26.
約一ヶ月半の夏休みがはじまった。
大半の生徒が帰宅するが、家庭の事情などで、まったく寮から出ない生徒も一割くらいはいる。
家族のない忍も、行く宛はないから寮に残るしかないのだが、どちらかというと帰れない生活を忍は楽しんでいた。
山の中の夏は適度に涼しくて、空気も澄んでいて心地よい。
授業はないから、朝はいくらでも遅くまで寝ていられる。
寮の人数も減るから、共有設備も少人数で悠々と使える。
食事も頼めば三食提供してもらえる。
いくらでもプログラミングの仕事に打ち込めたし、時おりは、暇を持て余した寮生たちと気分転換に遠出をしたりもした。
下請けの下請けの下請けの仕事を片づけてメールで提出した朝、忍はすこしは体を動かした方がいいと気づいて、ぶらぶらと校内を散歩することにした。
晴天だ。
真っ青な空に、入道雲が出ている夏休み。
陽射しは強いが、山の中だけあって風は爽やかだ。
蝉の声を聞きながら、右に左にぶらぶら歩いていると、おなじ寮の後輩が本を抱えてえっちらおっちら歩いてくるのが見えた。
体つきは高校生のように大きいが、顔つきは小学生のようにあどけなく、いつもひとりでぼおっとしている少年だ。
すれ違いざま、忍が会釈しても気づかずに、熊のようなのっそりとした動きで通り過ぎて、ゆっくりと図書室に入って行った。
(あの子、本好きなんだ)
そう言えば食堂でも、本を読みながら最後の一人になってものんびりと食事をしている。
いちど賄いのおばさんに注意されたら、体格に似合わぬ小心さで泣きだしてしまった。
寮監が仲裁に入り、以後はマイペースに生活させてもらっているようだ。
(図書室って夏休みもやっていたっけ?)
司書の先生が残っていたかどうか、記憶にない。
好奇心に駆られて、下級生の後をおって図書室に入った。
驚いた。
麻井芙弥也がカウンターの中に座っていて、しかも先ほどの下級生と会話をしていた。
依頼した本は書庫だからとか、事務的な会話だが、それでも麻井芙弥也の声を聞くのは久しぶりだった。
びっくりして見ていると、麻井芙弥也と目がばちっと合った。
とぼけた眼だった。
分厚い眼鏡の奥の、澄んだ鳶色の瞳。
つややかなほおも。
小さな可愛らしいくちびるも。
なにも変わっていなかった。
芙弥也はすぐに視線を落として、カウンターの内側で本を読みはじめた。
下級生はのそのそと二階の閲覧室に上がって行く。
忍はカウンターに両腕をついて、身を乗り出した。
「びっくりした、麻井くんがこんなところにいるなんて。
司書の先生はどうしたの」
「夏休み。
でも、ぼくが仕事するなら、夏の間も図書棟を開けていいって言うから」
期待はしていなかったのに、答えが返ってきた。
しかも生まれて初めて聞く、麻井芙弥也のまっとうな答えだ。
どうしよう。
全身の血液がどくどう脈打ち出して、すごい速さで体内を駆け巡った。
話したいことはたくさんある。
でも、いざ話してみて、また繭にこもられても怖い。
あたりさわりのない話を選んだ。
「いまのコ、うちの寮の後輩だけど、本が好きみたいだね。
いつもひとりで本を読んでいる」
芙弥也はしかめっ面になって、首をねじ曲げ、階上へつづく階段を見上げた。
「大丈夫か、アイツ」
麻井芙弥也が誰かを心配するなんて、忍のクラスの生徒が聞いたら幻聴だと思うだろう。
というより、麻井芙弥也に心配されるなんて、人として終わっていると判断するに違いない。
「どうだろう、けっこうマイペースみたい」
芙弥也はすこし考える顔をしたが、すぐに視線を手元の本に戻した。
もう話したくはないらしい。
忍は頷いて、図書室から出ようとした。
「天川」
背に、芙弥也の声がかかった。
「ぼくはまだ混乱している」
思わず振り返った。
麻井芙弥也はいつもの教室の姿と同じように、外界を遮断して繭に閉じこもり、本を読んでいる。
「分かった」
忍は答えると、いっきに駆け出した。
心臓が爆発するほどに無茶苦茶に駆けて、苦しくなっても足を止めずに部屋に戻った。
大声で叫び出しそうになって、両手で口を塞ぐ。
とにかく嬉しい。
無茶苦茶に嬉しい。
人とコミュニケーションが取れることが、こんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。
まだばくばく鳴っている心臓を、拳で押さえた。
――ぼくはまだ混乱している。
その言葉の意味は、はっきりとは理解できない。
でも、まだ、という以上、いずれは混乱から抜け出そうという意志があるはずだ。
それはいつだろう。
明日、明後日ではないだろうけど。
始業式とか、もしかしたら次の文化祭?
高校生になる時かもしれない。
ここまできたら焦ってもしょうがない。
じっくりと腰を落ち着けて、その日を待とう。
そうだ、浅葉くんにも伝えなくてはいけない。
ここしばらく苛々していた浅葉くんだから、さらに身勝手だとか怒り出すかもしれないけれど、そうしたら一度、きちんと会話をしよう。
忍は両手を胸元で硬く組み合わせた。
本当に良かった。
すべてに対して、明るい兆しが見えてきた気がした。
だが。
始業式の日に、浅葉檸檬の姿はなかった。




