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夢流れ  作者: 大和 政
第一章 猿夜叉伝
17/61

将軍の威光は借り物の威光

「全く、少しは見所があると思ったものを。」

 義藤は屋敷の風呂の戸口の前で、乱暴に汗で汚れた狩衣を脱ぎ捨てた。

冬の冷たい空気が稽古で熱を帯びた身体には心地よい。

 戸口を潜れば狭く薄暗い風呂場。

義藤は風呂場の片隅に置いてある水桶の水を一掬いすると、その傍にある焼き石に水を掛けた。

水はジュワと音を立てて、たちまち風呂場は湯気に包まれた。

湯気の熱に包まれて、義藤の肌から汗が噴き出す。

義藤は腰掛けに腰を降ろして、用意してあった笹の葉に手を伸ばした。

笹の葉で噴き出す汗を乱暴に拭い払いながら、頭に思い浮かぶのは、あの幼い下人の事だった。

余はあの下人に何を期待していたのか。

あの、下人が亀松丸の胴を薙ぎ打った時、余は確かに「良し」と思ったのだ。

それは判官贔屓か、それとも六角家の者に逆らえない余の姿をあの下人に重ね合わしていたのかもしれん。

だからこそ、あの下人には何かを期待していたのだ。


 まぁ、期待外れだったがな。

小窓の向こうからは饗宴の始まりを告げる鐘の音が鳴っていた。

この鐘を合図に六角家の家臣達が屋敷に集まりだしているのだろう。

「さて、余も行かねばならぬか。」

 義藤は水桶に残った水を浴びて汗を洗い流すと、一つ息を吐いて風呂場から出た。


 義藤が風呂場から出ると、側仕えの者が着替えの直垂したたれと烏帽子を用意して待っていた。

直垂に烏帽子だと。

これは武家の正装。京の帝に謁見するなど余程の行事の時にしか身につけない服装だ。

「まことにこれを着るのか。」

 不安を感じて側仕えの者に聞いても「お館様からそう伺っております。」の一点張り。

仕方なく義藤が側仕えに任せて直垂を身につけると、頃合いを見計って定頼と義賢がやってきた。

二人は立派に着飾った義藤の姿に目を細めると手を叩いて喜んだ。

「おお、流石は征夷大将軍。直垂もよう似合っておりますぞ。」

 大袈裟に両手を広げて誉め上げる定頼に合わせて側仕え達も笑みを浮かべて頷いた。

「しかし定頼。参内する訳でも無い。直垂に烏帽子とは、やりすぎではないか?」

「いやいや上様。この饗宴は公方様が京へ戻り、幕政を取り戻す号令をなさる大事な饗宴。やりすぎなどございません。」

 言われて二人の姿を見れば、やはり二人とも直垂に烏帽子姿だった。

「それでは参りましょう。」

 義藤が納得したのを心得て、義賢が頭を下げると、

定頼は義藤を引き連れて歩き始めて、義賢はその後に続いた。


 定頼に連れられて廊下に出れば、定武を始め屋敷方が平伏して三人を待ち構えて、その後ろに続く。

次に列に加わったのは、風呂場のある奥屋敷で茶菓子を食べながら、饗宴の始まるまでの間をくつろいでいた義藤の父・義晴だった。

 そして奥屋敷から渡り廊下で本屋敷へ渡れば、義晴・義藤親子と共に京を追われた数人の幕臣達が列に加わり、更にその後ろに六角家の重臣達が続いた。

その行列に、屋敷を行き交う下人達は皆、額を床に擦り付けて道を譲った。

かつて太祖尊氏が幕府を開いた頃には、将軍がこうして守護大名や側仕えを引き連れて屋敷を歩くのは当たり前の光景だったのだろう。

義藤は自分の後ろに続く大勢の者達の足音を聞いて愉悦に浸っていた。


「公方様のおなり。」

 側仕えと共に、大広間の戸が開けられ、義藤は饗宴の間に足を踏み入れた。

大広間の左右には六角家の重臣達が並び、

庭には定頼が呼び寄せた楽師達がいた。

皆、頭を下げ、声も出さず、ジッと義藤の着席を待っている。

これが将軍の威光、将軍の見る光景なのか。

誰一人言葉も発しない厳粛な雰囲気に飲み込まれ、義藤の足は震えていた。

いよいよ饗宴が始まる。

上座の中央に座るのは将軍・足利義藤。

その右手には前将軍の足利義晴が座り、左手には六角家当主・六角定頼、それに続いて六角次期当主・六角義賢が座った。

その面々の着席に饗宴の間の空気はますます張り詰めていった。


 余が、将軍として、号令を、掛けるのだ。

義藤は緊張に渇き上がった喉にゴクリと一つ生唾を飲み込んだ。

「皆の…」

「皆の者、よい、面を上げ。」

 手を振り上げ、押し寄せる緊張を振り払い、ようやく発した義藤の言葉。

それを定頼の号令が遮った。

その定頼の号令を、誰も不審に思う事なく、重臣達や楽師達が顔を上げる。

そうだ、この将軍の威光は借り物の威光。六角家の威光なのだ。

途端に今まで張り詰めていた力が抜ける。

高鳴る高揚感に水を差されて、横から号令を発した定頼に目をやると、

定頼はニタリと笑みをこぼして言葉を続けた。

「皆の者、我らは今日より、いよいよ公方様を京へお連れする上洛を開始する。

公方様を京から追い落とした細川勢を打ち払い、公方様を室町御所へとお連れして、我らの手で幕府を取り戻すのじゃ。

上洛がなるまでまだまだ油断ならんが、

しかし、皆の合力があれば恐れるに足らん。

皆の力を今一度貸してくれ。」

定頼の号令に饗宴の間の重臣達全員が「ハハッ」と声を上げ、深々と頭を下げた。


 結局、上洛の号令を発したのは定頼。

もはや将軍である義藤は、何もせず、座っているだけで良い、定頼の操り人形だった。

「さぁ、今日は公方様の上洛の下知を祝う宴。

皆の者、無礼講じゃ。存分に楽しむが良いぞ。」

 義藤のかけ声と共に楽師達が笛を鳴らし鼓を打つ。下女達が今日のために取り寄せた山の幸海の幸をお膳に乗せて運んでくれば、そうそうに杯に酒を入れた家臣達が賑やかに酒を酌み交わした。

「お館様おめでとうございます。」と家臣達が酌に集まると、定頼も上機嫌に、「まだまだ早い。上洛が成った訳ではないぞ。」と手を横に振った。

 人が輪になって集まっているのは定頼の前ばかり。

上座の中央にいるはずの義藤の前に来るのは輪からはみ出た者で、その者も定頼の前が空くとそそくさと腰を上げ定頼の前に姿を消していった。


 饗宴は続く。

定頼と重臣達は将軍の上洛と六角家の天下取りの祝いの酒に酔いしれていた。

主役となるべき将軍義藤を蚊帳の外にして。

ここまで明らかであると腹立たしいというよりむしろ滑稽であるな。

義藤は手にした杯の酒を一気に飲み干すと、一人、手酌で酒を注いだ。

いっそ、余がおらんでも良いのではないか。などと思ってみても、まさか本当に席を外す訳にもいかない。

同じように蚊帳の外に置かれた父の姿を見ると、義晴は何事も無かったかのように手酌で酒を飲み、目を閉じて庭の楽師の演奏を楽しんでいた。

慣れておられるな、父上。

将軍が、足利家が有名無実の存在になったのは何も昨日今日の話では無い。

先代の義晴も先々代の義稙も同じような蚊帳の外の日々を送っていたのだ。

そして、後を継ぐ余も同じような日々を送るのか。


 義藤は深く溜め息をついた。

そして諦めて目を閉じ、楽師の演奏に耳を立てると、遠くの方からドタドタと荒々しい足音が近づいて来るのに気がついた。

誰が来たのか。と、その足音に耳を傾けると、争うような何人かの足音と共に一人の男が現れた。

見覚えのある顔だ。

歳は三十を半ば越えた頃だろうか、髪には白髪が交じり始め、中肉中背の体つきに弛みが見え始めていた。

義藤がその男の名前を思い出せずにいると、横で父が笑顔で手招きをした。

それを見た男は、下人が引き留めるのを振り払い、大広間に足を踏み入れると義晴の前へ腰を降ろした。

見れば定頼や義賢を始め六角家の重臣達は皆、眉間にシワを寄せていた。


 どうやら男は、招かれざる客のようだった。

「上様、此度はいよいよのご上洛。まことにおめでとうございます。」

 深々と頭を下げる男に義晴は「良い良い」と面を上げさせて、酒を注いだ杯を手渡した。

その姿に義藤は「ああ」と合点がいった。

よく酒を持って屋敷を訪れていた男だ。父は飲み仲間などと笑っておった。

名前は確か…。

などと横顔を覗っていた視線に気付いたのか、男は義藤の方に向き直ると姿勢を正して頭を下げた。

「改めまして、公方様にはご挨拶申し上げます。

それがし、北近江守護、京極高吉と申す。

此度は上様の上洛を祝いたく馳せ参じました。」

 その北近江守護、京極高吉という言葉に義藤は戸惑いを感じた。


 守護大名の任命は将軍の権限の一つだ。

だから義藤は全国の守護大名の名を覚えていた。

たしか、北近江の守護大名は京極高延という者。京極高吉ではない。

ならば、この京極高吉とは何者か。

その義藤の困惑を感じ取ったのか、高吉は言葉を足して続けた。

「いま北近江におります京極高延は我が兄にてございます。

事情の知らぬ公方様には申し上げ難くありますが、兄の高延には守護大名たる資格がございませぬ。

兄の高延は、父の高清が家を追い出した廃嫡の者でございます。

父が京極家の跡取りに定めたのは、それがし高吉なのでございます。」

「なるほど、北近江におる北近江守護の京極高延は家を追い出された故、後を継ぐ資格はなく、跡取りに指名されたそなたこそ真の京極家当主ということか。」

 戦国の世に家督を巡って親兄弟が争う事は珍しくない。

おそらくこの高吉の京極家もそうした戦乱の時代の波に飲み込まれたのだろう。

操り人形の義藤だか、そのことに義藤は納得はしていない。

いつの日か雪辱を果たそうと研鑽を重ね、見識を広げている義藤には、徐々にこの京極高吉の素性が晴れてきた。

兄弟で家督を争っているのだ。おそらくは…。


 義藤が思案に更けて杯の酒を飲み干すと、高吉はすかさず義藤の杯に酌をした。

そうして、義藤との合間を詰めると、頭を下げて言った。

「流石は公方様。まことにその通りにてございます。

しかしながら高延は北近江に居座っているのを良い事に、自分こそが北近江守護にふさわしいと守護を自称しております。

これは父の遺志や幕府の意向を無視した由々しき事態。

公方様におかれましては、今一度、北近江守護に相応しい人物は先代京極高清の遺志を受け継いだ京極高吉であると、それがしの北近江守護職の公認をいただきたく存じ上げます。

なにとぞよろしくお願い致しまする。」

 それは、義藤の予想したとおりの言葉だった。


 しかし、それをこの上洛を祝う饗宴の場で言うか。

高吉の図々しさを苦々しく思っていても、「黙れ」と言う訳にもいかん。

そうして黙って俯いている義藤を見て、何か誤解したのか、高吉は更に言葉を続けた。

「公方様、なにも難しく考えることはございませぬ。

元々京極家の家督を継ぎ、北近江守護になるのは、それがしにてございます。

高延はそれを奪い取った、言わば盗人。

盗られた物を取り返し、元の持ち主に返し渡す。

ただそれだけの事にてございます。

それにこの話は御父上の義晴様にもご理解いただいておりまする。」

 最後の一言に義藤はハラワタの煮え繰り返るのを感じた。

守護大名の任命は将軍の権限。そして今の将軍は父では無い、余だ。

その余を差し置いて父との間で話しを付けるとは、余をないがしろにするにも程がある。

「思い上がるな、高吉。

いずれの者を守護にするか。それを決めるのは将軍たる者の役目じゃ。

そちがとやかく口を挟む問題では無い。」

「いえいえ、滅相もございませぬ。

しかし、父がそれがしを跡取りに定めたのも事実でございます。

ならば上洛を機に筋を正し、兄の守護職を解任し、それがしを北近江守護に据えていただきとうございます。」

 最後に高吉は床に額を擦り付ける勢いで頭を下げた。


 ここまでされては怒りは消え失せた。

それどころか一向に顔を上げない様を見ていると哀れみすら感じる。

しかし、事は守護大名の任命。頭を下げたからと言って簡単に任命できるものではない。

しかし義藤が答えに困っている間も、高吉は頭を下げ続けていた。

このまま良い返答を得るまでそうしておくつもりなのだろう。

さて、いかがしたものか。

 義藤が始末に困っていると助け船は定頼からやってきた。

「京極殿。この場は上様の上洛を祝うための宴の場じゃ。

それを参上するや否や上様に詰め寄り守護職の嘆願など無礼にも程があろう。

そのような嘆願は、上洛が成った後、室町の御所でやってくだされ。」

 定頼の声には侮蔑の色が含まれていた。

見れば定頼を取り巻く重臣達もまた高吉の姿を蔑んだ目で見ていた。

「お黙り下され定頼殿。

これは我が京極家の問題。六角殿には関係ござらん。」

 北近江守護は誰か。

それは高吉にとって後回しにできる問題ではなかった。

しかし、売り言葉に買い言葉。高吉の言い様に定頼は杯の酒を一気に煽って口を開いた。

「関係ないとはなんたる言い草じゃ。

家臣に家を乗っ取られ、国を追われて、

往く場を失ったお主を迎えたのは誰じゃと思っておるのじゃ。」


 その定頼の言葉に宴の席の空気は瞬く間に険悪なものになった。

定頼の怒声に楽師達は演奏を止め、高吉は手を震わせ無言で定頼を睨んだ。

 公方様の上洛を祝う饗宴の席でこれ以上の諍いは相応しくない。

しかし、沸き立つ苛立ちを抑え切れずに、両者は睨み合ったまま、時間ばかりが過ぎ去っていった。

誰も何も言えぬ雰囲気の中、このままでは埒が開かぬと義藤は二人のやり取りの中で生まれた疑問を口に出した。

「高吉。一つ問いたい。

先程そちは、兄の高延は廃嫡され京極家を追い出されたと申したな。

ならば何故、追い出された高延が北近江に残り、追い出したるそちが南近江におるのじゃ。

定頼はそちが国を追われたと申したな。

何があったのじゃ。」

 義藤の問い掛けに高吉は口を結んで目を逸らした。

しかし、北近江守護の話をするためには、その話題は避けては通れない。

仕方なく高吉は唇を噛んで肩を震わせた言った。

「あ、兄は、父に廃嫡され家を追い出されると、

愚かにも家臣の浅井亮政と手を結び、父やそれがしに対して兵を挙げたのでございます。」

 見れば高吉の目頭は赤く、潤んでいた。


 そんな様子を知りながら、隣で酒を煽っていた定頼は、まるで世間話でもするかのように語った。

「美濃の土岐殿、尾張の斯波殿と同じじゃ。

主家の混乱に乗じて家臣が実権を握った。

京極家の混乱に乗じて家臣の浅井家が自分の意のままに操れる高延殿を主人と仰ぎ、邪魔者の高清殿、高吉殿を北近江から追放した。

ようは家臣である浅井家に国を乗っ取られたのじゃ。」

よほど触れてはいけない話題だったのか、定頼の周りにいる家臣達は皆俯き口を閉ざしていた。

そんな中で一人定頼だけがカラカラと笑い声を上げていた。

「の、のぅ、高吉殿も定頼殿も、この場は祝いの席じゃ。

難しい話は後に置いておいて、この場は酒に興じようでなないか。」

 義晴が場を和ませようと高吉に定頼に酌をして廻る。

しかし、高吉はその杯を受け取れなかった。


 一筋の涙が零れる。

悲しさか悔しさか、その源は分からない。

情けない、みっともないと、堪えようとすればするほど、涙は勢いを増し、頬を伝い流れ出る。

「高吉殿。悪い酒にあたられたようじゃな。

しばし休まれた方が良いぞ。」

 善意からではあるまい。

定頼は呆れ返った声でそういうと、厄介者を追い払おうと側仕えの者を呼び寄せた。

「いや、一人で酔い覚ましに出る故、お心遣いは結構にてござる。」

 祝いの席でこれ以上醜態を晒す訳にはいかん。

言葉ばかりは丁寧に定頼の申し出を断って、高吉は一人、饗宴の間から立ち去った。


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