審判の間
扉を開くと、眼前に深い闇が広がった。その漆黒は指先程の距離ですら何も見えないくらい濃く、踏み入る事を躊躇してしまう。
先へ進む為にはしっかりとした灯りが必要だと、壁の松明を持って行こうとしたのだが……どれもこれも膠で固めた様に、壁掛け金具から取り外す事は出来なかった。
(仕方無い)
カイは諦めて、鞄から蝋燭を取り出した。先程の戦闘の前に、火を吹き消して鞄にねじ込んだ蝋燭は、幸いな事に折れていなかった。それを松明に近づけ、火を灯す。
(行こう)
意を決し、仄かな光と共に、闇の中へと一歩踏み込む。
──その刹那
(!!)
何者かの手がカイの体を掴み、引き摺る様にして床に倒した。
カイは急いで起き上がり、前の部屋に逃げ込もうとしたが、扉は既に跡形も無く消えており、ただ闇が広がるのみだった。
床に転がり、今にも灯火が消えてしまいそうな蝋燭を拾う事も出来ず、カイは剣の柄に手を掛け、重心を低くして気配を探る。
人、獣、魔物──何れも此処には居ないのか、全く感知する事は出来なかったが、その代わりに……
『侵入者よ!』
……聞き覚えのある声が頭の中に響いた。
生ける亡骸達の小径で聞いた念話の主だ。その低い声色には、相変わらず煮えたぎる様な怒気が含まれていた。
『今、此処に到る所以を、偽り無く述べよ!』
来訪の動機を聞かれたので素直に答える。
「命の危機に瀕した子供がいる。救う為の力を貸して貰いたく、エンドゥカに会いに来た」
『救うだと……? 神人の血肉で、か!!』
カイの言葉に更なる怒りが沸いたのか、咆哮の如き怒鳴り声が響く。気の弱い者なら頭を抱えしゃがみ込んでしまうであろう。だがカイは何とか耐えた。それどころか、相変わらず向けられる理不尽な敵意に怒りを覚え、逆に冷静になり、思った事を率直に口にした。
「……確かに、少し分けて貰えれば良いのかもしれない」
念話の主が一瞬息を呑んだ様に感じた。その直後、先程とは若干違う感情を帯びた叫びが響いた。
『痴れ者が!! 企みを隠そうとも出来ぬ略奪者めが!』
まるで「ほら見ろ! 思った通りだ!」と顔を歪めて指を突き付ける時の様な、侮蔑の混じった感情が強く感じられた。動じる事無く、カイは続きを述べる。
「……だが神人は全知全能と聞いた。彼を救う方法があるならば是非、教えて貰いたい」
すると今度は鼻で笑う様な口調で応えがあった。
『成す術が無いならばそれが人の限界であり定め。諦めよ、人の子よ。遥々戯言を吐きに無駄足を踏む愚か者よ』
「違う。戯言では無い。その子供は国王の子であり、正統な王位継承者だ。その子の生死は国の未来を左右する。つまりは国に住む人々の命運にも関わる事だ」
言われるままには出来ずカイが反論すると、念話の主は少しだけ黙り、そして問うた。
『その子供は貴様の何だ?』
「縁は無い。会った事も無い。俺は依頼されただけだ」
『ほう……王族から金を積まれた、と言う事か』
「報酬は期待はするなと言われた。恐らく何も出ないだろう」
『ならば弱みを握られている、か。救えなければ処刑が待っているのだな?』
「もう弱みなど無いし、処刑される謂れは無い」
『では何だ!!』
念話の主は苛立ちを爆発させる様に怒鳴った。
『無報酬で、首輪を付けられた訳でも無い貴様が、見ず知らずの子供を救う為に命を懸けるその訳は!!』
「分からない」
『!?』
「……幼い時に身柄を保護して貰った事はある。一応恩は感じている。それくらい、だな……それ以外は自分でも良く分からない」
『ふざけた事を』
「ふざけてはいない。……傍からみれば正気じゃない事は自覚している」
念話の主の言う通り、この件で何ら得する事は無い。それなのに、此処までの道程は危険だらけで正に命懸け。クロードに監視されているからと言って、ここまで馬鹿正直過ぎると、ヘンリーじゃなくとも「どうかしてる!」と言いたくなるだろう。その事は十分理解している。
では一体何故自分は、こんな事に身を投じているのか?
『人間は欲深く、自己中心的で卑怯者だ』
念話の主が呟く様に言う。
『他者の為に犠牲を払う者などいない』
「そんな事は無い」
『真の自己犠牲や献身など存在しない。承認欲求の為の芝居や真似事。そうでなければ、見下す対象への傲慢とも言える憐みだ』
「憐み……」
『貴様の言葉は欺瞞に満ちている! 化けの皮を剥がすまでは此処から出さぬぞ!』
(憐み……ああ、そうか)
「今、理由が分かった」
第三王子の話を聞いてから、心の片隅で靄の様に漂っていたもの。王族と平民と言う心理的な隔たりによって、自ら暈していたある心情が、今のやり取りによって明確に言語化された。
「幼子が王位継承の立場に居ると言うだけで、命を奪われるなんて……不憫でならないから」
この気持ちに嘘は無い。確かに、しがらみで仕方無くこの地にやって来て、神人への好奇心を多少は持ちながら、エンドゥカの住処に入った。だが同時に、第三王子の救済を真摯に願っていた事も事実だ。
『……』
「だから頼む。エンドゥカと、話だけでもさせてくれ。害意が無い事を証明する」
そう言ってカイは闇の中、剣とナイフを手探りでホルダーごと外し、手を離した。金属が床に落ちる音が響く。しばらく黙っていた念話の主が、次に投げ掛けた言葉は、静かな問いだった。
『見ず知らずの子供を命を懸けて救う。その心に偽りは無いな?』
「ああ」
そう答え頷いた瞬間、眩い光が視界を覆いつくした。咄嗟に目を瞑り、次に開いた時には、目の前の光景は変わっていた。
その有様はまるで巨大な神殿の内装だ。
漆黒の鉱石で出来た重厚な柱が幾つも立ち並び、純白の壁と天井は金銀の装飾の他、赤や青といった鮮やかな色の紋様で彩られ、床は艶の無い鈍色のタイルが美しく敷き詰められている。相当な富と力を持った信徒達が建てた神殿であろう。
目を見開いて辺りを眺めていたカイの視線が止まる。
カイが立つ場所から丁度真正面の、遥か奥に位置する壁に、大きな両開きの扉があり、半分開いた隙間から、上に登る階段が見えたのだ。
(地上へ戻る階段か? ……エンドゥカは何処だ?)
取り合えず確認だけでもしよう、と、カイはその大きな扉へ向かう事にした。暗い灰色のタイルの上を、レンジャーブーツが静かに進む。しかし途中で奇妙な物を見つけ、一度足を止めた。
扉の少し手前、一本の柱の根元に、良く見ると穴が開いている。
まるで貴族の庭園にある池の様に、真四角に床が抜けているのだ。
(……何だ?)
首を傾げつつ、再び歩き出す。段々と近づくにつれ、その穴の中で何か動くものがあり、耳障りな音を立てている事が分かる。かなり嫌な予感がするが、目で見て確かめるしかない。
完全に近づいて、足元を覗いたカイは、恐ろしい物をそこに見た。それは全て蟲であった。
蜘蛛、ムカデ、尾に針を持つモノ、肉食の甲虫、毒蛇、腐敗物に集る黒い虫。
尋常では無い数の危険でおぞましい生物が、水の代わりに溜池を埋め尽くし、ざわざわ、カリカリと蠢いている。
此処に落ちたらどうなるか。
想像する事を己の頭が拒絶した。
──その時である。
言葉を失い、呆然としているカイの耳に、小さな悲鳴が降って来た。ハッとして視線を上げたカイの目に、有り得ない光景が映る。柱から横に伸びる天井の梁に、子供がぶら下がっていたのだ。
「……嘘だろ……」
余りの事に漏れた呟きが、その子供の耳に届いた様子は無かった。細い両腕だけで必死にしがみ付いているからそれどころでは無いのだろう。エルアガで見た事のある服装と褐色の肌をしているが、肩までの髪は白い。ハーリナ達とは違う地域の者だろうか。年齢は五、六歳位に見える。その様な子供が、こんな所に?
(罠か!? いや……でも!)
試されている事は分かる。問題はあの子が本物の人間なのかどうか。侵入者に対する怒り、そして川を渡る舟の陰湿な仕掛けを思えば、本物の可能性が高い。カイを試し、罰する為ならば、人間の命など何とも思っていないだろう。
この毒蟲達の中にあの子供が落ちてしまったら……!
カイは直ぐに覚悟を決めた。マントを外し、蟲の溜池の何処に子供が落ちるか辺りを付ける。
(大丈夫、このマントは厚手だから、耐えられる筈だ)
そして、エルアガの市街地、暗闇の部屋、花の香りの中で聞いたあの言葉を再び思い出す。
『貴方様には毒は効きません』
(ワリディヤ……貴方の言葉、信じます!)
子供が苦しそうに呻いて、片手を放す。あえて声は掛けない。子供がこちらに反応を示し、落下位置が狂う恐れがあるからだ。
子供から目を離さず時を待ち、辺りを付けた場所にマントを、広げる様に放る。
マントを放った瞬間、悲鳴を上げて子供が梁から落ちた。
(!)
カイはマントの上に身を躍らせて、落ちて来た子供を受け止めた。その衝撃で体が沈み、マント越しに無数の針や牙が脚に食い込む。歯を食いしばり、子供を力任せに、投げる様に床の上へと押し上げると、その挙動で更に下半身が深く沈んだ。蟲達の掴む力は予想以上に強く、既に身動きが取れなくなっていた。
子供が泣きそうな顔でカイを見て、手を伸ばす。しかし蟲の群れが子供に寄って行こうとするのを見て、近づかせては危険だと悟る。カイは痛みに耐えながら扉を指さし、励ますように子供に言った。
「大丈夫! あそこに上への階段がある! 俺に構わないで行け!」
泣き顔で頷いた子供が、弾かれた様に走り出す。その背中を見送り、カイは声の限りに叫んだ。
「エンドゥカ! お願いだ! その子は無事に帰してやってくれ!」
次の瞬間、カイは黒い溜池の中に引き摺り込まれた。