2.砂の果実。 開幕。 6
……不思議な感覚だった。
水中で呼吸が出来ると言うのは。口の中まで水が入って来ているが、喉や肺には到達しない。舌の付け根辺りで水は目に見えないフィルターに阻まれていた。その先へ進むことができるのは、空気だけだった。水に溶け込んでいる空気が濾過されるように水から出てきて、天為の肺を満たしてくれた。
……悪くないね。
思いながらも天為は最深部でこの術が解けた場合、生きて水上に帰られない事を理解した。とは言え、今は役割があり、震えている場合ではない。いつもそうだ。成し遂げる……それは挑んだ者だけの特権なのだ。天為は潜る。裸同然の姿で呼雪だけを手に。ごぼり。ごぼり。ごぼり。
◆
……異常です。名前といい、痣といい。」
セツナは不満そうだ。高坂は相手にしない。ハルは、初めて知った天為の背中の痣の不気味さに……いや、でも……どうだろう?……そう……心惹かれた。いわゆるギャップなのかもしれない。でも、それ以上の何かを彼女は感じていた。
「だ、大丈夫なのかな、天為。」
間抜けキャラの高坂は答えてしまう。
「大丈夫だ。生まれつきの酷いあざだが、あいつは優れた癒やし手だ。心配する事はない。」
成る程。と、セツナは心の中で呟いた。彼女は全てを理解した。彼は、ノードなのだ。間違いない。でも、何故?
何故……歩いている????
愛らしい姿で浮かぶセツナの瞳はしかし、驚愕と狂気で滲んでいた。様々な覚悟を決めた瞳だった。
◆
あ。
天為は察した。近づいてくる。素早く身体を捻り湖底を転がる。
ごうん!
重い衝撃が天為を押さえつける。それはすれ違う。巨大な魚だった。体長5メートルを超える岩のような牙と膨れ上がった頭部を持つ巨大魚だった。左右それぞれ5つの瞳を持つそれは天為を掠めて通り過ぎ、旋回して、また天為に襲いかかる。水中で自由の利かない天為には何度も回避出来る攻撃ではない。普通の状態の彼、では。
(メインディッシュならともかく、オヤツ代わりに食べられるんじゃ成仏出来ないって。)
意味不明のクレームを呟きながら、天為は大きく息を吸い込む。ゆっくりと吐き出す。いつもの儀式だ。息が吐き出されると共に、天為の精神のギアが上がっていく。がしり、がしり、と加速する。相対的に世界は速度を落とす。天為の精神が研ぎ澄まされ、世界と接続される。自他の境界がぼやけて溶けていき、落ち着き平らになっていく。そして、極限の集中状態が彼に訪れる……その、瞬間。
世界は時間を止めた。
無限の精神世界に彼は存在した。その時……いや、時と言うのはここでは相応しくない……彼は世界の全てと繋がり、それを把握していた。
……心頭滅却。
この精神状態を彼の父である鬼谷子和尚は、そう呼んでいた。父を思い出し、天為は懐かしく、寂しく暖かい気持ちになった。地底湖の冷たい水底で巨大怪魚を目前に抱く感情としては相応しくない。かはは、と天為は笑った。ゆらり、と呼雪を構える。流れるように古刀を振るう。
天為には見えていた。巨大怪魚の動きが。この後、どの鰭を動かして泳ぎ、どの様に天為に食らいつくのか。全てが事前に見えていた。未来が見えるのではなく、怪魚がどの様に動こうとしているのかが見えるのだ。加速した天為の精神は、今の敵の筋肉の動き姿勢、目線、場の状況を取り込んで認識し、そこから敵の動きを予見してしまうのだ。今もそうだ。はっきりと視認出来るくらいに先が見えた。天為は紙一重で怪魚の攻撃をかわし、そうしながら、回避不能の間合いで刀を繰り出す。怪魚は獲物を仕留めたと感じた次の瞬間には口から上下に切断されて絶命していた。
天為は振り返りもせずに湖底を蹴り、怪魚の血を引きながら再び水源探しに戻って行った。呼雪に込められた月光の術の明かりが徐々に遠ざかり、この地底湖の主の死体は静かに食物連鎖の最下層に沈んでいった。




