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赤い踊り子  作者: ゆき


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2/2

赤い踊り子 後

 2


 妻が死んだ。


 大村からメールが届いたのは、携帯を枕元に置いて寝ようとしていたときだった。暗闇に映る文字に、背筋を人差し指でなぞられるような心地がした。頭が白くなり、真っ先に菜々子の顔がふっと浮かんだ。電話帳を表示したまま、メールにあった『死』という言葉の大きさに震えていた。時計の針が少し動いた頃、大村からの着信が鳴った。

「もしもし」

『突然ごめんね』

 手の内側に汗が滲んで、携帯に指紋が付いた。

「・・・メール見ました、その・・・」

『あぁ・・・。そうゆうことだけど、まだ近しい人間しか言ってないんだ。奈々子には俺から話すから・・・』

「わかりました。言わないでおきます・・・」

 外に居るのだろうか。バイクの音に混じって、人の話し声が聞こえた。

「あ・・・あの」

 口の中に空気を含む。

「大丈夫ですか?」

『忙しいからか、意外と落ち着いてるよ。色んなことに追われていてね、実感が無いんだ。長年連れ添った大切な人が亡くなったのに、仕事をしている気分なんだよ』

 淡白な口調だった。

「私にできることがあれば言ってください」

『ありがとう。落ち着いたら話すよ』

「・・・どうして私に?」

 カーテンを少し開けて、窓に指をくっつける。

「私はそこまで大村さんと親しい間柄じゃないのに」

『・・・・・・』

「すみません。忙しいときに。また今度話しましょう」

 建設中のビルに掛かったブルーシートが、時折風に揺らいでいた。

『自分でもわからないけど・・・そうだな、話しやすいんだろうな。君は他人に信頼される何かを持ってるんだと思うよ。奈々子にとっても、俺にとっても』

「そうですか?」

『あぁ、だから菜々子にも紹介したんだ』

 携帯を押し付ける。

「それは、特別なことですか?」

『あぁ、勿論だよ』

「よかった・・・・・・」

 心がほんわかした光に包まれるのを感じた。月の隣に浮かぶ、マンションの明かり程度だったが、私には十分だった。

「今、菜々子の踊る姿が見たいです」

『え?』

「見たいんですよ・・・何か、もうしばらく見てない気がしていて・・・なぜなのか、わからないんですけど、無性に見たいんです」

 窓に映る自分の頬に、涙が伝っていった。

『あぁ。俺もだよ。奈々子に会えば、美しさに見とれて何もかも忘れられるんじゃないかって。妻に対する罪悪感はあるんだ。長年連れ添ってきて、ずっと見捨てないで居てくれたのに、最後の最後で愛せなかった・・・』

「そうですか・・・」

『こんなこと言えるのも君くらいだけど・・・どこかで真っ新に生まれ変わった状態で菜々子に会えるかもしれないって期待もしてしまってるんだ。純粋な愛情のみを心に宿すことができるんだろうかって・・・自分でもぞっとするよ』

 その場に座り込む。本心なのだろうか。

『汚いよな。こんな状況なのに、妻が過去に尽くしてくれたことよりも、菜々子のことばかりが頭にあるんだよ。次にどんな表情を見せてくれるんだろうって。どんなふうに愛してくれるんだろうって・・・心は悲しいのに筆が止まらないんだ』

「そうですか」

 腰のあたりでもったりと揺れる、艶やかな髪を思い出していた。前髪を掻き上げる度に震える金色のピアスは、菜々子の心の内側を表現しているようにも見えた。

『妻の愛情よりも、菜々子の愛情のほうが心地よかった。ただ、妻はどんなことがあっても別れてくれなかった。死んでやっと別れてくれるんだよ。何か、変な解放感に踊らされてるのかもしれないな』

 微かに嘲笑していているのがわかった。

『気持ち悪いよな。軽蔑してるだろう。そのほうが楽だ』

「えぇ、人間だと思えないですよ。女性として最低な人間を見ている気分です。奥さんは可哀想ですね」

『本当、馬鹿だよな』

 胸を抑える。

「でも、大村さんには本当に感謝してるんです。落ち着いたら、菜々子の踊る姿を見に行きましょうね」

『あぁ・・・』

 悲しく繋がるのがわかった。

『ありがとう・・・もちろんだよ』

 指先を窓に押し付ける。短い挨拶の後に、ツーツーと鳴る音を心が落ち着くまで聞いていた。

 菜々子と最後に会ったのは三週間前だっただろうか。大村の奥さんに対する憎しみを聞いた後、電話もメールも来ることは無かった。大村は私のことを菜々子が心を許した初めての友人だと言っていたが、きっとそうではなかったのだろう。利害関係が一致すれば付き合う人間だったのだと思った。


 手の甲で涙を拭うと、目元も頬もひりひりしていた。どれくらい泣いていたのだろう。堰を切ったように、感情を垂れ流していた。大村の奥さんに憐れんでいるわけでも、大村に対する失望に戦慄いているわけでもなかった。誰に自分を置き換えても辛く、誰にもなりたくなかった。ただ、誰かに対して妬ましく思う感情だけが精神をさらさらと撫でていた。

 貝塚の言っていたことが頭の中でぐわんぐわんと響いている。立っていることができないほどだった。勝ち組と呼ばれる人たちに、ひれ伏さなければいけない生活の中で、どうにもならない恐怖と絶望感に襲われていた。大村の奥さんは全てを捧げても菜々子に叶わなかったのだろう。死んだことによって、法的にも大村を取られてしまうのだ。

 どんなに肉体を突き破って精神が露わになっても、菜々子のように表現する方法も、大村のように文章で世間の共感を得ることもないのだ。大きな獣の前で蟻が何かを叫んでいたとしても、尻尾の一振りで命を絶ってしまうように、自分の力ではどうにもならないものばかりだった。理不尽であることを、訴える行動さえ思いつかなかった。否、間違っていることだとしても、受け入れることに慣れていた。大きな影響力を持つ人が、大地を踏みしめる足に当たらないようにしながら生きていくしかないのだと思った。


 私はどこで色を失ってしまったのだろう。何時から失わなければいけなかったのだろう。生活の中で私が居なくなっても、すぐに誰かに置き換えられてしまうほどに、無色になっていた。不貞の関係である小説家と踊り子の間で、振り子のように揺らいでいた。生きているだけで放つ二人の色彩に、自分も少しだけ入り込んでいることがせめてもの救いなのだ。愛に包まれた欲望は、社会の目も法律も、過去や未来さえ振り切って、ぼうぼうと燃え上がっているのだ。馬鹿馬鹿しくて、滑稽だった。一つでも鎖が外れると、全てのものから排除されて、崩れてしまうことに気づいていないのかもしれない。でも、憎たらしいほど羨ましかった。貝塚の言う通りなのかもしれない。全てにおいて社会的に無力で、何かを起こせるほどの頭が無い自分が唯一何かできるとしたら、真っ白な紙に気づかないほどの一筋の亀裂を作ることくらいなのではないだろうか。

「もしもし菜々子?」

『ん?』

 爪先から降り立つような心地がした。

『どうしたの? 協力する気になってくれた?』

「その必要はないの」

『どうして?』

 ベッドの端に寄り掛かる。

「知ってるんでしょう? 大村さんの奥さんが死んだから」

『え・・・・・・』

 少しの沈黙の中に、何を思っているのかわからなかった。

『本当・・・なの? それって、どうゆうこと?』

「ねぇ、菜々子が殺したの?」

『違うわ』

「本当に? 私は真っ先に菜々子と貝塚さんが殺したんだと思った」

 扇風機の羽を止めて、声を細くする。

『死因は?』

「さぁ、聞いてない。奈々子が犯人だとしたら・・・って思って、聞けなかった。最初に菜々子に確認しておこうと思ったの」

『私じゃないの・・・でも、そうなの』

 声の節々が乾いていた。本当に奈々子が殺したわけではないのだろうか。

『でも、何であの人から連絡が無いのかしら。昨日も電話したけど、次会う約束と、何も変わらない普通の会話しかしなかったわ・・・』

「そう・・・菜々子にはまだ話さないでほしいって言われてるの。自分から話すって」

 長い息をつく。

「喜んでるの?」

『えぇ』

 つんとした声だった。

『そうね、嬉しいわ。でも、まだ実感が無いの。優奈が嘘を付くとは思えないけど・・・これからは、秘密の関係じゃなくてもいいって・・・何か変な感じよ。奥さんが死んだことで大村さんの何が変わるのかわからないから・・・』

「意外と冷静なのね」

『でも、私が一番になることには変わりないわね』

 新しい服を買ってもらった少女のように感じられた。

「・・・どうして私が嘘を付いてないって思うの? 殺人事件に巻き込まれたくないからって、菜々子に適当なことを言ってるかもしれないじゃない。奥さんはもう死んだから、事件を起こす必要は無くなったって。そう、大村さんに言われてるのかもしれないじゃない」

『そんなすぐにばれる嘘、付いたって意味ないじゃない。もし、優奈が事実とは異なることを言ってるとしたら、優奈が大村さんに騙されてるってことよ』

 指でこめかみを抑える。

『優奈って騙しやすそうだから・・・』

「大村さんが嘘ついてるようには思えなかった。本当に死んだのよ」

 顔の血管が太くなっていく。掌から汗が滲んで、携帯にべったりとくっついていた。

『そ。まぁいいわ』

「で、どうするの?」

『どうするって?』

「私に何をしてほしい?」

 熱くなった携帯から耳を離す。

『・・・そうね、とりあえず大村さんの息子に会ってみて。何か情報が掴めるかもしれないから。家庭がどうなってるのか、何かあったら私に教えてちょうだい』

「わかった。そのくらいならやるわ」

『え? 本当にやってくれるの?』

「自分で言ったんでしょう?」

『そうだけど・・・なんだか不気味ね。どうして、私に協力する気になったの? 何か企んでるの?』

 茶色に染まった髪をすっと前に伸ばした。毛先の色が抜けて、油を失っているようだった。

「ただじゃないわ。交換条件よ」

『何? お金なら無いわよ。優奈に見合う男も紹介できないわね、だって私のお客さんはみんな私のモノだから。当たり前だけど、大村さんも渡さないわよ』

「菜々子の踊る姿を見せて」

『・・・・・・』

 指に絡めた髪が落ちていった。

『それが、優奈にとって何になるの?』

「菜々子は美しいわ。羨ましいのよ。私ね、二年半働いてきた派遣の契約、切られちゃうの。私なりに頑張ってきたのにね。奈々子のような色も剥がしてしまって・・・本当に何も持ってない女性になってしまったわ・・・。社会の目も気にせず一人の人を愛して生きていくことが羨ましいの。犯罪には手を貸したくない。でも、踊る姿を見せて。奈々子の踊る姿を見ると・・・」

『もういい。わかったわ』

 言葉を抑えつけるようだった。

『来週の水曜日と金曜日、大村さんと来てくれた場所で踊ってるわ』

「わかった」

『一人で来るの?』

「うん・・・」

 光沢の無い爪を眺める。

『じゃあ、端っこのカウンター席取っておくわ。時間が合ったら来て。友達って言っておくから、きっとサービスしてくれると思う』

「ありがとう」


 携帯を枕元に置いて、壁に後頭部を押し付ける。石化していた自分の身体が、少しだけ動いたような気がした。奈々子は金魚鉢に入れられた金魚のように、しゃらしゃらとした泡を立てて、大村に泳がされているのかもしれない。私は菜々子を動かすためのトリガーでしかないのかもしれない。でも、何が真実であっても、菜々子と同じ水の中に居るほうが今の自分にとって心地いいことなのは確かだった。




 中尾課長は私が席に着くと、通りかかった隅田を呼んで、冗談交じりにお客さんとのやりとりを話し始めた。奥歯を噛んでパソコンの時計を見つめたが、一分が重く、なかなか時間が切り替わらなかった。

 コンビニの袋を指に下げながら食堂のテーブルに向かうと、すぐに増田が声を掛けてきた。

「ちょっと、日比野さん、新井さんから聞いたんだけど・・・」

 目尻の皺にファンデーションが食い込んでいる。

「今度の契約で切れちゃうんでしょう?」

「はい・・・私も突然のことだったので・・・」

「私もびっくりした。昨日聞いたの」

 角張ったおにぎりと、電子レンジで温めたばかりのグラタンをテーブルに置く。新井が千切ったパンを頬張りながら話を続けていた。

「何かあったの? 中途半端な時期じゃない? この前、部署移動したばっかなのに」

 本城がすっと食らいつく。

「ん・・・」

「でも、課長に聞いたら、なんか元々会社の方針で人数減らさなきゃいけなかったんだって。派遣会社にまた新しい派遣先探してもらえるんでしょう?」

「まぁ・・・そうね」 

 袋からスプーンを出した。飲み会で中尾課長に言われたことが喉まで出かかっていたが、彼女たちの話題に出すことで、今以上に惨めになるのが恐ろしかった。

「じゃあよかった」

「でも・・・まだ、全然次にどこ行くかとか決まってないんですけどね。一カ月くらい前にならないと募集が無いみたいで」

「そうなの? 慌ただしくなっちゃうね」

 増田が鼻につくような声を出した。

「大丈夫。日比野さんならすぐに見つかるよ。いい子だもん」

「課長も馬鹿だよね。この前、隣の課に入ってきた新人のほうが使えないし」

「あ、でもあの子契約社員らしいよ?」

 ピンクの弁当箱の二段目から、プチトマトを抓んでいた。

「え? そうなんですか?」

「そうそう。一応、二次新卒で入ってきたらしいよ。TOEIC800点持ってるって聞いた」

「・・・ふうん」

 新井が一瞬、口角を落とした。

「へぇ・・・この会社英語使うことなんてほとんどないのにね」

「そうだよ。ぽんって来た新人より、日比野さんのほうが長いし仕事も知ってるのに」

「やっぱり、派遣って大変だよね。本当にいきなり切られちゃうんだ」

 本城が不自然に曲がった前髪を触りながら話した。三人とも、喜んでいるようだった。鬱々とした日常にふっと現れた自分の不幸に、必死な形相でハイエナように群がっていた。きっと、皮の裏側まで残したくないほど、飢えているのだろう。

「・・・増田さんと本城さんは、契約社員ですもんね。安定していて羨ましいです」

「運が良かっただけだよ」

「そんなことないですよ」

 言いながら、歯の浮くような心地がした。

「五年契約って決まってるし。契約終了後は、子会社には流してくれるって言うけど、ここよりは給料低くなるし・・・ねぇ・・・。本城さんはどう? あと三年だよね? 何か考えてる?」

「そうね。私はまだ旦那さんとその辺は話してないんだけどね。そろそろ子供欲しいって言ってるから、丁度その頃には・・・って思ってる。周りとか、私の歳になるとみんな子供居るからね」

「そうだよね・・・」

 弁当の中のアルミホイルを丁寧に畳んでいた。

「うちも考えてるんだけど、もうちょっとお金貯めなきゃって。旦那の実家帰ると、煩いのよね。この前も言われて・・・ほら、田舎って結婚早いし、子供も多いのよ」

「そうそう、ホント気軽に言ってくるよね。出産って色々お金がかかるっていうし、保育園に入れるまでの間、旦那だけの給料になっちゃうでしょう? 今だけだよね。旅行とか、ファッションとかにお金使えるの」

 急に凪ぐのを感じた。二人が家族の話を始めると、新井が聞こえないふりを装って、携帯でLINEの画面を開いていた。ラインストーンの付いた爪で、残り少ないパンをかじながら横を向いていた。




「あぁ、君か・・・」

 ヒールの踵が、木の段差に音を立てる。

「大村さんも、菜々子に呼ばれたんですか?」

 カウンターの席に座ると、ロックグラスを傾けている大村の姿があった。指輪はしていなかったが、太く食い込んだ跡が付いたままだった。

「驚いたかい?」

 携帯をテーブルに滑らせる。

「いえ・・・」

「そうか」

「ここはステージがよく見えますね」

 菜々子の計らいなのだろうか。客席のテーブルからは離れていたが、ステージがよく見える場所だった。

「いい服だね」

「ありがとうございます」

 カーデガンの袖を少し上げる。

「落ち着きましたか?」

「まぁ・・・。一旦は落ち着いてる」

「お子さんは?」

 オレンジの明かりがうっすらとワインボトルを照らしていた。大村はカウンターの端がよく似合う人だと思う。

「・・・家に居るよ」

「そうですか。どうですか? 息子さんとの二人生活・・・」

「まだ始まったばかりだからわかんないよ」

 シャンパングラスを抓みながら、大村の腕に近づく。

「その・・・奥さんはご病気だったんですか?」

「・・・・・・」

 言葉の無い一瞬が、長く感じられた。奈々子が関わっていないことを確認したかったが、恐怖が先だって反応を待てなかった。

「あ、すみません。まだそんなこと考えたくないですよね。菜々子には話しましたか?」

「・・・あぁ、昨日ね」

「そうですか」

 煙草を潰すと、灰皿を遠くへやった。

「喜んでました?」

「あぁ・・・感情を抑え込もうとしているのはわかったが、顔に出ていたよ。本当に素直な子だよね」

 眉を下げて笑っていた。三十五歳離れた二人の時間は、どう流れているのだろう。

「私とは違いますね」

「あぁ、そうかもな」

 小説家の眼光はどこまで私を捉えているのだろう。

「大村さんと会うのは、まだ三回目ですね」

「それしか会ってなかったかい?」

「もっと会ってるような気がします。メールや電話しているからですかね・・・それとも、菜々子から聞いてるから・・・でしょうか」

「さぁ・・・」

 歪なテーブルに、グラスを滑らせる。

「小説進んでますか?」

「あぁ、今もパソコンを持ってきて書きたいくらいだよ。この場所に居るからかもしれないけどね」

 ステージの周りの席が、若い女性で埋まっていった。時折、中年の男性が混じっているのは菜々子の客なのだろうか。

「この前、菜々子がロミオとジュリエットの曲で踊るのを見たんですよ」

「へぇ、どうだった?」

「美しかったですよ」

 シャンパンの泡が舌の上に溶けていく。

「変ですよね。奈々子の生き方はキリスト教の教えに背いてるのに、美しく見えるんですよ。白い衣装を纏って、肌を露出して、踊っている姿は娼婦のようなのに、教会で踊っているように見えました」

「そうか。俺の前では踊ってくれない曲だからね」

「そうなんですね・・・」

 貝塚の存在がちらつかないように、言葉を選んでいた。

「でも想像はできるよ」

 大村の視線が照明の無いステージに落ちていく。

「きっと想像より綺麗ですよ。不思議なんです。彼女は大村さんと不倫をしていて、水商売をしているのに・・・あの踊りが良く似合う」

「彼女にはキリスト教の信仰があるんだよ」

「え?」

 赤いワインに波を立てた。

「キリスト教にマグダラのマリアという女性が居るのを知っているかい?」

「・・・はい。香油を持った姿で描かれる女性ですよね? その・・・娼婦だったとか・・・」

「よく知ってるね」

「キリスト教の高校だったので・・・」

 グラスから指を離す。

「菜々子は幼い頃からのクリスチャンなんだよ。ベリーダンスって踊りは、マグダラのマリアに似てるね。マグダラのマリアがイエスに会ったとき、髪でイエスの足を拭ったという話にもあるように、長い髪はマグダラのマリアの象徴でもある」

「そうですね・・・・・・」

「マグダラのマリアはイエスと結婚してたんじゃないかって小説を書いた人もいる。どこの誰が言い始めたことなのかわからないけど、俺には真実であるように思えてね。長い歴史の中で、彼女の存在は邪魔だっただろうからさ。だって、弟子たちが逃げ出したイエスの死を見守り、復活を目撃した女性にもかかわらず、『罪深い女性』という言葉のほうが付き纏っている。『イエスが女性から七つの悪霊を追い出した』という話のほうが有名になっているからね。変だと思わないかい? きっと、時の権力のせいなのか、イエスを人間だと認めたくなかったからなのか・・・。ベリーダンスはマグダラのマリアを表現しているような、哀しく神秘的な娼婦の踊りに見えるんだ。熱心なキリスト教徒から逃れるようにして、ベリーダンスがキリスト教圏ではない場所で広まっていったって言うのも何となくわかるんだよ」

「極論ですね」

 髪を耳に掛けると、ピアスに小指があたった。

「小説家だからね。あくまで妄想だよ」

 砕けたように話していたが、目が真っ直ぐに一点を見つめていた。

「大村さんはキリスト教に詳しいんですね」

「聖書は世界中でベストセラーだからね」

 背中を丸める。

「マグダラのマリア・・・ですか・・・」

「芸術家を魅了するのも頷けるよ。踊っている菜々子を見ると、聖書の話ばかりが過る」

 ステージ前のテーブルが満席になっていた。

「でも・・・もし、キリスト教の信仰があるなら、なぜ菜々子は不倫するんですか? 罪の意識はあるんですよね。結婚している人を好きになってはいけないでしょう?」

「俺がこんなこと言うのも変だけど・・・罪だと知りながら・・・なんだよ。彼女は踊っているときが一番神様への信仰を感じられるって言ってた。変だよな。普段は、欲望しか感じられないんだと。まぁ、みんなそうだろうけどね」

「・・・・・・」

 菜々子の口から出た言葉が意外で、口を噤んでしまった。

「大村さんも、神様を信じてるんですか?」

「まさか。神様なんてものは存在しない。所詮、弱い人間が考える妄想だよ」

 パルメザンチーズを口の中に運んでいた。

「俺はね、どちらかというとニーチェを信じてるんだ。神は死んだと思ってる。復活なんてしていない。神は死んだままだってね」

「・・・・・・」

「あぁ、妻はね、関係ないよ。俺は元々無神論者だ」

 水に口を付ける。自分の表情の中を読まれたようだった。

「菜々子のこと、本当に愛してるんですか?」

「愛してるよ」

「もし、踊れなくなっても?」

 手の甲に爪を立てる。

「だって・・・大村さんは、菜々子を利用しているように見えますよ。小説を書くために、自分に足りない部分を、菜々子を使って補っているよう・・・。もし、奥さんと同い年であっても、今と同じように愛せるんですか?」

「さぁ・・・」

「さぁって・・・」

 心からぷすぷすと空気が抜けていくようだった。

「でも・・・菜々子も俺が小説を書けなかったら近づかないさ。見てくれ、この老いた顔を、真っ白になりつつある髪を・・・。俺には自覚が無いけど、加齢臭だってしてるんだろう? 誰がこんな老いただらしない妻帯者に恋心を抱く?」

 空っぽの笑みが、顔の皺に食い込んでいた。

「彼女にしてあげられることは、美しさを止めること。踊りっていうのは、どんなに美しくても残らないからね。時の流れに溶けてしまうんだ。でも、幸いにも俺は小説が書けるんだ。彼女に流れていく芸術性を止めることができる」

「・・・・・・」

 遠くに置いた灰皿を、ウエイターが取り替えていった。

「奥さんとどっちを愛しているんですか?」

 アボカドにフォークを刺す。

「菜々子だよ。あらゆる人間の中で一番・・・ね」

「息子さんよりも?」

「・・・あぁ。奈々子のほうがずっと大事だ。彼女が目の前から居なくなってしまう方が恐ろしいよ」

 心に黒い絵の具が落ちたような心地がした。

「・・・じゃあ・・・小説よりも・・・?」

「いや、小説よりは愛してない。小説のために彼女が必要なんだよ。俺には小説を書くことが全てだ」

 太い指を組んで、ステージのほうへ視線を向けた。

「都合のいい小説家ですね。亡くなられた奥さんは、きっと悲しいですよ」

「そうだろうな。俺みたいな男と結婚したことを後悔してるだろうよ」

「そうですね」

 言いながら、自分という存在が大村のどこかに残らないか考えていた。

「ほら、神様は居ないだろう? 菜々子が幾ら信じたって居るわけないんだ。こんな俺から小説を奪わないんだから」

「そうですね・・・。でも、私は大村さんがどこまで嘘を言っていて、どこからが本当のことを言ってるのかわからないんですよ」

「・・・・・・」

 天井からぶら下がった照明が落ちていき、ステージにタブラを持った人が入っていくと、会話はうっすらと消えていった。肘を付いて、グラスを持つ大村の皮膚を眺めていた。小説や菜々子への想いは乾ききった大地のような手から生まれているのだ。大村の肉体は老いをちらつかせていたが、精神は生命力に満ち溢れているのを感じた。




 大村の口数は、ワインが減っていくごとに少なくなっていった。奈々子に愛情があっても、奥さんの影がこびりついているのがわかった。グラスに残る口紅の跡のように、透明なガラスを濁らせていた。

 菜々子は、私が職場に居るときに渇望していた形で現れた。海を織り込んだような衣装で、愁いのある華やかな笑みを浮かべていた。天井に伸ばす腕は清らかで、男の手痕も見えなかった。テンポよく区切ったタブラの音が肌に染み入り、髪が時折、肉体に張り付きながら広がっていく。ステージの端で回るたびにスカートが広がり、足首のアンクレットが煌めいた。

 薄い布でライトを浴びる彼女は、娼婦を思わせるにも関わらず、どこか神聖なものを感じられた。酔いの回った頭で、菜々子の肉体から溢れ出すものを自分に重ねていた。胸をくっと絞られるような心地がして、目頭が熱くなっていく。自分が社会に溶け込むことで削れてしまった感性を、余すことなく表現していた。否、削ったのは自分なのだ。奈々子は世間に染まるよりも、感性を守り抜くことを選んでいた。どちらが正しいわけではなく、どちらも間違ってはいないのだろう。私は決して菜々子のように生き方を選択しない。性別を利用して、色目で見られることを受け入れたくなかった。

 菜々子に向ける視線の横に大村があった。欲望が絡まる視線の先で、彼女は私が望んでいる生活を送っているわけではないのだ。ただ、時を止めたくなるほど美しいだけだった。



「大村さん、息子さんの勉強、私が教えましょうか?」

 ベリーダンスのショーが終わり、店内が明るくなっていくと、菜々子と約束していた言葉を切り出した。緊張は無く、宙を漂ったまま薄い膜にめり込んでいくような感覚だった。

「あぁ、菜々子から聞いたんだね?」

「はい。不登校だって聞きました」

「そうか・・・」

 菜々子の目論みは全て見透かされているのかもしれない。

「じゃあ、お願いしようかな。今度の週末くらいに、顔合わせしようか」

「え? いいんですか?」

 予想外の切り返しに、はっとした。

「ん?」

「だって、私はまだ知り合ったばかりの人で・・・その、自分の・・・母親を亡くしたばかりの子供に会わせていいんですか?」

 軽く首を縦に振った。

「あぁ、家に閉じこもりっきりのほうが心配だからね。君は教員免許を持ってるんだろう? 何の教科?」

「え・・・英語ですけど・・・」

「丁度よかった。英語が苦手でね」

 大村がデカンタからグラスに赤ワインを注いでいた。

「ずっと、会わせたいなと思ってたんだよ。あ、赤ワイン、飲むかい? 美味しいよ」

 数分の間に、張り詰めていた大村の表情は解れていた。

「ありがとうございます。じゃあ、少しだけ・・・」

「君ならって思ってたよ。家庭教師を付けても中々続かなくてね」

 常温のデカンタに指を当てる。

「それは・・・私が何もない人だから・・・ですか?」

「まぁ、そうだね。何もないというよりも、何も染まっていないと言ったほうがいいかもね。それが子供には大事だからね」

 冷えたリゾットの残りを、皿に移していた。

「どんな子ですか?」

「そうだな。普通の高校生だよ。まぁ、ちょっと変わってるけど、会ってみるとわかるさ」

「そうですね。楽しみにしてます」

「あぁ、息子に聞いて、メールするよ」

 大村は菜々子から何を受け取ったのだろう。現実の一部を切り取ったように、落ち着きを取り戻していた。泥水だった地面が固まり、精神に芯が通っているのを感じた。

「菜々子は戻ってきますか?」

「さぁ・・・」

 大村の視線がワイングラスに落ちていく。たぷたぷ揺れる赤い中に、菜々子を感じていた。

「いつもここに戻ってくるわけじゃないんですか?」

「気まぐれだよ。そのまま帰っちゃうときもあるし、何を考えてるのかわからない子だよ」

 楽しそうにしていた。醜く繋がった二人の関係が、切り裂きたいほど憎らしかった。寄り添おうとするたびに、間に入りたくなった。大村と同じ指輪をした奥さんも、私のような感情を抱いていたのではないだろうか。




 雨粒が重なるようにして、コンクリートを斑に染めていった。スターバックスのカップに差したストローを曲げる。携帯をスクロールしながら、大村のメールを眺めていた。有名な小説家が書いた文章であっても、画面で見ると安っぽく感じられた。

 頬杖を付きながら、視線を入口にやる。高校生くらいの男の子が店内に入ってくると、すぐに大村の子供だとわかった。ネクタイを締めた大村が、奇妙だったからではない。黒縁の眼鏡の奥にあるひんやりとした眉毛と、か細い撫でた肩が大村をかたどったようだった。沼から引き上げたような足取りで、大村の後をくっついていた。ぼうっとしながら目で追っていく。薄いガラスで覆われたものを、遠くから眺めているような心地がしていた。

「初めまして、大村典正です」

 大村から離れて、いきなり自分の前で立ち止まった。お腹を引き上げる。

「え・・あ・・・」

「貴女が日比野優奈さんですね?」

 機械に向かうような口調だった。

「そうだけど・・・」

「ここ狭いんで隣のテーブルくっつけます」

 ペットボトルの刺さったリュックを降ろして、ビニール傘をテーブルの脇に立て掛けた。丸テーブルをこちらに引き摺る。

「あ・・・ありがとう」

「父さんは今買ってるんですぐに来ます」

 一人分の席を開けて、横に座る。こちらを見ずに、携帯ゲームの画面を開いていた。

「それ、LINEのゲームか何か?」

「いや、ダウンロードしたゲームです。今、限定イベントやってるんで」

「ふうん」

 親指を動かしながら話す。聞いたことの無い名前のゲームで、何のことを言っているのかわからなかった。

「ゲーム、好きなの?」

「好きって言うか・・・まぁ、時間潰しになるので」

「そっか・・・」

 画面が華やかに切り替わっていくのが見えた。

「面白そうだね」

「別に、そこまで・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 キャラメルラテを少し口に含む。黙々と画面の上で親指を動かしていて、どんな話をしたらいいのかわからなかった。大村はレシートを持って、こちらをちらちら見ながら、カウンターでドリンクを待っていた。目が合うと、軽く口角を上げて何かを言おうとしていたが、小さい子を連れた客が入ってくると見えなくなった。


 雲間から微かな光が差しこんでいた。昼間の大村は、外が明るいせいなのか年齢よりも老けているように見えた。否、背中に隠している影がより一層濃く感じられるからなのだろうか。

「スタバはどこも混んでるね。新宿でもこの辺まで来ると人通りが無くなると思ったんだけど」

 アイスカフェラテの載ったトレーをテーブルに降ろした。右手の薬指に、曇った指輪が見える。

「もう挨拶はすんでるだろ?」

「・・・・・・」

 携帯の画面を暗くして、御手拭の袋を破っていた。

「典正君は、十六歳なの?」

「そう」

「大人っぽいね」

 携帯から手を離す。

「中学三年生から学校行ってなくてね、今は高校にもほとんど行ってないよ。一応、同学年と同じくらいの学力は欲しいと思ってるけど・・・まぁ、正直、俺は本人の好きにしたらいいとも思ってるんだけどね」

 父親にも関わらず、どこか他人事のようだった。

「貴女は教師なんですよね?」

「あ・・・まぁ・・・教師・・・ではないけど、英語の教員免許は持ってるよ」

「これから英語を教えてくれるって、父さんから聞きました」

 大村にちらっと視線を送ると、無表情のままストローを差していた。

「典正君は、英語を勉強してどんなことがしたいの?」

「え?」

「海外の人とコミュニケーションをとれるようになりたいとか、留学して海外の文化に触れてみたいとか・・・目標があるから勉強したいんでしょう?」

「・・・・・・」

 カップの水滴がテーブルに丸い跡を残していた。

「でも、今時、中途半端に英語ができたって何にもならないよ。私だって散々英語を勉強して来たけど、会社に居て英語なんて使ったこと一度も無いし。あったとしても、留学生や帰国子女の子が対応してくれるし、文章なんてインターネットを使えばすぐに翻訳してくれるよ」

 真剣な眼差しが痛かった。

「別に何か目的があるわけじゃない。あえて言うなら、偏差値を上げて、有名な大学に入りたいだけです」

「・・・・・・」

「英語を使って何か・・・は考えたこともありません。ただ受験科目に英語があるだけです。数学なら自分で勉強できるけど、英語と国語は全然わからないので」

 枝のような指でカップを押していた。

「理系ってことだね」

「そうですね」

 頬にあどけなさが残っているのに、ビルに吸い込まれていく会社員のような話し方をしていた。

「・・・小説家の息子なのに?」

「はい・・・・」

「まぁ、そうだな」

 大村が腕を組んで嘲笑した。

「じゃあ・・・どうしていい大学に入りたいの?」

「大学に正社員で入るためです」

「何かなりたいものはないの? ロボットを開発してみたいとか、ゲームを作ってみたいとか・・・。夢は無いの?」

「特に・・・世間で名の通っているような大企業が募集しているような職に就きたいと思ってます。特にこれと言ってなりたいものは・・・考えてません」

 レンズの奥の目を逸らしながら話していた。

「・・・誰がいい大学に入っていい会社に入ることを望んでるの?」

「母さん」

「そう・・・・」

 同じ顔をした二人に流れる隔たりが、眉毛に現れていた。

「私もそれが正しいことだと思う。でも、お母さんの望みだけで、考えてるの?」

「・・・いえ、俺もそう考えてます」

 血が通わない言葉に聞こえるのは、彼の性格なのだろうか。母親の死について、何かを悟られないようにしているのだろうか。

「お母さんが大好きなのね」

「・・・・・・」

「典正君はお父さんに似てるから、きっとすぐに英語も国語も成績が上がるよ」

「そうですか」

 高校時代に描いていた自分は、もっと希望に満ちていた。でも、今の自分の姿を重ねると、典正の考えのほうが利口なのかもしれない。

「大村さん・・・私は確かに受験して大学を出たけど、今は派遣ですよ。本当に、典正君に勉強を教えて大丈夫なんですか?」

「ん? 何で?」

 大村が並びの悪い歯を見せた。

「派遣は世間から見下されてるから・・・そんな私に何かを教えるなんて。大村さんは買いかぶり過ぎですよ。典正君のほうが、頭がいいと思いますよ。それに・・・」

 頬の肉を無理やり持ち上げる。

「私は典正君がなりたいものと、かなりかけ離れていますよ。何か変な影響を与えてしまわないか不安です」

 唇の裏側がひりひりする。典正の視線は、見たことの無い別の女性の影をちらつかせて、自分の心の汚い部分を炙り出してしまいそうだった。

「いやいや、彼には君から学ぶことのほうが多すぎるくらいだよ」

「・・・・・・」

 典正が私の顔を凝視したまま軽く頷いた。早朝の氷柱のような精神を向けられると、心の外側に鳥肌が立つような心地がしていた。子供の目に映る自分の姿に怯えていた。

「君も接してみるとわかる。この子はまだまだ子供で何もわかってない」

 どこかで見たことがあったような光景だった。息子に対して父親のように話す大村を、菜々子はどう感じていたのだろう。 

「そう、ならよかった」

 違うことを考えていた。

「ありがとう。引き受けてくれて」

「いえ。元々教えることが好きですから」

 典正は暗い携帯の画面に指を盾ながら、窓の外を眺めていた。前後に頭を振りながら歩いていた鳩が、小さい子供が駆け寄っていくと、風に舞い上がった風船のように空へ飛んでいった。





『怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ』

 ニーチェは正しい言葉を綴っていたのだと思う。正義を信じて見下ろす深淵は、あまりに滑稽で、自分が居る場所がより高いものだと錯覚してしまうのだ。動いていないにも関わらず、高みに上げてくれる感覚に囚われて、深淵を覗きこむ行為から抜け出せなくなってしまうのだろう。多くの宗教家たちが顔を真っ赤にしてニーチェを否定したのは、真実と受け入れざるを得なかったからなのではないだろうか。

 大村の言うように、心の弱い人間が宗教に縋るのだと思う。無原罪の母、処女であるマリアがイエスを身籠るなんてあり得ないことなのだ。キリスト教、イスラム教は同じ神を信仰しているのに、長く対立している時点で、神様というのは人間の作りだした妄想のようなものに見えた。ただ、金銭と欲望と情報の入り乱れる社会の中で、見えないものに拠りどころがある人は、馬鹿であるが、賢く生きているのかもしれない。


 菜々子が指定した場所は、駅から少し離れて、木々に囲まれた場所にあるカトリック教会だった。石の段差を上ると、ドアが大きく開かれていた。磔にされたキリストの十字架の前に、ステンドグラスの光が差しこんでいる。一歩踏み入れると、世間から浮いていくような心地がした。

「菜々子」

 祭壇から一番離れた、パイプ椅子の端に座っていた。木の床に踵が付く度に、乾いた音がする。

「来てくれたのね。この時間は大体人が来ることはないの。今は行事の無い時期だから」

「・・・菜々子がクリスチャンだと思わなかった」

「そうよね」

 色の付いていない目蓋でこちらを見上げていた。髪はまとめて留めてあり、耳元で金のピアスが控えめに煌めいていた。

「優奈は来ないと思った。躊躇するでしょう? 日本にあるような神社と違った肌に馴染の無い場所だもんね」

「・・・どうしてここを待ち合わせ場所に選んだの? 私はキリスト教徒じゃないのに・・・」

「貴女とここで話をしてみたかった」

 黒髪のせいか、素のままの肌が今まで感じたことの無い清純さを滲みだしていた。祭壇に一礼して、一つ席を挟んで菜々子の隣に座った。祭壇の横で聖母マリアが、赤ちゃんを抱いて、桜の花のように微笑んでいる。

「十字架の前で?」

「そう」

「どうして?」

 ほんのりとローズの香りがした。

「会社で、セクハラされて辞めさせられるんでしょう?」

「・・・大村さんから聞いたの?」

「そうよ」

 パイプ椅子のネジがギシっと音を立てた。

「訴えればいいのに」

「・・・いいの。面倒だから」

「弱いのね」

「昼間の仕事をしていない菜々子にはわからないでしょう?」

 どこにも証拠は残っていなかった。何かを発したところで、契約を切られることは、私の能力不足で片付けられてしまうのだろう。セクハラを訴えることのほうが怖かった。自意識過剰で空気の読めない人間だと、見えないところで悪口を言われて、今以上に傷つけられるような気がしていた。

「同じよ。社会人には変わりないでしょ?」

「・・・・・・」

 否定したかったが、声にならなかった。男に媚を売るだけで時給が発生する仕事と、一緒にされたくないのだ。

「私には関係ないし、別にいいけど・・・。あれだけ私たちのことを間違ってることだって息巻いてたのに、いざ自分が被害者になると声を上げることさえできないのね」

「・・・本当に、そうね」

「・・・・・・」

 キリストの手からは、血が流れたままだった。ダーウィンの進化論が真実だとすれば、人はいつから罪を犯しているのだろう。

「菜々子は? 大村さんと上手くいってるの?」

「えぇ。色々片付いたら一緒に住もうって言ってくれてる」

「水商売は続けるの?」

「そうね・・・どうしようかな。嬉しくて、まだあまり想像できないの」

 ビーズを散らばしたような声が響く。

「やっぱり神様っていないのね」

「そうね」

 聖母子像の前に飾られた、百合の花を見つめる。奈々子の前で嫌な味のする言葉を使うのは楽だった。否、ただ鬱々と溜まっていたストレスを発散させたかった。

「貝塚さんの言うとおり、人間って勝ち組と負け組がはっきりしてると思う。大村さんは、奥さんを失って自分よりも三十五歳も若い菜々子と暮らそうとしてる。貝塚さんから小説を奪ってるのに、まだ書き続けることができる。これって、すごく不公平なことじゃない?」

 手の甲の骨が浮き出た。

「自分が何で負け組のほうに居るんだろう? って言いたいんでしょう? 何で私ばっかりって・・・」

「そうよ。正しいことを選んでいるつもりなのに、何で私ばかり上手く行かないんだろうって思ってる」

「正しいじゃなくて、無難でしょ?」

 心が震えているのを感じた。

「菜々子・・・私ね、友達がいないの」

「ふうん」

 前の席のパイプ椅子の後ろ脚に爪先をくっつける。

「いないというより・・・劣等感から、学生時代の友達とは会いたくないの。だってみんなスチュワーデスになったり、海外に住んでたり、結婚して子供が居たりしてるから。話が合わなくて、友達はほとんどいなくなっちゃった。仕事が好きなわけでもないし、何かに情熱を傾けているわけでもない。愛する感覚もわからない。本を読むわけでも、勉強するわけでもなく、ずっとインターネットばかりやって、時間だけを潰してしまう」

「つまらない人ね」

「そう。私はつまらない人間なの」

 幅の広い目を薄くしてこちらを見ていた。

「菜々子みたいに罪は犯してない。人を陥れてやろうと、ちょっとだけ浮かんできても、行動に移そうなんて思ったことないのに・・・どうして私ばっかりって」

 胃がきゅうっと締め付けられるようだった。

「でも、それは理性があったからじゃないんだって思った。知識は画面から手に入るから、別に私が身体を動かすことじゃないって思ってるの。変に動いて、自分が被害に会うことが嫌なの。抱くべき感情さえ、検索すれば出てくるような気がしてる」

「だから、優奈は幼いままなのね」

「本当・・・年下の菜々子に、そう思われても仕方ないね」

 頭を傾ける。

「大村さんが嫌ってる人をそのまま描いたような感じ。そうゆう人が嫌いだから、頑なに若者の流行に乗らないのよ」

 トラックが通ると、ガラスが少し揺れていた。

「そう。大村さんが書いた小説も、全部読むことはしなくて、誰かの感想をそのまま自分の感想にしてしまうと思う。これって無駄を省いた生き方だと思うんだけど・・・、ずるい生き方だと思う。自業自得なんだけどね、ちゃんとした感情が芽生えると、怖くなってしまうの。正しいことなのか判断が付かなくなるから、むしろ何も考えないほうが普通にいられるのかなって」

「五感が無いみたいね」

「そうね」

 毎日、砂時計の落ちる砂が時間を刻むようだった。

「でも・・・優奈はきっと優しいと思うの」

 思いがけない言葉だった。

「優しい? 何で?」

「間違えるのは当たり前のことでしょう? 誰かを傷つけたって、ある程度は仕方ない。正しいことばかり選択できる人間なんていないわ」

 夜を溶かしたような爪を眺めていた。

「・・・・・・ねぇ、優奈は私のことを哀れな人間だと思ってる?」

 巻いた髪が鎖骨に掛かっている。

「うん・・・・・・」

「私が水商売で生きてるから? 不倫をしているから? 奥さんを・・・しようとしたから?」

 霜が砕けるような声だった。

「自分が間違ってるって思えないの。だって、大村さんのことをこんなに愛してる。彼が私を形作る目がとっても好きなの。色んな男の人を見てきたけど、彼だけは違う目をしてる」

「小説家・・・だからね」

「そうよ。でも、夢が現実になるの。やっと一緒に居られるって、嬉しくてしょうがないの」

 蒼いステンドグラスが、薄く透けている。

「でも、奥さんが消えないのよ」

「・・・・・・」

「もう居ないのに、消えないの。どこかに居るの」

「しょうがないよ」

「どうして?」

 キンとした声を上げる。

「・・・私は、聖書にあるような神様や奇跡はないと思ってるけどね・・・愛っていうのは消えないんだと思ってる。砕けないし、焼けない。インターネットから得るだけの知識でもわかることはあるのよ。そこに無くても、ずっと残るの。愛はね、永遠の命を与えられたように、残り続けるんだと思う」

 典正の表情を思い出していた。悲しく凭れ掛かる精神が、光の中に晒されているようだった。

「・・・ねぇ、優奈。この前、見に来てくれてたでしょ?」

「うん」

「私、綺麗だったでしょう?」

 百合のような頬が、少し赤みを帯びていた。何を演じているのだろう。奈々子から滲み出る愁いは、雨に濡れた薔薇の花びらのようだった。浸み込んで色を薄めるわけではなく、静かに零れていくのを待っているようだった。




『あぁ、大村の奥さんね。奈々子から死んだって聞いたよ。出版社の同僚に聞いたけど知らない・・・ていうか興味がなかったみたいだけどね』

 ホームのベンチに腰掛ける。ゴミ箱のペットボトルが溢れているのが見えた。

「二人は何も関与していないんですよね?」

『疑って電話を掛けてきたと?』

「・・・・・・」

『俺だって拍子抜けしてるんだ』

 鼻から抜けるように笑っていた。

『菜々子からも聞いたと思うけど、俺たちは本当に何もしてないよ。君と会った日から、彼女とは二回食事に行っただけだ。確かに計画はしていたけど、君っていうピースがはまってなかったからね。じっと、奴を陥れるのを待ってたところだよ』

「・・・・・・」

 食事だけの関係ではないような気がするのは、私が菜々子を娼婦のように見ているからなのかもしれない。

「・・・貝塚さんは本当だと思いますか?」

『まだ何ともね。世間的にも明らかになってない話だし。でも、菜々子には嘘を付くようには思えないんだけどね』

「どうするんですか?」

『どうするって?』 

「奥さんが亡くなったことは、復讐になりませんでしたよ。だって、大村さんも菜々子も嬉しそうですよ?」

 強い口調になっていた。

『ん? 君は俺たちに殺してほしかったの?』

「そうです」

『自分の手は汚さずに?』

「はい」

 閉じた傘がコンクリートに水溜りを作っていた。

『なるほどね。菜々子が君を友達にした理由がわかる気がするよ』

 ストッキングに雨水が染みていく。

「私、今、大村さんの息子に勉強を教えてるんです」

『え? 典正・・・君に?』

「はい」

 傘の柄を持ち直す。

「菜々子に頼まれて、大村さんの家族が今どうなっているのか見たかったんです。本当に奥さんは居なくなっているのか。これから勉強を教えながら、徐々に探っていこうと・・・」

『ちょっと待って』

 向かい側のホームに回送電車が走って行く。

「・・・ごめん。煩くてあんまり聞こえなかった。君が典正君に勉強を? あんなに拒絶していたのに・・・」

「そうです」

『あ、そう・・・菜々子の言うとおり・・・か』 

 フェンスの向こうの雑居ビルを眺める。電柱近くにぶら下がったスナックの看板が力なく点灯していた。すれ違う人に当たらないようにしながら、エスカレーターのベルトを掴む。

「意外でした?」

『まぁ、何でまた?』

「貝塚さん言ってましたよね? この世は勝者と敗者の関係で成り立ってるって。一度敗者になった人間は、勝者の日陰になって生きていくしかないって」

『あぁ』

「私ね、本当にそうだなって思うんです。社会で生きてても、二人を見ていても・・・」

『・・・・・・』

 閉じた傘を引き摺りようにして歩き出した。居酒屋のネオンが、霧の中で掠れている。

『何を望んでるの?』

「私も大村さんを不幸にしたくなったんです。できるだけこの手を綺麗にしたまま、偽善の皮を被ったまま大村さんを苦しめたい」

『へぇ・・・・・』

 言葉が心を作っているようだった。

『どうして急にそんなことを思うようになったの?』

「急でもないですよ。私は最初から二人の幸せなんて望んでいませんでした。貝塚さんと同類の人間ですよ」

『君も敗者か』

「そう・・・でも、惨めだから、なかなか認めたくないです」

 折れ曲がったカードケースを翳して、改札を出た。駅に隣接したデパートに入っていく。

「何にも持ってないんですよ。奈々子みたいに水商売をしているわけじゃないのに、女という価値で、やっと生きてるのかもしれません」

『職場の話?』

 ピンと話が通じたのを感じた。

「そう・・・・急に辞めさせられることになって・・・」

『まぁ、企業にそうゆうものがあるのは結構、聞いたことがあるよ。派遣は立場が弱いからね』

 綿毛を吹くように軽かった。

『ただ、君が敗者って言うのはまだわからないんじゃないかな。若いんだしこれから努力すれば幾らでもって思うよ。厳しいことを言うけどね、正直、全てをやり遂げて道を断たれた俺とは一緒にしないでほしい。だって、君がもし、俺ら出版社の人間に、その話を持って来れば記事になるかもしれないし、職場の上の人たちを追い込めるかもしれない』

「そうですね。でも、私の心は強くないし、誰も愛せないし、秀でた才能も持っていない。これからもずっと変わらない気がするんですよ。甘えているだとか、努力不足だとか、幾らでも否定する言葉は見つかると思います」

『・・・・・・』

「でも、元々勝者の位置に居た人間を前にすると、どうしても力が湧いてこなくなるんですよ。だって向こうには、元々何かが備わってるんだから。全てが無駄な気がしてくるんです」

 砂のようなものを、踏み付けるようにして固めていた。

『可哀想な人間だね』

 同情の言葉に、心が逆撫でされるのを感じた。

「眩しい人間のそばに居ると、日陰で居続けることに慣れてしまって、自分が腐敗していくんですね。大村さんも、菜々子も、大好きですけど、幸せになってしまうのは嫌なんですよ。淡々と生きるしかなかった人生に、ふっと現れた美しい灯が、自分から離れて行ってしまうのが嫌なんです」

『君ほど性格悪いのも、久々に見るよ』

「きっとみんな心の奥底にはあるんですよ。貝塚さんだってそうでしょう? 光の中を歩いている人の、ほんの少しの黒い部分を拡張させて、同等の人間に思いたくて仕方がないんです」

『まぁ、同感だよ』

 ショーウィンドウを眺める。小花柄のワンピースを着たマネキンに、自分の服がうっすらと重なっていた。学生時代に着ていた服と、少しだけ似ていた。

『訂正するよ。君ほど心理を抉ろうとする人は久々に見るよ』

「・・・・・・」

『俺も協力する。と言っても、元々俺たちが言い出した話だけどね、あ・・・菜々子は大村と暮らせるようになったら、大村側に付くのか・・・』

 携帯から重みのある呼吸を感じた。貝塚が手を滑らせた、大村の地位はどれだけ魅力的なものなのかわからなかった。確かに秤は公平な判断を下さなかったのかもしれないが、編集者としての生き方を否定するべきものではないのだろう。

『あぁ、そういや・・・人間の結婚生活を覗き見ている悪魔が居たな。ほら・・・なんだったっけ?』

「さぁ・・・・・・」

『虚構の小説家である、何とか大先生の作品にあった気がするんだけどね・・・』

「・・・・・・」

 大村に縋ろうとする自分の心は、キリスト教の七つの大罪の一つである怠惰そのものだった。私にとって、大村と貝塚と菜々子は、未だに別の世界の人間だった。ガラス越しに眺めているだけで、少しでも指を伸ばそうとすると愁いの残像を見せて消えていくのだ。心を不安定な幸福で満たしてくれた。怠惰を司る悪魔、ベルフェゴールのように不幸を期待して、人の結婚生活を覗こうとしているのかもしれない。





 不幸な人を見ると、自分の位置が変わっていないにも関わらず、何故か優越感に浸ることができた。弱っている心が汚れてしまうのは、仕方のないことなのだろうか。新井や増田たちは、楽をしながら心地よくなっていく誘惑に負けて、陰口を止められないのだろう。一度、精神に悪魔が入り込む隙を与えてしまうと、中々出て行こうとはしてくれないのかもしれない。


 シャーペンの芯を引っ込める。膝の上に乗せた手帳のページを指先でちらちら捲った。

「あの、新しい就職先の紹介は・・・?」

 派遣元の女性社員が、新品同様のスーツを着ながら、前の椅子に座っていた。自分の担当をしていたが、ほとんど会っていなかったので顔も名前もうっすらとしか覚えていなかった。

「勿論、就職先はこちらでも随時ご紹介させていただきます。ただ、9月の求人となってしまいますと、まだご紹介できるような求人が入ってきていない状況でして・・・」

「そうですか」

「恐らく今月末以降にちらほら来るという状況になるかと思います。でもやっぱり即日というのが多いので、8月になりますと確実にご紹介できるのですが・・・」

「・・・ぎりぎりですね」

「そうなんですよ。やはり企業様もすぐに人が欲しいというほうが多いので」

 瞬きを多くしながら、友達に向けるような笑顔で話していた。

「今回の就業で何かお困りのことはありませんでしたか? 作業量が多かったとか・・・あ、でも日比野さんは結構残業が少なかったですもんね」

「はい」

 自動ドアが開く度に、警備員が軽く会釈をしていた。エスカレーター下でグランドピアノがベートーベンの悲愴を自動演奏している。ファミリーマートからコンビニの袋を下げたサラリーマンが、携帯を見ながら出てくるのが見えた。

「でも、困ったことと言えば、急に辞めることになったこと・・・でしょうか」

 お腹の底がぴりっとした。

「本当にそうですよね。生活がありますもんね」

「契約途中でいきなり切られるというのも・・・あるんですね。次のことも不安ですし、どうしようかなって感じです」

「そうですよね」

 にこやかな表情を崩さずに頷いていた。

「先方が業務上の都合と言って・・・我々としても驚いてるんです。日比野さんはよくやってくれていると言ってたし、本当に突然のことで」

「・・・今回辞めるのは私だけなんですよね?」

「そうですね。同じ課の新井さんはまだ継続でいいみたいなんですけど・・・やっている仕事が違うって聞きました」

「・・・そうですね」

 手帳に何か書いているように見せていたが、ペン先が動いていなかった。

「でも、我々もなるべく早く次の就職先が見つかるようにしておりますので」

「そうですか・・・」

 首から下げたセキュリティカードの紐を指に巻く。

「では、宜しくお願いします」

「あ、すみません、ちょっと待ってください。書いていただきたい書類がありまして」

 テーブルに置いていたクリアファイルから一枚の紙を取り出した。

「ペンは・・・あ、こちらをお使いください。印鑑は持ってきていただいておりますね?」

「・・・・・・」

 使い古したペンケースからボールペンを取り出してこちらに渡してきた。紙には「自己都合退職」と書かれている。

「これは・・・?」

「こちらにサインをお願いします」

「え、でも、自己都合じゃないですよね? 契約途中で切られるんですから」

 後頭部に電流が走ったようだった。

「この書類にサインしていただくことで、日比野さんに不利になるようなことは全くないんですよ。ただ、こちらにサインを頂かなくてはいけなくて」

 眉毛を下げていたが、口調が明るいままだった。

「できないですよ。これにサインすると自己都合になるんですよね? 自己都合ではありませんから」

「でも・・・この書類によって日比野さんに不利になることはないんです。あくまで、今後の手続き上必要なんですよ」

 シャツの首元からシルバーのネックレスが見えた。

「・・・・・・」

 五分くらいだったのだろうか。否、もっと、短かったのかもしれない。次の就職について触れながらサインすることを勧めてくる社員に負けて、自己都合退職届に自分の名前を書いてしまっていた。嬉々としながらクリアファイルをコーチのバッグにしまい、今までありがとうございましたと言って、自動ドアから出て行くのを眺めていた。彼女に対して、私は何をして、彼女に何をしてもらっていたのだろう。生活があるにもかかわらず、見えないところで淡々と行われる手続きには、血が通っていなかった。私はモノであり、派遣元会社はただ肉を売るだけの出荷元のように思えた。

 しばらく白い椅子に座ったまま呆然としていると、増田が別の課の課長と歩いていった。見たことの無いジャケットを羽織って、少しだけ高いヒールを履いていた。こちらに目を向けたのがわかったが、視界に入っていないふりをして遠くのスーパーを眺めていた。





 濡れたストローの包みをテーブルの端に置く。若いお母さんが小さい子供をベビーカーで揺らしながら、抹茶クリームフラペチーノを飲んでいた。狭いテーブルに置いた中学生向けの参考書が落ちそうになっている。典正がシャーペンをくるくる回しながら、英語の長文の訳を読んでいた。

「じゃあ、この問題の括弧に入るのは?」

「Knew?」

「ううん、過去形じゃない。ここはね、現在完了形だから過去分詞が入るの。Knowの過去分詞はKnow,Knew,Known・・・のKnown」

 典正とはできるだけ長く会っていたかった。妻帯者という壁の無くなった二人は、密になっていくほど、私との距離も開けたがるような気がしていた。

「ふうん」

 参考書を抑えながら、ペンで英文を指す。

「英文法って機械的に決まってるものなんですよね」

「機械的にって・・・まぁ・・・省略することはあるけど・・・」

「プログラムみたいですね」

 眼鏡をずらした。

「思うんです。日本語って漢字とかひらがなとかカタカナとかたくさんあって、文章を作るのが難しいけど、英語だったら規則性を見出して、単語を紐づけていけば会話できるんじゃないかって」

「コンピューターみたいだね」

「そう。でも、そうゆうのって楽ですよね。こう言ったら、こう言いかえすみたいなテンプレートがあって・・・、ロジックに当てはめていくような感覚です。日本語も敬語とか尊敬語とかゆうニュアンスを取って、こうゆう風に型にはまっていればいいのに」

「・・・・・・」

「英語も数学とあんまり変わらないんですよね。でも、僕にはそのほうが覚えやすいです」

 いきなりするすると話していた。

「・・・頭いいんだね」

「そんなことないですよ。学校に行ってませんし」

 顔を下に向けていたが、身体の内側から喜んでいるのを感じた。

「典正君にとって英語ってそうゆうイメージなの?」

 目を細めながら二回頷いていた。

「そっか」

 ボールペンの芯を引っ込める。

「私が教えてるのは受験英語だから、文法を機械的に説明してるけどね、英語は異国の人と会話するためのものなの。大学に入るためのものじゃないんだよ」

「僕は大学に入るための英語だけでいいですよ」

 首を傾げながらこちらを見つめる。

「普段英語を話すことなんてないでしょう。島国に住んでるし、会ったとしても、ほら・・・アイフォンで訳してもらえばいいんですから」

 私の携帯を軽く指差した。

「典正君は本当に頭がいいんだね」

「そんなことありませんよ」

 口元がにやけていた。正しいことを否定するべきなのか迷っていた。

「お父さんはそうゆう話しなかったでしょう? LINEも頑なにやらないし、インターネットで得た薄っぺらい知識なんて・・・ってタイプなのに」

「父は時々的を得ていないんです」

「そう?」

「時代に合った知識を身に付ける方法があるのに、自分がやってきた方法が一番だって思ってるんですよ」

「それはあるかもね」

「知識に薄っぺらいなんて、ネットに限った話じゃないですよ。本で調べたことだって、薄っぺらい認識しか持てない人は居ますし。大人が若い考えを拒否するのは、自分の尊厳を脅かされるからですよ」

「大人みたいな話し方をするね」

「別に普通ですよ」

 シャーペンで英文の訳を綴りながら話していた。ネットの影響なのだろうか。

「学校には行かないの?」ぺに

「そのうち行くと思いますけど。大学に行くには高校を出ていないといけないので」

「お父さんの小説は読んだことある?」

「いえ、小説にあまり興味がないので」

「そっか」

 横を向くと、鼻筋が大村と同じ形をしている。不思議だった。十歳以上年下にもかかわらず、時折、大村と会話しているような感覚になった。

「ねぇ、典正君。お父さんと仲いいの?」

「別に・・・」

 ペンを置いて、身体を前に少し倒す。典正が食べかけのクッキーを千切っていた。

「僕とは正反対の人間だということは、最近わかるようになりました」

「そうなの?」

「女性の知人が多いみたいですしね。小説家としては立派なのかもしれませんが、僕は小説を読んでも何も感じない人なので、特にすごいとも何とも思わないです。普通のおじさんです」

 表情が読めなかった。

「魅力的な人だから、女の人が寄ってくるんだよ」

「貴女もそうなんですか?」

 眼鏡をずらしてこちらを見る。

「私は違うけど・・・」

「そうですよね」

 目尻を崩しながら、蛍光ペンのキャップを外していた。ストローに軽く口を付ける。

「お父さんは好き?」

「好きも嫌いもありません。ただ、父親という事実があるだけです」

 表情から熱が消えていくのがわかった。

「じゃあ、お母さんは?」

「・・・・母・・・・・ですか・・・・・・」

「典正君は優しそうな顔をしてるから・・・きっと、お母さん似なのかなって思って」

 指を突けば真実を聞きだせる位置に居た。変わらない表情と取り繕ったまま、心臓がきつくなっていく。

「お母さんのことは好きだよね?」

「・・・・・・」

 しばらく言葉は無かった。否、ぽつぽつと何かを答えていたが、周囲の雑音に聞こえなかったのかもしれない。顔をノートから話して、こちらを向く。瞳が微かな水を溜めているのがわかった。

「・・・あ・・・」

 はっとして、英語の参考書のページを捲った。

「ごめんね、話が逸れちゃった。勉強にもどろっか」

「・・・・・・」

 機械的だと言われた英語を、繰り返し説明していた。典正は鼻水を数回啜ると、私が動かすペンの先を齧りつくように見ていた。苦しくなるほど、心臓が脈を打っている。何かを得るような感覚があった。ただ、清らかな感情に触れて、心が揺さぶられただけではなかった。





 大村から届いたメールを眺める。典正が私のことを気に入っていって、次回会うのを楽しみにしているという趣旨のような内容とお礼の文章が綴られていた。母親について触れられたことは、話していないのだろう。まだ夢を描くことのできた高校時代の勉強を教えるのは、時間を遡るような感覚だった。典正の純粋さが、心の汚れを削っているからなのかもしれない。

 典正の母親がどうなっているのか、家族としてどのように暮らしているのか、明確に聞き出すことはできなかった。何度か聞けば話してくれるのかもしれない。焦って警戒されたくなかった。服を一枚一枚脱がせるようにして、時間をかけて聞きだせばいいと思っていた。

「ふうん、じゃあ君は、まだ典正君から真実を聞きだせていないにも関わらず、菜々子には『奥さんは死んだって典正君が話していた』と嘘を付いたんだ」

「そうです。正直、典正君のあの反応だけじゃ、何が起こっているのか判断できませんでした。でも、母親について何かあるのは確かだと思います」

 ベンチに座った貝塚が、ペットボトルの蓋を開けていた。皮のバッグが少し開いて、クリアファイルに挟まったプリント用紙が見える。

「菜々子は君の言葉を信じて、大村との仲をより一層深めてしまうかもしれないよ」

「そうですね」

「中々やるね」

 菜々子に会ってから、微笑むのが得意になった気がした。

「典正君、大村さんに似てかっこよかったですよ」

「そうか」

「きっと、大村さんみたいになるんだろうなって、あ、でもやっぱり全てが似ているわけではありませんね。菜々子は典正君を愛せると思いますか?」

「無理だろうね」

 シャツの袖ボタンを外して、腕まくりをする。

「ですよね・・・」

「わからないけどね。一緒に暮らそうとしているのかもわからないし」

 遠くのビルの自動ドアが開き、サラリーマンが駆け足で駅のほうへ向かっていく。

「菜々子はまだお店に入ってるんですか?」

「あぁ、この前行ったときは普通にお客さんとして接してもらったよ。店内での様子も変わってない。どこかの客に買ってもらったゴールドのドレスを着て、顔色一つ変えずに何杯もお酒を飲んでたよ」

「へぇ・・・。奈々子は夜の女のままなんですね」

「少なくとも、この一週間はね」

 木の葉の影が、爪先でひらひらしていた。小さな蟻がアスファルトの隙間に入っていく。心のざわめきが収まっていくのを感じた。

「菜々子、お酒飲むんですね」

「そりゃそうだよ。水商売なんだから」

「プライベートで飲んだときは、あまり口にしていませんでしたが」

 雲に覆われた日差しに、貝塚のワイシャツが白く反射している。スーツのスカートの太腿がきつく感じられた。

「飲むことは彼女の仕事だからね」

「水商売をしているときの菜々子ってどんな女性なんですか?」

 毛穴の開いた頬を眺める。

「誰にでも愛想がいい。ボディタッチもして来るし、胸を寄せてあざとく近づいてくるときもある。悪く言えば安っぽい女だな。でも、不思議なんだよな。例えばグラスに向ける視線ひとつで、急に手の届かない女に変わるときもある」

 貝塚は大村のように、菜々子を表現しようとしているのだと思った。

「描写するんですね。小説家みたいに」

「そう?」

「貝塚さんは未だに小説家への夢を諦められないんですね」

「・・・・・・」

 少し目を見開いた。まぁね、と言ってペットボトルを振る。

「小説家はそんなにすごいことなんですか?」

「勿論」

「有名な出版社で働いている貝塚さんも、私にとってはすごいことんなんですけどね」

「でも、所詮大勢の中の一人だよ。俺には小説が書けたんだ。組織の中の一部では無く、俺という人間で注目されてもおかしくないような才能を持っていた」

 声に血が流れているのを感じた。

「この苦痛は誰にもわからないんだろうな。大村に盗まれた作品は、俺の血が通っているんだ。俺だってどうにかならないかってもがき苦しんだよ。出版社に入ったけど、大村や当時の編集者の話をしても誰も耳を貸そうとはしない。むしろ、話さないほうが自分のためだと注意されたよ」

「・・・・・・」

「当たり前のことだけど」

 名声を手に入れるはずだった人の顔は、自分を正当化しようとするほど歪んでいくように見えた。

「俺が何かを描写しても、誰にも届くことなく、灰にすらならない。惨めだよね。小説家被れだって」

「そうですか?」

「最近思うんだ。大村が死んだら、俺にもチャンスが巡るのかもね」

 薄い唇から息を漏らしていた。

「菜々子から嫌われますね」

「元々好かれてなんかいないよ」

 雑に笑っていた。

「貝塚さんは、私よりもずっと地位の高い人なのに、苦しそうですね。色んなものを持っている人でも、辛いものなんですね」

「・・・・・・」

「どうして、奥さんじゃなく大村さんを直接・・・ってことは考えなかったんですか? だって、大村さんが居なくなったほうが、貝塚さんの夢には近くなるんですよね?」

 小さなピアスを触りながら口を動かした。

「菜々子が好きだからだよ」

「でも、貝塚さんは婚約者がいるんですよね?」

「ん?」

「だって、それ・・・」

 右手の薬指にはめられた、細い指輪に目をやった。奈々子が居たときは、付けてきたことが無い気がしていた。

「婚約者が居るのに菜々子が好きなんですか? なんだか、大村さんみたいですね」

「俺はあんな奴と違う」

 頬を真っ赤にしていた。叩きつけるような声に、身体が硬直した。

「あ・・・いや、ごめん。驚かせるつもりは無かったんだ」

「・・・・・・」

 細長い息を吐きながら、ペットボトルに口を付ける。

「俺にとって菜々子は、非日常を切り取ったようなものだよ。出会ったのは偶然に近かった。出版関係の人間の噂で、大村の愛人がいるって聞いていた。おぼろげな情報を頼りに、菜々子が今勤めている前のキャバクラで知り合ったんだ。あっさりと大村との関係を認めて、拍子抜けしたよ。こっちが憎しみを込めて話しても、頷く声を高くして、嬉しそうに聞いていた」

 菜々子は大村の話ができることに、喜びを感じていたのだろうか。貝塚を簡単に手放すことはしないと思った。

「最初は大村の愛人に接触することで何か復讐できるかもって・・・いつでも切り離せると思っていたんだ。でも、もう引き返せないんだ。婚約者に知られれば、すぐに破棄されるような関係を持ってるんだ。肉体だけじゃない、精神的にも・・・」

 罪を認める人の口は、他人に何を求めて真実を語るのだろう。

「婚約者だけじゃ満足できないんですか?」

「まぁ、帰るところは婚約者の元だよ。愛人ってのは、愛と欲が絡まって突き動かされるまま、愛を置いていくところなんだよ。婚約者とは違う愛情が生まれるんだ。この感覚は、菜々子に出会って初めて知った。失いたくないとも思った」

「・・・大村さんも、貝塚さんみたいな感情から、菜々子と居るのかもしれませんね」

「あんな奴のことなんて理解したくもないけど、菜々子と奴はもっと深いよ。言葉では言い表せないけどね」

 『深い』の中に込められたものは、何となく通じた。

「そうですね・・・・・・」

 貝塚の頬の皮膚は、三十代半ばのハリがあった。書く気になれば、残りの人生の中で幾らでも手を動かす時間があるのだろう。

「・・・貝塚さんが自暴自棄になる理由がわかりません。だって、愛人は愛人って割り切ってるんでしょう? 婚約者まで居るのに」

「さぁ、一番大切なものを失ってしまった俺には、どんな汚いことをしてもいいって思いがあるのかもね」

 菜々子は自分が思い描くように貝塚を動かしているのだろうか。

「俺が菜々子じゃなく、君みたいな子を好きに慣れたら楽だったのにな」

 真面目な表情でこちらを見降ろしながら、指輪を光らせていた。

「・・・失礼ですよ」

 心の端がしんしんと冷えていった。

「・・・そうか・・・」

「・・・・・・」

 人差し指に塗ったばかりの水色のマニキュアが、爪先からほんの少し剥げていた。隠すようにして指を組む。感情を抑制しないことは、人間から離れて獣になっていくように思えた。道から外れて、罪を犯したときには、誰にも理解されないような言葉で自己弁護するしかなくなるのだろう。でも、抑制できない感情を持つことはあるのだろうか。彼らの持つ感情が、自分の持っている感情と同じ重さであるとは思えなかった。





 菜々子は二人の小説家が描写しようとすればするほど美しい女性になっていった。自分を表現する術を持っているだけで、感情に振り回される普通の女なのにもかかわらず、誰も届かないような人になっていた。男は馬鹿だと思う。木々のように色変わりをする女の心に、情緒を見出して、ただ心をほだされているだけなのだ。

 知らない番号から着信があった。セキュリティカードを翳して、警備員に頭を下げる。

「もしもし」

『あ・・・の、日比野さんですか?』

 小さい声だった。

「典正君?」

『はい』

「どうしたの?」

 セキュリティカードをバッグに入れて、一番手前の椅子に腰掛ける。テーブルに収まっていない椅子の脚に、脛があたった。

『・・・父親の携帯から、日比野さんの番号を見ました。すみません』

「ううん。別にいいけど」

 典正の声は、電話で聞くと幼く感じられた。

「何かあったの?」

『奴の女の人が家に来て、夕食を作ってます』

「え?」

 心臓がどくんと鳴った。携帯を左手に持ち直す。

「奴って・・・」

『あぁ、僕の父親です』

 喉を刺すような息が混じっていた。

「・・・そう。いつもなの?」

『昨日からです。急に来て、ずっと居ます。いつ居なくなるのかわかりません。昨日は奴と一緒に寝室で一晩過ごしてました』

「・・・・・・」

 隣の椅子に座ったサラリーマンが、クリアファイルを見ながら電話していた。分厚い鞄がテーブルの下で倒れている。

『今から外で会うことってできますか?』

 コンビニのガラス越しに時計を眺める。六時半を過ぎていて、空が薄暗くなっていた。

「今から・・・?」

『はい』

「出て大丈夫なの? もう夜だけど」

 少し風が吹いただけで、気怠い雲が雨を落としそうだった。

『菜々子さんって、わかりますよね?』

「・・・・・・」

『今、菜々子さんが居るんです。だから、僕の居場所がありません。奴らは書斎に閉じ籠ってるので、僕が居なくても、気づかないと思います』

 紅茶を薄めたような風が、足首に吹き付ける。

「典正君はどこに居るの?」 

『自分の部屋に居ます』

 調律の取れていた弦がずれていくのを感じた。

「ずっと?」

『はい』

「お父さんは何か言わなかったの?」

『はい。突然来ました。彼女が居ると、僕を視界に入れないようにするので』

 典正は冷静にしていた。耳から聞こえるのは、機械のような声だった。

「じゃあ、いいよ。渋谷駅のモアイ像前で待ち合わせしよっか」

『はい』

 何が目的で会おうとしているのかわからないほどだった。

『わかりました。今から家を出るので、大体四十分後くらいに着きます』

「わかった。着いたら連絡して」

『はい。ありがとうございます』

「少し、待ったらごめんね。まだちょっと、仕事で残らなきゃいけないから」

 バッグのベルトを掴む。

『はい。大丈夫です』

「・・・・・・」

『では、また』

 ベビーカーを引いた女性がビルを見ながら横切っていく。子供を載せた車輪がぐるぐる回ってコンクリートを走るのを眺めていた。遠くなっていき、木の陰に隠れて見えなくなっても、しばらく立とうとは思えなかった。




 スクランブル交差点の信号が青になる。外国人が携帯のカメラを掲げて渡っていく。ミニスカートで掛けていく女子大生のグループが、スーツを着た男性に声を掛けられていた。浅い息を整える。金曜日の夜の渋谷は、ぱちぱちと弾けていて、ヒールで躓いたら誰かに踏まれてしまいそうだった。

 馬鹿な女にはなりたくなかった。でも、賢い女にも、愛情深い女にもなれなかった。身の無い時間を潰すようにして生きている間、馬鹿な女はどれだけの男に抱かれたのだろう。賢い女はどれだけ社会に貢献したのだろう。愛情深い女はどれだけ家族に安らぎを与えたのだろう。


 典正の言葉から菜々子の形を想像しても、水商売をしている菜々子の姿を聞いても、全てがベリーダンスを踊っている菜々子に繋がっていった。冷たい視線を肌に浸み込ませて、愛おしそうに豊満な髪を持ち上げる様子が目に焼き付いている。口から出るのは、ひたすら菜々子を軽蔑する言葉ばかりだった。ただ、心から思っているわけではなかった。

「とりあえず、注文しよっか」

 声を明るくする。

「・・・あ、じゃあアイスコーヒーで」

「ご飯食べなくて大丈夫なの?」

「はい、特に食欲も無いので」

 部屋着のようなパーカーの紐を引っ張っていた。

「そう? でも、あったら食べる? 私お腹空いちゃった」

「まぁ・・・」

 渋谷マークシティーのカフェは、大学生か仕事帰りの女性で満席だった。隣からグラタンからじゅうじゅうと音が聞こえると、小さくお腹が鳴った。

「じゃあ、これ、キノコのリゾットとサラダ頼むね。キノコ食べれる?」

「大丈夫です」

 手を上げて店員を呼ぶ。大学生くらいの男の子が手際よくハンディを打ちながら、注文を繰り返していた。典正が潰れたリュックから手帳のようなものを出して、テーブルで広げていた。

「典正君って小さい頃、給食残さず食べれた?」

「まぁ、あまり好き嫌いないので」

「偉いね。私、好き嫌い多いし、少食だから、いつも残してたの」

 水の入ったコップを手で包む。

「でも、先生ってひどいんだよ。全部食べ終わるまで、デザート食べれないんだから。小学校のときなんて、ほとんどデザート残してたよ」

「確かにそうゆう子居ましたね」

「休み時間入っても食べてて、みんな私の席を避けて机運ぶの。人の目があるとなおさら食べれなくなるのに・・・」

「僕はそこまで繊細じゃないので」

 店員がアイスティーとアイスコーヒーを置いていく。目尻が少しだけ解れていた。手帳のページを捲る。

「何の手帳?」

「勉強のスケジュール書いてるんです。この日までに、参考書の何ページまで勉強して、テストするとか・・・」

「へぇ・・・見せて」

「字は汚いですよ」

 走り書きしたような字で、秋までの予定が埋められていた。『模試』という字だけは、赤く丁寧に書かれている。懸命に生きているのだと思う。

「すごいね。自分で計画立ててるんだ」

「そうですね。目標が明確なので」

 最後のページを開くと、幾つか有名な大学名が書かれていた。

「典正君は大人になったら何になりたい?」

「前も聞かれましたね。僕は一流企業に・・・」

「そうじゃなくて・・・」

 眼鏡の黒い縁に触れながら、こちらを見た。

「どんな大人になりたい?」

「・・・・・・」

 視線を手帳に移していた。

「・・・父みたいな人じゃない、一流の大学を出て、安定した企業に勤めている、普通の大人になりたいですね。特に語るような夢があるわけではありません」

「そっか・・・・」

「夢が無いことは不自然ですか?」

 テーブルに載せた手は細かったが、私よりも大きかった。

「・・・ううん、そうじゃなくて。ただ、典正君から見ると、私は普通じゃないほうになるのかなって思って」

「そうなんですか・・・?」

 指先でこめかみを押す。

「私、一応これでも名前がわかる大学を出たの。新卒では上手く行かなくて辞めて、派遣を繋いでやっと東京で独り暮らししてる。給料も低いし、将来の保証もない、とっても不安定な生活なの」

「・・・・・・」

 すらすらと話した言葉が、自分に刺さってくるのを感じた。

「だから、典正君の言ってる普通ってとっても難しいんだよ。運もあるかもしれない。どんなに勉強したって、典正君の望む普通になんかなれないかもしれない。君は学校にしばらく行ってないんでしょう? 同年代の子と話せてないんでしょう? 私は毎日学校行ってたのにこんなふうになってるんだから、正直、学校行ってない子が社会でやっていけるなんて思えないの」

 周囲を気にしながら、残酷なことを言った。

「・・・・・・」

 手帳を閉じて置いていた。典正に嫌味を言いたいわけではなかったが、心の中の黒い部分が歯車にこびり付いて、回るほど汚したくて溜まらなくなった。

「・・・菜々子さんの話しましたよね?」

「あ・・・うん」

「僕、逃げ出したいんですよ」

 拳に骨が浮き出ている。

「誰ですか? あの女は。僕と年齢もさほど変わらないんでしょう? どうして父は、あんな女に欲情して、家庭までめちゃくちゃにして・・・どうして分別のある大人が、あんなに自分勝手で本能のままに生きられるんですか? いい小説を生み出すことなんて、家族には関係ないじゃないですか」

「・・・・・・」

「何で、こんなことが許されてるんでしょうね」

 声は静かだったが、精神が烈火のごとく燃え上がっているのを感じた。

「・・・声を聞くだけでも鳥肌が立つ。奴のそばに、あの女はいつの間にか入って来たんです。家族ですら入ることを毛嫌いしていた奴の書斎に、何であの女は入り浸ってるんですか? 母親は気づかれないように、よく泣いてました。強くない母親もいけないのかもしれませんが・・・何でいきなり・・・あの女がのうのうと家に上がり込んで・・・・・・」

 眉間に皺を寄せて、指先をかたかたさせていた。

「親から離れるってことは、僕にとって希望ですよ。亀裂の入った家に帰らなくてもいいんですから。もし僕の希望が全て叶わなくても、勉強しているときだけは未来を想像できるんです」

「そっか・・・」

 自分の心の底を感じて恥ずかしくなった。

「ごめん。大人げなかったね。きっと、典正君なら普通になれるよ」

「ありがとうございます・・・・・・」

 大村と菜々子の間に流れる色香は、子供から見ればどこまでも汚いものだった。土から生まれた真っ白な花に、赤い色で溶いた絵の具をかけるような、珍妙な色彩を感じるのだろう。

「学校、行けないの?」

「・・・・・・」

 アイスコーヒーにミルクを注ぎながら、首を縦に振った。

「学校の人たちと会えば、少しくらいは気晴らしになるかもしれないよ。どうして?」

「・・・色々、あって・・・」

「そう・・・じゃあ、しょうがないね」

 学校は小さな世界だが、きっと動けなくなるような何かがあったのだろう。自分を見ているような感覚になった。

「優奈さんはうちの母に似ています」

「え?」

「元気な頃の、母さんと話してるみたいです。よく僕がくだらないことで落ち込んでいたときに、ホットミルクを持ってきて、何の脈略も無い話をして笑わせてくれました」

 高校生は子供なのだろうか、大人なのだろうか。合わせるような返事をしながら、御手拭を畳み直していた。店員がシーザーサラダと取り分け皿を滑らせるようにして置いていく。

「ねぇ、お母さんはどうしてるの?」

「・・・・・・」

 心臓が高鳴っていく。

「母さんは殺されました」

「誰に・・・・・・?」

「あいつらに」

 隣の声が聞こえなくなり、低い息に混じった声が鼓動と重なっていった。



 『優奈』という名前が、娼婦を意味する『湯女』と同じ読み方だと知ったのは、高校の時だった。友達数人とサイゼリアのドリンクバーから戻ってくると、塾に居る男の子の

 話になっていた。何気なく自分に話を振られたとき、好きな人の話をしたことがあった。彼女ができたことがショックで話しかけられないと言ったら、誰かが「名前が『ユナ』なのにね」と口にしていた。あまりに小さな声だったので、私も周囲も意味がわからず流していたが、家に帰って調べると、『湯女』という字があることを知った。

「湯を滴らせながら、垢を掻く女」と聞いて、女として媚びることに激しい抵抗があった。快楽は苦悩と重ねあわせていることを知っていた。一度味をしめてしまうと、『湯女』という女に、転がるように落ちてしまうような気がしていた。

「今、典正君が家に来ています。シャワーに入ってますよ」

 サンダルに爪先を通して、網戸を締める。

『そうか、どうりで靴が無くなっていた筈だ』

 ベランダの手摺に手を載せる。髪から伝う水滴をタオルで抑えた。

「今日はうちに泊めますね。どうしても帰りたくないみたいですし・・・そこに、菜々子が居るんですね?」

『あぁ。書斎に二人で居るよ』

 甘えるような菜々子の声が聞こえた。

『申し訳ないね。もしかしたら勝手に連絡するかもしれないと思って、君の番号は教えていなかったんだけど』

「大村さんの携帯を勝手に見たらしいです」

『そうか・・・』

 バスルームからシャワーの音が聞こえていた。

『さすがに泊まらせるのは悪いし、どこかのホテルに泊まらせるように言いたいけど』

「今日はいいですよ。私に任せてもらって」

『・・・悪いね』

 蒸した空気を吸い込む。

「勘違いしないでくださいね。私は二人の協力をしているわけではないので。どこかに訴えて、追い込みたいくらいです。でも、貴方たちはやっぱり賢いですね。そんなことできないんですから」

『そうだね・・・・・・』

「子供が居るのに、愛人を家に連れ込むなんて・・・普通じゃないですよ」

 電柱にぶら下がった明かりがちらちらしていた。

『もしもし、優奈』

「菜々子?」

 鉢の金魚が尾鰭をはためかせるような、菜々子の姿が浮かぶ。

「今、貴女に何を言っても無駄だと・・・」

『ねぇ、優奈』

 絹を被せるような言い方だった。

『あの子と一緒に居るんでしょう?』

「そうよ」

『高校生は大人よ』

「何が言いたいの?」

 声を潜める。

『でも、未成年と性的関係を持ってしまったら犯罪だからね』

「・・・・・・」

『ま、どうせ見つかる術もないけどね。私は聞いても黙っててあげる』

 鼻歌混じりに話していた。サンダルを擦って、爪先を入れ直す。皺の寄った腕に縋りつく菜々子を想像していた。口では二人を批判していたが、典正を目の前にしても、翳すほどの正義感は湧き出てこなかった。

「私は菜々子と違うから」

『ふうん』

 菜々子は幸せそうにしていたが、人の不幸の上で成り立つものだった。砂時計を返すように、時間が経てばひっくり返ってしまうように危うかった。

「あがったみたいだから切るね」

 携帯を降ろして、網戸を開ける。サンダルを脱ごうとすると、足の裏が少し貼りついていた。

「タオルどこに置けばいいですか?」

「あ、頂戴」

 Tシャツが細身の身体に伸びていた。横切ると、ふわっと自分と同じボディシャンプーの香りがした。タオルを受け取って、洗濯機の蓋を開ける。

「さっき・・・誰と電話していたんですか?」

「大村さん。典正君は未成年だからね、今日はうちに泊まるって伝えたの」

「・・・・・・」

 眼鏡を外して、シャツでレンズの曇りを拭っている。

「布団敷いておいたんだけど、しばらく使ってないから、ちょっと埃っぽいかも」

「いえ、大丈夫です」

 ベッドの下に敷いた布団の真ん中に座って、携帯を弄っていた。洗面台の棚からドライアーを取り出して、コードを解いた。

「テレビ、適当にかけていいから」

 首筋から髪を掻き上げるようにして、熱風をあてていく。しばらくして、テレビの音が聞こえてきた。纏まっていた髪が解けていき、タオルが少しずつ乾いていった。


 大村にとって描写するということは、欲望を正当化するための手段なのかもしれない。典正から奇妙な家庭事情を聞いて真実を知っても、自分には目に見えるメリットが無かった。ただ、人間の欲望の底への興味だけで、動いていた。若い身体を持つ菜々子を目の前に、肉欲から逃れることができないのだろう。人目にさらされない感情は、罪を犯しても恥じることなく、どこまで落下し続けるのだろうか。

 電気を消してベッドに座る。典正が肘を付いてテレビを眺めていた。

「典正君、お母さんが亡くなったって・・・」

「はい」

「いつのことなの?」

「先月です」

 大村が言っていた月と一致していた。

「確かなの?」

「はい。日付までは・・・」

「どうして明るみにならないの?」

「奴が適当な理由を付けて口止めしてるんだと思います。家では他人みたいに過ごしていたので、詳しいことは知りません」

 顎に指を当てる。

「そう・・・ねぇ、典正君はお母さんのことが好きなんでしょう?」

「はい」

「どうして、お母さんの真実を明らかにしようとしないの?」

 眼鏡のレンズにテレビの画面が映っている。

「・・・もし・・・・・・」

「え・・・?」

「・・・優奈さんは、もし、あの女と同じ立場だったら、母を殺しましたか? もし、罪を問われることなく、静かに母を無かったことになるような手段があるとしたら・・・」

「どうしてそんなことを?」

「聞きたいんです。殺しましたか?」

 地に響くような声だった。

「・・・そんなわけないでしょう」

 入り組んだ感情が脳に届く前に、言葉を発していた。

「人を不幸にしてまで・・・」

「本当にそうですか?」

「・・・・・・」

 どこかの女に似ている瞳が、ゆっくりとこちらを捉える。腕の毛穴が引き締まった。典正の後ろの誰かに、言われているようだった。

「そうよ。誰かに裁かれなくても、罪の重さは一生付き纏うから・・・いつか自分に跳ね返ってくるような気がして、私には耐えられない」

「そうですか」

 シーツを握り締める。

「そうですよね。優奈さんは常識人でよかった」

「・・・・・・」

 黒い影が波のように引いていった。

「母の真実を明らかにしないのは、自分でも整理が付いていないからなのかもしれません。今はどうしたらいいのか、考えることも辛いので」

「警察には・・・」

 典正がいきなり横に座り、唇を重ねてきた。リモコンがベッドから落ちて、フローリングに乾いた音を立てた。テレビの音量が少し大きくなる。

「あ・・・」

 流れるようにベッドに押し倒されて、仰向けになる。身体中が熱を帯びていき、心臓が乱れたような脈を打っていた。呼吸を塞ぐように唇を押し付けられると、顔の筋力が抜けていき、舌を絡めていた。典正の眼鏡をそっと外す。奈々子の言う通り、大人の男性の顔をしていた。

「・・・典正君、今はこんなこと・・・」

「・・・・・・」

「どうしたの?」

 息が荒くなっていた。

「優奈さん・・・」

 首筋に顔を埋めて、パジャマのボタンを外していく。掌が撫でるようにして乳房を包み込むと、乳首が立っていくのを感じた。

「私のこと好きなの?」

「はい・・・」

「嘘ね。寂しいだけでしょう?」

「・・・・・・」

 小さくなった乳首を吸い付くようにして口に含んだ。

「ちょっと待って・・・典正君、未成年でしょう? これ以上したら、私、犯罪者になっちゃう」

 ショーツを降ろして、指を入れてきた。


「でも、奴とあの女は、あんなに歳が離れてるのに犯罪者になってない」

「ん・・・」

 熱い息が漏れる。

「駄目・・・」

 大村に似た眉毛を、こちらを見つめる。典正の肉体を求める快楽の先に、何も無いのはわかっていた。密室に居る男女が求め合ってしまうような感覚で、典正と私だけに限ったものではないのだ。

「ごめん、できないの」

「・・・・・・」

「聞いて・・・」

 指の動きが止まり、ショーツから離れていく。

「君は父親にそっくりよ。父親は、こうやって快楽から抜け出せなくなったの」

 天井が見えると、目尻からつうっと涙が伝っていった。典正が私に気づくと、はっとして身体を立てた。

「ごめんなさい・・・」

「・・・・・・」

 我に戻った典正が、深く頭を下げて布団に戻っていった。

「・・・すみません、こんな・・・」

 布団に包まって、こちらに背を向ける。

「ううん・・・・・」

「僕のしたことは忘れてください」

「わかった・・・」

 乱れた服を戻して、リモコンを拾い上げる。乳房に理性を失った手の感覚が残っていた。悲しい女にはなりたくなかった。典正が現実から目を背けたくなるような話を振ったのも、誘惑したのも自分だったが、涙一つで被害者のような顔をしているのだ。悪くも良くもなりきれない、現実社会を浮遊するような自分に見合った姿をしているのだろう。





 3


「じゃあ、その後、派遣会社から別の職場を紹介されて、辞める日にちギリギリに給料の少し下がった場所での就業が決まったということですね」

「はい」

 大手新聞社の名前が書かれた牛島の名刺を財布に入れる。貝塚が襖を開けて、店員に追加の料理の注文をしていた。

「なるほど。次の職場ではどうですか? 慣れましたか?」

「まだわかりません。新しいところに移って、数日しか経っていないので」

 太い掌にメモ帳を載せて、話を文に起こしていた。

「ちなみに、どんな企業ですか?」

「中小のIT企業です」

「なるほど。大手企業から今までと全く違う業種の、中小企業に移されたってことですね。前の会社の同僚は、送別会のようなものを開いてくれましたか?」

「いえ、歓迎会は開いてくれたのですが、送別会は・・・、忙しいからと言っていました。最後のほうは、私が勝手に辞めるような雰囲気を作られてしまったので、自然と外されるような感じでした」

「へぇ・・・」

 貝塚がメニューを差しこんで、掘りごたつに足を入れていた。

「セクハラの相談は誰にもしなかったんですか?」

「一度、同じ派遣会社の子に話しました。でも、私の勘違いだって、鼻で笑われました。彼女が話したのか、次の日から、今まで仕事を振っていた人からも遠ざけられるようになりました」

 口の中の皮膚を噛む。

「企業も頭がいいですね」

「はい」

「企業ってどこもピラミッド構造になってるんですよね。でも、それを作っている一人一人は、自分だけ良い思いをしたい願望が積み重なったものなんですけどね。大抵は、そこで収まっていますけど、ピラミッドの上の層の中に、悪いことも権力で押しつぶせると勘違いしてしまう人も出てくるんですよね」

 顎をたぷたぷさせながら小刻みに頷いていた。ビールを一口飲んで、ボールペンが読めない文字を綴っている。

「これは記事にさせてもらいますよ。押し上げられて勘違いしてしまった人を摘み取るのは、マスコミの役目ですから。君と同じ思いをして悩んでいる人も多く居るかもしれないし、直接聞けてよかった」

「ありがとうございます」

 晴れるはずの気持ちは淀んだままだった。心が別の蟠りを持って、会社のことについて考えている余裕がなかったからかもしれない。

「とりあえず、社会問題についてはその辺にしてもらっていい?」

「あぁ」

 貝塚が焼酎のグラスを触りながら、口を開いた。牛島が小皿に取った空揚げを食べて、箸を置いていた。

「今日、牛島に来てもらったのは、俺たちの話を聞いてもらいたいから。話はシンプルなんだけど、わからなくなってきてね。第三者の目で見てほしい」

「了解。メモは取らないでおくよ」

「ありがと」

 油の付いた唇を御手拭で拭って、ペンとメモ帳を鞄に入れていた。

「とりあえず、俺が知っていることは話してある。と言っても、しばらく会ってないから経緯だけ・・・詳細は優奈さんから、知っていることを話してもらっていい?」

 青くなった髯の痕を軽く摩った。襖の横を店員が通ると、肘が当たったのか、個室の中に籠ったような音が響いた。


 典正から聞いたことを貝塚に伝えると、大学の後輩で新聞記者をしている牛島を紹介したいと言われた。信頼できる第三者を入れて、真実を明らかにすることを勧められた。大村から『死』という言葉を聞いたときよりも、ずっと身近に迫ってきているのを感じた。

 話に現実味が帯びていくほど、貝塚に向けていた疑いは薄れていった。でも、貝塚の表情が変わっていくと、急に恐ろしくなってきた。正常と異常の狭間にある歪にすっぽりと嵌っているのかもしれない。

「なるほど、じゃあ、その後、彼の息子は来てないってことですか?」

「そうですね。メールのやりとりはしているのですが、家には来ていません。直接会話もしていません」

 ノンアルコールのカクテルを一口含む。

「確かに殺されたって言われたんだね?」

「はい、奴らにって言ってました」

「奴ら・・・か」

 牛島が貝塚のほうを向く。

「それが、貝塚さんが言ってた愛人とやら?」

「あぁ、菜々子だ。俺も持ちかけられたよ、奥さんを殺害する計画を・・・」

「え?」

 スプーンがチャーハンをよそったまま止まった。

「初めは冗談だと思ってたよ。どんな計画かは、優奈さんの協力が無いと教えてくれないって言ってたし、具体的なことは何一つ聞いていなかった」

「そうなんですか?」

 落ちてきた髪を耳にかける。

「この件に関して嘘を付いたことはないよ」

「・・・・・・」

 テーブルの上で手を組んでいた。

「彼の奥さん・・・彼女は大村が亡くなったという日から数えると、丁度1か月経っています。でも、これを証言しているのは大村と息子のみで、今聞く限りでは、他の人が話している様子は無い・・・」

 牛島がメモ帳を捲り、相関図のようなものを書き始めた。

「他の人物が関わっていることは・・・まだわからないね。奥さんがどんな交流関係を持っているのかはわからないから。でも、この三人が何かを知っているということには間違いないでしょう。菜々子とは、その後、連絡取ったりしてるんですか?」

「はい」

「どんな話をしました?」

「典正君のことを聞かれて・・・何も無かったことを伝えると、安心したようでした。あとは大村との生活を聞きました。職場へは大村の家から通っていて、典正君は家に帰ったり帰らなかったりしているらしいです」

 菜々子は満たされていることを噛みしめるように、質問に対して詰まることなく話していた。

「典正君はどこに泊まってるんですか?」

「親戚の家に居るのか、漫画喫茶を転々としているのか、どうやって暮らしているのかはわかりません。仲のいい友達は居なそうだったので、多分一人で行動してるんだと思います」

「息子さん・・・かわいそうですね。こんな汚い大人の事情に巻き込まれて、自分の居場所まで無くしてしまって」

「そうですね」

 当たり前にもかかわらず、とても新鮮な意見だった。

「関係は順調だと聞いていますか?」

 貝塚が指輪の丸みを撫でていた。

「はい。電話で聞く限り、菜々子は幸せそうでした」

 わざと、声を強くした。

「奥さんの身長と体重は?」

「身長・・・? 大体、私と同じくらいだって聞いてます」

「誰から聞いたんですか?」

「典正君から・・・」

「奥さんの、ご遺体はどこにあるのか聞きましたか?」

 座布団に手をつく。牛島の質問は、坂を転がるように加速していった。

「・・・いえ、葬式をしたのかもわかりません」

「じゃあ、最悪の場合、家のどこかにあるって可能性もあるってことですね」

 手首を抑えると、皮膚が冷たくなっていることに気付いた。

「死体と暮らしてるって・・・。死因はどうであれ、この時期だし、二週間もすれば周辺は異臭で気づくでしょ」

「・・・あの家に出入りしているのは大村と菜々子と息子の三人ですね。典正君が家を出たがる理由にもあるとすると・・・何か隠している可能性はあると思うんですよね。ま、最悪の場合・・・ですけど」

 室内に数秒の沈黙が降り落ちた。グラスを傾けると、薄まったカクテルが喉に流れ込んできた。溶けた小さな氷を齧る。

「机上の空論にしかならないな。証拠が無いんだから」

 貝塚が言葉を引っ張るように言った。

「でも、仮定が無いと、何が変なのかわからない・・・」

「・・・・・・」

 捲ったシャツの袖が腕に食い込んでいる。

「優奈さんと貝塚さんは、彼らのことについて、楽しんでいるように見えますね。真意に触れないようにしながら、ゆっくりと自体が複雑になっていく様子を味わっているようです」

「そんなこと・・・・・」

 口を開けたまま、言葉を返せなかった。お腹の底がきゅうっと抓られたようだった。

「あぁ、そうゆうことだよ。小説の出来事みたいでね」

「別に責めないですよ。貝塚さんに色々あったのは知ってますし・・・。僕は貝塚さんを信じてますよ」

 頬をふわふわさせていた。

「でも、いいんですか? このことを知った以上、僕も動きたくなりますよ。幽霊部員ではありましたけど、一応ミステリー研究会の一員でしたからね。懐かしいな、不謹慎ですが、あの頃を思い出してしましましたよ」

「ミステリー研究会?」

 牛島が瞬きしながら頷いた。

「牛島と俺は大学時代、ミステリー研究会ってのに入ってたんだよ。真面目に活動してるのは一部で、ほとんどが推理小説オタクか探偵気取りの幽霊部員だったけどね。牛島は実際の未解決事件が議題にあがるときだけ必ず来る、変わった奴だったんだよ」

「貝塚さんも似たような感じだったじゃないですか」

「さぁ・・・あのときの自分は覚えてないよ」

 酒が揺れていた。社会人になってから学生の頃を語ると、なぜ情緒的な口調になるのだろう。貝塚の柔らかい表情は初めて見たような気がした。

「今回の件は、牛島だから話したんだ。もう、真実に近づいてもいいと思ってね」

「学生の頃と違って、今回は実際に目の前で起きている出来事ですけどね」

「大人になったんだよ」

 目線を逸らしながら、ナプキンをするっと抜いていた。

「あ、貝塚さん結婚したんですか?」

「まだ籍は入れてないよ。今年の十二月に結婚の予定なんだ」

「昔ら付き合っていたあの子ですよね? おめでとうございます。飲みに行く回数は減ってしまいますね」

 張り詰めていた空気に穴を開けているようだった。

「・・・これから、どうしますか? 僕は何らかの事件性はあると思います。警察に行くのではなく、典正君を保護目的で通報すれば、真実に近づくことはできると思います。もし、二人が言いにくいのでしたら、第三者の僕が偶然を装い、優奈さんと待ち合わせしている典正君を保護することも不可能ではないと思います。でも・・・」

 襖を軽く叩く音が聞こえた。吸い込むようにして、口を閉ざす。

「・・・はい」

「失礼します。海鮮チヂミをお持ちしました」

 店員が左手を震わせながら鉄板を置いていった。エプロンのポケットからレシートが落ちると、貝塚が拾って渡していた。

「私が菜々子に聞きます」

 襖を閉じると同時に言った。

「え?」

「何を聞くの?」

「奥さんが今、どうゆう状況にあるのか。誰が何をしたのか・・・。私になら、菜々子も

 何か話してくれると思うんです」

 御絞りの糸を引っ張る。

「聞いたって、そんな簡単に口を割るわけないだろ」

 語気が棘のようだった。

「典正君が帰った後、菜々子と話したんだろう? でも、菜々子は大村の奥さんの事には触れなかったって、言ってたでしょ。自分勝手に過ごしてるようで、どこか後ろめたい気持ちもあるのかもしれないね。俺だったら、奥さんが使ってたベッドで寝るなんてぞっとするよ」

「・・・・・・」

 牛島がちらっと視線をこちらにやって、逸らした。

「貝塚さん・・・」

「ん?」

「・・・菜々子、奥さんが使ってたベッドで寝てるんですか?」

 脈が震えていた。

「だって、君がそう・・・」

「ずっと書斎に二人で居たとは言いましたが、奥さんのベッドを使ってるとは言ってませんよ。書斎は家族ですら入れない場所って、貝塚さんも聞いていますよね? 当然、奥さんのベッドは無いはずです」

 頬の毛穴を広げてこちらを見る。

「菜々子から、何か聞いてるんですか?」

「否、ただ君の話を勘違いしていただけだよ」

「・・・・・・」

 空気を摘み取る。

「そうですか」

 貝塚が菜々子と何か話しているのは確かなのだ。寝室を使っているというのは、典正から聞いたことだった。なぜ、隠しているのだろう。誰が何を隠そうとしているのか考えるほど、真綿で首を絞められるような心地がした。

「ところで、優奈さんは、出身はどこなんですか?」

 筋肉が引き締まった。牛島が空のジョッキをテーブルの端に置く。

「・・・出身ですか? 千葉ですよ」

「あぁ、通りで綺麗な言葉使いだと思った。僕、出身が大阪なんです」

「関西弁じゃないんですね?」

「そうですね」

 曇りを吹き飛ばすように笑っていた。

「社会人になってから、標準語話すようになったんですよ。地元に帰れば関西弁が出るんですけどね」

 個室に下がった電球が白っぽく見える。他愛のない話は、どこか不完全で、薄い空気に溶けていった。誰が付いている嘘を鵜呑みにするのが一番楽なのだろう。毛穴が引き締まっていき、唾を飲み込む音が体内に響いていた。




「何で、優奈さんはこの件に関わってしまったんですか?」

 人を避けながら牛島の横に並ぶ。小田急百貨店の中に入ると、冷たい風が身体を包み込んだ。

「・・・・・・」

 貝塚と都営新宿線の改札口で別れて、牛島と二人になると、貼り付けたような笑みが落ちていった。パズルのピースをはめ込んでいくような牛島からの質問に答えながら、自分では繋がりを考えないようにしていた。

「関わる必要無かったんですよね・・・」

 少し浮いたスカートを抑える。

「そうですよ。傍から見ると、彼らの関係は不気味です」

「事件性はあると思いますか?」

「さぁ・・・奥さんのことといい、典正君のことといい、通常ではないことが起きているのは事実ですけど」

 旅行客がスーツケースを引きながら、JRの職員に道を聞いている。メイクをしていない中学生くらいの女の子たちが、スターバックスの前でフラペチーノを飲んでいた。

「・・・牛島さんは貝塚さんを信頼していないんですか?」

「信頼ですか・・・・」

「学生の頃からの友人だったんですよね?」

 酒臭かったが、目は数時間前よりも見開いていた。

「貝塚さんは優秀な人ですし、信頼が無いわけではありません。でも、真面目ですが、どこか見えない部分もあったんで・・・・・・。小説家を諦めてから、どんな思いで、編集者の道を歩んできたのかはわかりません。僕には疑うことしかできませんよ。疑って疑って、何も無ければいいだけです」

「そうですね」

 首の後ろに手をやっていた。

「・・・だから、僕には一応関らなきゃいけない目的があるんですよ。同じ出身大学の、同じサークルの人間が犯罪に巻き込まれてるんじゃないかって・・・切ることのできないものがあるんです」

「・・・?」

「まぁ、錆びついた縁ですよ」

 バッグを肩に掛け直す。少しの間が空いて、牛島がこちらを見降ろした。

「・・・会ったばかりの僕がこんなこと言うのも変やけど・・・」

「はい・・・」

「優奈さんは、もう関わらないほうがええと思います。徐々に連絡の回数を減らして、彼らを遠ざけたほうがいい。野次馬的な感覚で大村や菜々子さんと連絡を取るようになったと思うけど、あの関係は数日で起きたモノではなく、優奈さんが思ってる以上に深く根強いんや・・・」

「・・・・・・」

「普通のOLが関わることやない」

 ヒールが床にカツンと音を立てる。

「私、普通じゃありませんよ?」

「ん?」

「やっと生きてるんです。夢も乾いて、人を愛する感性も無くて、仕事だって誰でも代われるような仕事で、将来も不安定です。だから、牛島さんが思うような普通のOLと違うんだと思います。だから、奈々子に関わったことも、後悔してないんです。どうしてか、上手く言えないけど・・・」

 目に力が入った。

「ふうん・・・」

「・・・・・・」

「せやねんな・・・」

 絹を掛けるような声だった。すうっと、首を伸ばす。一滴の水が心に落ちたようだった。

「菜々子さんって、そんなに魅力的なんです?」

「・・・そうですね・・・綺麗です」

 ラピスラズリを溶かしたような、青いアイラインを思い浮かべる。

「そんなんやったら、僕も会ってみたいですね」

「じゃあ、一緒に・・・」

 首を伸ばして顔を背けた。

「ここでええ?」

 京王線の改札の前で、歩く速度を緩めていく。

「僕はJRのほうなんで」

「はい・・・」

 お腹の重みで、ベルトが少し下がっていた。

「あの、結局・・・これから、どうするか決まりませんでした・・・」

「ん? 何かあったら、連絡してください」

 掴もうとする指先を、するりとかわしていた。

「・・・・・・」

 身体を横に向けていた。菜々子だったら、縋ることができたのだろうか。

「連絡します」

 駅の雑音に掻き消えてしまったかもしれない。薄い鞄を後ろにやって、足早に人ごみの中に入っていくのを眺めていた。掌が熱くなっていく。望んでいた非日常が、器から溢れ出して、じわじわと面積を広げていた。私はもう既に、全身浸かってしまっているのだ。現実と出入りする度に、鳥肌が立つのを感じていた。




 段ボールの横に置かれたコピー用紙をシュレッダーに差し込んでいく。均等に刻まれる音に、はたはたしていた心が静まっていった。

「日比野さん、これもついでにシュレッダーお願いしていいですか?」

 沢口が数枚のミスプリントを横に置いた。

「はい」

「ホチキスはちゃんと取ってからやってくださいね。シュレッダー詰まるから」

「わかりました」

 沢口は三年前に派遣から契約社員になった事務の女性らしい。派遣元の面談の際に、客先に常駐している社員の経費の精算や勤怠の管理をしていると聞いていた。同い年くらいだったが、化粧気は無く指輪もしていなかった。

「ねぇ、日比野さんは前の職場でどんなことやってきたの?」

 眉毛が薄く吊り上り、目の下の隈を濃くした。

「書類の管理とか、備品の整理とか・・・」

 プリントの端を折りながら呟いた。

「ふうん。エクセルのマクロとかはできますか?」

「いえ・・・」

「じゃあ、エクセルの四則演算はできる?」

 真新しい入館証の紐を引っ張る。 

「いえ・・・」

「そう。じゃあ、ちゃんと覚えてね。エクセル使いこなせなきゃ、仕事にならないから。プロジェクトのみんなは忙しいし、人に聞かないで自分で勉強してくださいね」

「はい・・・」

 ブラインドから漏れる日差しが、手の甲を熱くした。

「日比野さんって、社会人歴どれくらいなの?」

「・・・五年目です・・・」

「五年目でエクセルも使いこなせないってすごいわね。どんな会社に居たのかしら」

 嫌味っぽく息を付いた。

「・・・・・・」

「まぁ、いいわ。あと、電話はちゃんと取ってください。外線は全部、日比野さんの固定電話に飛ぶように設定しておいたから。社員は自分の仕事で忙しいから、日比野さんが取るようにしてくださいね」

「・・・ありがとうございます」

 水分の無い髪を肩に垂らしながら席に戻っていった。前居た会社でも、同じようなことを言われていた気がした。仕事をするようになって五年経っても、また新人として覚えていかなければいけなかった。

 前の職場の人とは、誰とも連絡を取ることはなかった。大村と出会うきっかけとなった新井でさえ、一切の連絡が途絶えていた。ブラインドの隙間に指を入れて引っ張る。四回から見える遠くのビル群よりも、もっと先に、つい一カ月前に仕事をしていた場所があった。

 お腹の下で、紙を含んだシュレッダーが小刻みに振動している。ホチキス留めを取りながら、紙に書かれた文章を眺めた。機能要件書と書かれた紙にはITの専門用語が多く、どこを見ても何について書いてあるのかわからなかった。

 数年間、前の職場に居たことが幻のように感じられた。自分が居なくなった世の中が、当たり前のように回り続けることはわかっていた。でも、ほんの少しだけでも残せた何かがあったのではないかと、思っていた自分に恥ずかしくなった。


 洗面台で、グレーのスーツを着た女性が歯を磨きながら前髪を横に流していた。ハンカチで手を拭いて、脇に挟んでいた携帯を開く。牛島からメールが届いていた。指先に脈が流れるのを感じた。


 この前はありがとう。

 色々考えて、とりあえず菜々子さんに会いたいと思うんだけど、彼女の踊ってる店知りませんか?


 女子トイレから出て、端のほうの壁に寄り掛かる。右足のパンプスの踵に少し隙間ができでいた。親指をスライドさせながら文字を打つ。


 知ってます。


 送信画面がすぐに送信完了画面に切り替わる。携帯をハンカチと重ねて、階段のドアの前で立ち止まった。さっき洗面台に居た女性が、こちらに気づかずにフロアへ戻っていった。


 教えてほしい。貝塚さんには内緒で行くつもりだから。


 一秒もかからずにメールが帰ってきた。


 私も一緒に行くならいいですよ。


 指先を空気の変わる場所まで伸ばして、皮膚から伝う感覚を確認していた。どこまで入り込めば不気味な世界に浸っているのだろう。インターネットで検索しても正解は表示されないので、身体を差し出さなければ見つからないと思った。

 返信は、すぐには帰って来なかった。否、一秒一秒が重く感じられたのだ。マナーモードにして、画面を暗くする。ハンカチを畳みながら角を曲がると、キングファイルを片手に駆けていく新入社員とすれ違った。

 携帯を持つ手に力を入れる。私はまだ、菜々子が見たかった。もし犯罪者であったとしても、花瓶に凭れる薔薇のように、物憂げに踊る彼女に会いたかった。警察に突きだして、目立ちたいわけではない。彼女の罪を咎めたいわけでもない。ただ、誰かの幸福を踏み付けながら、光を浴びようとする肉体を、そばで感じたかった。





 店内に漂うスパイスの香りが、以前来たときよりも濃くなっているようだった。ステージがある空間は閑散として、脇に置かれた楽器が絵画のように固まっていた。伝票を数えていたトルコ人の店員に寄っていく。

「菜々子は今日、踊りますか?」

 彫りの深い目蓋を何回か瞬きさせていた。

「あ・・・今日はオドリマセン。他の人が踊りマス」

「レギュラーの日じゃないんですか?」

「あ・・・チョットまってください。マスター」

 ちらちらとカウンターのほうを見ながら話していた。顎鬚を生やした男性がこちらに気づくと、拭いていたグラスを置いて、段差を降りてきた。

「どうかしましたか?」

「あの・・・ベリーダンサーの菜々子は、踊らないんですか?」

「はい。彼女は一週間前にここのレギュラーを辞めました」

「え・・・?」

「辞めたって?」

 牛島が脇に並んだ。

「本人がここに言いに来たんですか?」

「はい。彼女の知り合いですか?」

 ステージを見ながら頷く。

「私も驚きましたよ。あれだけ、踊るのが好きだった彼女が急に辞めてしまうなんて」

「事情はわからないんですか?」

 食付くように聞いていた。

「そうですね。ここに居られなくなったって言ってましたけど」

「居られないって・・・」

 牛島は顔色を変えたまま、次の言葉を慎重に探しているようだった。カウンターのグラスに白熱灯の電球が反射している。綺麗で、ほうっとしていると、数カ月前に戻ってしまいそうだった。

「・・・菜々子はもうここでは踊らないんですか?」

「残念です・・・。彼女の踊る姿を見に来るお客さんもいましたからね」

 薄くなった後頭部をこちらに向ける。

「どうしていきなり?」

「先ほどもお伝えしたとおり、私には、詳細の事情を話してもらえませんでした。ただ、家の事情とだけ・・・」

 ゆっくりと言葉を探しているようだった。

「他のダンサーもイイ子がタクサンいます。今日オドル・・・レイコもすごいベテラン・・・ショウをとってるAIRAもオドル」

 トルコ人の青年が身振りを付けながら話していた。

「すみません。奈々子が見たいんです」

「・・・・・・」

 左腕の皮膚を抓る。

「彼女、菜々子さんの友達だったので・・・」

 牛島が手を軽く動かしながら彼に話していた。

「マスターは最後に踊ったのを見たんですか?」

「はい。このこじんまりした店内が、彼女の色になっていくのがわかるんですよね。人を惹きつける不思議な踊り子でしたよ。その分、影では妬みや虐めもあったんだと思います。私は多くのダンサーを見てきましたが、彼女は生まれる時代を間違えたようにも見えました」

 踵に体重をかける。筋肉が緩やかになり、しがみ付いていた精神がほろほろと抜けていった。欲しいものは何一つ手に入らないように思えた。

「菜々子は綺麗でしたか?」

「勿論」

 目が垂れ下がり、瞳が小さくなっていた。

「詳細を聞かせてもらえますか? 僕も彼女のファンで、ベリーダンスにも興味があるんですよ。前見たのが最後だって思いたくないんですよね」

「そうですか。そうゆうお客さんは何人目でしょうか」

「・・・・・・」

 俯いて、靴を軽く鳴らした。

「この店の雰囲気も素敵ですね。異国という感じで、ベリーダンスが良く合う」

 営業向けの笑みを浮かべながら、マスターに寄っていた。牛島の嘘は店内の音楽に溶けるように滑らかだった。マスターは牛島の話に乗っかるようにして、菜々子のことと、ある小説家の話をしていた。足が動きだし、大村が座っていた席に手を置く。ステージに敷かれた赤い絨毯の模様が広がっているように見えた。

 ステージから客席への、菜々子と大村の距離を鮮明に思い出せた。私が数年間、出勤しても残せなかった存在感は、彼女が居なくなった今でもステージに残っていた。魂を焦がした痕を感じるのだ。じくじくするほどの感性で濡れたままになっていた。



「これは何て食べ物ですか?」

 牛島が大皿に載った肉を受け取りながら質問していた。前菜のピクルスをテーブルの端に寄せる。

「鶏肉のケバブですよ」

「へぇ・・・、肉のいい匂いだね」

 マスターは大村が今日も来る筈だと話していた。ナプキンを膝に敷く。大村に会いたくなかったが、牛島の勢いに負けて、ステージ横の席に座っていた。なぜ帰りたいのか問われて、言葉を返すことができなかった。

「ありがとうございます」

 取り皿を渡した。

「本当に来ると思う?」

「・・・菜々子が踊らないからわからないですよね」

 大きなスプーンでケバブを掬う。

「せやね。ま、せっかくここまで来たんだし。ベリーダンスのショーが終わるくらいまでは待ってみようか」

 ステージの前は髪の長い女性で埋まっていた。奈々子が呼んでいたような、年配の男性はごっそりと居なくなっていた。

「ここは、貝塚さんとも来たことあるん?」

「はい」

 足首をくっつける。

「その子ってそんなに綺麗なん?」

「そうですよ。大村さんも貝塚さんも夢中になるくらいですから・・・」

「自分もそう思うん?」

 奥二重を開くようにして、こちら見ていた。口を閉じたまま頭を下げる。

「ずっと気になってたんやけど、大村さんのこと好きなん?」

 ビーンズをスプーンに載せる。

「いえ」

「じゃあ、貝塚さん?」

「違いますよ。二人とも既婚者じゃないですか」

 心音が凪いでいた。

「典正君? だって、誰か好きじゃなきゃ、ここまで首突まないやろ」

「まさか、未成年ですよ」

「へぇ、意外と理性が効くんやね。惚れっぽい性格なんやと思ってたんけどな」

 小さな前歯を見せる。

「どうしてそう思ったんですか?」

「何となく・・・必死な感じがしてね。ほら、女って自分の印象を良く見せて、男の印象に残りたがるやろ。居場所が無い女ならなおさら印象に残りたがる・・・悪いことじゃない、本能だと思うよ」

「私はそんなこと・・・」

 心を見透かされそうで、脈の流れが速くなった。頬の裏側が熱くなる。

「まぁね、最初は俺のことも気があるんかなと思ったわ。それは、勘違いか。ま、優奈さんはどっぷりはまろうとせず、こっそりと見たいって感じやもんな。一番性格悪いと思うで」

「・・・・・・」

「ん? ちょっと言い過ぎたわ。ごめんね」

 乾いた笑みを浮かべる。

「牛島さんは重たい話なのに、楽天的なんですね」

 コルクのコースターが水滴を吸い取っていた。

「せやな・・・」

 右の口角を引き攣るように上げた。ビールの泡が少しずつ弾けていく。

「どうして、こんなになってるんやろな。俺、昨日も仕事で一睡もしてないのに、全然眠くないわ」

「そうなんですか?」

「あぁ、記事が間に合わなくてね。正直仕事なんてしてる余裕も無いんやけどな」

 餅のような頬がチークを塗ったように染まっていた。

「貝塚さんって、犯罪に手を染めるような人ですか?」

「それがわかったらここには居ないわ」

「私、菜々子と貝塚さんから奥さんの殺害を仄めかすような言葉を聞いたんです」

「ほんまなん?」

 あまり驚いていないように見えた。

「本気で言っていたのかはわかりませんが・・・」

「でも、そうなんやったら貝塚さんが俺を巻き込む必要ない思う。何かあるんやろな」

 標準語が砕けていくと、思考がにじり寄ってくるように思えた。

「・・・そんなわけないとも言い切れないのは、何でやろね。貝塚さんから小説家になる夢を奪いとるのは酷やったと思うで。運も実力言うたらそうなんやけどな」

「・・・・・・」

「でも、大村さんだけやなく、この社会の流れから言うとしゃあない思うわ。俺は、大村さんや編集者を責められんわ。彼らやて生活がかかっとるん。今は本が売れないネット社会やからな。もしどんなに汚い手段であっても、本を売るためならしゃあないって思うわ」

 ジョッキをテーブルから離す。

「お金のための犠牲ですね」

「生活のための犠牲や。力負けしたいうことや」

「・・・・間違っていることなのに・・・」

「でもな、綺麗ごとばかりでいても、損することばかりやで。社会に出てよう身に染みてるやろ。しょうがないことも・・・」

 言葉を流しながら、すっと視線が後ろにいった。薄手のシャツを着た大村がマスターと話しているのが見えた。

「あ・・・」

「あれが、大村さんね。文庫本の帯写真より、歳を取っているように見えるな」

「・・・・・・」

 牛島の目が鋭くなっていく。大村の顔を見て、ほっとしていた。老いるわけでも、若くなるわけでもない、数か月前と変わらない風貌をしていたからだろうか。大村と連絡を取らなかった時間は長く、空白はあらゆる想像で埋めていた。膨らんでいたものが、カウンターに寄り掛かった大村の形に収まっていくのを感じた。


「君も来てたんだね」

 大村がマスターに案内されて、荷物を置いた椅子の前で止まった。笑うとほうれい線が見えなくなっていた。

「少しここ、いいかな」

「あ、はい。どうぞ」

 牛島が笑顔を作りながら、マスターに軽く会釈していた。

「彼は?」

 声を出す前に、牛島が話していた。

「初めまして。新聞記者の牛島です」

「・・・大村です」

「貝塚さんは御存知ですよね?」

「え・・・あぁ・・・まぁ・・・」

 眉間に一瞬だけ皺を寄せた。

「僕は彼の大学時代の後輩なんです。あ、特に何かを詮索しようとして来ているわけではなく、菜々子さんの踊る姿を見に来ただけですから」

 店員が大村の前に赤ワインのグラスを置いた。

「菜々子の?」

「貝塚さんからも、優奈さんからも、綺麗だって聞いていて。一度見てみたかったんですよ」

「そうか」

 ふと、口角が緩まったように見えた。グラスの中で赤ワインが回っている。

「残念だったね、菜々子はもうここでは踊らないよ」

「どうして?」

「今、彼女は東京には居ない。北海道に居るんだ」

「どうゆうことですか?」

 視線の先が、ステージの奥を見ているようだった。

「話せば長くなるよ。とりあえず、お酒を飲んでもいいかな」

 皺を伸ばした喉仏がどくどくと動く。傾けたワインの赤がグラスの中に一筋の流れを作っていた。

「お酒は大事だからね」

 ふうっと息を吐いて、背凭れから離れた。

「じゃあ、まず何を聞きたいかな? 君たち探偵みたいなこと、してるんだろう? マスターから聞いたよ」

「じゃあ、話は早いです」

 箸を置いて手を組んでいた。

「貴方は奥さんを殺したんですか?」

 じゃれるように頬を持ち上げながらグラスを抓んだ。牛島が少し身体を引くと、お腹の膨らみから緊張しているのが伝わってきた。

「いいや」

「じゃあ、何で急に亡くなったんですか?」

 口の中で呟くように言った。

「君が色んな人に、色々なことを話していたんだね」

「・・・・・・」

 目蓋を重くしてこちらを見る。

「そもそも君に嘘を付いていたんだよ。妻が死んだって」

「え・・・?」

「驚いたかい?」

 背中がぶわっと冷たくなる。首の後ろから全身に血液の流れる音がした。

「妻は死んでなんかいない。生きてるよ。家に住んでる」

「それは・・・本当のことなんですか?」

「あぁ、そうだよ」

 拠れた手の皮膚を撫でると、指輪が見えた。

「だって・・・典正君は? 死んだって言ってましたけど」

「あぁ、息子にはね、『母さんは死んだっていいなさい』って言ってあったんだよ。もし、誰かにばれれば、本当に母さんは死んでしまうかもしれないって言ってね。確かにあの子は俺に懐いていなかったけど、『死』という言葉に驚いたのか、反発はしなかったよ。奈々子に会ったときでさえ、憎しみを押し込んで我慢していた。でも、しょうがない。本当に妻のためだったんだから」

 テーブル上の蝋燭に、一滴の蝋が垂れていた。

「貝塚と菜々子は、妻を殺そうとしていたんだろう?」

「・・・・・・」

 視線がナイフのように尖っていた。

「恨みを代われることは多くてね。正直、小説を引用したのは貝塚だけじゃない。名前すら覚えていない人もいる。若いときは、自分の世界を伝えるよりも、世に広まるような作品を残すほうが大事だったからね」

「・・・・・・」

「でも、本気で殺意を表してきたのは貝塚が初めてだったよ。大抵は夢を砕かれて、立ち向かう気力すらなくなるから。そういえば、君も文章を書く記者だったね?」

「はい」

 牛島に取り分けたバケットが、手を付けないままになっていた。

「俺を否定するかい?」

「・・・いえ、そのことに関しては、僕は責めるつもりはありません」

「そうか・・・」

 チーズにフォークを刺す。

「二人の繋がりを知ってたんですか?」

「勿論。奈々子は素直な子だからね、隠そうとしても表情で大体のことはわかる」

 片手でデカンタからワインを注いでいた。

「俺はね、菜々子に罪を犯してほしくない。妻は菜々子の存在を知っていたから、何も聞かずに言う通り身を隠していてくれた。俺が彼女のことを思って行動してくれたって、泣きだしたよ。ただの屑だった俺に、ありがとうって声を掛けてくれる、馬鹿な妻だよな」

「・・・菜々子を騙したんですか?」

 胃から出た声が細くなっていく。

「あぁ。騙されていたのは君と菜々子だよ」

「・・じゃあ、私が・・・・」

 喉が詰まった。

「どこまでが、嘘で、どこまでが本当ですか?」

「事実に付随しない真実はない」

 デカンタの注ぎ口にワインの跡が残る。

「君は思い通りに動いてくれたよ。悪いね。利用してしまって。でも、君は利用されてもいいって言ってたじゃないか」

 霧が薄らいで、一本の線が浮かび上がった。

「・・・初めて会ったときから考えていたんですか?」

「そうだ。初めて君を見たときから、この構想を練っていた。君のように現実に根を下ろさずネットやSNSで動くような・・・どこまでも足を付けずに、歩いている女性を探していた。小説を書くときのように、プロットを作って・・・反応によっては幾つかのルートを用意していたが、大きく道を外れることなく動いてくれたよ。ま、彼が来るのは予想外だったけどね」

「・・・・・・」

「でも、いいか。もう、全部終わったことだから」

 牛島が腕を組んで目を座らせていた。あぁ・・・。なぜか、年配の男性に騙されるのは初めてではないような気がしていた。

「・・・どうして、そんな残酷なことを・・・。奈々子は貴方を信じて・・・」

 目の窪みからじわじわ熱が帯びていった。

「確かに愛してるよ。妻よりも・・・否、あらゆる女性の中で一番愛してる」

「じゃあ、どうして?」

「君はやっぱり優しいね」

 胸の間を押されるようだった。優しいわけではないのだ。大村はグラスを置いた後、少し俯いていた。

「妻は捨てられないんだ。こんな俺でも受け止めてくれる。いい歳して若い子を追いかけていても、小説のためだからって、どうしようもない言い訳を全て信じてるんだ。愛する息子が何度離婚を懇願しても、絶対に譲らないんだよ」

「菜々子だって」

 脳の血管が張るのがわかった。

「・・・菜々子は大村さんのために踊って、同年代の子が味わうような楽しい時間を捨ててまで、大村さんに尽くそうとしてる。どうして、他の女のための嘘を付けるんですか?」

「家庭を持ってみればわかる。長年、歩んできた道を振り返ると、非常にはなりきれないんだよ。愛人は愛人だ。妻にはなれない」

「・・・・・・」

「典正のこともある・・・」

「典正君・・・」

 手の甲の皺を摩っていた。

「妻から生まれたのに、俺にそっくりだよな。典正はね、俺のことを嫌ってるけど、親はそんなの関係ないんだよ。まだ小さかったときの典正を覚えてる。手を握り返してくれたこと、幼稚園で絵を描いてくれたこと、読書感想文で賞をとったこともね」

「今更そんな綺麗ごとを・・・よくもそんな・・・」

 グラスに爪を立てる。

「・・・菜々子は小説を書く俺が好きなんだよ。小説を書かない俺は、ただのおじさんだ。君もだろう?」

「そうですね」

 息を吸い込む。肺が濁って、咽そうになった。

「感情論はそこまでにして、幾つか質問に答えてもらえますか?」

「あぁいいよ。君は探偵みたいだね」

「ありがとうございます。記者ですけどね」

「・・・・・・」

 少し触れただけで空気が弾けてしまいそうだった。子供のように目を輝かせて、赤ワインを揺らしている。

「貴方は今日も嘘を付いていますか?」

「否、今日は付いてないよ。もう、付く必要がないからね」

 背凭れに寄り掛かる。

「じゃあ、菜々子さんは今北海道に居るっていうのは?」

「本当だよ」

「何で?」

「俺に騙されたからだよ。北海道で彼女にいい場所を見つけたんだ。水商売ができて、踊れるところだよ。いつか一緒に住もうって言った。このまま頃合いを見て、音信不通にするつもりだよ。その間に家を引っ越して・・・」

「逃げるってことですね」

「そうだ。逃げたかったんだ。もう、二度と彼女を愛さないように」

 髪を掻き上げて、獣を睨む。

「私が、菜々子に告げ口するかもしれませんよ? 大村さんが逃げる前に。そしたら、奥さんをもう一度・・・」

「君にも俺に殺意があったのかい?」

 スカートの皺を掴む。

「もしやろうとしても、遅いよ・・・俺が伝えるってことは、もう計画が完遂するところだからだよ」

「・・・・・・」

 指輪を擦っていた。

「・・・大村さんは菜々子に水商売から足を洗ってもらいたかったんじゃないんですか?」

「最初はそう思ってたよ」

「・・・・・・」

「でも、菜々子はね、根っからの水商売の女なんだ。男に愛想を振りまいて、恋だの愛だのを引っ掻き回してご飯を食べていくしかない・・・。彼女もそれが幸せなんだよ。何度も現実世界に戻してやろうと思っけど、世間体に当てはめようとするほうが可愛そうだった」

 どんな言葉も曇っているように感じられた。

「俺も書けなければ、彼女に群がる大勢の中の一人だよ」

 背を丸くして、御手拭を端に寄せていた。

「ついこの間、菜々子と家に居たんですよね?」

「あぁ、丁度君と電話したときだね」

「あの時、奥さんはどこに居たんですか? 菜々子を書斎にまで入れて・・・書斎は家族ですら入れたことがないって、典正君から聞きました」

「さっきも言ったように、身を隠していた。このことは、近所や親しい友人には里帰りだと話していた。死んだと思っていたのは、菜々子に関わっていた人のみだ」

 ガベーラを羽織ったベリーダンサーがカーテンの中へ入っていくのが見えた。

「いつから貝塚さんと菜々子さんのことに気づいていたんですか?」

「それはどうゆう意味かな? 二人の関係にいつ気づいていたかって?」

「二人が奥さんを殺そうと計画していたことに、いつから気づいていたんですか?」

 声を潜めながら語気を強くした。

「菜々子と貝塚のLINEを見てね・・・そうだな、今年の春くらいかな。君と会う二か月くらい前だよ」

「LINEって・・・わからないんじゃなかったんですか?」

「やらないだけだよ。使い方は知ってる。奈々子はできないと勘違いしていたみたいだけどね。奈々子が席を外した隙に、何気なく開いてしまったんだ」

 言葉を選んでいるのがわかった。

「具体的なことは書いてあったんですか?」

「あぁ、最初は冗談で言っているのかと思っていたが、一週間後に見ると、じわじわと話が具体化していくのがわかった。彼女の心理を知ったときは、鳥肌が立ったよ。嬉しい反面、恐ろしくもなった。勿論、菜々子との将来も考えたよ。どうすれば、菜々子と居られるのか、あらゆる方法を考えたが・・・あと一歩のところで、全てを欲望に任せられなかった」

 デカンタを傾けると、グラスの底に赤色が溜まっていく。

「正気に戻った俺は、妻を一時的に死んだことにしようと考えついたんだ。奈々子を通して繋がっている人は、現実の人が関わっていない分、情報をコントロールしやすかった」

「私を典正君と会わせたのも・・・」

「君たちを信じ込ませるためだよ。奈々子が完全に俺を信じて、遠くに行くまでの手段だった」

 ストローに付いた口紅を拭う。

「何で警察に言わなかったんですか? 警察を挟めばよかったんじゃないんですか?」

「愛する人を、罪人にしたくないだろう?」

 皿に置いたフォークがカタカタ揺れていた。魂からは這い出た声を聞いているようだった。

「本当に生きてるんですね?」

 長く視線を下げた。

「あぁ、昨日まで息子と二人で旅行に行ってたけどね。今日は帰ってきてるよ」

「俺には信じられませんね。どこまでが本当で、どこまでが嘘なのか・・・」

 牛島が大村をじっと見たまま、ジョッキを持った。

「そうか」

 力なく笑っていた。

「じゃあ、家に明日、家に来てみるかい?」

「・・・家?」

「来週には引っ越してしまうからね、存分に捜索してみるといい。新作の小説も、数ページなら読ませてあげるよ。久しぶりにいいのが書けそうなんだ」

「じゃあ、是非」

 視線を流す。

「菜々子が居なきゃ、小説が書けないんじゃなかったんですか?」

「余生困らないほど、もう焼き付いてるよ。それほど、濃厚な時間だった」

 音楽が切り替わり、拍手が波のように大きくなっていく。ベールを靡かせてステージに上がるダンサーが見えた。

「・・・・・・」

 牛島が何か話していたが、切れの悪い手拍子に掻き消されていた。大村がグラスを置いて、背筋を伸ばす。

「ここのダンサーは美人ですね。奈々子が居なくても・・・いいのかも・・・」

 言いながら、自分の言葉じゃないように感じられた。百合のようなシルクのベールが、ステージを生温く染めていく。

「・・あぁそうか・・・・菜々子じゃないんだよな・・・」

「・・・・・・」

「もう一度・・・」

 もったりとした髪を持ち上げて首筋を見せた。金色のピアスにライトが反射して、じゃらじゃら動いている。アルコールの入った声は、誰の声かもわからないまま、薄い熱気に紛れていった。




 老いた男性の愛情は、咲き始めた花の時間を、汚すわけではなく、しっとりと奪っていたように思えた。『愛人』という呼び名を気に入っていた菜々子は、大村の行動を読めていたのだろうか。牛島は大村のことを責めなかった。一時の幸福より、積み重ねた安らぎを取ることは、人間らしいと言っていた。

「十中八九本当のことや思うけど、大村の家行ってみる?」

「私は・・・いいです」

 典正のことがちらついた。乳房を掴む掌と、耳に掛かる息の感覚が残っていた。

「ほんま? せっかくなんやし、行ったらええのに」

「菜々子のことがあるので・・・」

「・・・そうやわな」

 吊革を持ちながら、ガラスに映る自分の姿を眺めていた。向かい側に座っていたサラリーマンが目を瞑ったまま左右に揺れていた。

「俺は行ってくるわ。ベストセラー作家の家がどんなんか見てみたい気もするしな」

「ベストセラー・・・」

「あんま小説読まんのやもんな。一応有名な小説家なんやで。学生の頃から、よう読んどったわ。推理小説も好きなんやけど、初期の純文学よりの短編が・・・何て言うか儚くてええんや」

「そうなんですか?」

「言わなかったっけ? 俺、大村先生の愛読者なんやで」

 小さな前歯を見せる。

「まぁ、何かあったら報告するな」

「はい・・・」

 吊革に体重を掛ける。

「まだ、菜々子に会うまでは、信じられないんです」

「せやねんな。でも、ほぼ確定や思うわ。貝塚さんの話と大村さんの話を客観的に見て、筋が通るし・・・」

「そうですね・・・」

 心がざわめいたまま浮かんで、落ちる場所を見失っていた。

「貝塚さんは、菜々子と居ると思いますか?」

「せやな。仕事があるから、現実的に考えて長い時間は居られないだろうけど、一緒に北海道に居る可能性もあるね」

「そうですか」

「菜々子さんには連絡取れんの?」

 携帯の画面を明るくする。

「先週送ったメールが返ってきません。電話にも出ないので・・・」

「もう連絡する気ないかもしれんな」

「・・・・・・」

 画面に付いた指紋を擦る。

「じゃあ、俺が貝塚さんにメールしてみるわ」

「お願いします」

 田町駅に着くと、京浜東北線の電車から人が出てくるのが見えた。人が降りていき、車内が少し涼しくなった。

「色々と、ありがとうございました」

「ん?」

「私一人だったら、大村さんに会う勇気が無かった・・・。もう、何も知らないままだったかもしれません」

「会ったのがほんまに良かったとは限らない」

「・・・・・・」

「正直、知らんほうが平和やったかもよ。事件が起きていたわけではないし、このまま大村とも菜々子さんとも音信不通になったほうが、綺麗だったかもしれんよ。まぁ、もう遅いんやけど」

 扇風機の微風が額にあたる。

「菜々子さんに会いたい思うん?」

「そうですね・・・でも、もうどちらにしろ会えないのかもしれません」

「せやな」

 車窓越しに目が合った。

「菜々子さんが怖いと思ったことはないん?」

「無い・・・のかもしれません」

「へぇ・・・」

 愛に触れたばかりの女は、無防備で、危うげだった。でも、溢れ出す感情のまま動く彼女は儚げで、怖くは無かった。

「俺は怖いと思うわ」

「そうですか?」

「貝塚さんも菜々子さんも、異常やで。俺は今回のことでほっとしてるんや。貝塚さんがようわからん女のために、人生を駄目にすることも無いようなんでな」

 口元を小さくする。

「貝塚さんの婚約者は、俺の大学の同期なんや。可愛い子でな、ほんのちょっとだけ好きになったときもあったで。でも、彼女、昔から貝塚さんのこと大好きやったん。同じ講義取って隣の席に座ったり、学祭に誘ったり、駆け引きみたいな甘酸っぱいことも、たくさんしとったわ。ちょっと、俺にも気があったんかな? とか・・・最終的には遠くから見てるだけっちゅうな」

「錆びついた縁・・・ですか・・・?」

「せや。縁は錆びてもな、不思議と思い出は綺麗なんや」

 少年のようにはにかんでいた。

「社会人になってから、汚いモノばかり見ておるん、過去くらい綺麗にしときたいやろ?」

「・・・・・・」

 吊革を前に出す。電車がカーブに差し掛かり、ふっと身体がよろけた。私も異常だと言い切らない牛島さんは優しいと思った。相手を思う純粋な出来事が雪のように降り注ぎ、いつのまにか溶けない支えができたときに、愛のような感情に気づくのだろうか。





 4


 白い景色が続いている。厚い雲を見上げると、雪がちらちらと舞いながら落ちてきた。風が吹くと、耳と頬がひりひりした。空気を飲み込む。肺が冷たい空気で満たされて、精神が少しずつ清らかになっていった。凍った歩道は車のタイヤに研がれて、足の裏に力を入れなければ転んでしまいそうだった。時計塔の前で立ち止まり、手袋を脱いで、携帯の画面を開く。札幌は道路と建物が広いため、東京の地図よりも見やすかった。

 職場に三日間休暇を貰いたいことを告げると、すんなりと了承してくれた。沢口は嫌な顔をしていたが、何も言ってこなかった。三日間席を外すことによって、特に引き継ぐことも無く、困ることと言えば、ただシュレッダーしなければいけない紙が積もることくらいだろうと思った。残り少ない有給休暇を使うのは辛かったが、今、行かなければいけなかった。

 時計塔の前の木が雪を落とした。ぼんやりとした信号が点滅している。

「もしもし」

『菜々子さん、今、時計塔前の信号機のあたりに居る?』

「はい」

『やっぱり。俺、北海道新聞社の前に居るんだけどわかる?』

 黒いコートを羽織った貝塚が、手を振っているのが見えた。

「わかりました」

『信号が青になったらそっちに行く』

 携帯を切って、天を仰ぐ。睫毛に小さな雪が付いた。東京では感じたことの無い爪だ差だった。


「雪、結構降って来たね。傘ある?」

「折りたたみ傘があります」

 バッグの底から折りたたみ傘を取り出す。貝塚がビニール傘を空に向けて開いていた。

「ご無沙汰ですね」

 顎に少し髭を生やしていた。

「あぁ、よくここまで来てくれたね」

「自分でも驚いています。一人で飛行機に乗るのは初めてだったので、緊張しましたよ」

「北海道は初めて?」

「いえ、新人の頃、出張で・・・」

 大きく空気を吸い込むと、肺が透き通っていく。

「でも、よく見渡すと綺麗だったんですね。こんなに真っ白な景色、ネットでしか見たことありませんでした。本当に冷凍庫みたいに冷たいんですね」

「そうか」

 傘を広げる。

「菜々子が喜ぶよ」

「そうだったらいいんですけど・・・」

「大丈夫、来るって言ってあるから」

 息が白く濁って消えていく。

 牛島が大村の家に行くと、背の低い奥さんが玄関で迎えてくれたと言っていた。くしゃくしゃの笑みを浮かべて花柄のカップに紅茶を注ぎ、指には細い指輪がはめられていた。大村が言っていることは全て真実だと確信した。最新作だと見せてもらった原稿には、筆を撫でるように描写された菜々子の姿が残ったままだった話していた。

「どれくらいの頻度でここに来てるんですか?」

「さすがに仕事があるからね、お金もかかるし。今回で三回目くらいだよ」

「三回も来てるんですね・・・」

 欲望が絡まっているように見えるのは、自分の心が汚れているからなのだろうか。

「否・・・月二回は来たいくらいだよ。奈々子が心配でね」

「心配・・・」

 信号機に氷柱が下がっていた。支えようとする手が途絶えない菜々子は幸せだと思う。自分が同じ立場でも、貝塚も菜々子も遠い北の地まで来てくれないだろう。

「いつまで、ここに居るんですか?」

「来週の月曜日に戻るつもりだよ」

「ご家庭があるのに、奥さんがよく許してますね」

 赤くなった手に指輪が付いていた。

「小説の取材って言ってるんだ。でも、もしかしたら何か勘付いてるのかもしれないけどね」

「女の勘は鋭いですから」

「俺は大村みたいに小説で稼いでないしね、いつ捨てられても可笑しくないよ。ほんの少しの夢を見にここに来てるだけだ」

 水溜りを跨ぐ。車がタイヤをスリップさせながら発進していた。

「・・・聞いただろう? 牛島も彼女が好きだったんだ」

「はい」

「牛島と結婚したほうがよかったのにな」

 曇った息を吐く。

「私もそう思いますよ」

「はっきり言うね」

 短い前髪が濡れている。

「当たり前ですよ。他の女を気にかけてる男より、一途な牛島さんがいいに決まってるじゃないですか」

「そうだよな・・・でも、俺もいつか奴みたいに、菜々子の前から居なくなるんだろうな・・・。小説家を諦めきれたら、大村が裏切ったように、現実を見るときが来るんだよ」

「・・・・・・」

 ブーツの爪先が冷たくなっていく。貝塚が空に向かって、「あぁ」と長い溜息を付いた。

「本当にやられたよな」

「そうで・・・・・・」

 私が言おうとしていたことは、スリップした車の音に消えていった。貝塚がこちらを見ずに話を続けていた。

「初めから何も起こっていなかったなんて・・・未だに信じられないよ。思うとおりに動いていたことは、何一つなかった。抵抗する前から、完全に負けてたんだな」

「・・・・・・」

「何もかも、負けてばっかたよ」 

 口角を上げて笑みを作っていた。ステージを見つめる大村の表情を思い出す限り、大村が勝ったのかは、わからなかった。コートの裏側に貼ったホッカイロを少し浮かせて、熱を逃がす。木に積もった雪が、風に巻き上がっていた。

「まだ・・・菜々子のこと大事ですか?」

「あぁ」

「よかった」

 ビルが遠くなると、風が強くなった。凍てつくような空気を、鼻から吸い込む。

 菜々子は私のメールにも、電話にも応えることはなかった。大村に騙されたことがわかっても、『大村さんを何年でも待つ』と言って聞かなかったらしい。大村が懸念していたように、家に行くことも、奥さんに報復しようとすることもなかった。周りに男が居ないわけではなかったが、クラブの客と変わらない、寂しいときだけ会う関係らしい。二人で暮らすと吹き込まれた地に、将来の思いを馳せながら、時が止まったように過ごしていると聞いていた。




 マフラーの水滴を払って、畳んだコートの上に載せた。店内は温かく、引き締まっていた頬に暖房の風があたった。

「ショーは何時からですか?」

 貝塚がレジに居た店員に声を掛けた。

「七時からですよ」

「あと一時間か・・・」

 時計を見ながら、店内を見渡していた。

「あの・・・菜々子さんと待ち合わせなんですけど・・・」

「あぁ、聞いてるよ」

 白髪の混じった髭を触っていた。

「ご案内します」

 席と席のスペースも、ステージも広々としていた。壁には絵画や布が下がっている。

「はるばる東京から来たんだってね。奈々子さんに会いに?」

「はい」

「なまら上手だもんね。北海道寒いべ?」

 色白の肌をくしゃっとした。

「そうですね。雪が降ってて驚きました」

「そりゃ、そうだべな。俺らでも寒いかんな」

 水のようなベールを肩から掛けた菜々子が、ステージ前の席に座っていた。栗色の髪はくるくるとウェーブが掛かっていて、長い爪を添えながら携帯の画面をスライドさせていた。

「菜々子さん、お友達」

「菜々子・・・」

 こちらを見上げる。こめかみまで引いたアイラインに、紫のアイシャドウが艶めいていた。ベールが透けて、オレンジの衣装が見える。肩周りが少しだけ、細くなったような気がした。

「久しぶりね」

 濡れた唇を動かす。

「やっと会えた・・・よかった、元気そうで・・・」

 貝塚が目を合わせると、店員に声を掛けて、メニューを持ったままカウンターのほうへ歩いていった。

「元気よ。大袈裟ね」

 片耳を上げる。足を組み直すと、高いピンヒールが見えた。

「心配してたの」

「大村さんに騙されてたからおかしくなったと思った?」

「・・・・・・」

「私はそんなに軟じゃないわ」 

 椅子を引いて、腰を下ろす。

「どうして電話も、メールも無視してたの?」

「したくなかったから」

「友達でしょう? 心配するよ」

「優奈は大村さんが悪いって言うんだから。私は大村さんの言ったことだけを信じたいの」

 縁取った目を尖らせる。

「私、大村さんの言ったこと、全部が嘘だと思ってないの」

「うん・・・」

 つけ睫毛に付いたラインストーンが光った。

「本当のこともあったわ。貝塚さんは否定するけどね」

「うん、そうね」

 真っ赤なマニキュアがグラスに映る。

「髪、染めたんだね」

「そう。似合うでしょう?」

 髪の束を手で持ち上げて見せる。掌を斜めにすると、腕を伝いながら落ちていった。

「そっちのほうがいい」

「ありがと」

 ステージ横で調整しているライトにあたって、右側だけ一層、明るく見えた。

「水商売やってるの?」

「ん」

 唇に指が触れる。

「・・・そうよ、ススキノのクラブで働きながら、たまに色々なところで踊らせてもらってる。こっちのお客さんのほうが、情があって楽かな」

「どんな風に?」

「お金で物を言わせようとしないところかな。向こうの人は店で高いお金を払ったり、プレゼントを買ってきたりしながら、すぐセックスに持ち込もうとするけど、こっちの人はそんなことしないから」

 ベールがほんの少し肩から肌蹴た。数カ月しか経っていないのに、少女の面影が薄らいでいるように思えた。

「そっか。よかった」

「菜々子は?」

「新しい職場は大変だけど、慣れてきた」

「ふうん」

 爪を触りながら話していた。

「セクハラは?」

「もうない」

「ふうん。よかったわね」

 身の無い声だった。奈々子は狂っているのだろう。黒い瞳はこちらを向いていたが、心は近い場所には無かった。

「ねぇ」

 灰皿の角を触る。

「菜々子って、夢を全部叶えてきた人?」

「え?」

「私は、ほとんど駄目だった人だから・・・」

 砕けたように笑う。

「これからもね、叶わないことがあっても・・・すぐに諦めが付くと思うの。受け入れるっていうのかな、しょうがないなって思う」

 店員が差し出したおしぼりを受け取る。

「菜々子はどう?」

「私は・・・あまり強く願ったことはない・・・何となく上手くやってたから・・・。幸い、私は美人に生まれたから、男に苦労しないし」

 おしぼりを広げて、固まっていた手を温める。

「どんなに強く願っても、叶わないことってあるんだよ」

「やっぱりそれを言いに来たのね・・・・・・」

 焦点を合わせてこちらを睨みつける。

「私は貴女と違うわ。そんな貧弱な女じゃない。欲しいものは手に入れるの」

 目を細めてこちらを見降ろした。

「ねぇ、菜々子だけじゃない・・・、みんな叶わないことの一つや二つ持ってる」

「もし、そうだとしても、信じないわ。きっと、大村さんは来てくれる。だって、札幌に住むアパートを用意してくれたんだもん。敷金も礼金も払ってくれた。ここに来たら、もうずっと一緒だって言ってたんだから」

「来ないわ」

「どうしてそう言い切れるの? 優奈なんか、大村さんの何を知ってるっていうの? 私のほうがずっとそばに居たんだから・・・」

 声が刺すように痛かった。

「わかるよ」

「どうして?」

「大村さんも叶わないことを持ってるから・・・」

「・・・・・・」

「菜々子だけじゃないの。私も・・・たくさん持ってる」

 額に掛かっていた髪を後ろに流して、シャンパンに口を付ける。装飾品が、白い鎖骨を隠しているようだった。

「まだ、大村さんの奥さんを恨んでる?」

「そうね・・・」

 ステージのほうを向きながら呟く。

「彼女を殺しに行く?」

「ふん、どうして優奈がそんなこと言うの?」

 髪を絡めて頬杖を付く。

「私も、殺したいほど憎いの」

「どうして・・・・・・?」

「何か特別なものがあるわけじゃないのに、女性として、妻として、母として、全部手に入れながら、ただ守られて過ごしていることが憎い。本当に、ずるいよね・・・」

「優奈・・・・・・」

 いつから私は壊れてしまったのだろう。否、ずっと前から亀裂が走っていたのを、隠していたのだ。脆い理性で繋いでいただけだった。核にある自分は、いつも不幸を貪る悪魔だったのだ。

「全部壊してしまいたいの。当たり前のように利用することしか考えていなかった大村さんも、セックスしようとした典正君も、大村に守られてる奥さんも嫌い。みんな、めちゃくちゃにしてしまいたい。あのまま、何もなく生きていくなんて・・・」

 私の言葉はどこまで菜々子に合わせているのだろう。どこから自分のものなのだろう。

「・・・・・・」

 軽く息を切らしながら、振動していた心が収まっていった。研がれた刃が、暗闇の中で光っているようだった。

「いいや」

「・・・そっか」

 静寂が落ちる。長く睫毛を下げていた。

「・・・踊ってから話そっか」

「ん・・・・・・」

 澄んだ瞳が水を溜めているように見えた。深呼吸をすると、頬が温かくなり、目の奥がゆらゆらしていた。どこかで見たようなベリーダンサーが、剣を持ったまま、貝塚と話をしている。冷たくなったおしぼりを置いた。

 言葉は交わさなかった。奈々子の髪から、ジャスミンのような香りがする。衣装に触れる剣を眺めながら、大村も、貝塚も、このままずっと、ここに来なければいいと思っていた。




 舞台に立つと菜々子は遠くなった。ベールがライトを遮り、露出した肉体を滑り降りる。音を拾うようにして回ると、衣装が羽のように広がっていった。ステージの中心に立つ。小さな布からはみ出した乳房で、光を受け止めていた。魂が見えるようだった。身体を震わせながら、女性としての性を燃やし尽くし、このまま見ていると塵になってしまいそうだった。


 肉体をうねらせながら、ぽつぽつ空いた客席を見渡す。誰も居ないカウンター席を見つめて髪を掻き上げると、気怠く微笑んでいた。



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