六角屋敷は三つの屋敷からなっていた。
夜が白み始めていた。
遠く鈴鹿の山々の稜線は白金に輝き始め、藍色の空は徐々に赤みを増していた。
そして、黄金に輝く太陽が山々の峰から姿を現すと、瞬く間に観音寺城の頂を城下の屋敷を村々を光の中に包み込んでいった。
遠くに聞こえる鶏の早鳴きの声に目を覚ました六角定頼は、寝床から起き上がり、寝所の襖を開けると息を飲んだ。
そこには黄金の朝日を浴びて、光に満ち満ちた観音寺城の姿があったのだ。
それはまるで、将軍を迎え、天下に号令を発せんとする我が六角家を天が祝福しているかのようだった。
「これぞまさに吉兆。なんと美しい。」
寝所の襖に手を掛けたまま感慨深く城を見上げる定頼に、そっと妻の御松の方が声を掛けた。
「殿、お体に触ります。」
光の満ちる観音寺城に心を奪われていた定頼の肩にそっと寝衣が掛けられる。
その寝衣を掛ける御松の方の枯れ木のような手に、定頼はそっと掌を重ねた。
肉はそげ落ち骨と皮だけとなった二人の手と手、それでも二人の心には温かさが染み渡った。
「殿、お疲れ様でございます。」
「いや、まだまだじゃわい。」
二人は何度同じ言葉を呟いただろう。
少年の頃、兄が戦で大怪我をしたと、預けられていた寺から連れ戻された日。
動けぬ兄に代わり、六角家を取り仕切るようになった日。
父が亡くなり、次期当主に兄を推す一派を説き伏せ、六角家当主になった日。
その度に定頼は「まだまだ」「まだまだ」と運命の階段を一段、また一段と登って行ったのだった。
「しかし、寺の小坊主じゃったこの儂が、天下に号令する日が来るとはのう。
あの頃には、儂は寺の住職にでもなって、経を読み香を焚いて一生過ごすものと思っておった。」
定頼がもう剃る必要もなくなった頭をペシャリと叩くと、
御松の方も「殿がそう仰るから、お城の朝日が後光のように見えまする。」と、カラカラと笑った。
沙々貴神社の傍らに敷かれた陣にも朝日が差し込んでいた。
白く柔らかく周囲を照らしていた朝日は、山間から太陽が姿を現すと、眩しく黄金にその姿を変えて義藤の姿を照らし出した。
「さて、往くか。」
小ぶりの茶碗に入った熱々のお茶をゆっくりと飲み干して、義藤は立ち上がった。
これから向かう観音寺城はまさに天下人の城に相応しく朝日を浴びて黄金に輝いていた。
それに引き替え将軍たる余には領地も城もない。
義藤は憎しみと羨望の入り交じった眼差しで観音寺城を望むと、陣を出て騎馬に飛び乗った。
その後に義賢、定武の騎馬が続く。
ここから観音寺城までは馬で四半刻。
いよいよ六角家の天下取りが始まる。
沙々貴の陣での一休みを終えた義藤は、義賢や定武と共に騎馬に乗った。
義藤はもう騎馬を走らせる事もなく、手綱を側仕えに任せると、騎馬はパカラパカラと側仕えの歩調に合わせて歩んで行った。
沙々貴の陣から石寺へ向かう道を行けば、もうすぐそこに楽市楽座の石寺の市と観音寺城が見える。
広がる田畑は徐々に小屋に替わり、泥埃に塗れた小屋は下人長屋や足軽長屋に替わった。
窮屈に立ち並ぶ長屋はやがて屋敷に替わり、そこから観音寺城に向かう大手道へ曲がれば、左右には六角家の重臣達の大屋敷が立ち並び、その正面には観音寺城がそびえ立っていた。
義藤を乗せた騎馬は側仕えが手綱を握って、観音寺城へ向かう緩やかな石畳の階段を一段一段と登って行った。
そして緩やかだった石階段の間隔が狭まり始め、観音寺城の城門が目前に迫った頃、側仕えが「六角の屋敷でございます。」と頭を下げた。
観音寺城の山麓、緩やかな石階段を上り詰め、他の家臣達の屋敷を見下ろす場所に六角屋敷はあった。
六角屋敷に着いた義藤は、騎馬から降りていよいよその屋敷の門の中へ足を踏み入れる。
余は将軍なのだ。何も気負う事は無い。
深く息を吸い込み、気を張って門を潜った義藤の目に入ってきたのは馬の嘶く馬屋で、その横には広場があり、奥には鶏小屋があった。
てっきり、門の向こうには立派な屋敷があるのだろうと身構えていた義藤は、おもわず拍子抜けに失笑を漏らした。
そうして横に続く石畳の階段に気付き、その先を見た時、義藤は息を詰まらせた。
義藤の目に飛び込んできたのは、一段一段巨石が敷き詰められた石段。
その石段の先には未だ珍しい石垣の城壁が左右に広がって、その上に壮麗な六角屋敷があった。
義藤はその荘厳な迫力に飲み込まれて身を強張らせた時、石段の上の六角屋敷の門が開いた。
「上様、お待ちしておりました。」
中から現れたのは、六角家当主・六角定頼だった。
せっかくの意気込みが目の前の馬小屋で勢いを失い、
油断して無防備になった義藤の心に切り込むように、南近江守護・六角家の威光が義藤に襲いかかってきた。
定頼はそんな義藤を嘲笑うかのようにニタリと頬を釣り上げ、一歩一歩石段を下り義藤に近づいた。
そうして定頼は石段を下りきると、立ち尽くす義藤の足下でゆるりと膝を着くと優雅に臣下の礼を取った。
強張る面持ちの義藤と満面の笑みを浮かべた定頼。
その二人の主従の関係はもはや誰の目にも明らかだった。
「上様、ようこそ我が六角屋敷へお出で下さいました。
上洛までの間、この六角屋敷が上様の屋敷にてございます。
どうぞご自由にお過ごし下さいませ。」
臣下の礼を取りつつ歓迎の言葉を述べる定頼に、
義藤は蛇に睨まれた蛙のように萎縮して、ただただ首を縦に振った。
「それでは屋敷にご案内いたしましょう。
定武、上様を屋敷にご案内いたせ。」
膝に付いた砂土を手で払いながら臣下の礼を解いた定頼は、
馬を馬屋に戻して姿を現した定武を呼び寄せた。
そして声を投げられた定武は、その熊のような大きな体を小さく屈めて、慌てて二人の前に躍り出たのだった。
そして義藤と定頼に一礼をして、一段石段を登った時、
後ろから若い義藤の声が聞こえた。
「定武とやら、余の調練は済んでおらん。
最後に剣の素振りをしたい。広場に案内せい。
それから、終いに汗を流す。湯浴みの用意もじゃ。
定頼、父上が参るのは湯浴みが済んだ頃になろう。
皆への挨拶はその時で良いな。」
子や孫ほどに年の離れた少年が怖じ気もなく、目の前にいる定頼や定武に命令をする。
その様子に定武は目を丸くして驚いたが、定頼はというと皺だらけの口元を引き上げてニヤリと笑みをこぼした。
「定武、上様の下知じゃ、奥の庭に案内すれば良かろう。
それと湯浴みの支度もな。」
定頼は孫ほどに年の離れた義藤に命令された事を意に介さずに、綽々(しゃくしゃく)と定武に指示を与えると、肝を抜かれた定武を急かすように一歩を踏み出した。
「そ、それでは、奥の庭にご案内致します。」
我に返った定武は慌てて石段を登ると義藤を屋敷の中へと案内した。
六角屋敷は三つの屋敷からなっていた。
義藤が通った正門の奥にあるのは本屋敷。
来賓の客や、朝廷や幕府からの使者を迎えてもてなし、また家臣達を呼び寄せて政議や軍議などの評定をするための屋敷だ。
本屋敷と観音寺城の大手門の間にあるのが表屋敷。
表屋敷は、南近江の領民の嘆願を受け付け、年貢や軍役の裁定をし、領地運営をするための屋敷、定武の仕事場でもある。
そして、一番奥まったところに建てられているのが奥屋敷。
ここは定頼や義賢、亀松丸など六角家の者が日々の生活を送る屋敷だ。
義藤は定武の案内のままに本屋敷にあがった。
待合の間、会談の間を通り、屋敷の向こう側には大広間があった。
「本日の饗宴はこの広間で行いまする。」などと説明する定武の言葉に頷きながら大広間を横切ると、その向こうに開けた庭があった。
その庭は闘鶏が行われたり、能や歌舞伎の舞台に使われるという。
「ここならば良かろう。定武、調練の支度じゃ。」
定頼に言われて定武は下働き衆を呼び寄せた。
そして下働き衆が持ってきた履き物と木刀を義藤に差し出すと、
義藤は無言でそれを受け取って、狩衣を脱ぎ捨てた。
上身裸となった義藤は、奥の庭に降り立つと、一心不乱に木刀を振る。
一つ。木刀がブンと鳴って風を引き裂いた。
二つ。フンと歯を噛みしめ、額に汗が浮き出てくる。
三つ。腕からの汗が振り下ろされる木刀にはじき飛ばされる。
奥の庭で木刀を振るう公方様を放っていく訳にもいかず、定頼と定武が縁側に腰を降ろすと、聞き慣れない声に呼び寄せられて御松も姿を見せた。
そして御松に連れらた女衆が縁側に火鉢を持ち運んで来る頃には、公方様を迎え入れるため直垂(武家の正装)に身を包んだ義賢も姿を現した。
「父上、これは?」
まさか公方様が木刀の素振りに精を出しているなどと思いも寄らなかった義賢の声に、「武家の務めじゃ。」と、あくび混じりにその様子を眺めていた定頼が眉を上げて答えた。
「上洛の下知は義晴様が来られてからじゃ。
それまではもうしばらく、上様のご酔狂に付き合うかの。」
定頼は義藤には聞こえないように悪態をつくと、痩せた手の平を火鉢で暖めた。
そして義賢が頬が緩んだのを義藤に悟られないように顔を背けた時、後ろの大広間からトントントンと軽い足音が聞こえて来た。
「父上、父上。ワシも剣がしたい。」
後ろを振り返れば、そこには義賢の子、亀松丸が立っていた。
「ほぅ、そうかそうか、若い内の鍛錬は良い。
これ、木刀を用意せい。」
孫の心掛けに気をよくした定頼は、義賢が言うより早く下働き衆を呼び寄せ、稽古の支度を持ってこさせた。




