確だった。
《拒絶》《排斥》《忘却》
その三つが、攻撃として迫る。
蓮司は構えを変える。
その影は六つ目を喰って得た形ではない。
より人に近く、背負うものの形を帯びていた。
「里沙、来い! 捨てられた感情は——受け止めれば、ただの声だ!」
里沙は息を呑み、頷く。
二人は背を合わせた。
次の影刃が奔る。
床から天井から、忘れられた感情が牙を剥く。
蓮司の影が噛み砕き、里沙の術式が抱え込み、二人の感情がそれを“形にする”。
怒りは熱となり、悲しみは水となり、焦燥は風となり、憎悪は刃となる。
核はわずかに動きを変えた。
攻撃の速度が、リズムが変質する。
《学習》だ。
里沙が震える声を絞り出す。
「蓮司さん……これ、ただの攻撃じゃない。私たちの反応を解析してる……どうすれば心が折れるかを」
蓮司は短く息を吐き、笑った。
「なら——折れないやり方で返すだけだ」
核が第三波を放つ。
鋭く、正確で、感情の本体ごと抉る一撃。
第三波の霧刃が押し寄せた瞬間だった。
蓮司の背後に立つ“影”の形が、獣から、人へ、さらに**「怒りだけを抽出した何か」**へ変わってゆく。
刃を噛み砕く度、影は形を肥大させ、ただの防壁ではなく、攻撃そのものとしてうねり始めた。
里沙が蓮司の背を見て、息を呑む。
「蓮司さん、影が……あなたより前に出てる……!」
影は主人を守るためではなく、“怒りを返すため”に動いていた。
怒りを喰うほど、怒りで形を増す。
重く、鈍く、熱を持った獣の叫び。
蓮司は歯を食いしばる。
「……ちっ、ようやく分かったぜ。こいつ、俺の意思じゃなくて俺の怒りそのものだ!」
影刃が襲う。
蓮司は受け止めた。
影は勝手に反撃を始めた。
その瞬間――
里沙が倒れる音。
振り返ると、里沙の肩や背中から薄い青い光が立ち昇っている。
それは悲しみを受け止め続けた代償。
術式が感情の質量を抱え込みすぎて、皮膚の下から血管のように魔力の筋が浮き出ていた。
「里沙!」
「大丈夫……じゃない、けど……捨てられた感情が来るたび、“誰かの悲しみ”が、私の心に沈んでいく……」
心が沈むと、身体が重くなる。
足が床に縫い付けられたように動かない。
そして――
核が、ゆっくりと形を与えられ始めた。
最初は影の塊。
次に、漂う黒い布。
顔も、四肢もない。
しかしそこには“意図”があった。
《捨てる者の形》
目を閉じ、手を背に回し、見ない。聞かない。受け取らない。
その残酷な“無関心の姿勢”が、逆に恐ろしく人間的だった。
里沙が震える声で呟く。
「……あれ、たぶん……七つ目が完全覚醒した先の“可能性”。感情を持つことをやめ、生まれたものを捨て続ける私たち。その未来の象徴……!」
蓮司の怒りが一気に沸騰する。
「ふざけんな……! 受け止めるのが苦しいからって、心を捨てて正解だと? 何も感じなきゃ、間違えずに済むってか!」
影が呼応し、黒い火花を散らす。
蓮司の怒りが影に移り、影が意思を持つ。
怒りの形をした獣が、低く唸る。
次いで、核の形が、初めてこちらを“見た”。
顔がないのに、視線だけが突き刺さる。
無関心な“否定”。
感情の無価値化。
未来への投棄。
里沙が膝をつき、苦しげに胸を押さえる。
「蓮司さん……影に任せて怒りをぶつけたら……あなたは“怒りの連鎖”の中で、形になってしまう……戻ってこられなくなる……!」
蓮司の拳が震える。
怒りを抑えられない。
影が先走る。
里沙の目が曇り始める。
他者の悲しみが里沙の感情を覆い尽くす。
互いに飲み込まれていく。
怒りに。
悲しみに。
捨てられた感情に。
核の形が滑るように近づき、その長い影を二人へ伸ばす。
蓮司が叫ぶ。
「来いよ……! 俺が“怒りで”ぶっ潰してやる!!」
その瞬間――
里沙の声が届く。
「蓮司さん――怒りで守らないで。怒りは破壊しか残さない」
蓮司の拳が止まる。
影が彼を振り返る。
怒りの獣が、主人に問いかけるように。
核が迫る。
感情の廃棄者が腕を伸ばす。
接触すれば終わり。
蓮司は激しく呼吸し、影を握り潰すように制した。
「守り方は……怒りだけじゃねぇ。」
怒りの獣が揺れ、形を失いかける。
しかし蓮司は影を背負いなおし、前に出た。
「里沙を背負うのに、怒りだけの男じゃ足りねえんだ。」
里沙がかすかに笑った。
次の瞬間――
核の影から、さらに深い影が伸びる。
怒りと悲しみを呑み込む、底の見えない虚。
蓮司と里沙の感情が飲み込まれようとする。
感情の虚へと引きずられそうになった瞬間、里沙が蓮司の手首を掴んだ。
蓮司は驚き、視線を交わす。
里沙の手は震えて、冷たく、しかし“離すつもりのない”強さだった。
里沙が小さく首を振る。
「怒りだけで守ろうとしないで。悲しみだけで背負おうともしないで。私たちの感情は、片方だけじゃ壊れる」
膝をついたまま、里沙は術式を展開する。
今まで抑え込むための防壁として使ってきた術式。
だが今回は逆だった。
――開くための術。
里沙の術式が、蓮司へ向けて解放される。
蓮司が驚いた表情で息を呑む。
「おい、それは……!」
「繋げます。私とあなたの感情を。怒りも、悲しみも、全部」
「全部って……危険だろ!」
「……危険じゃないと、もう届かない」
蓮司は息を呑む。
理解してしまったから。
怒りに任せれば核を砕ける。
だがその後、蓮司という人間は残らない。
悲しみに飲まれれば里沙は核の器になる。
七つ目の目覚めは、彼女の喪失と引き換えだ。
それなら――
感情を“半分”に割るんじゃなくて、二人で“持つ”しかない。
蓮司は短く笑う。
「……相変わらずだよな。危険な道を選ぶとき、迷いも言い訳もしねぇ」
里沙も、弱い笑みを返す。
「蓮司さんが……そうしてきたから」
蓮司は迷いなく手を伸ばした。
二人の掌が重なる。
術式が展開し、怒りと悲しみが互いの内側に流れ込む。
瞬間、
――怒りが、悲しみの形を理解した。
――悲しみが、怒りの根を知った。
《どうせ捨てられる》
《届かなかった言葉》
《言えなかった感情》
《守れなかった後悔》
強すぎれば武器になり、弱すぎれば毒になる。
だけど隣にあれば――
初めて“重さ”が均等に分散した。
蓮司の内で、影が変質する。
獣の形が、人の輪郭を帯びる。
里沙の内で、青い光が凪いでゆく。
核が二人を見据えていた。
無関心だった顔のない影が、眉のない額を、少しだけ歪める。
《……繋いだのか。不確定を恐れず、未完成のまま抱える道を選んだか。》
その声は冷たいが、どこか懐かしい響き。
里沙が息を呑む。
「……まさか、あなた……」
《ああ。七つ目が選べたはずの未来。“感情を切り捨てた後の私たち” だ》
蓮司と里沙の胸が同時に締め付けられる。
未来の自分たち。
守るために、感じることをやめた未来。
痛まない代わりに、喜びもない。
蓮司が吐き捨てる。
「てめぇは未来なんかじゃねぇ。“捨てた結果の残骸”だ」
核は揺れなかった。
ただ事実のように告げる。
《感情を持つ限り、人は失う。ならば、痛みごと切ればいい。慰めもいらない。謝罪もいらない。何も感じなければ、誰も苦しまない》
里沙は目を伏せた。
「……それは、確かに怖さからは解放される道。でも……」
顔を上げたとき、その瞳は震えていなかった。
「愛されて嬉しいことさえ、分からなくなる。それは、怖さ以上に……虚しい」
蓮司も一歩前へ出た。
「喜びのために痛みがある。守るために怒りがある。悲しみは、忘れるためじゃなく、刻むためにある」
《刻んで、何になる?》
「次に同じ手を、迷わず伸ばせる」
《また失うかもしれない》
「それでも伸ばす」
蓮司は迷いなく言い切った。
「俺は、里沙の手を離さない。たとえ未来で後悔するとしても。後悔できる自分のままでいたい」
里沙の目に涙が光る。
悲しみで泣くんじゃない。
痛みに潰されて泣くんじゃない。
――愛に触れた涙。
核は静かに沈黙した。
そして、ゆっくりと腕を下ろした。
《ならば証明しろ。感情を持ちながら、なお、歩き続けられることを》
核の気配が変わる。
拒絶でも攻撃でもなく、“選別”するような静かな力。
最後の試練が始まった。
蓮司と里沙、二人の共有が試される。
感情を抱えたまま前へ進む道。
核の影は形を変え、人ともつかぬ、しかし“自分たち”にも似た輪郭へと収束していた。
声は淡々と、そして残酷なほど無機質に響く。
《では問う。愛した者が、先に壊れると知っていて、それでも手を取るか》
里沙は息を吸い、迷いなく答えた。
「取る。壊れるほどの感情が――もう、あるから」
蓮司は横で静かに頷く。
核の声は続く。
《二つ目。己の選択が、相手を傷つけると理解しながら、なお選べるか》
蓮司は眼を閉じて、低く言った。
「もう選んだ。俺の影も、俺の後悔も、全部見せて、それでも隣にいたから」
《三つ目。それでも別れが訪れたとき、それを受け入れられるか。憎しみを抱かず、感情の終焉を許容できるのか》
里沙は苦しい表情を浮かべる。
蓮司も言葉が詰まる。
この問いだけは、核心だった。
核は淡々と突きつける。
《愛の終わりを“喪失”として受け止める限り、感情は刃となる。ならば初めから捨てればいい――最初から、終わらなければいい》
沈黙。
里沙は唇を噛み――震えながら、言った。
「失うのは怖い。終わりは怖い。……でも、それは悲しむだけじゃ終わらない」
核の視線が里沙に注がれる。
「愛した分、確かに残る。その人の言葉も、仕草も、生き方も。“この人を愛した”という事実は、終わりでも奪えない」
蓮司も静かに続けた。
「失っても、残る。それが痛みで、同時に形だ。無くならねぇ。だったら最初から捨てる方がよっぽど虚無だ」
核は黙した。
だが、空気が変わった。
拒絶ではなく、理解に近い揺らぎ。
《……納得はしない。だが理解はした。感情を持った上で歩むというのなら――》
その時。
封の間の奥から、乾いた革靴の音が響いた。
――コツ。
――コツ。
淡い霧を割り、男が現れる。
黒いスーツ。
タイは乱れず、表情は人間の温度を感じさせない。
そして蓮司の頭の内に聞こえた声の主。
スーツの男は一礼し、核に向けて静かに手を伸ばした。
「――ようやく辿り着いた。これで“収集”は完了だ。」
蓮司は刀を構える。
「テメェ……俺たちの試練を利用して――何をする気だ」
男は笑わない。
しかし、微かな満足の色だけが瞳に宿る。
「核は感情によって安定した。不確実なものを抱えたまま存在できる形に。君たちが示した。“証明”だ」
里沙の顔から血の気が引く。
「まさか、最初から……私たちに、感情をぶつけさせて……?」
男は淡々と告げる。
「核は不完全だった。六つ目は力を求めて滅び、七つ目は感情を抱えて暴走した。だが――」
男の指先が核へ触れようとする。
「感情を抱えたまま制御できる核。それこそ、我々《影連》が求めていた理想だ」
蓮司が前へ飛び出す。
「ふざけんなよ!」
男の指先が核に触れる。
瞬間――
封の間全体が黒い波動に覆われた。
男の声が淡々と告げる。
「七つ目を“鍵”とし、六つ目の残骸を“土台”とし、今――とうとう、新たな“影の核”が誕生する」
男のスーツが揺れ、背から黒い文様が拡がった。
それは人間の影ではなかった。
影連が代々受け継いだ、不可視の紋章。
――利用するでも破壊するでもない。
――新たな“支配の力”として。
スーツの男は振り返り、初めて笑った。
「さて――君たち。感情で世界を救うか? それとも、感情ごと世界に飲まれるか?」
封の間の核が脈動し、世界が揺れる。
試練は終わっていなかった。
むしろここからが、「新しい局面の始まり」だった。
火花のように霊子が散り、壁面の御符が焼け落ち、影の奔流が空間を食い荒らす。
核は、巨大な裂け目となり、世界の裏側――“影の層”がむき出しになっていた。
蓮司は里沙の手を握りしめて踏みとどまっていた。
七つ目の力が覚醒した里沙の瞳は深淵色。だが――意識はまだ、里沙だ。
「里沙、俺を忘れるな。影じゃなく――お前自身の声で呼べ」
「蓮司……ここにいる……私は……私で――」
その瞬間。
空気が、止まった。
黒いスーツの革靴が瓦礫を踏んだ音だけが響く。
影の裂け目から、ぬっと“外”へ這い出すように、男が姿を現す。
黒いスーツ。無表情。血管一本浮かばぬ冷たい顔。
スーツの男「間に合った。七つ目が完全覚醒した状態で“核”が開くなど千年に一度もない」
蓮司は身構える。
「お前は誰だ。影連の者じゃない――何を企んでる」
男は軽く笑った。まるで事務処理の確認を終えたビジネスマンのように。
「私の仕事は、“影の進化の完遂”。古き憎悪、封印、争い――もう時代遅れだ。七つ目は、従来の“破壊”でも“浄化”でもない。統合。世界を書き換える鍵だ」
里沙の身体が脈動し、黒い光が漏れ始める。
「身体が――勝手に……いや、意識が……引きずられる……!」
男は里沙を見据えた。
「恐れるな。君は人を超える。感情、記憶、個……すべて溶け合い、境界なき存在へと昇る」
――それは、進化か。
――それは、救済か。
――それは、廃絶か。
蓮司は里沙の前へ踏み出した。
「境界を無くす? 感情を捨てる? それで何が残る。その“進化”に里沙の幸せはあるのか!!」
スーツの男は眉ひとつ動かさず答える。
「人の幸せは、常に苦悩と表裏一体だ。私は“苦悩の根”――感情の断絶を削除する。世界は均衡し、戦いの時代は終わる。私はそれが正しいと信じている」
蓮司は叫んだ。
「信じてる? お前みたいな無表情が、何を“信じる”って言うんだよ!」
男の目が初めて微かに揺れた。
「私は感情を捨てたわけではない。感情に、人生を破壊された」
その一言に乗る温度は、氷のように冷たく、逆に人間臭かった。
だが男はすぐに無表情に戻る。
「恩人を救えず、家族を守れず、仲間に裏切られ……結論は明白だった。人の感情が、人を殺す」
影の核と七つ目の脈動が共鳴し、闇の風が吹き荒れる。
里沙の瞳は再び影の色に染まり始めた。
蓮司は、拳を硬く握りしめた。
「――だからって。誰かの未来を決めていい理由にはならない。俺と里沙の未来は、俺たちが決める!」
スーツの男がゆっくりと腕を上げた。
まるで 「では証明しろ」 と告げるように。
「ならば――力で語れ。世界の選択を、感情の未来を。七つ目は私が導く。お前が本当に“彼女を止める力”を持つというなら――」
影が渦を巻く。
封の間が闇に飲まれるほどの、巨大な影の顕現。
「――証明してみせろ。“愛”とやらで」
決戦の幕が、静かに、しかし凶暴に、開かれた。
封の間は既に限界を越えていた。
黒い霊子が吹雪のように舞い、床はひび割れ、空中には裂け目がいくつも浮かぶ。
――現実が軋む音がする。
七つ目――里沙の内側から漏れ出る“影の権能”が暴走し、スーツの男が纏う影の装束はその力に呼応して膨れあがっていた。
「七つ目の影――統合の究極。感情の断絶も、記憶の束縛も、すべて越える鍵だ。君が手に入れれば、人類は変わる。戦争も、憎悪も、嫉妬も――終わる。“愛すら必要なくなる」
蓮司は震える拳を握りしめた。
「終わらせなくていいものもあるだろう! 感情が苦しいのは、それが大事だからだ!」
男の目が揺れた。
「――大事なものほど壊れる。壊れるくらいなら、最初からなければいい」
その瞬間。
影が槍となって蓮司へ殺到――!
蓮司は結界符を投げ、影槍を逸らす。
床が深く抉れ、飛び散った瓦礫が空中で黒い霧に変わる。
戦闘が始まった。
蓮司は符を連鎖的に起動させ、足場と防壁を生成。
その中心に里沙を背負う形で立つ。
だが――次の瞬間。
里沙の意識が、ふっと暗転した。
そして――“別の世界”が目の前に広がる。
蓮司の視界は白く霞み、気付けば夕暮れの河川敷に立っていた。
聞き覚えのある景色。
二人が初めて心を通わせた、あの場所。
そこに、制服姿の里沙が立っている。
普通の笑顔。
影も、封印も、覚醒も関係のない――自然な笑顔。
「蓮司くん。あのね……もし――“最初から影がなかったら”、私たちってさ」
蓮司は胸を締め付けられる。
これはスーツの男が見せている“可能性”。
感情を切り捨てないが、“影の痛み”だけを消した未来。
「普通の恋、できたかな。怖がらず、言えたかな。『好き』って」
蓮司は唇を噛んだ。
「……それは、確かに幸せかもしれない。影のせいで傷つかなければ、泣かなくて済めば、お前も俺も――」
幻の里沙がそっと手を伸ばす。
「――なら、悲しみも苦しみも捨てて、来てよ。“私が傷つかない未来”へ」
蓮司の意識が揺らぐ。
だがその場の空気を切るように、別の声が響く。
本物の里沙の声。
『蓮司、来ないで。“それは私じゃない”』
幻影が微細に崩れ始める。
蓮司は静かに笑った。
「影があったから、お前は泣いて、怒って、迷って――それでも前に進もうとした。俺は、それを“里沙”って呼んでる」
幻が、悲しい表情で揺らいだ。
「……バカだよ、蓮司くん。苦しい恋を選ぶなんて」
蓮司は即答した。
「苦しい恋じゃないと――“本気じゃない”んだよ」
幻影が完全に崩れた。
精神世界が砕け散る。
蓮司の意識が現実に戻る。
スーツの男の拳が迫る――蓮司は結界符を展開し受け止める。
「幻影を破るか……。だが――七つ目は既に堕ちたはずだ」
蓮司は息を切らしながら、静かに笑った。
「堕ちてなんかいない。影も痛みも背負ったまま――自分の意思で立ってる。」
その背後。
七つ目の力に支配されかけていた里沙が、
ゆっくりと立ち上がる。
黒い影の光が消えずに――しかし、暴れていない。
“制御”ではない。
“拒絶”でもない。
共存。
男が初めて目を見開いた。
「感情を断たずに、七つ目を制御……? そんなことは――理論上、ありえない!」
里沙は蓮司の背中越しに言う。
「私は影に選ばれた。でも――蓮司に“選ばれたい”って思った。その気持ちを捨てるのは、進化じゃない」
蓮司は一歩前に出た。
「だから――終わらせる。お前の進化じゃない。俺たちの未来を進む」
影が空間を震わせる。
男は拳を握り、静かに構えた。
「なら、最終段階だ。七つ目の完全解放――感情の未来、どちらが正しいか。“力”で決着をつける」
蓮司と里沙が動く。
男の影が襲いかかる。
蓮司と里沙の視界が反転し、色が消えた。
音も、重力も、世界の輪郭すら失われる。
――白と黒だけの世界。
その中心で、スーツの男だけが鮮明に立っていた。
黒いコートの裾、結んだ口元、整えられた髪。
だが、その影が地面に落ちていない。
「ここは……?」
蓮司の声は吸い込まれ、音にならなかった。
代わりに、世界自体が囁いた。
“これは俺が捨てた全てだ”
声の主――もちろん、スーツの男である。
足元に、影がゆっくりと形を帯び始める。
それは 幼い男の子の影だった。
ランドセルを背負い、手には折れた傘。
「これ……あなた?」
少年の影は笑っている。
ただ、笑みの形が “固定” されたまま動かない。
「俺は生まれつき“視えてしまった”。影の濃い人間ほど。嘘をつき、妬み、嫉妬し、裏切る気配が――全部、色で見えた」
世界に色が差す。
人の輪郭が赤、緑、紫、黄、青に滲む。
それは憎悪、嫉妬、殺意、虚栄、本音。
幼い男はただ怯え、泣いていた。
しかし、声は出ない。泣き顔も動かない。
「感情を読まれるのが怖い」
「笑えばいい」
「笑っていれば傷つかない」
少年の影は、“笑顔の仮面”を貼り付けたようだった。
「両親は愛してくれた。だが俺は、愛された瞬間に “失う未来” が見えた。愛は必ず悲しみに変わる。だから――要らなかった」
夕焼けに染まった記憶の風景が広がる。
少年が手を伸ばす。
隣に、幼い女の子の影が立っている。
小さな初恋の面影。
手を繋いだ瞬間――彼の視界には、その少女の死の影が映った。
冷たい雨。
白いシーツ。
泣き崩れる家族。
少年の呟き――
「俺のせいだ」
蓮司は拳を握る。
里沙は息を飲む。
「その時、理解した。“感情は、災害だ”。喜びは期待を招き、期待は裏切りに変わり、裏切りは憎悪へ転じる。なら、最初から“感情などなければいい”」
少年が成長していく。
葬儀の黒服から、研究機関の白衣へ、そして、現在のスーツ姿へ。
「七つ目の影――感情の根源。これが世界から消えれば、誰も、誰かを失わずに済む」
里沙が震えた声で言う。
「それでも……それでも、失うのが怖いから“いらない”なんて――」
男は静かに視線を向ける。
「君は七つ目。感情の象徴。俺を否定する材料にはならない」
蓮司が、踏み出した。
精神世界の床が波紋のように揺れる。
「……確かに感情は逃げたくなる。裏切られるかもしれない。恐くて、傷ついて、後悔する。……でも」
蓮司は笑った。
「“それでも好きだ”って気持ちがあるから、俺たちは前に進めるんだろ?」
里沙が横に並ぶ。
涙ではなく、強い眼差しで。
「消してしまったら、伝えられない。“ありがとう”も、“ごめんね”も、“好き”も」
世界が軋む。
精神世界の空に亀裂が入る。
スーツの男が初めて揺らいだ。
少年の影が、ゆっくりと顔を伏せる。
「……なら、証明しろ。感情が悲しみに変わる前に。憎悪へ塗り潰される前に。裏切りで壊れる前に。――それでも、価値があると」
蓮司と里沙は頷いた。
白黒だった景色に、色が戻り始める。
戦場は変わらない。
ただ――戦う理由が、互いに露わになった。
スーツの男の精神世界が崩れる。
白と黒の空に、赤――青――緑――紫――黄色――
感情の色が溢れ、渦巻く。
――怒
――愛
――嫉
――詫
――哀
――希
――恐
色が形を持った。
人の腕、人の顔、獣の牙、翼、涙、笑顔。
それらすべてが繋がり、絡まり、巨大な黒い塊となって蠢く。
名も、理性も、境界もない。
ただ、むき出しの“感情”だけが実体化した怪物。
影核暴走、感情の集合体
《ア゛アアアアアアアアアァァァァァァ!!!!!》
悲鳴でも叫びでもない。
感情そのものの咆哮。
蓮司が歯を食いしばる。
「……これが……感情の本当の形かよ」
「違う……これは俺が求めた姿じゃない……感情を捨てたはずの俺の“恐怖”が……?」
男の影から、黒い涙が流れていた。
「あなた……感情を捨てたんじゃなくて、閉じ込めただけ」
アマルガムが触手のような感情の腕を伸ばす。
怒りの赤、後悔の青、嫉妬の緑、憎悪の紫。
色ごとに効力が違う。
触れれば心が侵され、人格が飲まれる。
蓮司は刀を構えた。
刃にも、影が纏う。
「影食の力……感情を喰らうためにあるなら、ここで使う」
「蓮司さん、駄目! あれ全部、一人の心で受け止められる量じゃ――」
蓮司の影が獣の形に膨れ上がる。
“蓮司自身の後悔、怒り、憎しみ”が応じてしまう。
アマルガムの一撃が空間を抉る。
意志や重量でなく、感情の重さで押し潰す。
里沙は札を展開するが――色の洪水で札が焼け落ちた。
「浄化できない……だって“善悪の形”じゃない……敵にも味方にも分類できない――感情そのもの」
蓮司が押され、膝をつく。
怒りの赤が蓮司の胸に入り込む。
視界が赤い霧に染まり、
《許せない――許せない――裏切られた――もう信じない》
頭の中に声が溢れる。
蓮司の呼吸が荒くなり、刀が震えた。
「くそ……思い出させんな……俺は……俺はもう……」
里沙が蓮司の肩を掴む。
彼女の瞳が揺れる。
震えて、しかし逃げずに向ける。
「蓮司さん。怒っていい。悲しんでいい。それでも、止まらなかったから、今ここにいる」
蓮司の中の赤い声が少しだけ弱まる。
アマルガムは形を変えながら、再び迫る。
今度は“愛” の白い触手。
優しい温度だが――溺れるほど甘く、離れられない束縛。
「それだ……それが全てを狂わせる……愛は裏切りに変わる……」
里沙が一歩前に出た。
「違う。愛が壊れるからといって、最初から無かったことにはできない」
白い触手が里沙に絡む。
しかし、彼女の霊力はそれを拒まなかった。
“愛を抱きながら、手放す痛み”
その感情が、触手を静かに霧へ変えた。
アマルガムが轟く。
《ナゼ……ワレラヲ……否定シナイ……?》
里沙は微笑む。
「否定なんてしていない。あなたは私たちの一部。でも、全てじゃない」
蓮司が立ち上がる。
刀を構えなおす。
影が、もはや獣ではない――人の姿に戻っていた。
「行こう。飲み込まれるんじゃなく、受け止めて――越える」
アマルガムが空間全体を揺らし、全ての感情の音が重なり、世界を飲み込もうとする。
蓮司と里沙は並び立つ。
「感情があるから傷つく。でも――」
「感情があるから、繋がれる。だから――」
二人同時、声を重ねる。
「――私たちは、感情と共に、生きていく」
二人の霊力が合わさり、
影と光が融合する。
アマルガムが咆哮を上げ、
最終の衝突が始まる。
崩れゆく白の空間に、色が戻り始める。
虚無のような沈黙の世界に、かすかに音が満ちていく。
鼓動――息――震え――。
感情の残滓が粒子となり、光でも闇でもない、ささやかな“温度”として漂う。
スーツの男――否、アマルガムを操っていた男の意識は砕け、己の後悔、怒り、喪失、願望が、独立した影として霧散していく。
彼が最後に残した“言葉”だけが、二人の耳に残った。
「……消してくれ……俺たちを……縛りから……」
「感情は……生きた証だろ……?」
蓮司はゆっくりと目を閉じ、小さく頷いた。
里沙の手が、確かに彼の袖を掴む。
「――蓮司。怖いの、まだある。でもね、逃げたくない。この気持ち、触れて、選びたい」
彼女の瞳は、もう“七つ目の影”ではなかった。
里沙としての、ひとりの女の意志だった。
蓮司は正面から、はじめて真正面に彼女を見て、言う。
「影に喰われようと、過去を背負おうと。俺は――里沙を選ぶ。感情は、失うためじゃなく、渡すためにあるんだろ?」
影核――アマルガムが、ひび割れ始める。
両者の言葉が、選択となり、命令となり、
決別の刃として核へ突き立つ。
光は轟音もなく、ただ静かに、“感情の檻”をほどくように、結界を解体していった。
怒りが消えるのではない。
喪失が無くなるわけでもない。
悲しみは悲しみのままそこにある。
ただ――それらに名前をつけていい自由が戻った。
影核は崩れゆき、最後は人の胸ほどのあたたかな光となって、二人を包むと、ふっと消えた。
世界は、静かに呼吸を再開した。
人の心から生まれる闇も光も、もう“七つ目”として束ねられない。
それぞれの感情が、個として自由を取り戻した。
蓮司が息を吐き、里沙が肩を預ける。
「終わった……のかな?」
「まだ始まり、じゃないか?」
崩壊していた空間に、本当の空が広がっていく。
差し込んだのは朝焼けでも夕暮れでもなく、ただ二人の未来の色だった。
――感情とは、戦うための武器ではなく、誰かの手を取るための証。
蓮司と里沙は、影の残滓が消えていく中、握った手をほどかなかった。
感情の自由は守られた。
そして二人の感情は、ようやく向き合うための場所へ辿り着いた。
世界は――静かだ。
影核が暴走し、七つ目が覚醒し、感情そのものが世界を飲み込もうとしたあの夜。
誰も、知らない。
なにひとつ、記録にも残らなかった。
人々は日常を歩き、通勤電車はいつも同じアナウンスを流し、子どもたちは学校で笑い、どこかの誰かが恋をし、擦れ違い、また出会う。
世界は何事もなかったように時を刻んだ。
――ただ一箇所を除いて。
鬼塚探偵事務所。
古びた外階段を上がると、すぐ横を電車が通り抜ける。
窓ガラスは震え、やかましい音が空気を震わせる。
「毎朝、同じ音ね」
里沙がカップにコーヒーを注ぎ、揺れる液面を見て微笑む。
「静かすぎるよりは、落ち着く。……慣れたけどな」
蓮司が書類を整理しながら答える。
視線が自然に彼女のほうへ向かう。
そして、視線を逸らす前に――逸らさなくてもよくなった。
あの闘いの後、言葉にするまでもなく、二人の距離は埋まった。
握った手を離さずに帰り、離さずに歩き、離さずに日常へ戻った。
今は隣に、普通にいる。
里沙が、カップを置いて言った。
「……蓮司」
「ん?」
「怖がってたの、私だけじゃなかったんだよね」
正面から向けられた瞳。
あの夜と同じ強さと、違う柔らかさ。
「そっちこそ、よく言えたな。俺だって怖かったよ。里沙が遠くなるのが」
里沙は小さく笑い、少し照れて視線をそらした。
「……ちゃんと聞こえたから」
蓮司も同じように視線を落としながら、言う。
「なら、もう隠さない」
「うん」
世界には記録が残らない。
けれど二人の記憶に残った言葉と選択は、消えない。
依頼のチャイムが鳴る
カラン、と小さなベルの音。
ドアが少し開き、不安げな顔の少女が立っていた。
「……人が、消えるんです。夢の中で名前を呼ばれて……目が覚めたら、いなくて」
蓮司と里沙は、短く顔を見合わせた。
里沙が、探偵事務所の看板を指差す。
【鬼塚探偵事務所】
――あなたの“見えない問題”解決します。
蓮司が立ち上がり、少女に声をかける。
「話を聞かせてくれ」
里沙はコーヒーを一口飲んでから、
いつものコートを羽織り、蓮司の横に並ぶ。
「行こう、蓮司」
「ああ、相棒だからな」
少女は息をのみ、二人を見比べる。
あたたかな陽射しが差し込み、冷たい空気に光の粒子が浮かんでいる。
外に出ると、街の音。
電車が走り、自転車がベルを鳴らし、誰かが笑う。
世界は何事もなかったように動き続ける。
それでも。
感情の影は、人の数だけ生まれる。
蓮司と里沙は、影を知る者として歩き始めた。
恐れと希望を両手に携えながら。
新たな影へ――
新たな物語へ――
「感情の自由」を掲げて。




