京極家当主京極高吉
それから多吉はしばしば夕餉とともに現れた。
それも常に貞則の話をするでなく、時に世間話をし、時には話しもせずに膳を持って帰ったり、他の者に怪しまれぬよう細心の注意を払う辺りに本気の程が見えた。
そうして密談を重ね、貞則の企てを解いて語る多吉の話に儂は内心眉をひそめた。
「まずは上様を小谷城からお救いして浅見様が治める今浜城へお移り頂いて……」
ここまでは良い。
かつて、三十年前にここに連れてこられた時には、儂が抜け出さぬように、誰かが連れ出さぬように見張りの兵は気を張り数も多くおったが、三十年も経った今はもう気は緩み、見張りの者も碌におらぬ。
上手く味方の手の者を見張りに紛れさせておけば、抜け出す事はたやすい事であろう。
「そうして久政の不徳を訴えます。」
「不徳とは何じゃ?」
「それは……、六角家が北近江国を廃する事を内密にして、京極家の危機を黙って見過ごそうとしておる事でございます。」
「それを……」と言いかけて、儂は口を噤んだ。今は是であれ非であれ腹の内を見せる訳にはいかぬ。
そう思わせる程の危うさが話の中にあったのだ。
確かに北近江国守護である儂と守護代である浅見が顔を揃えればこちらに靡く豪族も多くあろう。
しかし、不徳を訴える。とすれば、当然、廃国の話を皆に知らせるということになる。
それでどう収まりをつけるのか。
久政とて馬鹿ではない。いやこういう話には賢しささえある。
その久政が人に語らぬと言う事は、話の収まりが久政には見えて来ぬ。という事ではないか。
では、貞則はこの話を白日の下に晒してどのように収めるつもりなのか。
「して、その後は如何にする?」
そう問うた儂の言葉に気を良くして多吉は身を乗り出して続きを語った。
「上様と浅見様が手を結べば北近江に逆らう者は居りませぬ。
北近江を一つにして六角家に一泡吹かせるのです。」
やはり話は危うく焦臭くなってきた。
廃国の話を皆に語って、様子見などできる筈がない。
語れば皆が「六角家討つべし」と声を上げるのは容易に想像できた。
だからこそ久政は対応に苦慮し、この話を内密にしておるのだろう。
それを貞則は「構わぬ」という訳か。
「して、どう一泡吹かせるのじゃ?
まともに戦をしてはこちらが痛手を負うばかりではないか?」
「それがそうとは限らぬのでございます。
今、六角家は京への上洛に多くの兵を割いております。
その分、南近江の兵は手薄になっておるのです。」
考え得る中で一番聞きたくない答えが返ってきたようだった。
即ち六角家相手に戦を仕掛けるということだ。
確かに京に陣取る細川家相手の上洛軍には相当の兵を割いてはおるだろう。
その分、南近江は手薄になっていることは間違いない。
しかし、それで六角家を打ち負かすことが出来るほど六角家も甘くはあるまい。
それに、上洛軍を出しておる隙を突くとなれば、その後、「上洛を果たすためには先ずは北近江を黙らせねばならん。」と、六角家の目の敵にされるのは明らか。
では、「貞則はどのような手で六角家と相対するのか。」と尋ねれば、「それには秘策があります。」と、多吉はしたり顔で貞則の秘策を儂に打ち明けた。
「…すなわちこれで南近江の六角家を京・山科からの細川軍と北近江からの京極軍で挟み撃ちに致します。」
数日の後、多吉はいよいよこの策の肝をこの儂に語り始めた。
即ち、六角家が上洛のため京へ軍勢を送り込み京の細川軍と戦をしておる内に、儂等が六角家の背後を襲う。
慌てて撤退する六角軍を細川軍は追撃をし、そのまま進軍する儂等京極軍とで挟み撃ちにするという。
果たしてそのように思惑通りに上手くいくのか。
多吉…いや、貞則が言うには、京の細川氏綱は自らの言うことを聞く足利義維を将軍に据えたいと動いており、実際幾度か帝に言上をしておるらしい。
しかし帝はそう頻繁に将軍が替わることを良くは思っておらず、交渉は難航しておるという。
そこに現将軍の足利義藤が上洛軍を率いて東山近辺にまで侵攻して来るのだ。
細川家にとっては、まさに『飛んで火に入る夏の虫』。
この上洛軍を討ち果たし義藤の身柄を抑えれば、いかに帝といえどももう義維を将軍として認めぬ訳には往かぬ。
故に、「氏綱は必ずやこの機を逃さず、我らと共闘するに違いない。」という訳じゃ。
それは最早「分の悪い賭け」どころの話ではなかった。
言うなれば願望。
無策無謀に等しい企てだった。
しかし、儂の知っておる貞則はそれが分からぬ程愚かではなかった。
儂の知っておる貞則と此度の企てが合致せぬ。
果たして、貞則にどのような思惑があるのか。
儂は多吉のおらぬようになった屋敷で縁側に腰を下ろし、月を見上げて思案してもどうとも納得のいくような答えは出てこなかった。
いや、貞則の腹の内など探ってみて意味のないことやも知れぬ。
それよりも考えるべきはこの京極家のこと。
即ち今のままこのまま小谷城に囚われたままで死ぬか、貞則と共に久政に対抗し浅井家を追い落とすか。
貞則の儂にそのどちらかを選べ。と言っておるのだ。
「どちらが京極家のためになるか。か。」
口に出して儂は小さく溜め息を付いた。
月は天高くからこの儂を照らしておる。
その月と比べれば、儂の悩み、京極家の行く末など些末な事に過ぎぬのであろう。
我が祖先、その先祖の代から何一つ変わらず天に浮かび続ける月にでもなったつもり我が身を振り返ればその行く末も察しがつく。
どちらが京極家のためか。
答えは、そのいずれでもないのだ。
要するにこのまま浅井の元に居れば浅井に利用され、浅見に付けば浅見に利用されるだけ。
その後の京極家がどうなるかなど、斎藤家に国を奪われた土岐家、織田家に国を奪われた斯波家の末路を知れば、火を見るよりも明らかだ。
いずれにしても京極家に未来はない。
ついに京極家の命運が尽きたことを知って、儂は多吉を遠ざけた。
なにも浅井家にこの企みを漏らすつもりもないが、乗るつもりもない。
しかし行く末の知れたこの道を歩む気力も消え失せて、儂は遂に天にこの身を委ねた。
人事尽くして天命を待つ。
そんな言葉があるが、そうではない。
儂は人事を放り捨てたのだ。
そしてやはり、天は決してそんな儂を許しはしなかった。
いくら催促をしても一向に色よい返事をせぬ儂に貞則は見切りをつけて、遂には儂の子の高成を儂の代わりとして担ぎ出したのだ。
これで京極家の命運は尽き果てた。
六角家との戦に駆り出され、人気の無くなった小谷城の空を鳶が一羽舞っていた。
重く立ちこめた雨雲の下、窮屈そうに舞う鳶は獲物を見つけたのか、勢いを増して空を駈けると峰向こうの陰へと姿を消した。
人の世も獣と同じ、弱き者は狩られるのだ。
最早京極家にこの乱世を生き延びる力はない。
そう諦観して、せめてこの命尽きた後には父と同じ墓に眠りたいと、そしてせめて一言、弟には詫びを入れたかったと、静かに瞼を閉じたとき、屋敷の玄関が俄かに騒がしくなり、「天真が参りました。」と屋敷に澄んだ声が響き渡った。
何かの聞き間違いかと思った。
しかし、確かに数人分の足音はドタドタと廊下を鳴らしこの縁側に近付いて、確かにその一団の頭には袈裟に身を包んだ天真和尚の姿があったのだ。
「なに…ゆえ?」
清瀧寺に眠る父の事を思ったその時の事。
まるで亡き父が招き寄越したのではないと脳裏に浮かんだその時に、天真和尚の後ろにその父の姿を見た。
ハッと息を飲む京極高広の前に天真和尚が腰を降ろせば、その横で若い姿をした父、高延がジッと高広を見下ろしていた。
「高広様、高吉様でございます。」
天真和尚は余計な事を何一つ付け加えずに、ただそう告げると、突然のことに頭の追いつかぬ高広は「高…吉…」と声を漏らした。
言うべき事、問うべき事が嵐のように高広の頭の中を駆け巡っていた。
本当に高吉なのか。
なぜ南近江にいるはずの高吉がここにいるのか。
高吉は今の状況を知っているのか。
なぜ何のためにここに現れたのか。
北近江を逐われた後、何を思い何を考え、どう過ごしてきたのか。
なぜ南近江の六角家と手を結んだのか。
なぜ、この儂に弓を引いたのか。
言うべき言葉は二人の溝に飲み込まれて何も出て来なかった。
三十年前に戦仇となって、いや、その前から二人には溝があったのだ。
高広が十八歳の時に産まれた弟。
年の差は親子ほどに離れ、幼き頃から共に遊んだ記憶も話をした記憶もない。
さらには父との関係が拗れてからは、父は高吉を儂から遠ざけ、姿を見る機会さえ減ってしまった。
そう思い返せば、こうして視線を交わすのも初めてのことかも知れぬ。
しかし、そのような事は置いても、もう高広には、いつの日か高吉に会ったときには言うべき言葉を決めていた。
この風前の灯火となった京極家の命運を高吉に委ねたい。
そう思い描くようになってから決めていた言葉。
高広は哀憎入り混じった眼差しで高広を睨み付ける高吉の視線を背を伸ばして受け止めると、高吉に正対して深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ、京極家ご当主京極高吉様。
ご当主の留守を守りきれなかったこの不行き届き、何卒お許し下さいますようお願いいたします。」




