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夢流れ  作者: 大和 政
第一章 猿夜叉伝
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憂慮

 小谷城の空には今にも雨の降り出しそうな灰色の雲が覆い被さっていた。

まるで天から蓋をされたかのような窮屈な空を鳶がピーヒョウと鳴き声を上げ大きく弧を描けば、一陣の風が揺らす木々の梢の葉擦れの音が遠く隣の尾根から聞こえてきた。

その風は小谷城にも届き本丸曲輪に立てられた浅井家の家紋の入った旗幟をバタバタとはためかしたが、その音を聞く人の影は(まば)らで小谷城は静けさの中に沈んでいた。


 いよいよ時が来たか。

京極高広はそんな静けさの中にある京極御殿の一室で静かに瞼を閉じた。

脳裏に浮かぶのはかつて栄華を極めた京極家の姿であり、(いくさ)(かたき)となった父と弟の姿であり、今や滅亡の淵にたたされた京極家の姿であった。

「父上、法師丸、すまぬ。」

 涙と共に零れ出た名前は弟の高吉の幼き頃の名だった。

この今や名ばかりとなった北近江守護京極家を立て直すため、その弟になんとしてでも家督を譲らんと決意を固めていた高広のその悲願も今や叶わぬものとなりつつあったのだ。




 事の起こりは三ヶ月ほど前のこと。

いや、正確にはそれよりも以前のことか。

この小谷城の山頂に建てられ、滅多に人の来ない京極屋敷に新しい奉公人が来た。

名は多吉。

多吉はよく気の利く男で人の嫌がる仕事も喜んで引き受ける。そんな男だった。

そんな多吉であったから、こまめに事ある毎に小谷城の城道を登り京極屋敷に来ては掃除、洗濯、食事の配膳と儂の身の回りを整えてくれて、次第に多吉がこの屋敷に長居するようになって誰も怪しむ者はおらんようになった。

 そうして()(つき)ほどが経ったある日のこと。

いつもの通りに夕餉を麓の清水谷から運んできた多吉は屋敷に誰も居らん事を確かめて、そっと儂に耳打ちしてきた。

「上様。浅見様の命により上様をお救いしに参りました。」




「上様がこの京極屋敷に捕らわれて三十と余年。

その間、浅見様はずっと心を痛めておられました。

しかし時流は浅井家にあり、なかなか上様をお救いする手立てがなかったのです。

しかし、今や時流は変わり風雲急を告げております。

上様をお救いするには最早猶予はない。と浅見様は私を上様の下に遣わせた次第にてございます。」

 風雲急。

それが何を意味するのか、儂とて多少なりともは知っておった。

この屋敷に捕らわれて、外に出ることを許されない身であったが、その分、下働き衆との世間話に花を咲かせ、どのような他愛のない話であっても「愉快愉快」と袖の下を渡せば大概の者は喜んでその金を懐に納め、次第に「この様な事がありました。」「あのような話があります。」と進んで儂に世間の話を聞かせるようになったのじゃ。

そうした世間話の中にも時折は重要な話が紛れ込んでおった。

六角家が京へ向かって兵を出したという話もそんな世間話の一つであった。

 風の噂に過ぎないが、しかし六角定頼が将軍足利義藤様を奉じて京へ上洛に向かったことは恐らく間違いのないことと思われた。

しかし、多吉が儂に持ってきた話は儂の予想を遥かに上回っておった。

「実は六角定頼はこの北近江国の廃国を具申したと聞き及んでおります。

定頼は、将軍上洛の褒美としてこの北近江と南近江を一つにし、自ら近江国守護に就くとの事。」

「真か!それは!」

 声を荒げた儂に、多吉は物言わず蝋燭の灯に揺れる顔を一つコクリと縦に振った。

北近江国を廃する。

それは京極家の守護職を(はく)(だつ)することに違いない。

そうなれば今や名にしか価値のない京極家の滅亡を意味する。


「ご安心くだされ。

この様な上様の存亡の危機を黙って見過ごす浅見様ではございませぬ。

浅見様はこの様な危機を招いたのは浅井久政に手落ちがあった故。

この様な者に北近江の舵取りを委せておっては為す術なく北近江は六角家に乗っ取られてしまう。と上様をこの北近江をご(ゆう)(りよ)されております。」

 果たして浅見貞則はそのような男であったか。

三十年前、父上と弟と争ったあの時、真っ先に駈け付けたのは確かに貞則であった。

戦で幾つもの手柄を立て、北近江守護代浅見家の面目を見せつけたのも貞則だった。

しかし、その後六角家がこの北近江に攻め入り、浅井亮政の奮闘によりなんとかこの北近江を保つことができたあの時、そしてその後の論功行賞で浅井亮政が一番手柄として北近江の実権を手にした時。

その時に憎悔の入り混じった目付きで亮政を睨み付けおった貞則の脳裏に、果たして京極家や北近江国のことなど浮かんでおったのだろうか。


「上様をここよりお救いし、今浜城へお移り頂く。

その後、あの永平寺城を立て直し、上様の下、北近江国を立て直す。

浅見様はそうお考えです。」

 脳裏を過る一抹の疑心を拭い去る事ができず相鎚すら打たぬ儂に、多吉はさらに言葉を続ける。

その多吉の声に揺らぎはなく、多吉自身はこの危機に瀕した京極家を、北近江国を救わんと心底からそう思っておるのだろう。

しかし、儂はすぐには返答できんかった。

問題は貞則の腹の内じゃ。

「貞則の算段、子細に尋ねたいが……、今日はこれまでじゃ。

話が長くなれば怪しむ者も出てこよう。」

 そう言って下がらせた多吉は去り際に「ぜひご熟考下され。」と言い残し、その姿はあのお人好しの多吉とはかけ離れておった。

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