第44話 出張牧場
ゲーム中、何度か来たことのあるサイカッド宅の客間に入ると、以前と変わらず来客用ベッドが二つ並んでいた。
部屋の隅に微妙に埃が溜まっているのは、異変以来掃除をしている暇がなかったからだろうか。それとも「嫁さんほしいなぁ」が口癖だった家主が、掃除が苦手なだけだろうか。
多分前者だろうと思いながら、リコリスはベッドのひとつに腰を下ろした。
「……」
そろりとライカリスを窺えば、どことなく疲労を感じさせる無表情で、シャツの第2ボタンを寛げている。
(んー……、疲れてるなぁ)
無理もない。
親しんではいないが、それでも慣れてはいるはずのスィエルの人々ですら、囲まれれば不機嫌になるライカリスだ。
スィエルの町より大きなこの町で、しかも総出での大宴会に巻き込まれたのだから、気力、機嫌共に相当低下しているに違いない。
リコリスは少し考え、隣のベッドに座ろうとしたライカリスを見上げる。
「ライカ、ライカ」
「……はい?」
顔を上げたライカリスに、リコリスは自分の隣を叩いた。白いシーツが、ぽすぽすと乾いた音を立てる。
「こっち」
短く呼べば、ライカリスは苦笑して首を振った。
「リコさん疲れているでしょう? 大人しく休んだ方が……」
「……」
ぎこちない動きと忠告を返されても、リコリスはただじっとライカリスを見つめ、ひたすら自分の隣を叩く。
ぽすぽすぽす。
「……リコさん」
ため息をつかれたが、多分もう一押し。
リコリスは黙って相棒を見つめている。シーツを叩く音はやまない。
ぽすぽすぽすぽすぽす。
――結果、負けたのはライカリスだった。
一際大きなため息をついてから、彼はリコリスの隣に移動して腰を下ろした。
リコリスは座ったまま上半身だけをそちらに向け、両手を広げる。
「ん」
「…………えぇと」
当惑の視線にも笑顔を返し、広げた手は下ろさない。
「おいで」
一歩も引く気がないリコリスに、折れたのはやはりライカリスの方だった。
躊躇いがちに頭を下げてくるのを両手で抱き込めば、そろりと肩口に擦り寄ってくる。
頭を撫で、髪を梳いて、覆い被さる広い背を軽く叩けば、ふ、と安堵にも似た吐息が首筋に触れた。
(機嫌がよくない時ほど、素直に甘えてくれないんだよなぁ)
むしろ八つ当たりしてくれてもいいくらいなのに。
そんなことを考えながら、リコリスはもう一度ライカリスの頭を撫でた。
「付き合ってくれてありがとね、ライカ」
「……したいことをしているだけなんですけどね」
口調はそっけないが、リコリスの背に回された腕が彼女の服に皺を作る。
そうして滲み出始めた甘えにリコリスが満足げに微笑んでいると、不意に扉の向こうに人の気配が現れた。
ライカリスがぴくりと体を揺らしたが、ほぼ間違いなく家主のサイカッドであろう気配は、真っ直ぐに客間に向かってくる。
「おぉい。2人とも風呂は――……」
扉が大きく開くと同時に飛び込んできた太い声は……そのまま尻すぼみに消えていった。
「あ、はい。ありがとうございます」
ノブに手をかけた形で固まっているサイカッドに、リコリスはのんびり返事をする。
久しぶりのお風呂だ。旅の途中、川で体を清めてはいたが、やはりお風呂は嬉しい。
とはいえ、ここはやはり家主が先だろう。
「あ、でも私たちは後でお借りしますから」
サイカッド町長が先に。
それまで硬直していたサイカッドは、その言葉に「あ」とか「う」とか意味のない声を出しながら首を振った。
「い、いや。俺の方はまだ片付きそうになくてな。その……風呂のこと言い忘れたと思って、だから……」
もごもごと口の中で言葉を転がし、サイカッドはくるりとリコリスたちに背を向ける。
「……まぁ、なんだ。風呂もキッチンもベッドも、好きに使ってくれていいからな!」
早口で言い切り、彼はそのままバタバタと部屋を飛び出していった。
『………………』
リコリスはきっちり閉められた扉を見、ライカリスは顔を伏せたまま、微妙な空気が流れ流れて……2人は揃ってため息をついた。
(何だかなぁ。盛大な誤解の気配がするけど……ま、いっか)
ライカリスの頭を無意識に撫でていた手を止め、リコリスは相棒の肩を叩く。
「ライカ。お風呂先に行ってきて」
「え。いえ、リコさんが先に」
顔を上げたライカリスが、慌てて首を振る。
リコリスはそれを制し、すぐ目の前にある眉間の皺を人差し指で伸ばしてから、小首を傾げて微笑んだ。
「あのね。私、明日もっと疲れる予定だから、明日は先に入らせて?」
もちろん、実験が上手くいけばの話だが。
詳しくは説明できないので要点だけを告げると、せっかく伸ばしたライカリスの眉間の皺が深くなった。
はっきりと顰められた顔は、しかし心配だと伝えてくる。
「……無理は」
「しない」
低い声には即座に返してから、リコリスは「大丈夫」と添えた。
それでもまだ納得のいかなそうな相棒から体を離し、しっかりと目を合わせて笑いかけ、促すように肩を叩く。
「約束するから。――さ、お風呂いってらっしゃい」
「……分かりました」
渋々と馴染んだ温もりが離れていく。
部屋を後にする背を見送って、リコリスはもそもそと上着を脱ぎ始めた。
(明日、せめて曇ればいいなぁ……)
そんなことをぼんやり考えながら。
■□■□■□■□
翌日、リコリスは町外れの空き地に立っていた。片手に、基本的にはどんな土地でも耕せる牧場主用の鍬を持って。
背後には、朝6時のことなのに、期待に輝く視線を投げかけてくる町の人々。
それはとりあえず気にしないようにしつつ、目線を空中に固定し、……呼び出すのは。
【牧場情報】
そのメニューでは、自分の牧場の現在の状態や、今までの実績、困った時のヘルプ等々、かつて幾度となくお世話になっている。
しかしその中で、リコリスがまだ使ったことのない項目があった。
リコリスだけではない。プレイヤーの誰ひとりとして、使用したことのない項目、それが――。
【牧場拡張】
ゲーム初期から存在したこのメニューだが、実は最近まで謎に包まれていた。どれだけクエストを進めても牧場レベルを上げても、選択不可の灰色文字のままだったのだ。
それが解明されたのが、リコリスがスィエルの町の土地を買ってからだった。
通常、プレイヤーの牧場はこの世界とは違う空間に存在している。その空間は、全面使用するかどうかは個人の自由だが、広さそのものは固定されていた。
それが牧場が外に出てくると、元々の牧場の広さと同じだけ用意されていた土地が、この機能によって自由に広げられるようになったのである。
ゲームでの拡張中は、自分の牧場が緑、拡張可能な場所が青、拡張不可能な場所が赤と、地面が色分けされていた。
その状態で、土地を耕し、邪魔な草や木を取り除けば、牧場の完成だった。
今、リコリスの視界には広々と見渡す限りの鈍い青に光る土地が広がっている。
ちらりと目線を動かせば、町の中は赤い。そして、町に隣接している別の牧場主用の土地も同じく赤い。
それらを確認し、リコリスは黙って鍬を振り上げた。
「……あ、いけた」
後ろに立っているライカリスや、周囲の人々がきょとんとする。彼らからすれば、ただ地面に鍬が入っただけだ。
しかしリコリスの視界には、耕された分だけ、緑に変わった地面があった。
つまり――ヴィフの町の真横に、リコリスの牧場が発生したのである。
「……っ」
言葉にならない気分のまま、鍬をもう一振り。
最初の土地の隣が、また同じように青から緑に変化したのを確認し、リコリスは大きく息をついた。
「サイカッド町長」
「お、おう?」
困惑の表情でリコリスを見つめていた人々の中で、その一番手前にいたサイカッドに手招きをする。
首を傾げながら近寄ってきた彼に、リコリスは今耕した土地を指差した。
「ここ、えーと……今、私の土地になりました」
「え?」
ぽかんと口を開けられて、リコリスはあわあわと鍬を持っていない方の手を振った。
「あー、何て説明したらいいのかな。私たち牧場主の育てる作物が、普通より育ちやすいのは知ってますよね?」
「ん、ああ。それは知ってるぜ」
「それは私たちが女神ヴェルデの加護を受けているからなんですが、私たちの土地も同じように加護を受けているんです」
例えば、とリコリスは少し離れたところにある、枯れかけた野菜が植わった畑を指差した。
枯れかけの葉に視線を当てても、名前と成長率、状態は表示されるが、レベル表記はない。これは、牧場の外の作物を意味している。
「私があの畑に種を蒔けば、私が世話をしている限りは女神の加護で作物は育ちます。でもそれはあくまでも他人の土地に作物を植えただけの状態で、私のものではないので、私が世話をしなくなれば加護がなくなって多分枯れるか萎れると思います」
そこまで言って、リコリスはまた足元の土地を示す。
「でも、この私の土地に種を蒔くと、私のものだと認識されます。これは……女神になのか世界になのか私にも分からないんですけど。ただ確かなのは、土地の加護を受けた作物は……誰が世話をしてもいいということ」
その証拠に、リコリスは今、妖精や弟子たちに後を任せて、自分の牧場を離れている。
それに以前、何度かそういったクエストも存在した。
時間のかかる依頼を受ける代わりに、何日か牧場を面倒見てもらうというクエストだったが、牧場の作物が枯れたりはしなかった。
ただ牧場主の牧場である、というだけで、作物は全く違うものになるのだ。
リコリスの言いたいことを理解した人々が、次第にざわめきを大きくする。
それに頷き、リコリスは続けた。
「これから私が土地を広げます。私がスィエルに戻っても、普通に世話をすれば育ちますから……何を育てるのも、ヴィフの皆さんのご自由に」
ざわめきが驚きを経て、歓声に変わった。
今回はリコリスが大量に食料を運んできたが、スィエルの町とヴィフの町を行き来するにはやはり少し時間がかかる。しかもリコリスかライカリスでなければ、蔓の森は抜けられない。
それを理解していて、何度も運搬を強制できるヴィフの人々ではないから、野菜はたまのご馳走になるだろうと、それでも幸運だと皆諦め、納得していたのだ。
それがここで一気に覆された。
野菜が育つ、たくさん食べられる、と浮かれる人々を横目に、リコリスはサイカッドに向き合った。
「蒔く種は必ず私の渡すものを使ってくださいね。それは妖精に運ばせますから」
一度レベルの消えた作物から採った種は、再び牧場内に植えてもレベルが1からになってしまう。最初からリコリスの所有しているものを使えば、品質は最高の状態なのだから、その方がいい。
「あと何人か常駐させますから、何かあったらその妖精に言ってください」
サイカッドは小さな目を潤ませながら、何度も何度も頷いた。
「もう……もう本当になんて礼を言ったらいいのか……」
「いえ、私も来るのが遅くなってすみません」
半泣きで「リコリスが謝ることじゃねぇ」と言ってくるサイカッドに、リコリスは静かに首を振る。
スィエルの町を優先させ、ヴィフの町のために大至急、と動かなかったのは事実だ。
しかしそれを告白できない自分に嫌気が差しつつ、彼女はもう一度謝罪を口にした。
「……あのな、リコリス」
渋い顔のサイカッドが何か言いかけ、上手く言葉にならなかったのか、そのまま口を閉じる。
それを幸いにと、リコリスは彼に背を向けた。
とにかく、今は土地を拓くことを考えよう。
目の前の広大な土地を、町の人々を潤わせる広大な畑に変えるのだ。
――夏の日差しの下、1人で、鍬を使って。
他にできる者はいない。他にプレイヤーが戻ったとしても、それは変わらない。リコリス自身が耕さなければ。
昨夜の「明日は疲れる」予想は、見事に当たってくれそうだった。
(まぁ、でも成功したんだから)
成功しただけいい。それは間違いない。
むしろ失敗した時のダメージを思えば、この程度の労働がなんだというのだと、リコリスは黙々と鍬を振り始めた。
それから、リコリスは手伝いの申し出を全て断って、一心不乱に鍬を振り回した。
だから、真っ先に手伝いを断られて暗い顔をしたライカリスが、真剣な顔のサイカッドと何やら話し込んでいたのには、全く気がつくことはなく……。