不易流行
「我らの振る舞いが如何にして帝の御為になるのでしょうか」
「帝の御為にと敢えて意識を向けずとも良いのです。己の成すべきことを過たず成す。それだけにございます」
「一体何をすればよいのでしょうか」
「それは人それぞれ。としか」
尊号の話は一旦落ち着いたものの、俺の考えた尊王に触れ、水戸の治紀殿たちが具体的な事例をもって教示願いたいと言ってきたけど、そんなものはケースバイケースである。
ここにいる若者たちはいずれそれぞれの藩や家を継ぐ立場には変わりないので、その成すべきことと言えば領地をつつがなく治めることになる。民の暮らしが安定すればそれは国家の安寧につながり、ひいてはこの国の主たる帝の立場も揺るぎないものとなる。
そういう意味で、彼らの成すべきこと、目指すものは似た方向であることは間違いないが、石高も家臣領民の数も違えば、財政やインフラにも差はあるので、そのプロセスは一律にこうすればいいよという話にはならない。だからこそ色々な学びを得ていってもらいたい。
未来の学校教育でもそうだが、義務教育(令和の頃は高校もそれに近いが)ではあらゆる教科の基礎知識を学ぶ。ときに微分積分とか古文なんか何の役に立つんだよとか言う人もいるけど、学んだ者が後にどういう道へ進むか分からない以上、その選択肢を可能な限り増やすために必要なことだと個人的には思う。
まあ……若い頃はそんなことに思いは至らなかったので、年を取ってから「あのとき学んでおけば……」なんて後悔することはままあるし、新しい技術や知識が出て置いてきぼりにならないようにしたくても、若い頃に学ぶ習慣が無いと新たな知識の習得が苦痛でしかないんだよな。
少し話が逸れたが、そのために彼らは俺のところに学びに来ているのだからな。
「それぞれの領内がどのようになっているか。それはこの江戸においても知ろうと思えばいくらでも調べることは出来まする」
「そこで各々がまず成すべきことを見い出し、解決の道を探ると」
「その通り。そこを見い出し、如何に成していくか。学びとはその方策を生み出すための準備にございます」
「先生はそれを蘭学に求めたわけですね」
「左様。然れども、古来よりある学問を軽んじているわけではございませぬ」
徳川幕府は武家の政権ではあるが、武をもって制するというやり方をしていたのは初期だけであり、以降は基本的に法によって国を治めている。
法を定めるのは将軍、そしてその家臣である老中などの幕閣であるから、未来で言うところの法治国家の概念とは違う。法を守ることで世の中の仕組みを正しくするという目的に変わりはないが、正しくする対象が国民にとってか、徳川幕府にとってかという違いだな。
これは元を正せば、古代中国の法家思想につながるものであると思う。人は基本的に悪だから、法によって縛りをかけねばならないというアレだ。となると、為政者の徳によって国を治めると謳う儒教とは相反するものなのだが、この国では儒教、とりわけ朱子学を重要視する傾向にある。
今は吉宗公の改革から田沼公の重商主義政策の推進などもあり、朱子学を重んじる風潮は廃れ始めているが、それでも武士の学問として未だ学ばれているように、国全体に儒教の教えは浸透しており、これを無視することは出来ない。
俺も幼い頃は四書五経を読んだし、君臣や親兄弟、社会との関わりなどで道徳的な教えとして役に立つ内容も含まれていることは知っているが、具体的に何をするかという点においては抽象的すぎるので、そこは蘭学をはじめとする実学の出番となるが、ここで肝心なのは根強く残る儒教思想とのバランスだな。
個人的に統治は法を絶対のものとして、国家権力の行使が恣意的なものでないようにすることが理想だけど、あまりにもその考えを強く押し通せば、秦の始皇帝よろしく家臣領民の反発は必至。だからこそ孫子の兵法にある「敵を知り……」ではないが、儒教の教えもよく理解しつつ、なるべく衝突しないように事を成そうとしている。軽んじているわけではないというのはそういうことだ。
「皆は不易流行という言葉を知っておりますかな」
「ふえき……りゅうこう……ですか?」
「松尾芭蕉という、今から百年ほど前の俳人の言葉だそうにございます」
松尾芭蕉といえば「おくのほそ道」が有名だが、この不易流行という言葉は、芭蕉の弟子である向井去來という人物が、師匠の俳諧の心構え等をまとめた論書「去來抄」の中にある一節である。
文中では『不易を知らざれば基立ちがたく、流行知らざれば風新たにならず』と記されており、その意味するところは、『変わらないもの(不易)を理解しないで基礎は成立しないが、変わるもの(流行)を理解しなければ進展はない』というものである。芭蕉は俳人だからもちろん俳句における心構えを説いたものではあるが、それ以外の世界でも通じる理念ではなかろうか。
「我らが帝を敬い、国を安んじるために働く。その理念は昔から変わるところではなく、つまりは不易。さりとて世の中は日に日に変わりゆくものであり、そこでの流行を読み取らねば先に進むことは叶いませぬ」
「我らの帝を敬う心は変わらぬが、法は守っていただかねば国として立ち行かなくなる。それは帝におかれても同様であると」
「その通り。どちらが大事とか、どちらを軽んじるかではなく、どちらも大事なものにございます」
「なるほど。古きものは大事にしながらも、新たなことを取り入れていくべし。先生はそう仰りたいのですな」
「そしてもう一つ大事なことは、学ぶだけで終わらせてはならぬということです」
学びとは何かを成すための力を得るためのものであり、学びのための学びで終わってもらっては困る。
俺が立ち上げた蘭学塾の三旗堂も向学・進取に続き済民を理念に謳っているのは、学びを世のために活かしてもらいたいからだ。自己満足のための学問ほど無駄なものはない。
「私が皆に教えを授けるは、皆がそれを活かし、民を安んじる主君となってもらいたいからこそ。それを違えてはなりませぬぞ」
「はい!」
これまでも真面目に受講はしていたけど、彼らからは親に言われたからなんとなくとか、取り敢えず聞いてみようかという様子見的な感じはあったが、この日を境に、未来を担う若者たちの目の色が変わった。
あるときは皆で議論し、あるときは納得がいくまで俺を質問攻めにし、中には家臣たちに学んだことを教授する者まで出てきた。
いずれ彼らがそれぞれの家を背負う頃には、この国の姿はもっと新たなものに変わることだろう。
そして、変わったことといえば他にもいくつかあった。
まずは天明八(1788)年の暮れ、御台所恭子様の御懐妊が明らかとなる。周囲では跡継ぎ誕生を期待する声も多いが、なるべく重圧には晒されず、まずは無事に出産されることを願うばかりだ。
続いて我が家でも時をほぼ同じくして種が子を身籠った。時期的に俺が斬られるよりちょっと前のこと、社食の設置や大奥改革などに目処が付き、少し余裕が出来た頃に種とアーンなことをした計算になるな。
それから年が明けて天明九年となるが、これは一月少々で改元され、新たな元号は「寛政」となった。
寛政と言えば日本史だと寛政の改革となるが、この世界では同じようにはならない。ある意味改革は進められているが、方向性は明らかに違うものとなるだろう。
改革以外に幕府の人事にも動きがあった。改元したからというわけではないだろうが、良い機会であろうと田沼公がついに隠居することになった。それは即ち老中の退任も意味し、意知殿は藩主と共に老中の地位も受け継ぐことになる。ちなみにおじいちゃんは隠居後も江戸に残るそうなので、何かあったときの顧問相談役みたいな役割になるかと思う。
そして大奥からも、これまで権勢をほしいままにしていた上臈御年寄の高岳殿が退くこととなったらしい。最近は御台様が今出川殿、大崎殿などの力を借りて、大奥のあれこれを主導されているので、西の丸に退いた高岳殿の出る幕は無かったのだが、これで名実ともに世代交代となったわけである。
最後に……これが一番の衝撃であるが、俺が正式なお役に就くこととなった。
その役職は京都所司代。
普通なら数年から長い人では十年とか務める役職だが、俺の任期はとりあえず一年という話。なんてことはない、尊号問題の処理実務担当に任じられ、終わればいつでも江戸に帰ってきていいよというわけだ。
更に歴史は大きく変わろうとしている……
〈第九章 騒動は続くよどこまでも・完〉
いつもお読みいただきありがとうございます。
これにて第九章本編は完結です。
次回の他者視点は前章に続き隠居を決めた田沼意次視点でお送りし、いつも通りその次に人物紹介で締めさせていただきます。
十章は京都編となりますが、この先京や大坂に行く機会もあまり多くなさそうなので、色々と時計の針を進める仕掛けを入れていきたいと考えてます。




