【他者視点】旅は道連れ世は腐れ縁(田沼意次)
お待たせしましたです。遅れに遅れてしまいましたが、田沼意次最後の大仕事でございます。
<西の丸大奥>
「私に退けと仰せか」
「左様」
「老中首座たる主殿頭殿が使い走りとはのう。落ちぶれたものだな」
「ああそのことだが、某は隠居することといたした。今はまだ老中首座であるが、いずれ代わりが就くこととなる」
「なんですと……」
儂はこの日、西の丸大奥へ足を運んだ。表向きは正式に隠居が決まったことを大御所様へご報告するためだが、主題はこちらの用件だ。
立つ鳥跡を濁さず。老中首座として最後の大掃除だ……
「高岳殿も身奇麗とは言い難い。なにしろ新たな老中首座は清廉の士であるから、汚れが見つかればすぐさま掃除されることとなろう。ここで身を退くが最善かと」
「……そうやって裏で手を回して、自身の気に入らぬ者を除くような男のどこが清廉の士じゃ。聞いて呆れるわ」
「気に入らぬようなことをしたからではありませんかな」
「私は何も間違ったことを申した覚えはない」
かつて大奥で権勢を欲しいままにした高岳だが、松平越中守を老中に任じるという話には断固反対の姿勢であった。
老中に任じるのは譜代大名に限るという不文律が公儀にはある。白河藩久松松平家は譜代大名であるから問題はないが、越中守は将軍一門たる田安家の出であり、老中になることで実家の意向が幕政に反映されてしまうこととなり、これまでの慣例に反し認められるものではない。大奥が噛み付いたのはそういう理由であった。
もっともその真意は別にあり、かつて大奥の規模縮小を推進した吉宗公を崇敬し、かつ自身も質素倹約を旨として白河を飢饉から救った越中守が老中になれば、幕政刷新の一つとして間違いなく大奥の金回りに関することに手を付けてくるだろうから、それを避けたい意図があったのだろう。
結果としてその懸念はあながち間違いではなかったが、別に越中守でなくとも大奥の金使いの荒さは長年の懸案であったし、政を改めるという機運の中で、誰が首座になろうとも変わることはなかったな。しかもそれを上様が支持しているとなれば尚のことだ。
「奥は上様の御世継を儲ける大事な場。それをぞんざいに扱えば御公儀の体面に関わるというもの。それが分からぬわけではあるまい」
「お主がぞんざいに扱われておると感じている奥にて、御台様は御懐妊あそばされたがな」
「なっ……」
湯水のように金を使い、見てくれだけ絢爛豪華にしたところで子が生まれるわけではない。上様や御台様、いずれは側室も加わることになるかもしれないが、大事なのは子の父母となる者たちが心穏やかに暮らせる環境であることが一番だと、ある者が申しておった。そのために金が必要なこともあるだろうが、足りないなら足りないなりに頭を使って工夫すればよいだけのこと。上様の御世継を儲ける大事な場だと言うのなら、現に御台様は今の状況にあって御懐妊の運びとなったのだから、大奥の体面は十分に保たれていよう。
「これまでのしきたりや慣習にも見るべきところはあろうが、その反面無駄も多い。若い者たちは如何にすれば体面を損じることなく無駄を省けるか、新たな公儀と奥のあり方をどのように致すか。それを模索しておる最中じゃ」
「最早我らの出る幕ではないと申すか」
「その通り。故に勇退という形で身を退かれることをお勧めする」
「何を申すかと思えば……主殿頭殿が隠居なさるのなら勝手にすればよい。どうして私まで一緒に退かねばならぬと申すか」
「真にそれでよろしいのか?」
治部を斬ったのは佐野善左衛門という番方であるが単独での凶行とは考えにくく、内々に背後関係を調べていたが、甲府勤番という閑職から戻されたのは伊奈の息がかかった者の手引きであった。
「素行不良として甲府勤番を命ぜられた佐野が、何故早々に江戸に戻ってこれたのでしょうなあ」
「それをどうして私に聞く」
「以前より伊奈は大奥に根回しするのが好きでしたからな」
「……奥が関与していると言いたいのか」
「さて、どうでしょうな。そうそう、奥に関してはもう一つ面白い話がありましてな」
それは先日あった市中での打ち壊し騒ぎだ。
町では公儀が値を釣り上げるために米屋と結託して意図的に米を市中に出さないとか、それを主導するのが治部だという根も葉もない噂が飛び交い、それを惑わされた町人たちが米屋などを襲うという蛮行に至った。
どういう経緯かは定かでないが、たまたま通りかかった長谷川平蔵がそれを鎮めて大事には至らなかったものの、その後町奉行所により、意図的に流言を流布していた瓦版屋や米屋などが調べを受けた結果、誰かに唆されたという結論になった。
「それらの商人や版元、奥の者ともかなりの取引があるようですな」
「取引をする者など掃いて捨てるほどおりましょう。先程から何なのじゃ。まるで我らが仕組んだとでも言いたげな物言いではないか。確たる証拠があるとでも?」
「証拠はある。作ればいくらでもな。先程申した通り、高岳殿も身奇麗ではありませんからな」
「主殿頭……其方……」
高岳は西の丸付きに移され権力の座から引きずり降ろされたとき、儂が庇わなかったことを恨んでいたようだが、本当に斬り捨てるつもりがあるなら、西の丸とはいえ御城内に居場所を残すわけがない。少なくともこれまでの長年の功労に報いた処遇であるのだ。
権力の後ろ盾が上様しかいなかった儂が老中として政を担うにあたり、大奥の助力は欠かせぬものであったから、そういう意味では恩義がある人物だが、それはあくまで幕府の安泰を願ってのことで私利私欲のためではない。利己に走り御政道を乱すような真似をするのならば、斬り捨てるしかあるまい。どんな汚い手を使おうともな。
しかしそれを次の世代に担わせるわけにはいかんのだ。彼らもいずれ自らの手を汚す機会がくるだろうが、これに関してはその元を作った者が手を下すのが筋というものよ。
「世間は清廉の士と見ておるが、先程自身で申された通り、越中守も田安公も必要とあれば労を厭わぬ方々。儂が身を退いて後にどうなろうとも何もしてやれぬゆえ、今のうちに退けと申しておる。これが儂がしてやれる最後の助力と心得られたい」
「利用するだけ利用して、使い道が無くなれば斬り捨てる。それがお主のやり方か」
「それはそちらも同じであろう。持ちつ持たれつ、それが儂とお主の関係。かつてはそれが御公儀をお支えするに欠かせぬものであった故に許されたことやもしれぬが、今は時代が変わったとしか言いようがない」
御公儀の御為とはいえ、儂も後ろ暗いことは多々ある。本来ならそれらの咎を受け、放逐されるような形で城を去ることになってもおかしくはなかったが、上様は儂の過去は水に流し、引き続き励めとお命じになられた。それは次の世代への引き継ぎという意味もあるが、それ以上にこれまでの汚点を表に出したくないのだ。
それは臭いものに蓋をするということではない。一橋の跳梁跋扈により、御公儀の威信に陰りが見え始めたときに、前任者を処分するような政変に近い形での権力移譲となっては余計に騒ぎが広がりかねない故の配慮だ。儂が老中の任に据え置かれたことで基本的な政策は継続しつつ、越中守などの若い世代が幕閣に名を連ねることで新たな風を吹かせる。そして機を見て儂が身を退けば、自然な形で代替わりを果たすこととなる。
これは大奥も同様である。御台様を中心に新たな世代が奥の差配を行い、お世継ぎ誕生の期待が高まる中で、家治公時代の古い世代に出る幕は無い。高岳をはじめとしたこれらの世代の者たちは、誰もが脛に傷の一つや二つはある者ばかりであるから、その罪を蒸し返して追い出すことも出来るが、特段の支障もなく代替わりをしたと見せるのは、古い世代に大人しく引き下がってもらうほかないのだ。
「もし、否と申せば」
「高岳殿の御想像通り、決して明るい余生とはなるまい」
「私がこの謀議を外に漏らすとは考えぬのか」
「そのときはそのとき。されど其方も徳川大事で勤めあげて今の地位におる身。主家の恥部を晒すどころか、己の所行も明るみとなろう。晩節を汚すような行いはなさらぬほうがよいと考えるが」
「大人しく退けば過去のことは蒸し返さぬと」
「其方には伊達家に建ててもらった屋敷があろう。そこで慎ましく余生を過ごされよ。されば何も問題は起こらん」
「相分かり申した」
高岳はそれ以上何かを抗弁することはなかったが、様子から察するに了承したと受け取ってよいだろう。
「しかし、身を退くのが主殿頭と一緒とはのう……」
「この年寄りと道連れは御不満か」
「不満ですわね。まさかここまで腐れ縁が続くとは思いませなんだ」
「旅は道連れ世は情けと申す。これもまた我らの縁であろう」
「旅とは? まさか冥土まで道連れにするおつもりか。さすがにそればかりは主殿頭殿が先に一人でお逝きなされませ」
相変わらず口が悪い女だ。だがその気性があってこそ御年寄を務めあげられたのは事実であるし、なにより家基公がお生まれになったのもこの女の助力があればこそ。
だが、その役目もこれで終いだ。後は若い者たちに託すことといたそうではないか……




