日本史を変えた? 気象災害
自然による災害、と言うと地震や台風を連想する人が多いだろうか。特に日本ではそういった災害の影響は小さくない方に入るだろう。だが、災害が地域史や文化史ならばともかく、日本史全体に影響を残した例があるか? と問われれば案外それを上げるのは難しい。
だがここに、一つ大きな影響を残した例がある。西暦1600年、関ヶ原の戦いへの影響である。
歴史小説で関ヶ原の戦いを描く作品の多くで、開戦の少し前に、晩夏にも関わらず冷たい雨が降るという描写は大変に多い。なんとなく石田三成のその後を暗示しているかのように読む読者も多いであろう。
だが、雨が降ったかどうかはともかくとして、この描写の一部は歴史的な事実なのである。
1600年の2月末から3月初頭頃、南米・ペルーの火山であるワイナプチナ火山が大噴火をした。この噴火は正確な記録が残っていないため、その正確な規模には諸説ある。だが、噴火直後に山から西に1000キロ以上離れた太平洋上の船の上にまで灰が降り注ぐ記録が残るような規模であった事は間違いがない。
この噴火の際に降った灰は、ペルーの古記録では「10日の間灰が降り注いだ」とあり、そのために灰が20センチ以上もつもり、建物が倒壊したという記録が残る。
現代でも南極の氷床コアをボーリング調査する際、はっきりと1600年から数年間の黒い線が氷の中に残っているため、現代の氷床コア研究上でもマーカーとして扱われている。
またこの噴火の火山灰は遠く北方のグリーンランドでも見つかっており、火山灰が極めて広範囲に降り注ぐ規模の、誇張抜きの大噴火だった。
この年から翌年にかけて世界各地の文献記録を見ると、欧州でも中国でも「春になっても雪が降った」や「夏に霜が降りた」などの記録が点在する。
残念ながら調査が追いついていないので、この年、日本国内の全域でもそうであったのかは断定しかねるが、少なくとも京都など一部地域で冷夏であった事は確認できる。
欧州から中国、更には南アメリカまで同じように異常気象だった中で日本だけが例外だったとは考えにくいので、恐らく日本全国が異様に寒い夏を経験したと考えるのが妥当ではないだろうか。
1600年初頭の日本から見れば、地球の裏側で起きた火山の大噴火で粉塵が超高層大気にまで噴き上げられた結果、世界中で地球規模の災害と言える冷夏が発生していたのだ。
少々余談になるが、1570年ごろに欧州に持ち込まれたジャガイモが欧州で爆発的に普及する1620年ごろまでの間にこの大噴火があるのには多少なりとも因果関係を感じなくもないのだが、それに関しては本題ではないのでここでは置いておく。
この1600年、自然災害級の冷夏が発生した事を前提にすると、いくつかの不自然に思われていた点に理由がつく。豊臣秀吉没後に徳川家康の傍若無人な振る舞いを目にしていたはずの上杉景勝や前田利長といった、有力大名のほとんどが領地に戻っていて、大阪に出てきていなかった事もその一つである。
小説などでは家康の陰謀を承知で領地に居座る、あるいは家康の口車に乗せられて領地から出てこなかったなどと描かれることが多いが、実際には彼らが領地に残るのには、家康がなにか陰謀を企む必要などなかったのだ。
品種改良もまだ未熟なこの時代、気候による農作物への影響は現代では想像も難しい。東北、北陸地方の諸大名にしてみれば、夏に霜が降りるような記録的な冷夏、さらにその次に来るのは良くて凶作、悪ければ飢饉である。
同じように九州、中国地方の諸大名はついこの間まで行われていた朝鮮出兵で疲弊した領地の立て直しの最中で発生した冷夏になる。彼ら諸大名は飢饉に備え、領地での陣頭指揮の必要があったのだ。
家康だけが大阪に残ることができたのは、家康の息子・秀忠とその幕僚団が、家康不在の関東で内政指揮を執ることができたからにほかならない。この時点では他の大名にはそれほど年長の後継者がおらず、唯一家康にだけ年齢的な利があったのである。
そして、この観点に立つと、なぜ上杉景勝がUターンして大阪方面に戻った家康軍の後背を討つこともせず、関東に出兵するわけでもなく、北方の伊達政宗領に向かったのかが理解できる。
元々生産力が高くなかった当時の東北地方にいる上杉軍には、関東に出兵する経済的な余力はない。まして飢饉を目の前にしたこの時点で、江戸のような遠方にまで遠征するだけの糧食を準備・消耗することはできなかった。
領主の観点で見れば、上杉景勝は近隣の領地を押さえて食糧問題を解決することを優先するぐらいしかできなかったのである。その挙句に伊達政宗に敗戦を強いられたのは、食料を惜しんで短期決戦を望んで無理をした結果であったからかもしれない。
この時、九州の黒田氏なども周囲の大名と交戦しているが、大軍を遠方に向かわせることはしなかった。その他の地域でも地域ごとの戦いが発生しているが、籠城している城を無理に落城させた例は少なく、多くは珍しく野戦で決着がついている。
どの大名家も「どさくさ紛れに占領地の拡大を図る」こととほぼ同水準で「冷夏の後に来る凶作・飢饉に備える」必要があったため、短期決戦を選ぶしかなかった。略奪目的だった軍も恐らく多かったのだろう。守る側も青田狩りなどをされて、ただでさえ少なくなる農作物を奪われるわけにはいかない。少々不利でも打って出て野戦勝負を挑むしかなく、一戦して敗北した側がそれ以上ずるずる戦いを続けることもできなかったのだ。
各地の大名が自国のために戦うことを優先したのは秀吉没後の豊臣氏がそれだけ力を失っていたことを表していたのであろうが、豊臣家の自業自得の面もあり、それを責めるわけにも行かない。
同様に、家康が別働隊として秀忠の軍を中山道に向かわせたのもこの異常気象が影響していると考えられる。
この時代、薪やその他の物資は街道沿いで調達することが多かった。だが、この気候のあとに来るであろう凶作、飢饉を前にして、東海道だけに大軍を移動させることはできない。
それでなくても一度、上杉討伐を名目として大阪から関東まで数万人の軍勢が東海道を進んでいるのだ。なにせ夏に霜が降りるような気候である。旧暦なので現在の暦では既に10月に入っている時期、暖をとるための薪だけでも膨大な量に上ったに違いない。
その軍勢が復路も含めて往復しただけでなく、新たに関東の徳川軍数万人までが同じ東海道を通ったら、駿河、遠江、三河あたりの農村は冬を越すための薪となりえる樹木をすべて軍勢に使いつくされてしまいかねない。薪のない状態で冬を迎えれば農村が荒廃してしまう。
少々皮肉な言い方になるが、家康は愛着のある、自分の元本領であったこれらの地域を守るためにも、軍勢を分けて移動させるしかなかったのである。その挙句まさか秀忠が上田城の真田氏に引っかかるとは想像もしていなかったであろうが。
結果から言えば中山道の秀忠軍は異常気象でもともと心配されている食料を、関ケ原本戦に間に合わず無駄に消費した結果に終わった。それだけでも家康が激怒したのも当然かもしれない。
また、関ヶ原本戦が一日で終わったこともこれに準じているであろう。
関ヶ原の周囲には東軍西軍合わせて十万もの大軍が長期間駐屯できるような余力はなかった。普段であればまだしも、この年の気候は特殊も特殊である。長時間の対陣は関ヶ原近辺を荒廃させる危険性があった。
関ヶ原近辺は地理的に重要な要地である。戦場としてももちろんのことだが、平時の交通手段としても関東と関西を結ぶ陸路の重要な通過点だ。自らの正当性をうたう石田三成・徳川家康の両氏とも、関ヶ原近辺を荒廃させるわけには行かなかった。
そのため、家康は秀忠軍を待つことができず、また三成も大垣城を攻略した立花宗茂を中心とした数千の兵力があと数日で関ヶ原に到着するのを知りつつ、その到着を待っていられなかったのである。
西軍・東軍の双方が、周辺の村落や山林が荒廃していくのを横目に見ながら、この日だけで決着をつけざるをえないという決意のもとに大規模野戦の戦端を開いたのだ。
だらだらと長期戦にならなかったのは後世の作家から見れば血沸き肉躍る場面を描ける意味でありがたいのだが、多数の損害を覚悟した野戦決定は現場の将兵からすれば迷惑な話であったかもしれない。
なお、よく知られているのは関ヶ原の戦いの当日に深い霧が出ていたという歴史史料の数々である。
時期的には少々早いこの時期に霧が出ていたのかどうかを検証した番組もあったように記憶しているが、このような特殊な年であったという事実を考えれば、この関ヶ原の戦いの当日に霧が出ていたとしても全く違和感はないであろう。
東軍と西軍、どちらが霧をうまく利用したのかはここでは触れないことにするが、両軍とも霧が出ることぐらいは想定していたとしても不思議ではない事は言及しておきたい。
関ヶ原の本戦が終了した後もこの年の異常気象とその後に来たであろう凶作・飢饉は様々な地に影響を及ぼした。最大の影響は薩摩島津氏に対しての対応であっただろう。
徳川家康は甘い男ではない。歴史にIFはないが、もしこの年が普通の夏で、秋以降にある程度の農業生産が予測できるのであれば、たとえ兵にどれほどの損害が出たとしても、家康は薩摩まで兵を動かし、島津氏を攻略したであろう。
滅ぼしこそしなかったであろうが、毛利氏同様に薩摩半国、薩摩半島のみに押し込めるか、東北のどこか内陸の方に転封し、完全に島津氏の牙を抜いてしまったに違いない。
だが実際は家康は大阪に留まった。留まらざるを得なかった。東海道は大軍が往復し、中山道で秀忠軍が途中で時間を浪費したため備蓄食料も消耗していた。そして関西から西は朝鮮出兵の影響と西軍の移動と駐屯という軍事行動の結果、大軍を動員する補給線は寸断されていたからだ。
軍を移動させる土地のためにも、そして味方になった諸大名の領地の保護のためにも、冷夏の後に来る凶作・飢饉に備えさせるため、家康は大阪を手中に収めた時点で諸大名の軍を一度解散させざるをえなかったのである。
家康が島津氏に手を出さなかった、というよりも、兵を“出せなかった”ことにより、島津氏はあの薩摩の地でその勢力を温存することができた。
さらに状況はそのまま推移する。通常、火山による災害の影響は一年では終わらない。火山灰が地表に落ちるまでには数年かかるからだ。
事実、1601年の記録は1600年に負けず劣らず酷い。もっともこれは1600年の冬に種籾まで食べてしまったために生産量が低下していた事も影響している地域も多いのではないかと思うが、そこまでは記録からは解らない。
確かなことは、1601年も家康を含む各大名たちは山積する内政問題にかかりきりになっており、薩摩などという遠方まで出兵などする余裕はなかったという事である。
このため、あっさりと降伏してしまった毛利氏や長曾我部氏と異なり、頑強に頭を下げなかった島津氏や佐竹氏に対する対応は棚上げにするしかなかった。彼からすれば外交で時間を稼ぐのと同様の効果が気候からもたらされたことになる。
事実、この間に島津氏などは相当に活発な外交活動を展開しており、それが結果的に1602年、ほぼ無罪放免に近い形での講和を結ぶ事に繋がる。出兵困難な年が続いた結果、敗軍の側に立っていたにもかかわらず、島津氏はほぼ無傷に近い形で江戸時代を迎える事ができたのだ。
天が味方をしたのは、秀吉が没した直後の混乱期に諸大名が領地に戻らざるを得ない地球規模の災害が起きた徳川家康だったのか、それともその災害の結果、敗戦の経験をしつつも国を温存する事ができた島津氏だったのか。天を仰いで不満を口にしたのが誰であったのか、という事を考えるのは野暮であろうか。
徳川家康はその没する際に遺骸を西に向けよと遺言したという。
後世、島津氏や毛利氏を警戒したからだと言われているが、確かに家康にとって、毛利氏はともかく島津氏をほぼそのままに残すことになったのは悔いが残ったであろう。案外、その点ではこの逸話は真実であったかもしれない。
また、仮にこのときに島津氏が徳川氏に攻略されていたら、幕末の薩英同盟は発生しなかったであろう。そうなったら明治維新はどうなっていたかわからない。
案外、江戸時代の次に来たのは、徳川幕府に深く食い込んだフランス風の国になっていたかもしれない。少なくとも今とは全く違う形での江戸時代の次の時代が来ていただろうことは疑いない。
その意味で、私はこの地球の裏側で発生した火山の大噴火は、日本史上最大級の影響をもたらした自然災害と言ってよいように思っている。