第24話:因縁の果て、老狸との対峙
第24話です。
崩壊する徳川本陣の茶臼山。天下の覇者が抱える最精鋭の旗本たちが、ただ一つの「狂気」の前に次々と精神を破壊され、逃げ惑う地獄絵図。
その頂上で、宇喜多秀家はついに徳川家康を捕捉します。井伊直孝との死闘、家康の説く「泰平の覇道」、そして本多忠朝の決死の盾。
現代の知識など一切ない、ただ「太閤への恩」のみで地獄を生き抜いた男の、純粋にして極限の狂信を描き切ります。
慶長二十年、五月七日。
大坂の南にそびえる茶臼山の頂上は、初夏の強烈な陽射しと、むせ返るような血と臓物の臭いに完全に支配されていた。
味方を繋ぎ止めるため、徳川家康が死を覚悟して敷いた本陣。
だが、その天下人を守護するはずの最精鋭、数千の旗本衆の陣列は、すでに原型を留めていなかった。
三方ヶ原の昔から決して倒れることのなかった徳川の象徴「金扇の馬印」は、無惨にもへし折られ、恐怖に駆られて逃げ惑う足軽たちに幾度も踏みにじられて泥に塗れている。
「……ひぃッ! く、来るなッ! 悪鬼めェェッ!!」
誇り高きはずの三河武士たちが、兜を投げ捨て、武器を放り出し、我先にと斜面を転がり落ちていく。
彼らの背後から迫るのは、巨大な城を脱ぎ捨て、完全に単騎で駆け上がってきたただ一人の狂犬。
関ヶ原の泥と数え切れないほどの返り血を吸い込み、赤黒く変色した黄金の陣羽織。八丈島の凄絶な環境で十四年間削り出された、岩山のように隆起した無骨な体躯。
宇喜多秀家が一歩を踏み出し、血の滴る打刀を無造作に振るうたびに、抵抗を試みた数名の兵士の首が、鎧ごと容易く両断されて宙を舞う。
「……退け。お前たちの腐った血で、俺の刃を鈍らせるな」
地獄の底から這い出たような極めて低く、重い声。
無数の槍衾をただ一人で物理的に食い破りながら、秀家はついに血の海の中心へと足を踏み入れた。
完全に孤立した頂上の空間に、ただ一人、逃げることを諦め、床几に深く腰を下ろしたまま動かない男がいた。
徳川家康。
七十を越えた老体は小刻みに震え、その眼光には抗いようのない死の恐怖が色濃く浮かんでいる。だがそれでもなお、天下を御せんとする執念だけは、泥水の中で光る砂金のように鈍く、不気味に輝き続けていた。
「……そこを退け。老狸の顔が見えん」
秀家の言葉に、家康の前に立ち塞がっていた数名の近習たちが、ガタガタと刀を震わせた。
だが、その最前列に立ち、抜き身の十文字槍を構えた一人の男だけは、絶望的な状況下にあっても、凄まじい闘志の炎を全身から立ち昇らせていた。
「……行かせぬぞ。備前の狂犬、ここから先は一歩もな」
徳川の重臣、井伊直孝。
すでに全身に無数の傷を負っている赤備えの若き猛将が、死を覚悟した顔で家康の盾となったのだ。
「直孝か。……邪魔だ。お前のような前途ある若き将が死ぬには、ここはあまりに汚い泥沼だぞ」
「黙れッ!! 我ら徳川が、どれほどの血と泥を啜ってこの泰平の秩序を築き上げたと思っている! 貴様のような、過去にすがる亡霊の妄念に、その礎を壊されてたまるかッ!」
直孝が裂帛の気合と共に、十文字槍を鋭く突き出した。
空気を裂き、秀家の心臓を正確に穿つ必殺の刺突。
だが、八丈島という絶海で狂ったように巨岩を担ぎ続け、人知を超えた獣の如き膂力と、現代の格闘理論を手に入れた秀家にとって、それは届かぬ一撃だった。
秀家は、避けることすらしない。
突き出された槍の穂先を、あろうことか左手の籠手で強引に受け流し、装甲ごと肉を裂きながらその柄を鷲掴みにした。
「な、にッ!?」
驚愕に目を見開く直孝。秀家は、自身の左手からおびただしい血を流しながらも、全く表情を変えずに直孝の懐へと一気に踏み込んだ。
「……フンッ!!」
秀家の右手に握られた打刀の柄頭が、大気を叩き潰すような風切り音と共に、直孝の顔面を直撃した。
ゴキッ! という、重く鈍い骨の砕ける音。
鋼の面頬ごと下顎を粉砕された直孝は、白目を剥いてその場に崩れ落ちる。秀家は返す刀で直孝の右肩から胸にかけてを深く斬り裂き、完全に戦闘不能な状態へと追い込み、泥の上へ蹴り捨てた。
圧倒的な暴力。
武士の誉れも剣術の理合いも通用しない、純粋な殺意の塊の前に、ついに家康を守る壁は完全に消滅した。
秀家と家康の間には、まだ十歩ほどの距離と、恐怖で槍を持った手をガタガタと震わせている十数名の近習たちが、最後の肉の壁として立ち塞がっていた。
家康は、その兵たちの背後から、床几の肘掛けを強く叩いて絶叫した。
それは、天下を統べる合理の化身にとって、どうしても理解できない狂気への純粋な疑問だった。
「……なぜだッ! お前ほどの男であれば分かるはずだ! 太閤殿下(秀吉)の遺した世は、あまりにも脆い砂上の楼閣! あれではいずれ、日の本は永遠に血の海に沈んでいたのだ! ワシが築く徳川の世こそが、この国に二百年、三百年の永劫の泰平をもたらす――」
「……御託はいい」
秀家は、立ち塞がる近習の一人がヤケクソで突き出してきた槍の柄を左手で強引に掴み取ると、そのまま男の身体を剛腕で引き寄せ、分厚い胸板に容赦のない前蹴りを叩き込んだ。
「ごぼぁッ!?」
くの字に折れ曲がった近習の肉体が、砲弾のような凄まじい勢いで後方へ吹き飛び、家康の座る床几へと直撃する。
――バキィッ!!
家康の掲げる天下国家の大義は、自らの盾となった兵の肉体ごと物理的に粉砕された。
無様に泥の上へと転がり落ちる天下人。近習たちは悲鳴を上げて左右に散開したが、秀家はすぐには歩み寄らなかった。
数間の距離を保ったまま、泥に這う家康を冷徹な瞳で見据え、血に濡れた刀をだらりと下げる。
「俺は、お前の賢い天下の講釈を聞きに来たんじゃない。大義も、泰平も、知ったことか」
その双眸に宿るのは、戦国の理でも、武士の誉れでもない。十四年間、八丈島の波音の中でただ一つ守り抜いた「太閤の笑顔の記憶」だけが、分厚い狂気となってこびりついている。
「お前の理屈など届かん。……俺の頭の中にはな、あの人が笑っていた黄金の景色しか、もう残っていないんだよ」
――閃光。
言葉の終わりと同時だった。秀家の巨体が、泥を爆発させて前傾姿勢で弾け飛んだ。
残された数間の距離を、常軌を逸した脚力で一瞬にしてゼロにする。
大気を引き裂きながら、限界突破の剛剣が、飛びかかりざまに家康の首筋へと真っ直ぐに振り下ろされる。
「因果ごと地獄へ落ちろ、家康ッ!!」
剥き出しの殺意の刃が、天下人の命を完全に断ち切らんとしたその刹那。
「……させぬッ!!」
横合いから、凄まじい気迫と共に一人の大柄な武将が身を呈して飛び込んできた。徳川の猛将、本多忠朝である。
秀家の神速の踏み込みに対し、忠朝は血の海に沈む家康を無理やり背後に突き飛ばし、自らの肉体を盾にして秀家の刃の軌道上へ差し出したのだ。
「ぐぅ、がぁぁぁぁッ!!」
ズバァァンッ!! という凄まじい切断音。
秀家の刃は、本多忠朝の左腕を肩口から完全に切断し、そのまま勢いを殺しきれず、背後に倒れ込んだ家康の右肩から胸板にかけてを深く、深く斬り裂いた。
大量の鮮血が、茶臼山の頂上に放射状に撒き散らされる。
「大御所様を……お連れしろッ! ここは、この本多内記が命に代えても食い止めるッ!!」
片腕を失いながらも、忠朝は狂鬼のような形相で秀家に組みつこうとする。
そして、その忠朝の捨て身の防御が稼いだ数秒の間に、茶臼山の斜面の下から、地響きを立てて絶望的な光景が這い上がってきた。
「殿をお守りしろォォッ! あの狂犬を八つ裂きにせよッ!!」
総大将の窮地を知った、松平忠直、井伊の残党、そして榊原といった数万の徳川の援軍が、怒り狂った波濤のように頂上へと押し寄せてきたのだ。四方八方を完全に埋め尽くす、黒い鎧の海。
秀家は舌打ちし、足に縋り付く忠朝を蹴り飛ばして刀の血糊を振り払った。家康は血の海に沈みながらも近習たちに抱えられ、這う這うの体で斜面を転げ落ちていく。
もはや、どこにも逃げ場はない。数万対一という、絶望的な包囲網が完全に完成してしまった。
その時である。
「閣下ァァァッ!!」
斜面の下から、無数の槍衾を強引に切り裂き、血塗れの明石全登と児島党の生き残りが茶臼山の頂へと駆け込んできた。
だが、彼らの目に飛び込んだのは、逃げ延びていく家康と、その間を完全に塞ぎつつある数万の徳川軍の分厚い壁だった。
「全登。……血路はどうした」
「西へ開きました! 秀頼様の護衛は真田殿に託してあります! 閣下、早く我らと共に脱出をッ!!」
命令を違えてまで救出に戻ってきた忠臣たち。
だが、秀家は一切の焦りを見せず、怒り狂って斜面を這い上がってくる徳川の黒い軍気を見下ろした。
「……阿呆が。俺がここから逃げれば、この万の追撃は全て秀頼様の背中へ向かうだろうが」
秀家は、黄金の陣羽織を初夏の熱風に大きく翻し、茶臼山の頂上のど真ん中で、仁王立ちになった。
「全登。……お前はもう一度囲みを突破し、真田を追え」
「閣下……!? まさか、お一人でこの万の軍勢の蓋になると……」
全登の顔が、恐怖ではなく、底知れぬ喪失感に青ざめた。
「殿だ」
秀家は振り返り、十四年間常に共に在ってくれた最高の忠臣に向けて、かつてないほどに穏やかな笑みを向けた。
「俺の命、ここで全部、薪にして燃やしてやる。……秀吉様からいただいた火を、絶やすわけにはいかないからな」
「……あぁ、あぁぁ……閣下……ッ!!」
全登は、泥の中に両手をつき、声を上げて泣き崩れた。
だが、秀家の瞳に宿る絶対的な義を見て、全登は泣き叫ぶのをやめ、震える手で血塗れの槍を力強く握り直した。
「……御意に。この明石全登、必ずや秀頼様を海へ逃がしてみせます。……閣下、地獄で、またお会いしましょうぞ!」
全登と児島党のわずかな生き残りたちが、西へ向けて死に物狂いで血路を開き始める。
秀家は、彼らの背中を頼もしそうに見送り、そして一人、押し寄せる徳川十五万の軍勢の正面へとゆっくりと向き直った。
「さあ、来いよ、徳川の犬ども」
秀家は、ボロボロになった愛刀を正眼に構え、天を裂くような巨大な咆哮を上げた。
「豊臣の狂犬、宇喜多秀家の最後の暴れっぷり……お前たちのその網膜に、一生消えない恐怖として焼き付けて死ねェェッ!!」
狂犬の魂の叫びが、茶臼山の頂から天下へと響き渡る。
一人の男の途方もない執念が、数万の軍勢を前にして、ついに歴史の最果てへと辿り着こうとしていた。
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