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4 〔完〕


 炎は中宮なかのみやの本殿と他のいくつかの殿舎を焼き、翌朝には鎮火された。瓦礫の中からは、放火の下手人と思われる久慈くじ将軍の亡骸も回収された。狂ったように笑いながら灯火台の油を巻いている彼の姿は、数人の官人たちに目撃されていたのだった。


 この一件は、将軍が造反を企て、中宮に火を放って大王おおきみ大泊瀬皇子おおはつせのみこを弑逆しようとしたのだ、と皆が口をそろえて語り合った。


 不幸にも若くして父王を喪った皇子の即位の儀は、宮の修理に片がつき、喪が明けた日に執り行われることとなった。




 盛春の昼下がりの空は晴れ渡っている。

 稚武は肩まで袖をまくり上げ、額に汗をにじませながら、倒壊した中宮の大掛かりな後始末を仕切っていた。


 ありがたいことに力強い家臣たちは大勢いてくれた。倶馬曾クマソで戦いをともにした磯城いき隊長たちや、日嗣皇子留守の間に政務を預かっていてくれた宰相たち。彼らは大王を亡くしたことに深く沈んでいたが、稚武がいち早く立ち直ってはきはきと指示を出し始めると、つられたように少しずつ前向きになってくれたようだった。もとより稚武には人望があり、哀しみの底から立ち上がって未来を見据える姿は、人々の尊敬を集め、たくましい帝王の誕生を予感させたのだ。


「稚武」


 賑やかな修繕現場で呼ばれて、稚武が振り返ると、風羽矢が馬を引いて立っていた。


 風羽矢は、帰ってきて以来、数日の間は体調が思わしくなく寝込んでいた。しかし最近は以前の元気を取り戻して、忙しそうに稚武の手伝いに走り回ってくれている。


「どうした、どこか出かけるのか」


 稚武が駆け寄って尋ねると、風羽矢はうん、と頷いた。


 それから何か言いさしたが、はっとしたように稚武の右肩を見つめた。そこにある、鋭い矢じりに裂かれた傷あとを。


「……その傷。僕があの時、射た……」


 風羽矢は目元に暗い色を落とした。痛々しい稚武の傷痕は、かつて熟田津にきたつの崖の上で、風羽矢が射たものに間違いなかった。


「ん? ――ああ」


 だが稚武は笑い飛ばすように明るく言った。


「治ったよ。治るもんなんだよ、こんなの」

「でも、痕は残ったんだね」


 目を細める風羽矢に、稚武は少し声音を改めて穏やかに言った。


「そうだな。どんな小さなことでも、なかったことにできることなんて一つもない。そういうもの全部背負って、それでも背筋伸ばして生きていかなきゃな」

「うん」


 風羽矢も微笑んだ。


「でも僕たちは一人ではないから、重たいものに押しつぶされそうになっても支えあって生きていけるんだね」

「おっ、くさいこと言うな、お前」


 稚武はからかうように言ったが、ずいぶんと満足そうだった。それから、首から下げている勾玉を手にとった。


「見ろよ、風羽矢」


 稚武の手の中で、薄紅色の玉はほのかに光を得た。


「新しい神器だ。これには、宮古と、父上が宿っている。俺にはそう思えるんだ。……色んなことからすっかり立ち直れたのかと聞かれたら、やっぱりそうとは言えないよ。でも俺には、お前やみんながついていてくれるから。父上たちもきっとついていてくれるから……前を向いて歩こうって決めたんだ」


 風羽矢が心から相槌を打つと、稚武は若々しい青葉のように瞳を輝かせた。


「父上との約束を果たすよ。俺は立派な王になる。――風羽矢、覚えているか、俺の夢」


 風羽矢もにやりとして即答した。


「『倭国と、海の向こうの七つの国の帝王になる』」

「そのとーり!」


 稚武は勢いづいて言った。幼いころに夢を語っていたのと同じ瞳で。


「くよくよしている暇はないんだ。父上から託された倭を、俺が平和な良い国にしなくちゃならない」

「大丈夫。きっとできる、君なら」


 風羽矢は確信を持って言った。それから傍らの馬がぶるんと鳴いたのでやっと思い出した。


「そうそう、稚武。僕、今から泊瀬はつせに行って来ようかと思って」

「泊瀬へ?」


 稚武が瞬くと、風羽矢はいくらか言いにくそうにした。


桐生兄きりゅうにいはもう帰ってきているんだろう。――僕、倶馬曾にいたころの記憶ってあまりないんだけど、桐生兄を傷つけたということだけは少し覚えているんだ。真っ暗な阿依良アイラの宮で、桐生兄が血だらけだった。……あれは、僕のせいなんだろう?」


 稚武は思わず息を止め、頷かなかったが、否定もしなかった。


 風羽矢は承知していた。そして覚悟の決まっている声で言った。


「許してもらえるとは思わないけれど、せめて謝って来たいんだ。泊瀬に帰るのはこれで最後になってもいいよ」

「桐生兄はもう許していたよ」


 稚武は緊張を解いて言った。風羽矢が信じられないという目をしたので、にっと笑う。


「こっちも一段落ついたし、俺も一緒に行くよ。桐生兄たちにはずいぶん心配かけたしな」

「わたしも行く」


 出し抜けに名乗りがあり、二人が振り返ると、真剣な顔をして咲耶が立っていた。腰には、普通の女性が好んでそうするように、美しい花形の小鏡が紐でつるされている。神器の鏡であった。


「そんなところに一人で何やってる。立ち聞きなんかして、趣味悪いぞ」

「たまたま通りかかったの」


 稚武の言い様にむっとしながら、咲耶は彼らに歩み寄った。通りかかったというのは嘘ではなかった。ただ、秋津の都というこの宮に来てからというものの、右も左もよくわからないし、いつも稚武か風羽矢についていてもらうわけにもいかないしで、居場所をなくして宮の中をぶらぶらしていたのだった。


「桐生に会いに行くんでしょう。わたしだって会いたいわ。連れて行ってくれたっていいじゃない」

「別にいいよ」


 むきになったような咲耶に、稚武はさらりと答える。それから風羽矢に楽しげに笑いかけた。


「よっしゃ、風羽矢。改めて里帰りだ」




 山のふもとに広がる草原は穏やかで、濃い青空が天から地平まで覆っていた。その野原の中を、馬に乗った稚武と風羽矢は競うように思い切り駆け抜けた。こんなに何のしがらみもなく、遠慮なしに互いに挑戦したのはいつぶりのことだったろう。二人は心から笑いあった。咲耶はというと、稚武の後ろに乗って必死で彼にしがみついているのだった。


 しばらくして、さすがに馬が走り疲れたころ、緩やかな道を歩かせながら稚武はしばらく考え込んでいた。それから、やおら隣の風羽矢に話しかけた。


「……なぁ、風羽矢。この御祝玉みほぎだまだけど、お前にだったら預けておいてもいいと思うんだ。お前は自分の御祝玉を失くしちまったわけだし……それに、次の大王になるのだって、本当の本当ならお前が―」

「僕に神器を持つ資格はないよ」


 稚武の言葉をさえぎって、風羽矢はきっぱりと言った。それから稚武の背中の咲耶を見やる。


「咲耶、聞いておきたかったんだけど、君は稚武のつるぎを持つことができる?」


 一瞬の間をおいて、咲耶と稚武は同時にあっと声を上げた。


「いいえ、持てなかったわ。ほんの少しも持ち上げられなかった」

「そうだ。風羽矢も前に試してみて、持ち上げられなかったんだよな。おかしいじゃないか、お前も咲耶も、皇に違いないはずなのに」

「つまりはそういうことだよ」


 風羽矢は肩をすくめて見せた。


「僕も咲耶も、皇の後継になることはできない。僕らの血は草薙剣から見放されているんだ。――薙茅皇子かるかやのみこが玉と鏡だけを都から持ち出して、剣を奪っていかなかったのは、きっと剣に拒まれたからだよ。僕らの父は禁忌を犯して妹に恋して、だから剣を持つことができなくなったんだと思う」


 風羽矢は淡々と言った。


「僕の子供も、そのまた子供も、きっと二度と皇の血に目覚めることはない。多分ね」


 稚武が苦い顔をして聞いているのを見て、風羽矢はにこりと笑った。


「いいんだ。僕はやっぱり、君の隣にいるのが性に合っている」


 風羽矢の笑顔が作りものでないのを知り、稚武も安堵して心から微笑んだ。


 二人がにこにことしながら会話を終わらせたのを見計らい、咲耶が思い切って尋ねた。


「ねえ、わたし、これからどうしたらいいのかしら。もしかして倶馬曾に帰されるの?」


 稚武はわずかに顔だけで振り返った。


「泊瀬はいいところだぞ」


 咲耶は素直に声を落とした。


「……でも、あなたは都で暮らすんでしょう」

「おう、早めに都移りをしないとな。今の石上いそのかみには、父上や薙茅皇子たちのために大きな社を造ろうかと思っている」


 え、と目を丸くする咲耶に、風羽矢がくすくすと笑う。


「泊瀬を都にするって、稚武の小さいころからの夢だったよね」


 さらに咲耶が目を大きくすると、稚武はもう振り返らなかった。その様子に、風羽矢はひらめいたようににやっとして言った。


「そうだ、稚武。神器の玉は、僕じゃなくて、咲耶に譲るべきだろう。それは皇の御祝玉なんだから」


 咲耶はぱちくりとする。


「ミホギダマって何? 倶馬曾では聞いたことないわ」

「……安産のお守りだよ」


 むっつりとして稚武は言った。


「欲しいならやるけど?」


 咲耶はきょとんとしたが、すぐに強気に微笑んだ。


「くれるなら貰ってあげるわ」


 そして、後ろから稚武を抱きしめる。


「お返しに、わたしの鏡をあなたにあげる。あなたのそばでわたしの幸せを探してみるのも、いいかもしれないって思うから」


 唇を引きむすんだまま頬を赤くしている稚武に、風羽矢は、倭を照らす太陽のようにまぶしく笑った。





〔完〕




ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。


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