CASE 14 : 盆栽 -PRUNING-
二本のワイパーの腕が健気に、けたたましく動き、懸命に窓を拭う。
だが、大粒の水玉の大群が隙も見せず立て続けに正面からぶつかってくる。
視界はわずかに晴れるのみだ。
八幡は信号待ちの手持ち無沙汰でハンドルに少し身を委ね、上をのぞき込む。
「梅雨ですねぇ。」
「幸先が悪いな。」
「にしてもあの子、避難させといてよかったですねぇ。」
錠剤を二錠、口へと放り込み、ドリンクホルダーに置いていた水を一口飲む。
「うちの頭痛は止まらんけどな。」
こういう日はいつも頭がズキズキとする。だから雨は嫌いだ。
――十年前、そういえばあの時もそんな天気だった。
霧で囲まれた雑木林を歩いていた。
山道には雑草が間引かれ、丹念に整備されている痕跡があった。
ただ、大雨と霧で引き返せる気がしない。
着ている甚平も、頭に巻かれた包帯も、雨や泥でぐしゃぐしゃになってきた。
どこまで歩いてきたか、もはや分からない。いや、そんなことはもうどうだっていい。
力が抜けてきて、近くの木にもたれかかる。
直後、バサバサッと羽を重たく振る音が聞こえてきた。
三羽のカラスが服の裾をついばむのを見て、私は空を仰いだ。
「—―うちにはもう、何もなか。」
―—何もかも、どうでもよくなった。
霧の影から人影が近づいて来るのが見えた。話し声が聞こえる。
「まぁた迷子かよ。飛んで行ったのはあっちか?」
ガァーガァー、という濁った鳴き声が向こうから聞こえてくる。
すると、カラスたちは裾をついばむのをやめ、同じような鳴き声で返す。
「居ました!こっちです。」
人影の輪郭がはっきりと見えてきた。
中年の男と、後ろに若い女が居た。二人とも傘を差して、スーツを着ていた。
「まだ息があるな。」
こめかみから顎まで髭をたくわえた男が、細長い小包をコートのポケットから出し、目の前にぽいと投げた。携行食のたぐいらしい。
「食え。」
「……あんたには関係なかろ。」
男ははぁ、とため息をつき
「こんなところで勝手に野垂れ死ぬんじゃねぇ。ここ整備すんのにどんだけ金かかると思ってんだ。」
「どこの馬の骨か知らんが、面倒みてやるから雨が止んだらとっとと帰れ。」
「もう帰るとこはなか。」
男は腕を組んで顔を俯ける。
「……八幡。お前の部屋空いてるか。」
目を開けると、車は大きな門の手前で停まっていた。
依然として雨雲はあるが、さっきよりはマシだ。
八幡が車に戻ってくるのが見えた。おおむね入門の手続きを済ませてきたところか。
しばらくすると、ガチャ――と運転席のドアが開く音と共に湿った熱気が入り込んできた。
「本当に大丈夫ですか?さっきからずっとうなされてましたけど」
「気にすんな。いつものことやけん。」
「へぇ、いつものことねぇ……」
八幡は不服そうな顔をしながら、ゆっくりと車を進める。
――ここが三葉重工 神戸第三工場。
窓の外を眺めていれば、時折会社の人や車とすれ違うことがあったが、この建屋だけは人影すらなかった。音を発するものは私と八幡の二人のみ。
周囲に張り巡らされた規制線が空間を分かつ結界と化していた。
通り雨で床の中に溜まった水たまり、その直上にぽっかり空いた穴。
それらが、まるで隔離されようとしている空間同士を繋ぎとめていた。
「驚くほど跡形もなか。」
「しかし、ここまでよく入れてくれましたね。最近まで因妖庁の息がかかってたでしょうに……」
「さすがに用意が良すぎるな。ま、仕事が進む分には問題なか。」
アスファルトの表面に、白く輝く粉が散らばっている。
「これ何?」
その粉を人差し指の腹で絡め取る。
――指の腹に触れた感覚が、どこかあの、土をはじめて触ったときの記憶を思い起こさせる。
事務所の和室に置かれた盆栽。
仕事をしては、この子に水をやる。そうした生活をずっと繰り返すはずだった。
だが、いつの間にか葉が萎れ、その子は活気を失っていた。
葉の色も、土の表面も――問題なかった、はずだった。
「お前は目が良すぎるんだな。」
男は右手で鉢の中の土を少量すくい取り、一瞥した後
「土がちと固いな。たぶん根が腐ってるぞ。」
親指と、そのほかの指をこすり合わせるように動かし、土を鉢の上でふるい落とす。
「手を動かせ。」
「……動かしとるけど」
「その手はスコップを持ったり、刀を振るだけのもんでもないだろ。」
「その土を触ってみろ。」
男に言われるがままに、鉢の中の土にそっと手を添える。
「……固い。」
「だろ。」
男は盆栽を見つめたまま続ける。
「"見る"角度が増えれば、道は枝分かれしていく。」
「見れば見るほど、可能性が高い方の枝が成長していく。」
「だが最後に決めるのは必ずしも"多数決"じゃない。」
「じゃあ、どうやって決めるん」
「俺にもわからん。」
男はそう言って、盆栽の枝を一本指で弾いた。
「それでも、五感をフルに使うんだ。」
「そうすりゃ、そいつにとってベストであろう湿度も、日当たりも"見えて"くる。」
もう一度盆栽に手を触れる映像が頭を過った。
「銀粉っぽいな。」
人差し指の腹に着いた粉を指でこすり合わせながら、じっと眺めていた。
「どうしたんです?そんなに見つめて。」
「うん。そういや、趣味でこれ使ってお椀とか直しとった人おったなと思て」
八幡は屈めていた長い背中をぐっと伸ばし、腕を組む。
「ふーん。」
「にしても、ロボット作るとこで銀粉ですか……カラスに聞いてみましょうか。」
「そうしよう。」
その粉を持ち帰って工場を後にし、付近の見晴らしのいい展望台へと移動する。
八幡はカラス笛を取り出し、ガァーガァーという音を奏でカラスを呼び寄せた。
そして、やってきた三羽のカラスに銀粉を啄ませ、飛び立たせる。
二羽は南南西、残りの一羽は西南西の空へ飛び去った。
「うーん。確率的には淡路島の方角みたいですね。」
選択肢は二択――淡路へ行くか、西南西の空の先へ行くか。
――枝を選ぶということは、もう一方の枝を切り捨てるということだ。
「迷ってるな」
鋏を握ったまま、私は固まっていた。
「ほう。どっち切っても良さそうだな。」
「どっちも残すのは?」
「その手もあるが、互いに邪魔しあう忌み枝になるぞ。どうなる?」
「たぶん――この子は弱る。」
「そうだな。」
「最後まで手を尽くした上で選択した。その上で枯れたってんなら、ツキがなかったってことだ。そん時は次の盆栽を育てればいい。」
「まあ、俺なら鉛筆を転がす。」
「お前は、何を頼る?」
あのとき、結局どちらを切ったのかさえ、もう覚えていない。
"多数決"じゃない――なら、あの一羽は何なんだ?あの二羽は?
ふと、西南西へと点となって消えたカラスの先にあるものに焦点が合う。
雲が流れている――そんな景色が、大嫌いだった親父の顔を思い出させる。
――雲の流れを、よく見ておけ。
水は鉱石の運び手だ。
水は山を削り、鉱石を運ぶ。
山は水の流れを変える。
水は雲となり、また山へ戻ってくる。
流れが乱れとるところには、必ず理由がある。
鉛筆を転がしていたほうが、まだマシだったかもしれない。
だが、小さいころから染みついた、その思考にいつの間にか縋り付いていた。
海の向こう、雲が陸地の外へ押しのけられていた。
海風ではない。
それに心なしか、その雲は円形に渦巻いているように見えた。
「あそこだけ晴れとる――台風の目みたいやな。」
「台風?そんな予報なかったはずじゃ……」
八幡がスマホの衛星画像を慌ただしくスワイプしては見つめる。
「すごい、香川のところだけぽっかり穴が開いてる……」
「……流れが乱れとるところには――か。」
「八幡、淡路島と香川、番路で行くならどっちが早い?」
「淡路島は十五分、香川は三十分くらいです。」
淡路島に行ってから香川に行く?
いや――
「香川に賭ける。」




