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夢流れ  作者: 大和 政
第一章 猿夜叉伝
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行くぞ

 藤吉郎がこっそりと牢屋敷から顔を覗かせた。

外は雲に陰った月明かりが薄っすらと周囲を照らしてるだけで、他にたきぎの灯も松明の灯もなかった。

「こりゃちょうど良い。」

 この暗さなら子供二人の姿は簡単には分かるまい。

藤吉郎は、更に様子を窺って外に人の気配のないことを確認して、「行くぞ」と猿夜叉の手を引いた。



 

 牢屋敷は観音寺城の曲輪にあった。

屋敷の周りは木佐貫山を削って造られた小さな平地ひらちで、その先にはその平地を囲むように丸太ん棒の柵が取り囲んでいた。

その柵の門戸を抜ければ木佐貫山の山上まで続く大手筋の石階段へと続く細い道があるが、そこを通るわけにはいかない。

「こっちは駄目じゃ。人がおる。」

 藤吉郎は、更に首を伸ばし大手筋の様子を見れば、思った通りに足軽たちが蟻のように往き来していた。

ならばここは柵を越えるしかあるまい。

藤吉郎は猿夜叉の手を引いて、意を決して牢屋敷を出た。

山上の足軽からに気付かれないよう、足音を立てず、気配を消して、コッソリと闇の中を進む。


 一歩。二歩。

慎重に。用心深く。焦りは禁物じゃ。

牢屋敷を出て、二人の姿を遮る物は何もない。

もし、気配を気取られれば逃げも隠れもできない。

時折聞こえてくる足軽たちの話し声。

身の凍る思いで身を屈め、足軽たちの気配が去るのを待つ。

 ほんの数十歩。

いつもなら数十秒も掛からない距離を、寿命を縮める思いで横切ると、ようやく牢屋敷を取り囲む丸太柵へと辿り着いた。




 さて、ここからが正念場じゃ。

丸太柵をよじ登り柵の向こう側へ出ると、そこには木佐貫山の斜面が広がっていた。

外敵に備えて木々が刈り取られた山肌剥き出しの斜面。

敵を近付かせず、叩き落とすための斜面。

そんな気を抜けば奈落の底まで転げ落ちそうな斜面を、藤吉郎は四つん這いになって半歩半歩下っていく。

「良いか、猿夜叉。

ゆっくり、慎重にじゃ。慌てるでないぞ。」

 夜の闇は周囲を覆い、目の前にいるはずの猿夜叉の姿さえ見えない。

「猿兄、大丈夫じゃ。」と聞こえてくる声だけを頼りに猿夜叉が付いてきているのを確認すると、藤吉郎はいつも見上げていた観音寺城の姿を思い描いた。

 たしか牢屋敷があった曲輪は木佐貫山の中腹付近。

石段を上っても骨の折れる高さじゃ。

そこから、土と石と砂の、気を抜けば転げ落ちそうな山の斜面を四つん這いになって下りるなど正気の沙汰ではない。

しかしそれでも、この斜面を降りきるしかないんじゃ。




「猿兄、おるか。」「猿夜叉こそ、大丈夫か。」

 お互いの姿も見えない暗闇の中、藤吉郎と猿夜叉は四つん這いになって、文字通り手探り足探りで木佐貫山を下っていた。

木も草も刈られ地肌抜き出しになった斜面は掴まる所もなく、気を抜けばズルズルと滑り落ち、危うく転げ落ちそうにさえなる。

それもそのはず、この木佐貫山は観音寺城として仕立てられ、この斜面は登ってくる敵を叩き落とすためにあるのだ。

 震える手足に力を込めて、半歩半歩ゆっくりと慎重に斜面を下る。

目指す山の麓は夜闇の向こうに隠れて見えない。

時折、雲の切れ間から月光が届いても、二人に下を覗く余裕などなかった。

もし誰かに見つかれば、この満足に動くことの出来ない場所で、最悪その場で矢に打たれて殺される。

二人は月明かりに照らされる度に山肌にしがみつき、身動き一つ取らず、息を殺して周りが闇に包まれるのを待った。

「猿夜叉、大丈夫か。」

 周りに聞こえないように小さな声で囁くと、返事の替わりに土砂利がパラパラと降ってきた。

十ほど年上の藤吉郎でさえ手足は震え力が入らなくなっているのだ。

幼い猿夜叉にはどれほど辛いだろうか。

「だ、大丈夫じゃ。」と遅れて返ってきた返事に、一層心配は募る

しかし、こんな所では足を止めることもできん。

なんとか辛抱して降りきるのじゃ。

もうすこしの辛抱じゃ。

先程から降り落ちてくる砂利の量は増えている。

猿夜叉ももう限界なんじゃろう。

まだか、まだ麓には着かんか。




 猿夜叉の両手両足はもう我慢の限度を超えていた。

半歩、足を下ろす度にズズズと身体が滑り下がる。

それを踏みとどまろうと両腕に力を込めて踏ん張る。

一瞬でも気を抜けば足下の暗闇の中に真っ逆様に転げ落ちそうになる。

「まだじゃ。まだじゃ。まだまだじゃ。」

 もう周囲に気を配る余裕もなかった。

誰かに見つかる事なども気に留めず、まだじゃ。まだじゃ。と声に出さなければ、弱気に心が染まりそうだった。

そんな時だった。

足下の闇の向こうから風に揺れる木々の葉音が聞こえてきた。

「聞こえたか、猿夜叉。もう暫くじゃ。もう暫くで麓じゃ。」

 藤吉郎の喜びに弾む声が聞こえてきた。

ようやくこの斜面が終わる。

藤吉郎の声に猿夜叉は「うん。」と返事して、大きく一歩を振り下ろした。

と、その弾みで両の手の下の砂利が崩れる。

慌てて両足を踏ん張っても、一度付いた勢いは止まらない。

ズズズと滑り始めた猿夜叉の身体は、ついには斜面を小石のように転がった。

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