ヘンゼルとグレーテルの家
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アーサーの蹄が石畳みを叩く音が、小気味良く拍子をとっている。ルシカンテは、荷台から身を乗り出して、感嘆した。壁を一枚超えただけで、世界はこんなにも、違うのだ。空の色さえ違って見える。
色とりどりの化粧を施した家屋が、仲良く肩を並べている。ベランダからは、鮮やかな色の花と緑が滝のように飾られていて、窓枠の清潔な白さを引き立てていた。
軒から突き出した棒には、釣り看板が下げられている。屋号を記す文字の下には、一目でその工房が生み出すものの種類がわかるように、色彩豊かな画が描かれていたり、緻密な彫刻が施されていたりする。
馬車がすれ違える、幅の広い道だが、人通りは疎らだ。人々は格子窓の奥で、色々な道具を手に、一心不乱に創作活動に没頭している。
馬車は、街路樹が組むアーチの下を進み、やがて停車した。スカートの裾の解れた糸を縒って手慰みをしているグレーテルに、ヘンゼルは言った。
「さて、我が家の我がままお嬢さま、兼、何もできないメイドさん。お荷物さんたちを、中へご案内して。そうだな、男の方は二階の東側の空き部屋へ。娘の方は、俺の隣の部屋が空いてたな。あそこでいい」
「うん、わかった」
グレーテルに促され、ルシカンテとギャラッシカは降車した。ヘンゼルは、御者台の上から、顎をもち上げてルシカンテとギャラッシカを見下ろした。眉間には、どんなに伸ばしても伸ばしきれそうにない皺が寄っている。
「ここが俺らの住みかだ。俺は、ちょっと寄るところがある。部屋は、グレーテルに案内させるから、そこを住めるようにしてつかえ。ちゃんと働いてれば、ヴァロワに行くまでは、寝食の面倒を見てやる。わからないことは、無い知恵絞って考えろ」
ヘンゼルは早口でまくし立てた。機嫌が良くない。グレーテルの迂闊な行動が機嫌を損ねてしまった。グレーテルは、しばらくはいじらしくヘンゼルの機嫌をとろうと腐心していたが、彼女の反省は長くもたない。今は、知らん顔をしている。
ヘンゼルは、杖を御者台の傍らに立てかけて、手綱を引いて行ってしまった。グレーテルは「行ってらっしゃーい」とひらひらと手をちょっとふって見送りを済ませる。くるりと転向すると、腕をのばして赤い屋根の家を仰いだ。
「じゃーん! ここが、わたしたちのお家だよ。ご案内するから、ついてきて!」
ヘンゼルとグレーテルの家は、景観にちっとも馴染んでいなかった。鳥が地面につくる巣のように、場違いなのである。家をぐるりととり囲むのは、剣状柵ではなく、茨の茂みだ。手入れの行き届いた生垣ではなく、放っておいたら茂ってしまったと言うような具合である。
二階建てで、赤い煉瓦を積んだ切り妻屋根の上では、錆びた風見鶏がぎこちなく回っている。奥行きより、横幅が広い。屋根の四方向には出窓が迫り出していた。
グレーテルは十段の階段を一段飛ばしに登ると、ポケットから鍵を取り出して解錠した。真鍮のドアノブを両手で握り、両開きの扉を開らく。
グレーテルは振り返り、ルシカンテたちを手招いた。
「どうぞ、入って」
まるで伽藍堂の大樹の内側に潜り込んだような、見事な吹き抜けだった。
船底天井に空いた天窓から柔らかな日差しが注ぎ込む館の中は、ぼんやりと明るい。天井には、氷柱のような、装飾的な照明器具が吊り下げられている。シャンデリア、と言うらしい。埃を被っていて、雪の中で辛抱する葡萄のようだった。
両脇から伸びる階段は内壁に添い二重螺旋を描いている。二階の手摺には環状のロープが渡されている。グレーテルによると、街の景観を損ねるという理由から、洗濯物を外に干すことが禁じられているので、物干し用に渡したロープらしい。
ルシカンテは、扉の数を数えた。一階は、入口から見て、右の壁に小さな扉が一枚、正面の壁に大きな扉が一枚、左の壁に小さな扉が一枚、の計三枚。二階には、右の壁に一枚、正面の壁に二枚、左の壁に一枚、の計四枚だ。
グレーテルは、ルシカンテの肘に腕を絡めて、天真爛漫に笑った。
「素敵なお屋敷でしょ?ぜんぶ、ぜんぶ、お兄ちゃんとわたしのものよ」
グレーテルは、嬉々としてルシカンテの腕をひき、右手の階段へ誘う。
「ルシカンテのお部屋はね、二階正面の、右側。ギャラッシカは、右側の壁にあるお部屋だよ。決まってるの。さぁ、来て!」
ルシカンテは、家畜にひかれる荷駄のように引き摺られて行く。その後を、ギャラッシカがぴたりとついて来る。
二階に上がると、グレーテルは、ルシカンテに割り当てられた部屋の前で立ち止まった。扉を背にたち、ひそひそと声を潜める。
「ここなんだけど、その前に、ちょっとわたしのお話を聞いてね。わたしたち、あっちこっちに行ってて、すごく、忙しかったのね。だから、使わないお部屋のお掃除って、あんまりやっていないのよね。そういうことだから、あんまり驚かないでね。呆れちゃいやよ?」
ルシカンテは、グレーテルに背を押され、部屋に押し込まれた。
白地の壁に、淡い緑色でアカンサスの模様が描かれている。床は板張りだ。大きな窓の前に寝台が置かれているだけの、殺風景な部屋だった。それだけなら、なんということもないのだが、驚くべきは、部屋全体が、冬のように、白くふわふわとしたもので覆い尽くされていることである。窓は霜がはしったように曇り、部屋のいたるところで、なんらかの取っ掛かりを見つけては、家蜘蛛がせっせと巣を張っている。床板には、ネズミの小さな足跡がたくさんついていた。
グレーテルは手を後ろ手に組んで腰を折り、言葉もなく立ち尽くすルシカンテの顔を覗き込む。擽られたみたいに、くすくす笑いの発作を起こした。
「えへへ、びっくりしちゃった? わたしもお兄ちゃんも、お掃除はあんまり得意じゃなくって」
グレーテルは、ギャラッシカにも部屋を案内すると誘ったが、ギャラッシカは動かない。グレーテルは粘っていたが、すぐに飽きてしまった。
「お掃除のお道具は、下の階の、入口から見て左側。炊事場に入って、右側の物置部屋に置いてあるよ。箒とか、バケツとか、ブラシね。好きに使っていいわ。あっ、そうそう。入口正面の部屋は工房なんだけど、入っちゃダメだからね。お兄ちゃんが怒るよ」
グレーテルは、部屋を出て行った。残されたルシカンテとギャラッシカは、しばらくの間、口を利かずにただつっ立っていた。ネズミが寝台の下から這い出して、ちょろちょろと床を駆けまわっている。ルシカンテの足元でとまり、後ろ足で立ち上がると、黒い目で不思議そうにルシカンテを見上げた。ここに住んで長いのだろう。生まれてこのかた、ここを出た事がないのかもしれない。人間がネズミを駆除しようとするなんて、夢にも思わないのだ。
「ルシカンテ」
ギャラッシカが、ネズミと同じように、表情のない瞳を丸くしている。
「気に入らないのかい?」
「……気に入るように、気合ばいれて、お掃除しねぇと」
ルシカンテは、腕まくりをして気合を入れる。手始めにネズミを追いかけまわし、部屋から追い出すことにした。
ルシカンテは、箒を振りまわす。天井の隅々まで、埃と蜘蛛の巣を払った。寝台の敷物は、ギャラッシカに頼んで、埃を叩き落として貰う。箒で床の上に降り積もった塵埃を掃いて捨て、バケツの水を床にぶちまける。木目にしみ込んだ汚れをブラシでごしごし擦り洗いをした。バケツの中の水は、すぐに真っ黒になってしまう。蟲の死骸が浮かぶ不潔な水をかえる為に、ルシカンテは、何度も何度も階段を昇降しなければならなかった。
ギャラッシカとグレーテルは、掃除を手伝ってくれた。ギャラッシカは、見よう見まねで壁を洗ったが、要領を得ずに滴り落ちる水でぬれ鼠になり、グレーテルは、真面目に掃除をすることにすぐに飽きて、面白がって水びたしの床を走って回った。水が跳ねて、ルシカンテもぬれ鼠になった。
部屋を磨きあげ、雑巾で空拭きを済ませると、次はギャラッシカの部屋の掃除にとりかかる。グレーテルが、きゃっきゃとはしゃぎながら、箒で蜘蛛の巣を巻き取り、ギャラッシカは黙々と寝台の敷布の埃をベランダから叩き落としている。すると、窓の外から、険悪な怒声が聞こえて来た。
「おい、お前! 誰の許可を得て、通行人に頭上に埃の雨を降らせているんだ!? さっさと降りて来て、積み荷を下ろすのを手伝え! おい、やめろって言っているだろう、クソ野郎!」
「まぁ、大変! お兄ちゃんが帰ってきたわ!」
グレーテルは箒を投げ出して、宙に浮かぶような足取りで階段を駆け下りて行った。ルシカンテは、ブラシを床に置いた。ギャラッシカは、ヘンゼルの怒りなど気にも留めずに、一心不乱に敷布を叩き続ける。ルシカンテは苦笑して、ギャラッシカの手をとめさせた。敷布を引き上げて、寝台に載せる。ルシカンテは、バケツの中の、泥のような色をした水をちらりと見て、ぼやいた。
「ろくすっぽ、掃除が出来ねぇ奴に、文句つけられたくねぇよなぁ。……仕方ねぇ、下さおりるべ。グレーテルじゃ、重い荷物ば持てねぇ」
「そうかい」
ルシカンテとギャラッシカが下に降りると、両開きの扉を押し開き、ヘンゼルが入って来たところだった。
ヘンゼルは、杖をついている。出掛ける前と比べて、草臥れていた。肩が落ちて、背が丸い。顔色も優れない。
部屋の惨状を、それとなく揶揄してやろうと言うルシカンテの企みは、泡になって消えた。
「ヘンゼル? あんた、どうしただ? 大丈夫なの?」
ヘンゼルは、心配して駆け寄るルシカンテを見ずに、その後ろにいるギャラッシカに言った。
「荷物をおろして、資材庫の前に積んでおけ。向かって左側の部屋だ。あとで俺が片付ける。お前は運ぶだけだ、資材庫には入るな。中で工房と繋がっているからな。火傷したくなけりゃ、余計な真似はするなよ」
「……ギャラッシカ、お願いしていい?」
ルシカンテが取り次ぐと、ギャラッシカはこくんと頷き、扉から外に出て行った。反応はしなかったが、ちゃんと聞き、理解していたようだ。グレーテルは、アーサーに水をやって、たてがみを撫でていた。ヘンゼルは、おろおろしているルシカンテを、虚ろな目で睨んだ。顔を手で擦り、低く唸る。
「彼より、君にこそ、よく言い含めておくべきか。絶対に、工房には近寄るな。熱処理をしていない輝石が保管してある。昨日みたいに迂闊に触れると、寄生される」
「えっ!? なんで!? なんで、そげな危ないもんがあんの!? 殻のクマの心臓は、ちゃんとその場で焼いていたっしょ!」
「……ヴァロワの収集兵に、集めていた輝石ごと、道具の一式を奪われてしまったんだよ。輝石を生きたまま回収するには、手間がかかるんだ。生きた輝石を積んでいなかったお陰で、寝相が悪くても、君は無事だったんだぞ」
そう言えば、ルシカンテは、ヘンゼルが恫喝されている場面に出くわしたのだった。
ルシカンテは、ヘンゼルの手の甲に目をとめた。太い蚯蚓腫れがある。ついさっきまでは、無かったのに。ヘンゼルは、凝視から逃れるように、項を傷ついた手で押さえたので、ルシカンテは追及の言葉を、ひとまずのみこんだ。首を回すヘンゼルを見つめながら、ルシカンテは、ひょっとすると、と考え込んだ。
使徒座に来てから、ヘンゼルに向けられる揶揄に、「アロンソ・セルバンテス」という名前が、必ずと言って良い程、組み込まれる。会ったこともないので、断定はしかねるが、評判がすこぶる悪い人物だ。ひょっとすると、ヘンゼルは輝石を失った落ち度を咎められ、体罰を受けたのではなかろうか。
悶々と考え込んでいると、ヘンゼルは、気だるそうに息をついた。
「なんで、生きている輝石を保管しているのかと言うと、ヴァロワに行くためだ。ヴァロワに売るには、生きている輝石じゃなけりゃ、いけないからさ。銀蝋を混ぜた特殊な薬液につけて保管してある。詳細な手順を説明する気はない。君には、この重かつ大なる仕事に関わってほしくないからな。君に慎重さは、求めない方が無難だろう? このことは、他言無用だ。輝石の装身具工房で、生きた輝石を飼っているなんて知れたら、十席から人がいなくなっちまう。ここがお化けの街になったら、さびしいよ。いや、煩わしいことがなくて清々するが、いつ闇打ちに合うかわからない暮らしは、避けたいだろう?」
ヘンゼルは、足を引きずりながら、階段を登り始めた。手を貸すべきかと思ったが、ヘンゼルの背はルシカンテを寄せ付けない。彼は疲れ果てていて、ぴりぴりと紫電のような苛立ちを纏っている。今は、そっとしておいてた方がいい。ヘンゼルはいつも、人を疎ましそうにしているが。
ヘンゼルは二階へあがると、正面の左側、ルシカンテの部屋の、隣の部屋に消えてしまった。
ギャラッシカは、一度に大きな荷袋を四つ、すべて手に提げて運んで来ると、資材庫の扉の前に置いた。真上に放り投げたものが落ちて来るみたいに、ルシカンテの隣に並んだ。。アーサーを厩に帰したグレーテルは、両開きの扉を閉じ、錠を掛けると、ルシカンテの前に立ち、首を傾げた。
「お兄ちゃんは、ちょっと一休みだって。わたしたちは、何をするの?」
それを、グレーテルに教えて欲しかった。ギャラッシカも、ルシカンテを見ている。ルシカンテの顔に答えが書き出されると、信じ込んでいる。ルシカンテは頭を悩ませた挙句、自分が音頭を取らなければ話が進まない、と腹をくくった。
「ギャラッシカは、お部屋の掃除ばして。グレーテル、おめぇさんは、そろそろ、おまんまば拵えた方が良いんじゃねぇのけ? おら、手伝うよ」
「おまんま? あっ、ご飯のこと? わたし、ご飯のつくりかた、わかんない。だって、作ったごはんを、食べないんだもの」
ルシカンテは、ややしばらくの間、沈黙する。ヘンゼルは、グレーテルを目に入れても痛くないほど、可愛がっているようだ。しかし、一人で食事も満足にとれないのは、かえって可哀そうだろう。ルシカンテは、気を取り直して、言った。
「したらば、おらさ竈ば見せてけれ。おまんま拵えねばなんねぇ」
「竈ってことは……ええっと……お台所を案内すればいいのかしら? うん、任せて! こっち」
眠りから醒めたヘンゼルが、食事の用意も出来ていないのか、と激怒するような事態は、避けなければならない。ヘンゼルが目を覚ますと、美味しいご馳走が用意されている。そのようにするのだ。そうしたら、ヘンゼルも機嫌を直すだろう。嫌なことがあっても、美味しい物をお腹いっぱい食べれば忘れられると、ヘンゼル自身が言っていたのだから。




