初めての失敗、失敗続き
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入口から入って右手の部屋に入ると、炊事場だ。ここで作ったものをここで食べる設計で、食卓と椅子が二つ、置かれている。右手の扉には便所と物置、左手の扉は脱衣所と洗濯室、風呂場があるそうだ。
勝手がわからないなりに、ルシカンテは食事作りに奮闘した。床下貯蔵庫から、グレーテルと二人がかりで引っ張り出した牛肉を、持参した脂身を着るナイフで肉塊に分けて、皿に盛る。あまり新鮮な臭いでは無かったので、残りは塩に漬けこんだ。
肉を並べると、足の長さが不揃いな食卓はがたがたと揺れた。ルシカンテは注意して、ナイフを食卓に並べた。脂身を切るナイフは、何処を探してもなかったので、大きな肉切りナイフで妥協した。ありもので間に合わせた、急ごしらえの食卓だが、それなりに見栄えがする。ルシカンテは少し得意に感じた。
掃除を終えて下に降りて来たギャラッシカは、食卓につくなり、肉に食らいついた。腹が空いていたようだ。向かい側の席に腰を下ろしたグレーテルは、目を丸くしてギャラッシカの食べっぷりを眺めていた。ヘンゼルの体格から察するに、もりもり食べる男ではなさそうだから、ギャラッシカのような健啖家を見たのは、初めてなのかもしれなかった。
グレーテルが一口も肉を食べないうちに、ギャラッシカは、半分以上をひとりで食べた。グレーテルはその後も、肉をナイフで刻むばかりで、食欲がない様子である。
昼時を少し過ぎて、ヘンゼルは冬眠明けのクマのように、寝ぼけ眼で起きだした。上着は脱いでいる。皺くちゃのシャツの袖を、肱までまくりあげていた。
ルシカンテは
「腹減ってるべ? さぁ、召し上がれ」
と声をかけた。ヘンゼルは、食卓の光景を見て、立ちくらみを起こした。ルシカンテが慌てて支えようとした手を振り払う。食卓を指さして、喚いた。
「これは、なんだ! 犬の餌だ! ここは、俺らの城だぞ。ここにあるものは全部、俺らの稼ぎで手に入れたものだ。どんな落ち度があって、こんなひどい扱いを受けなきゃならんのだ!」
怒り心頭のヘンゼルが食卓を両手でばんばんと叩くたびに、皿がとびあがり、肉の滴りが飛び散る。怒りの原因がわかりかねて、ルシカンテはおたおたした。食卓をどの角度から見ても、落ち度が見つからない。
ヘンゼルは、ギャラッシカとグレーテルを追いたててしまうと、二人きりになってすっかり委縮するルシカンテを椅子に座らせた。彼自身は正面の椅子に腰かけると、食卓に頬杖をつく。指先でとんとんと食卓を叩いた。
「貯蔵庫にあった肉の塊のうち、どれくらいを出して来た?」
「……全部です。これくらい、塩さ漬けてとってあるけども」
ルシカンテは、手で顔と同じくらいの大きさの輪をつくってみせた。ヘンゼルの表情が、いよいよ険しくなる。
「その牛肉が、いくらすると思う? 俺がいつも通りに、普通に食っていたら、一月はもっただろう、その牛肉の塊が。俺が昼寝してる間に、君が貯蔵庫から引っ張り出して、ぷぅんと臭うまで常温で放置してくれた、その牛肉の塊が!」
牛の肉は、ヘンゼルが怒り狂うほどの高級品だったらしい。貯蔵庫には、これしか肉が無かったから、手をつけてはいけない肉だとは思わなかった。しかし、言い訳をしようにも、ヘンゼルがそれを許さない怒気を漲らせていたので、ルシカンテは、ひたすら謝った。
「ご、ごめん……。だども、まだ食べれるから、食べて?」
腹が満たされたら、苛々も少しは収まるはずだ。そう思って勧めた皿を、ヘンゼルは気味悪そうに一瞥し、ふいとそっぽを向いた。
「ここじゃ、浜と違って、肉を生食する野蛮な文化はないんだよ。俺に食わせたいなら、ちゃんと料理して……」
「や、野蛮だって!? 肉は新鮮なうちに生で食うのが一等旨いに決まってるべや! したっけ、あれ全部干し肉さして食うのけ!?」
「そのまま食うか乾燥させるかしか、選択肢がないのは、おかしいぞ! 煮たり焼いたり、色々な調理法があるだろ!」
「なして、まだ臭ってねぇ肉さ火ば通さねばならねぇだ! それこそ勿体ねぇ」
「だから! 生で食うことにこだわるな! 君の故郷とここじゃ、風土も気候も食料も違うんだよ! 牛肉は、生で食べるとひどい食あたりを起こすことがあるんだぞ!」
すかさず言い返そうとしていたルシカンテの、戦意が萎む。みるみるうちに青褪めた。
「ギャラッシカさ……生で食べさせちまった……」
「ああ、彼なら、大丈夫だろ。何を生で食っても、死にはせんさ。なにせ、君らは生まれてからずっと、無茶な食生活をして、胃袋を鍛え上げてきたわけだからな。俺の繊細な胃袋の強度を試すような料理は、今後はよしてくれ」
ヘンゼルは疲労困憊してそう言うと、竈の前に移動した。竈に火を入れ、底の浅い鍋を上にかける。食卓にまな板を置き、肉切りナイフで肉を一口大に切りながら、不機嫌に言った。
「これくらい手を加えてくれないと、俺は食べられない」
ルシカンテは、ヘンゼルの指図を受けてくるくると働いた。でも、悉く空回りした。
「貯蔵庫から、ジャガイモと玉ねぎをとって来い」
と言われても、その名前の食材がわからずにまごついて、「そんなこともわからないのか!」と怒鳴られる。
「野菜を一口大に切れ」と言われたので、肉を切ったあとのまな板で切ろうとしたら「洗ってから使え!」と怒鳴られる。
肉と野菜を炒めてみろと言われたが、どうして良いのかわからずに棒立ちしていると、「鍋を振れ、こげつく!」と怒鳴られた。
野菜炒めが出来上がる頃には、ルシカンテは憔悴していた。
ヘンゼルは、食卓に鍋敷きをひくと、出来上がった炒め物を鍋のまま食卓に上げた。先端が三又に分かれた、フォークという用具で取り分けながら、ヘンゼルは溜息をつく。
「猟のことは何も知らない。料理も切る以外はからっきし。君はいったい、何が出来るんだ? 厄介な拾い物をしたかな、まったく、もう……」
立つ瀬を失いかけていたルシカンテは、名誉挽回の為に「掃除なら出来る!」とはりきって申告した。矢先に、グレーテルが炊事場に顔を覗かせた。
「ねぇ、お兄ちゃん。資材庫から雨垂れの音がするわ。雨なんかふってないのに、変だね」
資材庫の上は、ギャラッシカの部屋だ。ルシカンテの顔から、血の気が引いた。
悪い予感こそよく的中するもので、グレーテルの後からひょっこり顔を出したギャラッシカが、首を傾げていた。
「ルシカンテ。床にバケツの水を何杯空けても、床板の隙間から流れ落ちていってしまうよ。こういうときは、どうしたらいいんだい?」
ルシカンテとギャラッシカは、ヘンゼルにしこたま怒られた。
「すぐには役に立たないだろうって、覚悟はしていたさ。だが、こんなに、余計なことばかりしてくれるとは思わなかった。靴を買ったつもりが足枷だった。これが本当に靴だったら、俺は店主を吊るし上げた上で、なんとしてでも金を取り返すね。まったく、もう……グレーテル! 知らんふりするんじゃない! お前も一緒だったんだろう! この襤褸屋で水をぶちまけたらどうなるか、どうして良く考えなかった。人通りが多い路地の上で敷物の埃を落としたとき、肉の塊を全部出してきたとき。お前は、へらへらしてただ見てたそうじゃないか! この世間知らずどもが好き放題やってたら、お前がとめなきゃいけなかったんだぞ!? それともなにか、お前は自分ひとりじゃ、正しい判断が出来ないのか!? 俺が目をはなした隙に、勝手に何処かに行って絡まれるしよ! お前は、本当に……どうしようもない! ……おい、こら! 黙ってないで、なんとか言ったらどうだ!」
ヘンゼルの怒りの矛先は、食卓の椅子に座って、退屈そうに足をぶらぶらさせるグレーテルにも向けられた。グレーテルは、怒鳴られたことに反発して、ぷうっと頬を膨らませた。
「……なんとか」
ヘンゼルは、無言でグレーテルの頭に拳骨を落とした。グレーテルは、ひゃっ、と飛び上がった。目玉の裏に星が飛び散っていたかもしれない。
ヘンゼルは、憮然としてグレーテルを見下ろした。グレーテルは頭を抱え、足をばたばたさせて痛みを発散しようとしている。ぱっと顔を上げ、兄を上目づかいで睨んだ。
「考えられるもん! わたしがしたいようにしたのよ! わたし、お人形じゃないんだから!」
ヘンゼルは、言い返さなかった。呆れ果てて言葉も無くしたのだろうか。自分のせいでグレーテルがこれ以上怒られるのは忍びないので、これでお説教が終わるなら何よりである。今度は、こちらに怒りが向くかもしれない。
ルシカンテは、怒鳴りつけられる心構えをして身を固くしていたが、振り返ったヘンゼルは、沸騰した湯にさし水をしたみたいに、冷静になっていた。
「君らは、部屋に戻って、後片付けをしておけ。腹が減ったら、さっきの残りを適当に食って、今日は早めにお休み。明日の朝までに、君らに出来そうな仕事を考えておく。ああ、俺に残しておかなくていいから、全部食べな。皿は洗って、拭いて、片付けるように」
ルシカンテは拍子抜けして呆けたが、のろまだと腹を立てられる前に、ギャラッシカを連れてすごすごと退散した。
ヘンゼルに言われた通りに、ルシカンテとギャラッシカは、ギャラッシカの部屋の水浸しの床の水気を拭き取った。大方片付き、ルシカンテは、薄暮の迫る街並みを窓から見下ろした。煙突から淡い雲のような煙が上がっている。
ルシカンテはギャラッシカを連れて、下の階に降りた。炊事場は無人だった。ヘンゼルとグレーテルは、資材庫を片付けているのだろう。
ルシカンテは、ヘンゼルが作り置きした炒め物を食べた。味気なく、火が通り過ぎた肉は、砂のような歯触りだ。ちっとも美味しくない。
ギャラッシカは、手をつけようとしなかった。生肉が良いと言い張るギャラッシカを説き伏せて、雛鳥にするように、火を通した肉を口に運んでやる。ギャラッシカは、少し咀嚼してから、うえっと吐き出してしまった。
ギャラッシカは、生肉しか食べられないようなのだ。ルシカンテは、ギャラッシカを見張りに立たせて、塩漬けにした肉を貯蔵庫から持ち出し、塩抜きをしてギャラッシカに与えた。
ルシカンテが皿を洗い、ギャラッシカが皿を拭き、片付けを済ませる。ヘンゼルとグレーテルは、ついに炊事場に現われなかった。
ルシカンテは、ギャラッシカを部屋に送り届けると、部屋に戻った。とっぷりと日が暮れている。自然と、欠伸が出た。
ルシカンテは、寝台の敷布に寝転んだ。体は疲れているのに、眠気が一向に訪れない。何度も寝がえりをうつ。キツネの毛皮の肌触りに変わって、硬い敷布が肌に擦れる。潮の香りは届かず、澱んだ空気は湿っていて、黴くさい。何度寝がえりをうっても、ウメヲの背中は何処にもない。
ルシカンテは、むくりと起き上がった。床にアザラシの丸合羽を敷いて、ホボノノでそうしていたように、ごろんと寝転んでみる。アザラシの丸合羽に顔を埋めてみたが、懐かしい匂いはしなかった。
目まぐるしい時間が、ぴたりと止まってしまった。一人きりになり、孤独に沈むと、次から次へと郷愁が泡のように浮かんできて、一向に眠れない。沈黙が耳鳴りのようだ。
床に当てた耳に、微かに話声が聞こえて来た。
ルシカンテは、寝台の上で立ち膝をして、窓の外の空を見上げた。月は、頂から下りはじめている。こんな夜更けに、ヘンゼルたちはまだ起きているらしい。ルシカンテの発案のせいで、工房まで浸水したのだろうか。こんな時間になっても終わらないなんて、相当、てこずっているとみた。
ルシカンテは、迷ったが、合羽を頭から被って、そっと扉を押し開いた。軋む音にひやりとして、足をとめ、息を潜める。反応はない。ルシカンテは意を決して、戸の隙間から滑るように出た。
天窓から、青白い月光が差し込んでいるお陰で、灯りが無くても困らない。手摺から身を乗り出し、下を覗きこむと、工房へ続く扉から灯りが漏れ出していた。
ルシカンテは、足音を忍ばせて、階段を降りた。ぎい、ぎいと軋む度に、警戒するシカのように体が固まる。なるべく軋ませないように気をつけて下に降りると、ルシカンテは灯りに引寄せられるガのように、ふらふらと工房の扉へ近づいた。
扉は閉じているが、建てつけが悪いらしく、隙間があいている。
本来ならば扉をノックして「何か手伝うこと、ある?」と、聞くべきだった。しかし、ヘンゼルに怒鳴られてばかりのルシカンテは、正面から行くことに怖気づいていた。隙間が空いていることを良い事に、様子を窺い見てから、行くか退くか、決めればいいと、ずるいことを考えてしまった。魔がさしたのだ。
ルシカンテは、息を潜めて工房を覗きこんだ。
見た事のない鉄の塊で出来た大きな道具の向こう側、ヘンゼルとグレーテルが、此方に背をむけて、机についている。グレーテルは、机の左側に載せた缶から輝石をひとつ取り出しては、何かして、右側の籠に放っている。ヘンゼルは、籠に放られた石を手に取ると、カンテラの灯りを手元に引き寄せた。机にかじりつくようにして、細かく手を動かしている。
「今回は、無茶苦茶だったな」
ヘンゼルが言った。グレーテルは答えずに、黙々と缶から石をとり、何かして、籠に入れることを繰り返している。ぴんと延びた背中に、すごい集中力を感じる。ヘンゼルは、はなからグレーテルに応答を期待していないのだろうか。一人で喋っている。
「途中までは予定通り、万事快調に運んでいたのに。あの娘が飛び出してきたところから、予定が狂っちまった」
グレーテルの動きは、月のように、決まった軌道からそれない。少しもじっとしていられない、活発で移り気な少女が、機械仕掛けの人形のように、同じ動作を正確に繰り返している姿は、何かしらの薄ら寒さを伴った。
ヘンゼルは、ははっと笑った。陽気な笑声が、虚しい木霊のように、静謐に浮かんでいる。ヘンゼルは右手に、先端にいくほど先細る、細長い硝子の管を摘んでいる。右側に置いた缶の中身に、硝子管の先端をひたす。反対側の先端に唇をあてて、吸い込んだ。黒い液体が管を這い上り、唇に達する前に、ヘンゼルは唇をはなし、素早く右手の人差指で先の穴を塞ぐ。黒い液体を入れた硝子管を缶の中身から取り出し、作業を続ける。
「わかるよ。お前は父さんに似て、困ったひとを放っておけないんだ。あの娘には、一応、恩があるわけだしな。お前はただ、あの娘を助けたかったんだろう?」
ルシカンテは、胸の前で手を握り合わせた。グレーテルが黙っているのは、昼の喧嘩で不貞腐れているからだろう。ヘンゼルは拗ねた妹の機嫌をとっているのだ。
それだけの、微笑ましいとさえいえる光景が、どうしてこんなに寂しいのだろう。穴を塞ごうとするかのように、沈黙を言葉で埋めるヘンゼルが、何かに追い立てられているように思える。
ヘンゼルは作業を終えた輝石を、机の奥に置かれた棚に並べている。幾ばくかの沈黙を挟んで、ヘンゼルはまた語り出す。
「俺がやろうとしていることを、お前は嫌がるかもしれないな。……運命が、あの娘と俺たちをめぐり合わせたんだ。俺は、この勝負にかけている。ヴァロワもアロンソも、あの男も踏み台にして……いつ潰えるか分からない不安な日々から、今度こそ、お前を連れ出すよ」
棚に理路整然と並んだ輝石が、カンテラの炎を虚ろに跳ねかえしている。ヘンゼルは、籠から輝石をひとつとり、手元におくと、硝子の管を缶の中身にひたす。唇をつけようとしたが、やめて、ぽつりとつぶやいた。
「お前は人形なんかじゃないよ。不貞腐れた顔も、可愛くない口の利き方も、昔とちっとも変わらない。俺の妹、グレーテルだ」
その呟きには、祈るように、切実な響きがあった。ヘンゼルの痩せた背が、アイノネがいなくなって萎んだようになった、ウメヲの大きな背と重なる。
「誰だ」
ルシカンテは、はっと息を呑んだ。何をどうしたのかわからないが、どうやら、しくじったらしい。ヘンゼルは、藪の茂みを滑る獣のように、敏捷にやって来た。ルシカンテがどうしようか決めかねているうちに、扉が殴るように押し開かれる。
ルシカンテは竦み上がった。ヘンゼルの顔は逆光でよく見えない。それがありがたくなるような、恐ろしい形相をしているに違いなかった。ルシカンテは、ヘンゼルの、黒い染みがまだらについた前掛けに目を落としていた。
「工房に入るなと言った」
ヘンゼルは、厳しく言った。
「覗くなとは、言われていない。なんてつまらない言い訳は、絶対にするなよ。本気で怒ると、俺って奴は、何をしでかすかわからんぞ」
ルシカンテが何も言えずにいると、ヘンゼルは拳で扉を強く叩いた。釣り上げられるようにして顔を上げたルシカンテの目を、暗雲の瞳の、雷のような蔑視がうちぬく。
「俺はここの主人だ。言いつけを守れない奴は、ここから追い出す。末席に捨てられたくなけりゃ、俺に逆らうな。わかったら、部屋に戻れ」
ルシカンテの足は、凍りついたように動かない。ヘンゼルは鋭く舌を打った。
「さっさと行け!」
ルシカンテは鞭を入れられた馬のように、駆けだした。グレーテルはこちらを振り返らず、作業に没頭していた。




