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夢流れ  作者: 大和 政
第一章 猿夜叉伝
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帰りたい。北近江に帰りたい。

 猿夜叉は小屋で呻き声を上げた。

痛い。痛い。熱い。痛い。

あの稽古で亀松丸が木刀で打ちつけた傷がズキズキ痛む。

小野の方が濡らした手拭いで傷を血を拭き取ると、ヒリヒリと湯を掛けられたかのような熱いような痛みに猿夜叉は身を捩った。

嫌じゃ。嫌じゃ。痛いのは嫌じゃ。

「猿夜叉。猿夜叉。

こんなに傷だらけになって。」

 手拭いを絞る小野の方の手の甲に涙がこぼれ落ちた。

「猿夜叉。猿夜叉。

お前は私の子。浅井の子。

負けてはなりません。負けてはなりませんぞ。」

 額の血糊を拭き取って小野の方は傷だらけになった小さな猿夜叉の身体を抱きしめた。

「猿夜叉。猿夜叉。猿夜叉。」

 涙を流して何度も何度も猿夜叉の名前を呼ぶ母の腕の中で、猿夜叉もまた涙を流して声を漏らした。

「…嫌じゃ。嫌じゃ。もう痛いのは嫌じゃ。

儂は嫌じゃ。痛いのは嫌じゃ。

浅井は嫌じゃ。」


 擦り切れるような声で言った猿夜叉の言葉に小野の方の腕の力が抜けた。

「猿夜叉…?

何を…言うのじゃ。

そなたはこの母と久政様の子。

浅井家の跡取りぞ?」

「嫌じゃ。嫌じゃ。浅井は嫌じゃ。

みな儂が浅井と言って叩くのじゃ。

嫌じゃ。痛いのは嫌じゃ。浅井は嫌じゃ。」

 猿夜叉が腕を振れば、力を失った小野の方の手から容易く猿夜叉は抜け出した。

「猿夜叉。すまぬ。すまぬ。」

 猿夜叉は泣き崩れる小野の方に背を向けて、小屋から駆け出して行った。


 どうして自分がこんな目に遭うのか幼い猿夜叉には見当も付かなかった。

いつも優しい母も之綱も定頼も、誰も儂を守ってはくれない。

 嫌じゃ。嫌じゃ。嫌じゃ。嫌じゃ。

駆け抜けた道順など覚えていなかった。

涙に滲む景色の中をガムシャラに右に左に走っている内に、ドンと誰かの背にぶつかった。

あっ。

殴られるか。蹴飛ばされるか。

猿夜叉は咄嗟に身構えて両目をギュッと瞑る。

けれども予想に反して、殴られることも蹴られることもなく、恐る恐る顔を覗かせると目の前には猿夜叉の姿をジッと見つめている京極高吉の姿があった。

 泣いている…。

猿夜叉が見た高吉の頬にも一筋涙の流れた跡が残っていた。

その猿夜叉の視線に気が付いたのか高吉は袖で顔を拭うと、ニタリと口端を上げて猿夜叉を捕らえた。


「これは浅井の猿ではないか。良い所におった。」

 猿夜叉は高吉の声に驚き逃げ出そうとしたが、高吉は猿夜叉の両の肩をムンズと掴むと、酒臭い息を吐きながら顔を擦り寄せた。

 おぅ、なんじゃ。

儂から逃げ出すとは、お主まで儂を馬鹿にしよるのか。

 力加減も無しに力を込める高吉の指が猿夜叉の肩に食い込む。

「痛い!!」咄嗟とっさに猿夜叉は高吉の手を振り解こうと高吉の手首を掴む。

しかし、それが高吉の逆鱗に触れた。

おのれ!!下人の分際で!!

儂の言うことが聞けんと言うのか!!」

 腹いせに高吉は力一杯に猿夜叉の身体を振り飛ばすと、小さな猿夜叉はたまらずにもんどり打って地面に転げ倒された。

 口の中に砂利と血の味が広がる。

それでも高吉の腹の虫は収まらずに、今度は猿夜叉を担ぎ上げて、

そして、よろめいた。

酒に酔って足取りすら危うい高吉は、猿夜叉を抱き抱えたまま尻餅を付くと、先に起き上がった猿夜叉の腕を掴み酔って血走った眼で猿夜叉を睨み付けた。

「なにをボッとしておるのじゃ。

早よう起こさぬか。

なんじゃ、その目は。

良いか。儂は北近江守護京極高吉じゃ。お主は北近江の豪族浅井家の人間であろう。

儂が君主で貴様は下僕じゃ。分かったか!!」

 一気にまくし立てる高吉に気圧されて、猿夜叉は高吉を引き起こすと、高吉は礼も言わずに尻に付いた土を払い落として猿夜叉の肩を掴んだ。

「良し。城に登るぞ。猿夜叉、付いて参れ。」

 何が良しなのか。

猿夜叉の返事など待たずに高吉は、猿夜叉を引きずるようにして観音寺城の大手道へと歩を進めた行った。


 六甲屋敷の脇を通る大手通。その突き当たりには大手門があった。

観音寺城の正門である大手門を抜ければ辺りには木佐貫山の雑木林が広がり、その斜面を縫うように石畳の階段が続いていた。

そしてしばらく階段を登ると辺りの雑木林は一斉にり取られ、丸裸になった木佐貫山の山肌を白い石畳の階段が、まるで雲の糸のように真っ白く真っ直ぐに山上まで続いていた。


「ふぅ、なんとも立派な城じゃのう。」

 高吉は酒にふらつく足取りで一歩登れば一休み、また一歩登れば一休みとエッチラ、オッチラと階段を登っていた。

「おおぃ、猿。もっとしっかり支えてくれ。

分をわきまえ、主君に仕え、助けることこそ家臣の役目ぞ。」

 迎え酒と言いながら懐から酒瓢箪を取り出して口付ければ、高吉は小さい猿夜叉の肩に寄っ掛かり、呂律の回らない口でしょうのない説法などを説く。

「良いか、よく聞け猿よ。

儂はな、北近江守護じゃ。南近江守護の定頼と同格じゃ。

それを、なんじゃ、このような大きな城を建てよってからに。

お主はなぁ、人から家督を奪い取ったクソ坊主じゃろうが。」

 酔って支離滅裂に言葉を吐く高吉の腰を掴んで猿夜叉は、波間に揺れる小舟のように右に左に揺らされながら、それでも一歩一歩高吉を山上へと導いた。


 そんな足取りだからか、山の頂上にある観音寺城の本丸に着いた頃には、もう日は西に傾き初めていた。

「のぅ。どうじゃ。南近江の彼方まで見渡せる観音寺城じゃ。

フフハ。ほれ。よう見てみぃ。

南近江どころか北近江の町まで見えるではないか。」

 本丸屋敷の裏手で高吉は笑い声をあげた。

日はもう地平線の彼方に姿を消し、眼下の地平には夜の支度を始めた町の灯がアチラコチラに灯っていた。

「ほれ、あの灯りは佐和山の城であろう。

ならばあの彼方の灯は今浜の町の灯じゃな。

その向こうには小谷の灯も見えるのぅ。

分かるか猿夜叉。あれが北近江。儂の国じゃ。」

 高吉の言葉に猿夜叉は曲輪の柵にしがみついて遙か彼方にともる灯を見た。

あれが小谷。父上のいる浅井の城。

「遠い。遠いのぅ。遙かに遠い。

何年経っても届かぬほど遠い。」

 無心に食い入るように小谷の灯を見つめ続ける猿夜叉の耳に高吉の声が届いた。

見れば高吉の目尻に涙が浮かんでいた。

「何を見ておる。

元はと言えばお主が、お主等浅井が儂を追い出したのであろう。

儂から、父上から、京極家から北近江を奪ったのであろう。」

 もう高吉は涙を隠すことなく幼い猿夜叉ににじり寄った。

「この泥棒猿が。主人に刃を向けた謀反人が。

返せ、儂に、北近江を返せ。」

 酒に酔って高吉の心のタガが外れた。

高吉は猿夜叉の前に膝を突いて崩れ倒れ、頬に止めどなく涙が流れ落ちた。

 帰りたい。北近江に帰りたい。

猿夜叉も眼から流れる涙を堪えずに、遠く見たこともない故郷に帰りたいと願った。


 地平の町の灯は揺らめいてそんな二人を引き寄せているようだった。

その中の小谷城の灯が一層に揺らめいたと思うと、その中から小さな小さな砂粒ほどの灯が列を成して出てきた。

 なんだろう?

その答えが見つかる前に、本丸の物見櫓の鐘がけたたましく打ち鳴らされた。

「敵襲!!敵襲!!」

 物見櫓の城番が叫びながら鐘を打ち鳴らすと、その鐘の音に木霊こだまするかのように城中のあちらこちらで非常を知らせる鐘の音が打ち鳴らされた。

「まさか。まさか。まさか、まさか。

遂に、本当に京極家を滅ぼすつもりか久政。」

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