第2章 護り石の再会(14)
「この部屋を好きに使え。館内は何処へ行こうが自由だ。何か不自由があれば、近くの兵士を掴まえて言え」
部屋の扉を開き、マリーを中に通しながらシンが言った。
そこは軍が要塞として使用している建造物の中の一室だった。
室内はこの建物内の他の場所と全く同様に、此処も部屋中の調度品のほぼ全てが抜けたままであることがはっきりと見て取れるような状態で、奥には本来の内装にはまるで似つかぬ簡易的な寝台がひとつ据え付けられているのみだった。
唯一、元々は壁の装飾の為に施されたと見受けられる、精巧な手彫りの彫刻の一部が、剥ぎ取られずそのままになっていて、その無残なさまがより一層過去の略奪行為を彷彿とさせた。
「さっきのことは忘れろ。所詮根拠の無い戯言だ、お前が気にすることは何もない」
部屋に入って直ぐ、シンはマリーにそう言った。
だが、マリーにはその言葉をそのまま受け取ることが出来なかった。
先程の強烈な怒りを顕わにしたシンの姿に、何をどう思うべきなのかも、分からなくなっていた。
鈍い光を放つ銀の短銃を腰に差したままの青年の広い背中が、今マリーの目の前には在った。
その背中を見つめる、ただそれだけでマリーの言葉は失われていくようだった。
マリーが自分へと向けてくる眼差しに気がついたように、シンがゆっくりと振り返った。
改めてマリーは、自分よりずっと高い長身の青年を見上げた。
「何だ……」
少々困惑混じりに、シンは怪訝な表情を見せた。
「髪も眼も同じ……何も変わってない。記憶の中の姿そのままね……本当に、シンあなたなの? 」
マリーの言葉に、シンは顔を歪め、口を開いた。
「……過去のことを話すのは苦手なんだ、勘弁してくれないか」
シンの言葉に、マリーは一度だけ頷いて見せた。
「そうね、過ぎ去った過去を思っていても仕方がないのに。……それより、あの夜、あなたの姿を見かけた時は、本当に息が止まるかと思った」
マリーは目の前の青年を見上げた姿勢を崩さず、そう言った。
「夜公会のことか、俺のことを知らなかったのだろう……当然だ」
「そうなのかもしれない……でもそれより……」
マリーはそう言いかけたが、その後に続く言葉を打ち消すようにかぶりを振った。
「……俺には近付かない方がいいだろう。お前自身が後悔する結果になるだけだ」
それはひどく低い声だった。
「……」
そうしてシンは、更に言葉を続けた。
「その意味は、すぐにでも理解出来る筈だ」
マリーの深い青の色彩を映す両眼が真っ直ぐに、目の前の青年の姿を捉えていた。
背を向け立ち去ろうとしたシンの腕を、マリーが反射的に掴んだ。
その行動に一番驚いたのは、他の誰でもなくマリー自身だった。
シンの両眼が大きく見開かれ、自らの腕を掴んだままの目の前の娘を凝視した。
「……子供の姿を今の俺に重ねたところで、そんなことは無意味だ」
苦しげに眉を寄せ、シンはそう言った。
シンの言葉にマリーは力無く首を横に振った。
次の瞬間のシンの行動は、マリーの想像もつかぬようなものだった。
瞬時にマリーの腕を振り解き、逆にその娘の細い手首を強引に掴んだ。
「……俺はもう成長した普通の男だ、そんな相手に、迂闊に関わろうとすればどういうことになるか分かっているだろう」
シンはそう言って、そのままマリーの身体を強く壁に押しつけた。
二人の身体が重なった。
息が掛かりそうな程の距離のまま、シンはマリーを見つめていた。
「シン……」
吐息にも似た声が、マリーの口から漏れた。
「……今まで色々なものを欺いてきた。そのことを積み重ねることで、実体が分からなくなってしまう程に……。理由なんてないの。……けれどひとつだけ確かなのは、こうしてあなたの声を聞いているだけで苦しくなる。あの頃のわたしには、あなたがくれる世界が全てだったから……」
そう言ったマリーの頬に、一筋の涙が伝った。
「……やめろ。そんな風に俺を見るな」
苦しげに眉を寄せ、シンは腕の中の娘にそう言った。
マリーは瞼を閉じて、囁くようにもう一度目の前の青年の名を呼んだ。
「もうやめてくれ……」
諦めの色が滲んだかのような静かな声でシンが言った。
その後、シンは腕の力を緩め、マリーから自身の身体を引き剥がし、一瞬きつく目を閉じた。
そして、もう一度何かを言い掛けたが口をつぐみ、そのままマリーに背を向けた。
漆黒の髪の青年が去り、ただ一人残されたマリーは両手で顔を覆い、止まらない嗚咽を漏らした。
―理由など言える訳がない。
すべてが引きずられてゆく、記憶の中の姿とは似ても似つかぬ低い声と広い背中とに……。
突然降りてきたような言葉は、紛れも無いマリーの本心だった。
秘めたままであった、本当の願い。
マリーは泣き崩れ、ぼんやりと宙に視線を彷徨わせた。
―自分にこんなに強い感情がまだあったなんて知らなかった。
マリーはそう思った。
自分のことを人形のように感情が麻痺したままだと思っていた。
生きる活力を失ってしまった自分は、あの日以来、着飾ることを拒否するようになった。
そういう自分を思い知る度、自らを壊れたままの存在なのだと、常に感じ続けていた。
両眼を潤ませたマリーの中に、幼い日、寝台の中でひっそりと誰にも聞かれず漏らした呟きが突然蘇った。
「会いたい……寂しいよ、シン……。誰もわたしのことを見てくれないの。皆、お父様の子供って呼ぶばかり。わたしは、マリーなのに……。誰も呼んでくれないの、わたしのこと」