わたしの話1
終章 わたしがみせる夢
その禿げ頭の男は、わたしの話が訊きたいって言う。聞いたら、大人しく帰るって約束したから、話してやることにした。
なんで、こんなことになったか。何処から話せばいいんだろう。ああもう、面倒くさいな。最初から全部話しちゃえ。
「グレーテル・バイスシタインの兄ヘンゼルは、グレーテルが物心ついた頃にはもう、弱虫で泣き虫で、近所の悪童どもにウジ虫みたいに苛められてたわ。 グレーテルは気が付いたら、この一つ年上の「お兄ちゃん」の世話に追われてたの。
ヘンゼルが苛められているところに駆け付けて、苛めっ子どもを「お兄ちゃんを苛めちゃダメ!」って、拳で説き伏せてたんだよ。たいていの奴には負けなかったな。それに、転んでもただで起きるようなしおらしい娘じゃなかったから、一目も二目も置かれてたわ。
でも、ヘンゼルは喜ばなかった。グレーテルが拳を振り上げて大暴れすると、苛めっ子どもより先に気が遠くなって、ぱったりと倒れちゃう。帰り路の途中、グレーテルの背中で目を覚ましたら、ヘンゼルは決まって不貞腐れてたわ。
「バカ、グレーテル。喧嘩しちゃだめだって、いっつも言ってるだろ。あんなこどもっぽい奴ら、かまうこと無いんだ。ほうっておけば、飽きてどっかに行っちまうさ。なのに、お前がしゃしゃり出て来るから、あいつらは面白がって、ずっとこの遊びを続けてるんだぞ」
不甲斐ない「お兄ちゃん」は、それでいて「お兄ちゃん」の自負心が強い。面倒くさい奴なのよ。
「兄の危機に颯爽とかけつけて、悪い奴らをばったばったと捩じ伏せる妹」なんて、不相応にプライドの高いヘンゼルには迷惑でしかなかったのよね。苛めっ子どもに囲まれて、息も出来ずにヒイヒイ泣いている癖に、グレーテルの前では、強く頼もしい「お兄ちゃん」でいたがるんだもん。
グレーテルは情けない「お兄ちゃん」が、拗ねて、癇癪を起しても、愛想を尽かさなかった。それどころか、ますますヘンゼルから離れなくなったわ。
「お父さん」の影響だろうな。グレーテルの「お父さん」は、国を守る地衛兵で、壁の中でも最も誉れ高い、城内を守る隊に所属する、兵士長。ご存じの通り。
豪放磊落って言葉が具現化したみたいな「お父さん」のことが、グレーテルは大好きだったね。
喧嘩も「お父さん」から教わったんだよ。ヘンゼルが、そういう乱暴な遊びを嫌うから「お父さん」に訓練されるのは、もっぱら活動的なグレーテル。嬉しかったし、楽しかったなぁ。「お母さん」は、グレーテルが泥だらけになって転がりまわっていると、眩暈を起こしたけど。
「お母さん」がまともだったころ、覚えてる? 近所で評判の美人だったのよ。ほら、神経が細くて、ちょっとしたことでこの世の終わりみたいに落ち込む、ちょっと暗い性格の。覚えてなくても、無理ないかもね。引っ込み思案で、気が小さくて、いつも大きな「お父さん」の背中に隠れてたから。目が悪いことを言い訳にして、表に出ようとしなかったし。
そう言うところが、ヘンゼルとそっくり。波長が合ったんだろうな、ヘンゼルは「お母さん」によく懐いてたよ。「お母さん」は、喧嘩を嫌がる意気地なしのヘンゼルを「優しい子」だと言って、よく頭を撫でてやってたっけ。
あなたはよく、グレーテルは「お父さん」そっくりだって言ってたよね。そう言われると、グレーテルは、胸が膨らむ様な誇りを感じてたの。グレーテルは、あなたの立派な体と禿げ頭と、なよなよした物腰が好きだったんだよ。
「お父さん」は、弱い人たちを守る、正義の味方。グレーテルは、そんな「お父さん」に憧れてたの。「お父さん」のようになりたかった。だから、身近にいる、弱い、困った人……ヘンゼルを守ることを、自分に課してたんだ。
大好きなお父さんが人喰いにされて、銀の祓い火に焼かれて死んだとき、とても悲しかった。だけど、グレーテルはおち込んでばかりはいられなかったの。「お母さん」が、おかしくなったからね。
「お母さん」は、泣いて謝るヘンゼルを豚小屋に押し込んで、豚の生活をさせるようになっちゃった。
意にそまないことがあれば、容赦なく鞭で打って、金切り声で罵倒してたわ。抵抗すればいいのに、ヘンゼルは、ひたすら我慢してた。ただじっと、暴力の嵐が過ぎ去るのを、身体を固くして待つの。ばかみたいに。
ヘンゼルの暮らしは、豚以下だった。気持ちの悪い残飯の混ぜ物を喰わされて、檻から一歩も外に出られない。傷だらけで、汚物に塗れて、ひどい臭いがしてた。
そのうち、自分が人間だったことを、忘れちゃったのかな。汚らしい格好を気にしないで、皿に口をつけて、汚物交じりの残飯を、貪り食うようになった。
グレーテルは、狂った「お母さん」から、何度もヘンゼルを逃がそうとしたよ。でも、いつもあと少しのところで「お母さん」に見つかっちゃって、部屋に閉じ込められちゃうの。ヘンゼルは「娘を誑かした忌まわしい豚」って酷く罵られて、酷い折檻を受けたみたい。そのうち、グレーテルが助けに行っても、怯えて隅に張り付くようになったんだ。虚勢された家畜みたいにね。
意気地無しのヘンゼルの諦めは「お母さん」を増長させたわ。「お母さん」は、ヘンゼルを本当に、家畜の豚だと思い込んじゃったのよ。毎日、にこにこして、四人分の食事を用意してた。グレーテルの話に耳を貸さないで、妄想の中の、楽しい暮らしから帰って来ない。
「お母さん」は、何度か、豚をつぶしてご馳走にしようとしたわ。でも、ヘンゼルも頭をつかって、食事に入ってた骨を、指のかわりに差し出した。やせっぽっちで肉がついていないから、ってことで、豚の屠殺は先延ばしになってた。
でも、そんなのはただのその場しのぎよ。グレーテルの十二歳の誕生日に、とうとう、豚は、シチューの具にされることに決まったわ。
「お母さん」は、本気でヘンゼルを殺そうとしてた。その肉を捌き、食べるつもりだった。
あの狂女に「お母さん」の面影は、もう、見えなかった。あの女は、気が狂った悪いやつ。悪い魔女だったんだ。
グレーテルは、「お母さん」の言いつけ通り、かまどに火を入れた。「お母さん」に火の具合を見てくれるように頼んだ。火力を確かめようとして、かまどを覗きこんだ「お母さん」を突き飛ばし、蓋を閉めた。
悪い魔女をやっつけたグレーテルは、燃え滓から鍵を取り出して、ヘンゼルを死の淵から救いだしたの。
興奮したグレーテルが、悪い魔女をやっつけたんだって、身ぶり手ぶりを交えて話したら、ヘンゼルは、真っ青になった。でも、つまらない理屈を捏ねて、グレーテルを責めたりはしなかった。あいつだって、そこまでバカじゃない。
ヘンゼルは、震えが止まらないグレーテルの両手を握りしめて、しっかりした口調で言ったよ。
「今度は、おれが守る。おれは、お兄ちゃんだ。きっと、お前を守ってみせるよ」
って。
生まれて初めて、ヘンゼルが頼もしく思えた。ヘンゼルは、世間の混乱に乗じて、食べ物や衣類をくすねてきては、グレーテルに与えてくれた。最初のうちは、本当に頼もしいお兄ちゃんだった。
でも、ヘンゼルは、すぐにつまらないぽかをやらかしたわ。大人の甘い言葉にころっと騙されたの。
「お菓子の家に連れて行ってあげる」なんて、見え見えの嘘に騙されて、淵に建つ恐ろしい屋敷へ連れて行かれた。そこで、グレーテルは、生きたまま、魚のかたちをした人喰いの餌にされた。
グレーテルは、気丈な娘だった。年の割には、度胸も据わってた。でも、所詮は、十二歳の小娘だったのよ。赤ん坊みたいに泣き叫んで、ヘンゼルに助けを求めるしか出来なかった。
ヘンゼルは、グレーテルを助けようとして、意地を見せたよ。でも、その中途半端な献身のお陰で、グレーテルは、下半身をじっくりと、時間をかけて喰われる羽目になった。
挙句の果てに、意識を失うことも出来ない苦痛に悶えながら、最後に聞いたのは……グレーテルのことを見捨てるって、叫んだヘンゼルの声だった。
そうして、死にかけているグレーテルに、生きる銀蝋がとりついて……「わたし」が生まれたの。