第46話 時給はおいくら?
赤い雫で地面に点々と道を作りながら、リコリスたちは川岸に辿り着いた。
貴重な水場ということで、リコリスの広げた畑はこの川のすぐ近くにある。先ほどの悲鳴に集まり遅れた畑仕事をしていた者が数人、ライカリスとすれ違って「ぎゃっ」と叫んだりもしたが、無理もない。
リコリスは川に手を入れ、泳げそうな水温であることを確認してから、先に蝙蝠が吐き出してくれた2つの水桶両方に水を汲み上げる。
引き返し、川と少しだけ距離を取ってから、ライカリスに手招きをした。
「とりあえず上脱いで。大体の血が落とせたら、サイカッド町長のとこでお風呂借りようね」
当然下も血まみれなわけだが、この青空の下で脱がすわけにもいかない。
頷いたライカリスは、血を吸って重くなったシャツのボタンに手をかけた。
「脱いだらこっちに。――あ、ちょっと待って」
「はい?」
リコリスはシャツを水桶で受け取ると、代わりにもう片方を差し出す。
ライカリスが受け取ると、一旦彼の背中側に回り、髪紐を解いて、それもシャツと一緒の水桶に放り込んだ。
水を被り始めたライカリスから少し距離を取って、リコリスは桶の中を真っ赤に染めた問題のワイシャツに視線を落とし、首を傾げた。
(……これまた着られるかなぁ)
ワイシャツの1枚くらいなんだと言われるかもしれないが、このワイシャツの1枚が特別なのだ。
世界に10人しか存在しない、特殊な役目をもったボスの1人が低確率でドロップする、暗殺者装備の材料。リコリスですら1つしか手に入れられなかったそれを使い、リコリスが最高まで上げた裁縫スキルで作成した、文句なしに最高峰の装備である。
ボスドロップ以外にも希少な材料を多数使用している上、更にライカリスのためだけに、彼専用に強化に強化を重ねた1品。
間違いなく世界に1枚、今ここで真っ赤に染まっているこの1枚しか存在しない。汚れたからといって破棄できるものではない。
(また見た目変えれば綺麗になるかなぁ。装備品だから大丈夫だと思うんだけど。……まぁ、本人に怪我なかったし、無事だったからいっかー)
「あの……すみません。服、汚してしまって」
「へ?」
考え込んでいると、いつの間にやら水音が止んで、後ろから落ち込んだ声がかかった。
振り返れば、水滴を滴らせたライカリスが心底申し訳なさそうな顔で立っている。
その姿を確認し、リコリスは眉を跳ね上げた。
(あー……)
いつもは括っている長い髪が纏わりつく裸の上半身は、それは見事に鍛え抜かれているのに、それでいて細身でとてもバランスがいい。
滴る水の効果か妙な色気があり、そしてとても綺麗で。
内心で微妙な声を上げ、リコリスはすすす、と割れた腹筋から視線を外した。
「リコさん?」
「え? あ、うん」
相棒を極力見ないよう努めながら、パタパタと片手を振った。
ライカリスが当惑気味に首を傾げている。無理もない。
「……大丈夫ですか?」
「あぁ、うん。ごめん、大丈夫。大丈夫」
今まであれだけ一緒にいて、何を今更照れているのだろう。
照れている、と冷静に判断できる頭で、うっかりした動揺を無理矢理捻じ伏せる。
リコリスは頭を一振りして、今更だ、大丈夫だと、自身に言い聞かせ、すぐ近くの草の上に置いていたタオルを引き寄せた。そして深呼吸。
顔を上げ、不安そうなライカリスと目が合うと、掴んだタオルを彼の肩にかける。
「さて、血も大体落ちたみたいだし、戻ってお風呂借りよ」
「えぇ……はい」
苦しい話の逸らし方だったが、仕方がない。
背中に刺さる戸惑いの視線に気づかないフリで、リコリスはサイカッド宅への道を歩き出した。
「……はぁ」
脱衣所の扉を背に、リコリスは我慢していたため息を吐き出した。
微かに届く水音を聞きつつ、自分を落ち着かせる儀式を再開する。
今更、大丈夫、と繰り返せるだけ繰り返して、それが何故か、羨ましい、に変化を遂げた頃、そろりと脱衣所の扉が開いた。
蝙蝠が用意した服を着て、肩にタオルを引っ掛け、しかし長い髪からはまだまだ水滴を落としているライカリスが、リコリスの様子を伺うように顔を覗かせる。
ちなみに服は、例によって見た目用に取っておいたファッション装備だったから、見ている分には悪くない。というより黒いシャツはライカリスによく似合っていて格好よかった。
微妙に怯えた表情なのは、リコリスが怒っていると思っているかららしい。
動揺が「筋肉羨ましい」に変化したことで落ち着きを取り戻していたリコリスは、小さな子どものように濡れたままの髪を見て苦笑する。そして手を伸ばして肩にかけられていたタオルを取り上げると、ちょいちょいと小さく手招き。
それに微かに安堵した相棒が素直に頭を下げてきたところに、タオルを被せて髪を拭き始めた。
「さっきはごめんね。血って落ちるかなって、ちょっと考えてただけだから」
「ああ、本当にすみません。せっかくあなたが作ってくれた物だったのに」
「んー、まぁ多分大丈夫だし……。ライカが怪我ないならそれでいいよ」
平気だろうと分かってはいても、全身真っ赤な血まみれ姿は心臓に悪かった。
大人しく髪を拭かれながら、ライカリスが苦笑する。
「この辺りで怪我はしないと思いますけどね」
「分かってるよ。私でも大丈夫だろうし。でもあの格好はね……私が全身真っ赤になってたらどう? びっくりはするでしょ」
「あ……」
今回は大事にはならなかったが、この先は分からない。リコリスが絡むと、どうにも周囲が見えなくなるらしい相棒に、一言釘を刺して。
慌てて顔を上げようとしたところを、「ほら、大人しくする」と注意し、リコリスは意図してのんびりと続ける。怒っているわけではないと、伝えるために。
「でも、狩りしてきてくれてありがと。私、畑の方で手一杯で、そっちまで頭回ってなかったし」
「いえ、その、えぇと」
「服も気にしなくていいよ。何とかできるから」
多分。
ゆっくりと毛先の方へタオルを移動させ、丁寧に水気を拭って、満足いったところで、リコリスは顔を上げた。
背を屈めていたライカリスの顔が、すぐ目の前にある。まだ不安そうに揺れる瞳にリコリスは優しく微笑んで、濡れていた頬を拭った。
「よし。――ほら、そんな顔しないでよ。ホントに嬉しかったんだよ? 怒るはずないじゃん」
しょんぼりしているライカリスに正面から抱きついて、背を撫でながら慰める。
失敗した。こんなに落ち込ませるつもりはなかったのに。
そもそも、あんなことで動揺しなければ、もっと上手くやれただろうに。
リコリスは後悔しながらも相棒を宥めすかして、その態度が軟化してくると、ほっとして新しいシャツに顔を預けた。
硬い胸板にゴロゴロと甘えながら、彼女はふと思う。
(私にもこんな筋肉があればなぁ。筋肉痛知らずでいけそうなのに)
ここ数日酷使している腕を持ち上げてみる。……が、残念ながら相変わらずひょろっひょろのままだった。
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「いやぁ、あれはびっくりしたなぁ」
しみじみと言うサイカッドは、片手に肉を刺した串を持っている。こんがりと焼かれ、リコリス特製のタレをかけられた串肉は、誰が見ても美味しそうな一品だ。
他に広場に集まった人々も、各々片手に肉を持ち、反対の手には生野菜を持ち、と自由に、精一杯食事を楽しんでいるようだった。
「えーと、お騒がせしてすみません」
「いやいや。そのお陰でこんなご馳走にありつけたんだ。本当に助かる」
「あはは……後始末が大変でしたけどね」
リコリスは頬を掻いて苦笑する。
肉の処理は大仕事だったが、血の海になってしまった町の広場の片付けもなかなか大変だった。
町の人手を使って一気に処理された大量の肉は、小分けされ、今は無事に住人たちの家の冷蔵庫に納まった。その余りが、今こうして宴会のご馳走に化けているのだ。
「しかしまぁ、一仕事の後の上手い飯ってのは最高だからな。そう考えりゃ、悪くねぇよ。それにしたって、リコリスは料理上手なんだなぁ。ライカリスが羨ましいぜ」
「ありがとうございます。気に入ってもらえたならよかった」
褒められたリコリスがにっこりと笑い返せば、サイカッドは何やら困ったように視線を泳がせた。「勘違いか?」とか何とか、いつかのように口の中でもごもごと。
「サイカッド町長?」
「えっ、あぁ、いやその……あ! そうだ、リコリスッ!!」
何やら言葉を探していたサイカッドが、突然がばっと立ち上がった。
豪快な話題逸らしだった。
「は、はい?」
「ちょっと話をしておきたいことがあってな。――おーい、アルルーナ! 今大丈夫かー?」
リコリスがぽかんとしている間に、酒盛りをしている人々の中から小柄な人影が転がり出る。その瞬間、何故かさっと広場の空気が変わり、彼女は更に目を瞬かせた。
豊かな緑の髪をツインテールにしたその人物は、転がり出た拍子によろけながら、リコリスの前に進み出ると、人懐っこい笑みを浮かべた。
「はぁい。こんばんはですぅ、リコリスさぁん」
「あぁ、アルルー……ナさん」
うっかりゲーム時代のあだ名で呼びそうになり、リコリスは慌てて言い直した。
アルルーナ・フォートレス。
かつてのゲーム時代、幾度となくお世話になった冒険者ギルドの受付嬢の1人である。
正確には、世界に10支部存在する冒険者ギルドそれぞれで受付をしている、10人姉妹の内の1人で、通称「アルルー10姉妹」と呼ばれていた。
このヴィフの町にいるのは「アルルー3」、つまり三女だが、いくらなんでも本人を目の前にそう呼ぶのは失礼が過ぎるわけで。
ちなみにヴィフの町に着いた初日、最初にリコリスたちを見つけ、町中に響き渡らんばかりの悲鳴を上げてその存在を知らせたのもこのアルルーナだった。アルルー10姉妹は皆、叫び声が大きい。
リコリスの前に立ったアルルーナは、スカートのポケットから1枚の羊皮紙を引っ張り出した。少し皺の寄った紙を丁寧に伸ばしてから、リコリスに差し出してくる。
「冒険者ギルドからの依頼です。受けてくださいますか?」
間延びしていた口調がピシッと引き締まったのは、仕事モードになったからか。
そういえば、確かにこの旅は出稼ぎの意味もあったのだと、リコリスは今更ながらに思い出した。畑を耕すことに夢中で、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
それにしても唐突な……と、首を捻りながら依頼書を受け取り、内容を確認すると。
「……………………」
『 冒険者ギルド依頼書
依頼人:ヴィフの町
依頼内容:ヴィフの町郊外の開拓
報酬:5,000,000B
備考:開拓範囲の最低目標、指定なし 』
――目玉が飛び出すかと思った。
(ごひゃ……っ?! いやいやいやいや、500万Bって!)
レベル1000付近の、高難易度ボス討伐の報酬がそのくらいだった。
それ地面を耕すだけで渡されるのは、いくらなんでもおかしい。
リコリスは金魚のように口をパクパクさせて、サイカッドかアルルーナに確認を取ろうと顔を上げた。
「……あのっ…………え?」
はて、これはどういうことだろう。
広場にいる人々が、皆同じような顔をしてリコリスを見つめている。
憐れみと、物悲しさと、親しみを視線に滲ませて、空気がほんのり生温い。
(え、何……)
激しく戸惑っていると、隣からサイカッドが、リコリスの肩にぽんと手を置いた。
「リコリスも苦労してるんだよなぁ」
「は……え……?」
「資金繰りが苦しいんだろ? 手持ちで4桁とか……。そんな状態なのに、食い物を売ろうとは考えないんだよな。すげぇよ」
「……」
同情の眼差しが、刺さる、刺さる。ということは、少なくともこの場の全員、下手をしたら町中の人間がリコリスの所持金を知っているのだ。
では誰がバラしたのか? そんなこと言うまでもない。
(ライカアアアアアッ!!)
……犯人はさっと視線を逸らした。
「今回のことは、俺ら本当に感謝してる。だから、恩返しさせてくれな。町の皆で、できるだけ出してみたんだ。遠慮せずに受け取ってくれ」
所持金4桁というのは、生身で生活するわけではないゲーム内でも、かなり苦しい金額だった。そして、この世界で実際に生活することを考えると、一般的には暮らしていけないレベルである。
リコリスは、彼女の牧場と所持品、今の情勢のおかげで何とかなっているだけなのだ。これから先、ふとした拍子に何かあれば、きっと困ることになる。
だから、同情されても仕方がない。
仕方がない。
……が。
(あ、憐れみの視線……痛い……ッ)
悲しいやら虚しいやら切ないやら、それでも心遣いは嬉しいやら。しかしその嬉しいという感情にも、人々の優しさにつけ込んだような浅ましさを感じてしまう。
開拓は、人々の生活に必要なことだった。それに対してこんなにも搾り取るのは、最初から否定していた食料を売る行為に等しいのではないだろうか。
そしてこの大量の「貧乏なんだなぁ」という視線は、こうも精神的ダメージを与えてくれるものなのか。HPバーが減っていないのが不思議なくらいだった。
宴会の喧騒はどこへやら。
多くの住人がリコリスの反応をじっと待つ中で、リコリスは微笑んだ。無理矢理だったから、笑い声は随分乾いてしまったが。
「……あ、ありがとう、ございます……」
蚊の鳴くような礼の言葉に、周囲はほう、と安堵の吐息を漏らした。うんうんと頷いている者もいる。
ようやく緩んだ、それでもまだ生温い空気の中、リコリスはそっと涙を呑んだ。