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赤い踊り子  作者: ゆき


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赤い踊り子 前

昔書いた小説なので平成色が濃くなっています。

  1


「その書類、コピー20部とっといてもらえる?」

 隅田が鞄を肩に掛けながら、こちらにペンを向けた。

「すぐに持って行きますか?」

「いや、帰る前に俺の机の上にあげといて」

「わかりました」

 色の付いたA3用紙の枚数を数える。

「隅田、そろそろ出れる?」

「はい、すぐに行きます。じゃあ、日比野さん、あとお願いね。取引先から電話あったらメモ残しておいて」

「はい」

 中尾課長が敷居から顔を出すと、時計を見て、慌てて駆け出していった。社報を読んでいた長谷が、眼鏡をずらしてホワイトボードを眺めている。立ち上がりながら欠伸を堪えて、自動販売機の横のコピー機に向かう。シュレッダーから紙屑が零れていたが、見て見ぬふりをして、紙をセットした。コピー機の節電ボタンを押すと、掌に小さな明かりが灯る。

 会議室からプロジェクターの光が漏れていた。新卒で入った二年目の社員が、ホワイトボードで何か説明しながら、先輩社員に指摘を貰っているのが見える。時折、軽やかな笑い声が聞こえた。透明な窓の向こうが、遠いものに感じられる。

「あ、日比野さん、クリアファイル無くなってたから発注してもらえる?」

 スーツを着た年配の女性が通りすがりに話しかけてきた。

「わかりました」

 コピー機が音を立てて、淡々と紙を吐き出していた。時計を眺めると、十一時半を指している。今年入社した社員は研修課題が多く夜遅くまで残っているらしかったが、私は特別な仕事が無いので定時で上がれるのだろう。

 新卒で入った会社で、上司からのセクハラを受け、一年目で退職した。なぜ自分が辞めるよう追い込まれたのかはわからなかったが、小さな会社だったので、案件を受注できる上司を残したかったのだと思う。辞めた後、派遣会社を転々とし、この会社に入って三年目になる。電話を取ったり、来客にお茶を持って行ったり、簡単な事務作業ばかりなので、きっと私である必要はないのだろう。簡単な引き継ぎさえできれば、三日後にでも代わりの子ができるような気がした。

 紙の束を机に並べる。クリップをじゃらじゃらと落として椅子に座った。コピー室前の電気は省エネのため暗かったので、社員の席がよく見える。給料は一年目と変わらなかった。きっと、今レビューしている二年目の社員よりも低いのだろう。

「日比野さん、今日ご飯どうする?」

「ん?」

 同じ事務の新井が茶色の髪をふわふわさせてきた。紙に指を乗せると、ジルスチュアートの香水の香りがした。

「何の資料? あ、先週取った営業の案件ね。中橋さんが話してた」

 睫毛を大きく広げていた。

「あたし、お弁当作ってきたの。食堂混んでるから、今日は中で食べない?」

「いいよ。私もコンビニで買ってきたし」

「じゃあ、増田さんたちにもメールしておく」

 紙を揃えてクリップで留めていく。ピンヒールを履いて、若い男性社員に話しかける新井が視界に入った。可愛らしいからだろうか。年下には見えないほど、活き活きと仕事をしているように見えた。



 コンビニの袋から、サンドイッチを取り出す。他の部署の増田と本城が、社員の悪口を言いながら席に付いた。

「ちょっと、最近入った新人の子、中橋さんにばっか話しかけるんだよ」

「え、面倒くさ」

 新井がお弁当の蓋を取りながら、眉を寄せていた。

「あの子、スカート短いしさ。今日の服なんて見た? 何か、社員目当てなのが見え見えだよね。別に好きにやってくれて構わないけどさ、見苦しいって言うか」

「あの子に話しかけられたら社員も迷惑でしょ」

 増田と本城の掛け合いに便乗するようにして、意地の悪い笑いが漏れた。

「そうよね」

 首を丸くしてお弁当を覗き込む。

「新井さん、そのお弁当、自分で作ったの?」

「ん、まぁね。昨日の余り物だよ」

 肉じゃがとミートボールとミニトマトが見えた。

「彼が肉食べたいって言うからさ、もう肉ばっかだよ」

「そういえば、彼とどうなの? 喧嘩したって言ってたじゃん」

「仲直りしたよ。まぁ、私の勘違いだったっていうか」

 お茶で口の中を流し込む。サンドイッチの味があまりしなかった。

「ねぇ、日比野さんは?」

「え?」

 増田がカップスープを置いて、身を乗り出した。シミの付いた頬に、手を添える。薬指の指輪が軽く眼鏡に触れていた。

「最近どうなの? 好きな人とか居ないの?」

「いえ、私は何も居ないですよ。ずっと淡々としてる感じです」

「若いうちに行動していった方がいいよ。私も日比野さんと同い年で、旦那がいなければ遊んでるもん」

「三十代になると、一気に変わるからね」

「そうだよね」

 増田と本城が頷きながら話していた。

「日比野さんももっと服とか華やかにしたら? この会社緩いから、ある程度は大丈夫だと思うよ」

「まぁ、新人の子ほどまでいかなければね」

「日比野さんが、そんなことするわけないじゃん。ね?」

 合わせるような笑顔を作りながら頷いた。

「そりゃそうだよね」

「あぁなる前に気づくよね。うちの旦那なら、絶対生理的に無理だと思う。そばに寄っただけで、手とか振り払いそうだもん」

「うちも」

ペットボトルのキャップを回す。増田と本城は結婚していたが、新人が社員の男性と話すことに敏感だった。

「私だったらどんな服が似合いそうですか?」

「そうねぇ?」

 増田がピンクのネイルを口元に持っていった。

「新井さんが昨日着てた服みたいなのいいんじゃない? ふんわりして可愛い感じじゃん。外に出るときはストール巻いたりして」

「あぁ、確かに」

 新井がサランラップから梨を取り出していた。

「でも私じゃ着こなせないかな」

「そんなことないって」

へらへらと話を合わせる。精神が張り詰めて、昼食を食べている感覚がなかった。単独で行動したかったが、仕事上、彼女たちに聞かなければいけないことも多いため、機嫌を損ねるわけにはいかなかった。

首にぶら下げたセキュリティカードの紐を、指に絡める。昨日も今日も変わらなかった。週末を追いかけていくうちに、時間が経っていくのだろう。



「日比野さん」

「ん?」

 新井が携帯を振りながら小走りで来た。

「今帰り?」

「うん」

「じゃあ、途中まで一緒に帰ろ」

 セキュリティカードをバッグに入れる。コンビニの袋を持った男の人が、降りたばかりのエレベーターに乗り込んでいった。自動ドアの前に居た警備員に頭を下げる。

「ねぇ、今度の土曜日にフェイスブックで知り合った人とパーティみたいなのがあるの。行くはずだった友達が急に行けなくなっちゃって」

サマンサタバサのバッグを肩に掛けていた。携帯の画面をスクロールしながらこちらを向く。

「日比野さん、よかったら行かない」

「ん、多分大丈夫だよ。いつも暇だし」

 一瞬迷ったが、断る理由が見つからなかった。

「よかった、ありがとう」

「パーティってどんなの?」

「出会いの場って感じかな。街コンほど大きくないけど、お酒飲んで色んな職業の人と話すって感じ。男性は会社の社長とかが多いのかな、後は資産家の息子とか、そうゆう人を集めてるみたいだよ。女性は二十代の子って限定されてるの」

「へぇ」

 ギラギラした爪がビル脇のネオンに当たっていた。

「何かすごいね・・・」

「友達がそこで彼氏作ったらしいよ。結婚すれば玉の輿ってやつ」

 身近では耳慣れない言葉が並んでいたが、女性が食付く理由もわかるような気がした。

「彼氏は、いいの?」

「ん・・・もちろん内緒。まぁ、結婚してるわけじゃないし、気楽に行こうかなって」

「ふうん」

 適当に声を合わせる。

「何歳くらいの人が多いの?」

「三十代から四十代くらいが多いかな。たまに二十代前半の人もいるけど・・・」

「結構年上なんだね・・・」

「うん。あくまでも、健全な交流の場だからね」

 横断歩道を渡ると、居酒屋に流れていくサラリーマンが見えた。

「でも、フェイスブックってちょっと怖くない? ほら、事件もあったしさ・・・」

「ううん、友達多いから全然大丈夫だよ。何回か行ったんだけど、色んな職の人が居るから、視野が広がるよ。だって、事務の仕事してたって、会社の社長とかに会うことなんてないじゃん」

「確かに・・・。楽しそうだね」

 乾いた声を出す。

「でしょ? 女性は結構気合い入ってるから、ワンピースとかのほうがいいかも」

「そっか」

「二人には内緒ね。ほら、何かどんな人が居たとか、彼氏できそうなのかとか・・・詳しく聞かれるのやだから」

「うん。そうね」

 苦い顔をして眉毛を下げた。

「あ、私、今日こっちなの」

 新宿駅と反対の道を指した。

「詳細はLINEするね」

「わかった」

「じゃあ」

短いスカートを靡かせて、携帯を見ながら小走りしていた。車の排気ガスが足首にかかり、ストッキングに熱を残していく。人ごみの中に入っていくと、赤いプラカードを下げた団体が政治に反対するチラシを配っているのが見えた。




 今まで二人と付き合ったことはあったが、すぐにふられてしまったので、ほとんど印象に残っていなかった。色濃くあったのは、彼らの経歴に対する周囲の反応が違うことくらいだろうか。一人目は学生のときに、バイト先で知り合ったフリーターと、二人目は合コンで知り合ったIT企業に勤めているサラリーマンだった。どちらも、私と居ても楽しくなさそうだった。

両親には早く結婚することを勧められるが、愛情を生み出そうとしても出てこなかった。人を好きにならなくても、日々淡々と生きていくことができた。枯れている心に対して、何を言われても風のざわめき程度にしか聞こえないのかもしれない。

 化粧水を顔に押し付ける。赤くなっていた顔がひんやりとしていった。ベッドに寄り掛かりながら、テレビを点ける。名前の知らないタレントがお笑い芸人とじゃれ合っていた。

 脚を伸ばすと、肩にしっとりと濡れた髪が掛かった。撫でるように、ボディークリームを塗っていく。白い肌にフローラルの香りが浸み込んでいくのを感じた。しばらく誰にも触れていない肌は、弾力を保ったまま沈黙していた。

 幸せでもなければ、不幸でもなかった。ぼんやりとしながら歳だけを重ねている気がした。高校や大学のときに仲が良かった友人は結婚しているか、仕事で海外に住んでいるという噂を聞いていた。気づいたら、旦那の給料に苛々しながら、他の女性の悪口を言う女や、少しでも収入のいい男性に食いつこうとしている女に囲まれていた。仕事も安定せず、日を増すごとに将来に対する不安が深まっていった。

 寝転がりながら、携帯でフェイスブックの掲示板を眺める。更新していないにもかかわらず、友達の写真やつぶやきがアップされて、ありきたりなコメントが載っていた。スクロールしていると、LINEのメッセージが表示された。


 みき:おつかれさまー

ゆな:おつかれ

 

スタンプを貼りつける。

 

みき:今日言ってたパーティーなんだけど、土曜日の夜七時に原宿駅で大丈夫?

ゆな:了解。大丈夫だよ。

みき:ありがとね


網戸から生温い風が吹き込んだ。肩に掛けていたタオルで額を抑える。人差し指を動かして、文字を打ち込んでいく。


ゆな:いい人居るといいね

みき:ほんと。ねぇ、日比野さんはどんな人が好みなの?

ゆな:あたしは優しい人かな

みき:あの会社でいうと?

ゆな:そうね・・・隣の課の中村さんとかかな


他の人が格好いいと言っていた男性だった。


みき:遊んでそうじゃん

ゆな:確かに

みき:細マッチョ系が好きなんだね

携帯を右手に持ち替える。


みき:よかった。あたしとは被らないかな


新井へのメッセージの間隔を広げながら、インターネットの掲示板で女友達と合コンに行ったときの感想を眺めていた。画面をスクロールしながら、流し読んでいく。どんな人が書いているのかわからなかったが、大半は直接言えない愚痴を書き綴っているように見えた。額に手の甲を当てる。土曜日になれば、私も新井に対して彼女たちのような思いを抱くようになるのだろうか。




オレンジリキュールがカクテルの底に溜まっている。新井は若い男性に声を掛けられて、入口のほうで話をしていた。身長の高い彼は、IT企業の社長をしているらしく、質のいい名刺を配っているのが見えた。新井がグラスを片手に持ちながら、甘い目をしていた。

カウンターのガラスに、紺色のワンピースを着てぽつんとしている自分が映っていた。男性のほうが多いにもかかわらず、話しかけられることはあまりなかった。新井も含め、可愛い子たちだけが注目され、後の女性は私みたいにビュッフェとドリンクのカウンターを行き来していた。

「ちょっと、君」

「はい?」

「よかったら、あっちの椅子で話さないかい?」

 五十代くらいの男性が話しかけてきた。ドット柄のシャツに、色の薄いジーンズを穿いて、パーティーに居る人たちから浮いていた。

「いいですよ」

 白髪がちらちら混じった髪を掻きながら、履き潰していたサンダルを引き摺るようにして歩いていた。主催者の人がにっこりとしながら、ドアまでの通路を開けてくれた。外に出ると、彼がふうっと溜息を付いた。

「ああ、やっと外に出れた。人ごみは苦手でね」

「・・・私もです」

「お酒は美味しいんだけどな。ごめんね、こんなおっさんで」

「いえ・・・」

 若い子たちを横目に、テラスのベンチに腰を下ろす。前に座っている二人組が、携帯のアドレスを交換しているのが見えた。

「パーティー、初めてなの?」

「はい」

「そう、俺もこうゆうところは初めてでね」

 呼吸がすっと通った。

「退屈だよね。君は何で参加してるの?」

「・・・友達に付き合って」

「なるほどね。他の人たちに比べて、あんま、気合いも入ってない感じだもんね」

頬の皺を摩っていた。

「綺麗なのに勿体ないね」

「いえ・・・」

 腕の血管が固まったような心地した。

「私が来るようなとこじゃなくて・・・」

「そうか。独身限定ってしてないのに、出会いの場みたいな感じなんだな。俺も完全な勘違いで来てしまった感じだよ」

「そうですね。友達には社会的に高ステータスな人たちが集まるパーティーだって。社長とか商社マンの人とか・・・女性は読者モデルとか・・・なのかも、みんな綺麗だから。私は本当に場違いですね」

「高ステータスね・・・」

 鼻で笑っていた。

「俺は大分危ういかもな。仕事関係の人に勧められてさ、こうゆう新しい場所に行ったほうが今の時代に合ったいいアイディアが浮かぶかもしれないって。でも、俺みたいなおじさんが来るとこじゃなかったな。編集者に言っとかなきゃな、もう二度と来ないよ」

 溜息混じりに、カクテルを啜る。

「・・・仕事って何されてるんですか?」

「小説家だよ」

 言葉に鈍い余韻を感じた。

「じゃあ、本とか出してるんですか?」

「まぁね、って言ってもしばらく新作を出してない小説家だよ。デビュー作だけ売れて、後は代表作に二つくらいつ入れてもらえるかどうか。もう、小説家って名乗ること自体変になってきた気がするよ」

 いつの間にか持っていたビールを半分くらいまで飲んでいた。

「今の時代の子たちの考えはいまいちよくわからないな」

「どうしてですか?」

「みんな携帯で何かやってるんだろ。ほら、あの子たちも、あの子たちも・・・」

 グラスに付いた口紅を拭う。

「きっと、LINEのIDを交換してるんですよ」

「あぁ、何かそんな言葉があるらしいね。周りからよく聞くよ」

 含み笑いを浮かべていた。

「やってないんですか?」

 胸ポケットから、くすんだストラップの付いた折り畳み式の携帯を出した。

「これで十分。メールと電話さえできれば事が足りるしね。本当はメールさえ鬱陶しいくらいだ」

「小説家って感じですね」

「俺が?」

 太い眉を上げた。

「はい。流行に載ろうとしないところが・・・、何か昔の小説家でそうゆう人いたなって」

「・・・・あぁ、昔の小説家ねぇ・・・」

「はい」

「・・・・・・」

 靴の踵がかつんと鳴った。何も言わずに、泡の消えたビールを眺めていた。

「本当に小説だけで、暮らしてきたんですか?」

 すっと、身体を手摺から話す。

「ん・・・いや、元々大企業に勤めていたサラリーマンだったよ。暇なときに書いた小説が当たってね」

「へぇ・・・」

「そこで、人生の運を使い果たしちゃったのかもな。きっと、あのまま勤めていたほうが社会に貢献できてたよ」

 残りのビールを眺めていた。

「新しい小説のプロットが浮かばないんだよ。あまりにも時代遅れのものばかり書くんで、編集者には、こうゆう場所で若い人たちを見たほうが、何か刺激になるって言われてさ。でも・・・ほら、あぁやって携帯を付きあわせたり、画面を見て笑ったり・・・正直、俺にはどうしても受け入れられないよ」

「どうしてですか?」

 頬の皺にシミが食い込む。

「薄いなって思ってさ」

「・・・・・・」

「薄いんだよ。小説に書くと一気に薄くなってしまう」

 ピンと来ることはなかったが、浅く頷いた。グラスを両手で持つ。

「まぁ、時代に付いていけないおっさんの愚痴だと思ってくれて構わないよ。君は、社会人?」

「はい。派遣で事務をやっています」

「派遣・・・ねぇ・・・」

「一応大学で高校の教員免許を取ったんですけどね。別に教師になりたかったわけじゃなかったので、普通に就職してしまいました。毎日同じことばかり、贅沢する余裕も無く、将来に対して不安を募らせながら、何となく生きてる感じですよ」

「教員免許持ってるの?」

「はい。教育実習も行ってきましたよ。でも、やってきたことがちぐはぐで、何も今に繋がってないんです。このままずっとあやふやなまま歳を取っていくのかなって・・・」

 奥歯を噛む。

「じゃあ、俺と似てるんだな」

 口元に皺を作った。

「そんな・・・私には何の才能もありませんし」

「才能ねぇ・・・」

 騒がしい明かりを仰ぎ見る。

「俺だって変わらないよ、ただその場その場の運で乗り切って来ただけさ。でも、若いのに勿体ないな。俺はその頃の貪欲だった時代に戻りたいよ。今でも、小説家として多少の欲はあるつもりだけどね。若い時にあった、迸る感覚とか・・・もう思い出せないんだ。筆も進まないはずだよ」

「筆が進まないんですか?」

 深く座り直す。

「あぁ、まぁ一時だよ。進むときは何かに憑りつかれたみたいに、一気に進むけどね。俺はね、何も無い凡人になるのが一番怖いんだよ。自分が凡人であることを自覚することが嫌なのかもしれないな。何か書くことにしがみ付いて、自分は常人じゃないんだって思って、やっと生きてる心地がするんだ。こんなに長い間、生きてるのにな・・・」

「小説家ってみんなそうなんですか?」

「さぁ・・・どうだろ。少なくとも俺は、駄目な人間であることには変わりないよ」

 陽気な息をついて、こちらを見る。ワックスで固めた髪を後ろに流した。

「大村さんは何歳ですか?」

「今年で、60歳」

「へぇ、見えませんね」

「ありがとね。君ぐらいの歳の子とよく話してるからかな」

 下を向きながら、グラスを回す。左手の薬指に細いリングが埋もれていた。

「名前、聞いてもいいですか?」

「大村弘樹だよ。筆名も同じ、検索すれば出て来るさ」

「私、日比野優奈って言います」

ガラスの中でグラスを交わしている人たちが、遠くなっていくのを感じる。遠くに、バイクの音が聞こえた。

「優奈か・・・いい名前だな」

「そう言われたのは初めてですよ」

 前髪を耳に掛けて、大村のほうを向いた。

「メールアドレス交換しませんか?」

「別に構わないけど・・・」

「私、もっと大村さんのことが知りたいんです。今度ご飯に行きましょう」

 掌をベンチに付いて、身体を倒した。

「君も小説家志望か何かかい?」

 お酒の匂いをさせながら、鋭い眼光がこちらを捉える。

「まさか。小説はあまり読まないので、書けませんよ」

「・・・そうか」

 空気が一瞬ひんやりとしたような気がした。

「変わってるね」

「そうですね。社会勉強ですよ」

 握っていた携帯を膝の上に降ろした。

「たまに、そうゆう人と出会うよ。何が楽しいんだかね。まぁ、携帯のプロフィールから、メールアドレスをメモってくれ。携帯はあんま詳しくないんでね」

 傷の付いた折り畳み式の携帯を受け取る。少し近づくと、柔軟剤の香りに煙草の匂いが混じっていた。背中を丸めながら、画面をスクロールして、電話帳登録画面を開く。新井が一瞬こちらを見た気がしたが、すぐに違う男性のところへ行ってしまった。



 大村とは途切れることなく毎日メールをしていた。絵文字は無く、句読点で句切られた他愛も無い会話だった。特に目的があるわけではない。ただ、大村と話していると、自分という存在が固まっていくような心地がしていた。干からびた心に少しでも水分を与えてくれるものであれば、何でもいいのかもしれない。

「あ、お疲れ様」

「お疲れ・・・」

 会社の化粧室に入ると、新井が髪を梳かしていた。

「もう帰りなの?」

「うん」

 少し距離を置いて、洗面台の前に立つ。

「日比野さん、あ、ねぇ・・・あの後どうだった?」

「どうって?」

「誰かとメールアドレス交換した?」

 アイラインを引いたばかりの目尻を吊り上げていた。鏡越しに、こちらに視線を移す。

「あぁ・・・まぁ・・・」

「何、いい人居たの? どの人?」

「普通の人だよ」

「ふうん。どんな人だろ? 私、話しかけたかな」

 鏡に顔を寄せて、コンタクトのゴミを取る。 

「あ、まさか、あのおじさんじゃないでしょう?」

 失笑混じりの甲高い声を出した。

「まさか」

 鼻で返す。

「だよね。可哀そうって思いながらスルーしちゃった。ごめんね。てか、あんな人も参加してるんだね。会社の社長か何か?」

「そうじゃない? 知らない。興味ないし」

「日比野さんっておじさんにもてそうだもんね」

 ポーチのファスナーに手を掛ける。

「あんなおじさんでもLINEとかやってるのかな? あ、でも部長が娘とLINEしてるって言ってたか」

「新井さんは誰かとメールしてるの?」

「微妙・・・。まぁ、とりあえずメールする人は居るかな。気が合うから、今度ご飯行ってみようかなって思って」

「彼は?」

「バレてないから大丈夫じゃない?」

 新井がビューラーで睫毛を挟みながら話していた。携帯のバイブが鳴る。画面には、大村の文字が表示されていた。

「あれ? さっそくメール?」

「迷惑メール」

 携帯を置いて、口紅のキャップを小指で押さえる。

「あぁ、鬱陶しいよね」

 興味の無いような声を出して、ビューラーをポーチに押し込んでいた。鏡に近づき、前髪を斜めに分ける。新井から何か話しかけられる前に、化粧室から出て行った。掃除のおばちゃんが『お疲れ様です』と声を掛けているのが聞こえた。

 

 メールはあまり好きじゃないので、今週の金曜日、ご飯に行かない? そこそこ美味しい店知ってるよ 


 メールを眺めながら窓際の壁に寄り掛かる。光が反射する画面を片手で覆いながら、メールの文章を考えていた。大村の書くメールは、同年代の子たちと比べると歪んでいて、一つ一つが沈んでいるようだった。何気ない黒い文字が妙に重く、丸い鉛筆を走らせた手紙を読んでいるような感覚になっていた。




 肩に掛けたタオルでこめかみの水滴を拭いながら、パソコンの電源を入れた。暗い画面に映った自分の首筋に、洗ったばかりの髪がぺったりと貼りついていた。全身鏡の前に立ち、手に取った化粧水を顔に抑え込んでいく。クーラーの風が額にあたり、少しずつ熱が引いていくのを感じた。

中学生の頃からインターネットが好きだった。見ず知らずの人とチャットや掲示板で話していると、彼らに対する想像が膨らみ、肉眼で見る人とはかけ離れた優秀な人物と会話しているような心地がした。知らないことは画面に入力すれば、すぐに得ることができた。感性さえ養う必要はなかった。本を読んでいなくても、映画を見なくても、どんな感想の出る作品なのかを知ることができた。

でも、大村はインターネットやメールが嫌いなのだと言う。図書館に籠り、本を漁っている頃のほうが、知識を深めることができていたと言っていた。インターネットで見つけたものは、知識ではなく認識なのだと。認識のまま、人との関係を築こうとしているから薄い関係しか持つことができない。お酒に酔いながら話を聞いていると、自分たちが批判されているようで、精神にこびり付いたしこりを押し出されているような心地がした。

『小説家』という響きが頭に残っていた。グーグルの検索画面に、大村弘樹の名前を打つ。すぐに顔写真と小説家としての紹介分が出てきた。三十三歳のときに書いたデビュー作を含め、数作はドラマ化されていたらしい。作品名はどれも、どこかで聞いたことのある名前だった。大村が言っていたほど、活躍していない人物には見えなかった。すごい人と会話しているのだろうか。画面をスクロールしながら、心の内側がぱちぱちと弾けるのを感じた。




夜の新宿に明かりが浮き上がっていく。ハンカチを首に当てながら、携帯で店の場所を探していた。暖簾の下がった屋台から、ネクタイを解いたサラリーマンの声が響いていた。どこからともなく焼肉の匂いがして、電柱の前にはラケットを背負った学生が携帯で写真を取り合っているのが見えた。

「大村さん」

「あ」

 トルコ料理のお店の前に、ドット柄のTシャツを着た大村が立っていた。グレーの髪を斜めに分けて、背筋をぴんと伸ばしていた。

「可愛いね、その服」

「・・・ありがとうございます」

 ワンピースの広がりを、手で少し抑えた。

「ここはすぐにわかった?」

「携帯で検索して来たので」

「なるほどね」

 ふっと目を細めた。

「その小さな路地を曲がった二階の店なんだ。わかりにくいだろ? まだ少し時間はあるけど、とりあえず入ろうか」

 大村に続いて、狭い階段を上っていく。壁の亀裂を隠すように、英語で書かれたポスターが貼ってあった。


「赤ワインとマンゴージュース。それから・・・何か食べたいものある?」

「え・・・と」

 メニューを見ても何が美味しいのかわからなかった。

「嫌いなものは?」

「・・・ありません」

 メニューを読んでも、料理が思い浮かばなかった。

「じゃあ、ナスのペーストサラダとチキン煮込みのオーブン焼き・・・」

「ハイ」

 大村がメニューを閉じると、外国人の店員が、片言の日本語で注文を繰り返した。店内には淡い照明が広がり、白いテーブルクロスに載った料理が鮮やかに見える。店員が彫りの深い目でこちらを向くと、にこっと笑って厨房のほうへ入っていった。

「お酒飲まないんだね?」

「はい。ちょっと、今日は仕事帰りなので・・・」

 外国の香水の匂いを追っていく。

「彼か、かっこいいだろう?」

「そうですね」

「トルコ人でね、日本に憧れて、はるばる遠くから日本に来て、日本語勉強しているんだって」

「日本ってどんなところがいいんですかね?」

「ん?」

 ぐいっと眉を上げていた。

「だって、そうじゃないですか。人はひしめき合ってるし、みんな学業や仕事に追われてプライベートな時間が無い。ヨーロッパとかなら、街並みも美しいし、時間にもゆとりがあるし・・・あ、ハワイやグアムもいいですよね。のんびりと、自分の時間を持っていて」

「まぁ、君の年齢だと無理もないのか。畳のある部屋で、風鈴の音を聴きながら小説を読む。時折入ってくる生温い風と、草の匂いが気持ちよくてね。自分の心に静けさを取り戻すと、自然と周りの人の心が響いてくるんだよ。そうゆう時代を知らないんだから仕方ないのかもしれないな」

 御手拭を畳んで横に置いた。

「そうですね。私は、日本じゃなくて、どこか別の国のほうが合っていたのかもしれません。いつも人の顔色を伺わなきゃいけなくて、何か窮屈に感じてしまいます」

 隣のテーブルの男性が、ナプキンを置いて席を立つのが見えた。

「でも、君は日本の女性らしいよ。会ったときから思ってた」

「え?」

 お冷のコップについた水滴が、掌に貼りついた。

「自分から行動を起こすわけじゃないけど、周囲のことをよく見ていて、芯はしっかり持っていて・・・。一生懸命やってても、周りからはトロいって思われるのかもな。要領は悪いほうなのかもね」

「はぁ・・・」

「はい、どうもね」

店員が赤ワインを大村の前に、マンゴージュースを私の前に置いた。皺の弛んだ手で、ワイングラスを抓む。ストローを差して、軽くグラスを合わせた。

「何で、私のこと、そう思うんですか?」

「ん?」

「大村さんとは会って間もないでしょう。どうしてわかるんですか? 本当は周囲のことなんて全く考えていなくて、自分さえよければいいって思ってるかもしれないですよ?」

「否、わかるよ。人をよく見てるからね」

 赤ワインが小さな波を立てた。

「君みたいな子は、今の世の中生きにくいのかもね」

「そうですか?」

「あぁ・・・」

 店内が薄暗くなっていく。

「大村さんは、子供が居るんですか?」

「ん、息子がいるよ。もう、十六歳のね」

「すぐ受験生になってしまいますね。勉強はどうですか?」

「さぁ、どうだか・・・」

 尖った声を出した。

「あぁ、ほら、ショーが始まるよ」

「ショー?」

「ベリーダンス。あれ、言ってなかったっけ?」

 周囲のざわめきが少しずつ剥がれていき、手拍子に変わっていった。アラビア音楽が流れ、真ん中のほうにあった段差がステージに変わっていく。薔薇を絞ったような衣装を着た女の人が、ベールを纏いながら目の前を横切っていった。

「ベリーダンス・・・・・・?」


 弦を弾く音に合わせて、彼女の掌がひらひらと落ちた。ステージに視線が集まる。ベールが肌蹴ていくと、雪から取り出したような腕が露わになった。腰まである長い髪を掻き上げて、気怠そうに頭を落とした。動く度に、胸元のネックレスが光を反射している。奏でるように舞う肉体は、曲が激しくなっていくと、ほんのりとピンクに色づいていった。店員が料理を置いて行ったが、大村はグラスを持ったまま彼女の動きに見入っていた。ステージを中心にして、店内が淡いオレンジ色に染まっているようだった。

 彼女が肩越しに、憂鬱な視線をこちらに向けていた。大村が赤ワインに口を付けたまま、一瞬だけ視線を逸らした。


 ショーが終わると、ステージはただの段差になっていった。皿に貼りついたチーズを取りながら、グラタンを分ける。

「どうだった?」

「綺麗でしたね」

「だろう?」

 大村が空のグラスを上げて、店員にワインを頼んでいた。

「あの子、よくここで踊ってるんですか?」

「あぁ、週一回くらいでね。小説の筆が進まないときに、彼女に会うと、すぐに書けるようになる。本当、不思議な子だよ。非日常に触れられるっていうか・・・小説の中に迷い込んだ気分になれる」

 マンゴージュースの氷を回す。

「非日常・・・ですか・・・」

「そう。君が僕に求めているものと同じだよ」

 眉をなだらかにしていた。空気が喉に引っ掛かる。

「・・・彼女の知り合いなんですか?」

「あぁ、まぁね。そろそろ着替えてここにくると思うよ」

 グラタンにスプーンを入れて、カーテンの下がったドアに視線をやった。


 ナプキンで軽く唇を抑える。彼女は軽く私に会釈をして、大村の隣の席に座った。舞台化粧のせいだろうか。ステージから降りて、ワンピースのような服に着替えてもまだ、輝きの中に居るようだった。

「ねぇ、大村さん、その子は誰?」

 店員から受け取ったグラスをテーブルに置いていた。

「日比野優奈さん。最近知り合った女の子」

「・・・はじめまして」

「はじめまして」

 黒く縁取った目を引き延ばしていた。

「どこのお店の子?」

「優奈さんはお店の子じゃないよ。都内のパーティーで知り合ったんだ」

「へぇ。パーティーね、そうゆうとこ嫌いなのに」

「編集者に無理やり言われてね」

 ご飯を飲み込む。

「とっても綺麗でした」

「ありがと」

 さくらんぼのような唇を薄くした。

「ってことは、また小説が上手くいってないのね」

「まぁ・・・」

 彼女の柔らかな視線を、すうっとかわしていた。

「あぁ、彼女は菜々子。六本木のキャバクラで働いていて、現役のベリーダンサー。去年は国際大会で優勝したし、大きな舞台にも立ってて、ベリーダンスの世界では有名なんだ。君よりも二つ下だったかな。あと・・・」

 心臓がとくんと鳴る。

「この人の愛人」

髪を後ろにやった。

「驚きましたか?」

「いえ・・・」

心の内側を撫でられるような心地がした。大村はデカンタで赤ワインを注ぎながら楽しそうにしている。

「それにしても、久しぶりね。大村さんが女性をここに連れて来るの。奥さんと喧嘩でもしたの?」

「否、そうじゃないよ」

「あの・・・愛人って、どれくらい前からなんですか?」

 ストローを銜えたが、舌が乾いてジュースの味がしなかった。

「私が二十歳だったから・・・五年前か。キャバクラのお客さんだったんだけど、話していくうちに惹かれていってって感じ。でも、この人にはもう奥さんと子供が居たから、愛人になるしかなかったの」

 ガラス越しに、桜貝のような爪がシャンパンの泡を弾いていた。

「三十五歳も離れている人を好きになるのが不思議ですか? それとも、不倫していることに嫌悪しているんですか?」

「・・・・・・」

「でもこの人、魅力的な人でしょう? ちょっと頑固だけど」

「・・・そうですね」

 きめ細やかな腕をテーブルに置いた。

「奥さんは一人だけだけど、愛人も私だけなの」

「・・・・そうですか・・・・」

ベリーダンスの曲が頭の中にぐわんぐわんと響いているからだろうか。『愛人』という言葉が驚くほど柔和に溶けていった。

「軽蔑するかい?」

「いえ・・・・・・」

 清純な心を押し込んだ。

「言い訳はないよ。でも、純粋に、彼女のことは愛してる。売れた小説の描写になる女性も彼女ばかりさ。一緒に居ると止め処なく描写が浮かんでくるんだ。勿論、社会倫理に反していることだし、離れようともしたけど、離れるといい小説が書けなくなってしまうんだ」

「・・・・・・」

「まぁ、小説を理由にしてしまったら、罰が当たるかもな」

 声を低くした。菜々子が表情を落としたまま、彼を見つめていた。

「どうして優奈さんをここに連れてきたの?」

「君に会わせたかったからさ」

「どうして?」

 ふっくらとした頬に少女の面影を残しながら、赤い唇で詰め寄っていた。

「夜の世界しか知らないだろう? 今すぐ就職しろとは言わないけど、昼の世界も学ぶべきだよ。二十代後半になるんだから、そろそろちゃんとした職業に就いて・・・」

「私にはダンスがあるからいいの。それに、夜の世界も楽しいし」

 二人の間にすうっとした空気が流れたのを感じた。

「ごめんね。優奈さん、彼女と仲良くしてくれるかな」

「え・・・私は別に・・・いいですけど」

 携帯の画面に指を置いた。

「じゃあ、彼もこう言ってることだし、メールアドレス、交換しましょうか」

「・・・あ、LINEでも大丈夫ですけど?」

「この人、LINEやらないから、私も仕事以外ではやらないようにしてるんです」

「そうなんですね」

 女の目をしていた。

「じゃあ・・・」

菜々子から携帯を受け取って、アドレスを打ち込んでいく。緩い話題を振ろうとしたが、言葉が出てこなかった。

「ねぇ、大村さん」

「ん?」

「優奈さんは、大村さんの奥さんの若い頃に似てるのね?」

「あぁ・・・」

 甘いジュースの味が、喉の奥まで浸み込んでいく。脈が重たい音を立てた。

「あぁ。そうかもな」

 焦点の合わない目をこちらに向けた。

「やっぱり・・・」

「・・・・・・」

奇妙な空間の中に、じんわりとめり込んでいくのを感じた。逃げようと思えば、逃げられるのだろう。ただ、二人の空気は、波間の岩に入り込んだガラスのように、ぎらりとした閃光を放ちながら、乾いた心を惹きつけて止まなかった。




 聖書の中に書かれている熾天使は、神学者が定めた九階級の天使の中で最上とされているらしい。神への愛と情熱で、体が燃えているのだ。奈々子が真紅の衣装を広げて舞う姿は、心に身体が付いて行かず、炎の渦に巻かれてしまっているように見えた。地面に足を付けた人間が、肉体を燃やすほどの愛情を持ってしまったとき、皮膚や精神は爛れることなくいられるのだろうか。

「日比野さん、これもシュレッダーお願いしていい?」

「はい、そこに置いておいてください」

 隅田が揃えられてない紙の束を、シュレッダー横の台に重ねた。ホチキスの留め金を取って、数枚ずつシュレッダーに差し込んでいく。ごぉごぉと音を立てて、巻き込まれていく紙を眺めていた。

「あと、取引先からお土産貰ったから、空いてる時間にみんなに配ってもらっていい? そんなに数無いから、隣の島まででいいや」

「はい」

「よろしくね」

 白い歯を見せて、席に戻っていった。最近男の子が生まれたらしい。ここ数カ月、飲み会に行くと奥さんの話ばかりで、誰に対しても眩しいほど明るく接していた。

「あ、やっぱりここに居た」

 新井がキングファイルを持って駆け寄ってきた。長く伸ばした爪は、ラメの散りばめられた深いブルーに変わっていた。

「ネイル変えたんだ。綺麗な色だね」

「そうなの。夏って感じにしたの」

 手を広げて見せた。

「午後も眠いね。三時くらいから時間経つの遅くて、いっつも寝そうになるんだよね」

「そうだよね」

「こうやってたまにシュレッダーしたり、備品の整理したりして席を立たなきゃ、すぐに眠くなっちゃう」

若手社員が壁に貼られた社内コンペのチラシを眺めながら、缶コーヒーを開けていた。衝立の奥からこちらの声が聞こえても気づかないだろうと思った。

「それは?」

「隅田さんが、取引先から頂いたんだって。後で配らなきゃ」

「へぇ、美味しそう。営業部だもん、いいね」

 包装紙に包まれた箱を突いていた。

「ねぇ、不倫ってしたことある?」

「不倫? するわけじゃないじゃん」

「そうだよね」

「何? 好きな人に奥さんが居たとか?」

 目を輝かせて顔を寄せてきた。紙を厚くして、シュレッダーの音を大きくする。

「・・・私じゃないんだけど」

 咳払いをした。

「知り合いがね・・・何か、ドラマの世界だけかと思ってたけど、そんな身近なのかなって」

「あぁ、私も友達に居るけど。人のモノを取ろうとするなんて、ただ不幸なだけだよね。ま、当人同士が良ければいいけど」

「そうね」 

 デパートの試供品で嗅いだことのあるような香水が鼻に付いた。

「でも、隣の課の椎原さんならいいな。一番できる若手だし。離婚して、一緒になってくれるって言われたら乗っちゃうかも。ちゃんと仕事もして、職業も安定してるし」

「新井さんは最近どうなの?」

「いい感じの人ができたよ」

「彼氏は?」

「上手くいけば乗り換えよっかなって思ってる。だって、彼、仕事が安定してないんだもん。すぐ転職したいとか言い出すし。今メールしてる人のほうが、大人って感じ」

「そっか」

 クリップを抓む。

「男は将来性と安定だよね。あと、適度な若さと」

「うん」

積み上げられた紙は、全然減っていなかった。でも、いつの間にかシュレッダーの細断する音が身体に馴染んでいた。

「そろそろ行かなきゃ。課長にプレゼンの資料を直すように言われてるの。社員がちょっと使えないんだって」

新井は仕事をしていないように見えたが、他の事務の子の誰よりも、男性上司の評価が高いようだった。

「また飲み会とかあったら誘うね」

「ん・・・ありがとう」

「そうそう。不倫の話とか、お昼に聞いてみたほうがいいよ。みんなそうゆう話大好きだと思うよ。もっとゆっくり聞きたい」

「うん・・・」

キングファイルを持ち直して、タイトなスカートの後ろを気にしながら衝立の向こうに戻っていった。シュレッダーが鈍い音を出して詰まった。紙を引き抜くと、疎らに裂かれた文字が出てきた。均等に書かれた文章が砕けていくのが心地よく感じられた。




『もしもし、優奈さん?』

「はい」

 渋谷駅のホームのベンチに座っていると、菜々子から電話が掛かってきた。ふうっと息を吐く。ペットボトルを持ったサラリーマンが斜め横で項垂れると、ベンチが振動した。

『今職場?』

「いえ。帰るところです」

『あぁ、もう、私に敬語使わないでいいから。ねぇ、今度、二人で飲みに行かない?』

 片耳を塞ぐ。

「・・・いいよ」

『よかった。電話さえ出てくれるかわからないって思ってたから』

 サンダルの爪先をコンクリートに立てた。

『何で急に? って思ったでしょう? 私たち、ほとんど接点がないのに』

「・・・うん」

『この前会ったばかりだもんね』

「菜々子さんは、これから仕事?」

『菜々子でいいわよ。ん、そんな感じ』

 電車から人が吐き出されて、押し込むようにして乗り込んでいった。

「私も色々聞きたかったから、丁度連絡しようと思ってたの」

『大村さんとのこと?』

「とか、色々」

 人を避けるようにして、足を引いた。

『女性に不倫って言うと、みんな興味を持つのよね。どんな平凡で幸せそうな人でも、何で? って群がってくるの。ほら、ドラマとかでもあるでしょう? どうしてなのかしら・・・』

「わかんないけど・・・」

 菜々子の着ていた衣装が、赤い残像を残して脳裏に浮かんできた。

「不倫することは悪いことだって決まってるからじゃない? それが幸福か、不幸かは別にしても、罪を犯している人よりはマシだって思う」

『・・・さぁ、それはどうかしら。私には無のままで居るほうが惨めに思える。絵の具ってね、乾いてると伸びないのよ』

 生温い空気を飲み込む。

「そんなこと・・・」

『貴女って意外と言うのね。何も言えない人なのかと思った』

「・・・・・・」

『ねぇ・・・』

 すっと呼吸が聞こえた。

『貴女も大村さんのこと好きなの?』

「わからない。出会って間もないけど、素敵な人だとは思う」

 心が濁っているのだろうか。

『ふうん。やっぱり、好きなのね』

 わかっていたような口調で答えた。奈々子が大村のことを愛する気持ちが、壁を突き破るようにして、自分の心も盛り上げているのかもれない。

「どこで飲む?」

『品川がいいな。私、月曜日から金曜日はシフトかイベントが入ってるから、そうね・・・土曜日の夜がいいんだけどどう?』

「うん」

 ビルの合間から見える月明かりが、ネオンに溶けて広がっているようだった。




 大村に菜々子と会うことをメールすると、菜々子のことを宜しく、と書いてきた。彼女がどうゆう人物か聞いたが、会ったときのままの子と言うだけで、何も話してくれなかった。奥さんよりも、菜々子よりも早く大村に出会っていたら、大村が自分のことを好きになることがあったのだろうか。否、無いのだろう。皺に埋まった鋭い眼光を向けられると、私は色が無い人間に見えてしまうような気がした。

 エスカレーターの手摺に摑まった。後ろで観光客が中国語のパンフレットを見ながら何か話している。小田急百貨店の二階に着くと、エスカレーターの列から外れた。ジルスチュアートの新作のアイシャドウを横目にヒールの踵を鳴らす。色鮮やかな化粧品や、華やかな照明が当たる中、時折、鏡で自分の服装を確認した。


 自動ドアを通ると、夜風が足首に吹き付けた。煌びやかな看板が煩かったが、月は煌々と空を照らしていた。女性として働くことは、男性として働くことよりも、簡単で難しいのかもしれない。

一社目のとき、四十歳くらいの上司に指示を貰う事務の仕事をしていた。まだ新人で、自分で利益を上げられるわけではなかったので、彼の仕事を手伝うことが仕事だと思っていた。上司は結婚して九歳と五歳の子供も居たが、よく飲みに誘ってきた。仕事の相談を聞いてくれていると思っていたが、今考えると下心があったのかもしれない。上司に、二人で会社の子会社がある北海道に出張に行ってほしいと言われた。能力に期待されているのかと思い、行ってみると、特に仕事があるわけではなく、ただ向こうの接待を受けて観光しただけだった。飲み会で、肩や腰など、身体に触られるようなこともあった。帰ってきてみると、ただの旅行だったことに勘付かれたのか、チーム内の人からは無視されるようになっていた。上司は周りの目を気にして、私には一切仕事を振らなくなり、会社に相談しても何も変わることはなく、私の居場所は日に日に無くなっていった。ストレスで生理が遅れるようになり、婦人科に何度か通っているうちに、気づいたら辞めざるを得なくなっていた。

懸命に働こうとしていても、どこかに色恋が付き纏うような気がした。評価されていても、女として気に入られているように見えるのだ。夜のキャバクラで働く菜々子と、昼の職場で働く私も新井も、大村が言うほど変わりないようだった。

 歩道橋の下を車が通過していく。メールで菜々子から送られてきた地図に自分の位置を合わせた。日が落ちたにもかかわらず夏の空気が残っている。ハンカチで首筋を仰ぎながら、菜々子と会うのがほんの少し楽しみになっていた。




 待ち合わせていた店に入ると、焼きたてのピザの匂いがした。ドリンクカウンターにはワイングラスがぶら下がっていて、白人のウエイターがワインのボトルを開けていた。

「いらっしゃいませ。御待ち合わせでしょうか?」

「え・・・と」

 菜々子は奥のほうの席の窓側に居た。長い髪は束ねて横に流していたが、大きく開いた背中と華奢な肩からすぐに菜々子だとわかった。ストローでカクテルを混ぜながら、頬杖を付いて暗い窓に映ったビルの明かりを眺めていた。

「はい。あちらに」

「はい、どうぞ」

 若いウエイターがトレンチを持ってお冷を注ぎに行くのが見えた。いらっしゃいませという声を聞きながら、席に近づいていく。奈々子は愁いのある表情で、自分の姿を見ていたのかもしれない。窓越しに目が合うと、すぐにこちらを振り向いた。

「遅かったわね」

「迷っちゃって」

「だと思った」

 ふふっと言ってメニューを開いた。

「私、もう頼んじゃったから」

 シャンパングラスを軽く抓んだ。

「すみません。じゃあ、マンゴージュースで」

「あと、料理もいいですか? サーモンのカルパッチョと、マルゲリータと・・・あ、シーザーサラダもお願いします」

 三十代くらいのウエイターが慣れた手つきでハンディーを打っていた。

「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」

「あと何かある?」

「う・・・ううん」

 お冷で掌をひんやりさせる。少し圧倒されていた。

「じゃあ、一旦それで」

 メニューを閉じると、テーブルの端にあるキャンドルの火がゆらゆらしていた。

「ここのお店素敵でしょう? 大村さんに初めて連れて行ってもらったお店でね、とっても気に入ってるの」

「そう」

 店内に流れる音楽が、柔らかいピアノに切り替わっていた。

「・・・ダンスの仕事って、どこかで教えたりしてるの?」

「ううん。レストランやイベントで躍らせてもらったり・・・大会とかで賞をとったから、そうゆう話も貰うけど今のところ興味ないかな。キャバクラのほうが楽だし」

「ベリーダンスって素敵ね・・・綺麗だった」

 グラスの上で指先を伸ばした。

「何度、踊っても楽しい。どんなに小さな場所でも、ライトを浴びて自分を表現できることが嬉しいの」

 頬杖を解いた。

「キャバクラ・・・辞めようとは思わないの? 夜の世界ってわからないけど・・・」

「ん、肌に合ってるのかな。まぁ、苦労はするけど、給料いいし。今更辞められないかな。色々学ぶことも多いし、お客さんみんな頭いいから話してて楽しいし」

「そっか」

「ねぇ、優奈は大村さんのどんなところに惹かれたの?」

 馴染みの友達と話すような口調だった。

「・・・賢いところとか、色んなことを教えてくれるところとか・・・あと、何かそうゆう世界に憧れたのかも。小説家っていう華やかなところに居ながら、色んな葛藤を抱えて向き合ってる大村さんに、もっと近づきたいって思った」

「それで、私に会おうと思ったのね」

「・・・そう」

 彼女には、どう思われても構わないと思っていた。

「大村さんが話をかけた女性って貴女だけじゃないのよ。でも、私に会おうとしたのは貴女だけね」

「ふうん」

「みんな引いてくの。まぁ、そうよね。何で愛人と会わなきゃいけないの? って」

 赤い唇から出る言葉遣いは、キャバクラで学んだのだろうか。大村が教えたのだろうか。

「菜々子さんはどうして不倫なんてしてまで、大村さんが好きなの?」

「菜々子でいいわよ」

 シャンパンが店内の明かりに薄い影を作っていた。

「私は確かに大村さんに惹かれてる。確かに歳の差を感じないくらい素敵な人だって思った。具体的にはわからないけど、小説を書けるところとか、深くまで見ようとしてくれるところとか・・・でも、一番は雰囲気なのかな。これが大人の人が持つ安心感なんだって。でも、不倫してまで手にしたいとは思わない」

「それは貴女の想いがそれまでってことでしょう?」

「・・・そうなのかもしれない。でも、不倫して手にした幸せは、誰かを不幸にしなきゃいけないでしょ」

 テーブルの端に、マンゴージュースが置かれた。

「そうね。でも、不倫ってそんなに悪いことだと思えないの」

「なんで?」

「だって、私と会うまでの時間、奥さんは彼を独占できて幸せだったんでしょ。ただ、会う順番が違っただけなのに。もし、大村さんに先に出会ってたら、私と結婚していたと思うの。でも、奥さんと出会ったとき、私は生まれてなかったんだからしょうがないわ。本当、その時間、私はどこで何をしていたのかしら。もっと、早く生まれてくれば良かったって、ずっと思ってた」

「・・・・・・」

「神様は意地悪だと思うの。とっても恨んでるから、正当な道を外すことも怖くないのね。もしかしたら、神様って存在なんて初めから居ないのかもしれない」

 呟くように続ける。

「大村さんを惹きつけるための『踊る』って才能だけ用意してくれた。彼からすればね、私は絵画の中の芸術に似てるんだって。同じ時間を生き続けることはできないし、別の空間に居るけど、ただ愛でるだけで創造力が膨らむんだって」

「そして、生まれた小説をみんなが買うのね・・・」

 胸に掛かっていたたおやかな髪を横に流す。

「苦しくても離れられないの。本当、神様はどうかしてるわ」

 長い瞬きをしたように見えた。

「奥さんさえいなければって思う。きっと、この時間だって彼は奥さんと居るのよ。そう思うだけで苦しくて気が狂いそうになるの」

「・・・・菜々子って情熱的な人なんだね。怖くなるくらい、だからあんなに素敵な踊りができるんだろうけど」

「・・・・・・」

「私には・・・・・・どうしても受け入れられない」

 睫毛の先が、ワイングラスの縁に向く。

「普通は諦めるよ。将来報われることも無いことがわかっていて、ただただ苦しいだけなんて、諦めるしかないじゃない」

「優奈・・・」

 目尻を吊り上げる。

「ユナって湯女って字もあるでしょう。娼婦の名前なのに、男を奪うことも考えないのね」

「・・・・・・」

 皮膚の内側から熱くなった。震える手を、楽しそうに見つめていた。

「大村さんが貴女を気に入った理由がわかるわ。透明なガラスみたい。触れたらパリンと割れてしまいそう」

 ワイングラスの丸い部分を指で撫でていた。

「私と正反対・・・。いい人なのね」

「そう・・・・」

「つまらないけどいい人」

「・・・・・・」

『いい人』という響きが頭の中にこびり付いた。奈々子の仕草や声や話には有り余るほどの色彩が合ったが、私の身体から出てくるものには白黒に近いものがあった。『いい人』であろうとすることは、色彩を持たないことなのだろうか。

「実はね、貴女と今日会いたかったのはもう一つ目的があるの」

「何?」

「まずは、会ってほしい人が居るの」

 シーザーサラダを取り分けながら続けた。

「私、今、マスコミ関係の人とも付き合ってるの。付き合ってるって言っても、お互いの利害関係を利用するだけの仲よ。彼は、野心が強くてね、小説家を目指してたんだって。でも、持って行った作品の構想をある有名な作家にパクられて、そのことを出版社に訴えたらもちろん証拠不十分で敗訴。二度と作家として出してもらえることはなくなった」

「どうしてそれと大村さんが関係あるの?」

「その作家は大村さんよ」

 サラダの載った皿をこちらに差し出す。クルトンがドレッシングから剥がれていった。

「え? 本当なの?」

「私も最初は逆恨みだと思ったわ。でも、直接彼に聞いてみたら、丁度スランプで一年くらい書けなかったときに、担当編集者の人がサスペンス作品の構想を持って来たんだって。長い小説を要約したような形で」

 フォークを皿に置いたまま硬直していた。

「じゃあ、わからなかったとかじゃなくて? 誰かの作品だって気づかずに、ただ編集者の言うことを鵜呑みにして・・・とか」

「すぐに新人の作品だってわかったって。でも、暗黙の了解でそのことには触れずに、自分の作品として書いたんだって。確かに、文章を書いたのは彼だけどね」

「出版・・・したの?」

「そうよ。彼の代表作の一つになったわ」

 ピアスにライトが反射する。

「ずっと、後ろめたさが消えなかったって言ってたけど、一時だけとも言ってた。結局自分のモノとしたんだから悪い人よね。その一作品だけって言ってたけど、本当かどうかわからないわ。彼はたまに嘘を付く人だから」

「そんな・・・いいの?」

「別にいいんじゃない? 私は彼の小説を読んだことがないから、その作品もどんな小説かわからないんだけど、一つだけ色の違う作品だから、新しい層のファンもできたらしいわ」

「・・・・菜々子はどう思うの? 大村さんが間違ってるって思うの?」

「正しいも間違ってるもないわ。彼の作品が売れたって事実があるだけ。私はどうも思わない」

 カラッとした答えだった。

「じゃあ、会ってほしいってのはその・・・」

「そう。貝塚さんよ」

「どうして?」

 ジュースが少し水っぽくなっていた。

「大村さんから奥さんを引き離すっていう計画があるの。とりあえず、三人で話し・・・」

「ちょっと待って」

 声が掠れた。

「色んなことがわからない。何で私が必要なの? ううん、その前にどうして大村さんを恨んでいる貝塚さんと、大村さんと愛している菜々子が通じ合ってるの?」

「そうよね。変でしょ?」

 蕾のような唇を薄く開いた。

「愛情と憎悪は紙一重ってあるでしょ? きっと、お互いそうゆうことよ。私もどこかで大村さんを憎んでる・・・」

「・・・・・・・」

「一つ目の質問には・・・会ってから話すわ。どうする? 三人で話してみる?」

「いいよ」

いつの間にかマルゲリータがテーブルに載っていた。チーズをフォークですくいながら、皿に移す。

「いいの?」

「うん。びっくりした?」

 頭では迷っていたが、身体が菜々子の色を欲していたのかもしれない。

「貴女みたいな人は、そうゆう汚い世界に触れるのも嫌いだと思ったから。本当は、私みたいな人間と会うのも嫌なのかと思っていたわ」

「そうね、でも・・・もう少し、非日常を見させてほしいの」

 キャンドルの火が、彼女の瞳の中に浮かんでいた。時間が経つと、蝋が溶けて消えてしまいそうだった。

「変ね。大村さんには、私が貴女の世界を教えてもらうように言われてたのに。キャバクラから足を洗って、昼間の世界で幸せを掴むことができるようにって」

「そうね」

「でも、よかった」

 何かを含んだような笑みをこちらに向けていた。ぬかるんだ道に裸足で入っていくような心地がしたが、菜々子の身のこなしは優雅で美しく、泥の中に咲く一輪の蓮を見ているようだった。だから、精神が麻痺していったのかもしれない。




 職場のドアを開けると、揺るぎない日常に戻っていった。一枚一枚の書類を確認しながらキングファイル別に分けていると、新入社員にクリップが無いことを聞かれたり、隅田に印刷を頼まれたりして、先週を繰り返しているような感覚になった。一昨日、奈々子と会って聞いていたことが、遠い場所の話のように思えた。

 増田が同じ課の部長と飲んでいたとき、酔っぱらった彼から聞いた話を思い出していた。『今回の派遣はまだ一カ月だけど、使えないから何か理由を付けて替える予定だ。若くて安い派遣にやる気を出させて、どんどん仕事を振るようにして、仕事を回すことができればな。人件費を浮かせられたら、俺らの給料がもっと上がるのに』と言っていたらしい。確かに正論なのだと思う。増田は一生懸命仕事をしている自分たちが、もののように扱われていることに文句を言っていたが、私の作業は社員がやるほどの作業でもなく、使い捨ての人材で足りるのだろう。新卒の頃に削いでしまった社会へのやる気はもう無く、資格を取得して再度正社員で雇ってくれる会社を探す気力も無かった。捨てられないように気を付けながら、細々と仕事をこなすしかないのだろう。ものとして見られることに抵抗が無くなった自分に、肉体から溢れ出すほどの菜々子の感性は眩しくて怖かった。新井や増田だけではなく、世間一般の女性は彼女をどうしようもない女だと馬鹿にするが、ほんの少しだけ羨んでいる気持ちもあるように思えた。

 机に置いていた携帯が振動した。人差し指をくっつけて、画面を開く。大村の名前が表示されていた。

 携帯を持ったままフロアのドアを開けて廊下に出た。営業先から帰って来た同じ課の男性社員と腕が軽くぶつかったが、話し込んでいて『すみません』と言った声さえ聞こえなかったのかもしれない。

「もしもし」

『あ、優奈さん。仕事中だった?』

 声を小さくしながら、人通りの少ない業務用エレベーター前に移動する。

「はい、どうしたんですか?」

『ごめんごめん。自分が不定期に仕事しているものだから感覚が無くてね。急ぎなわけじゃないから、また夜かけ直すよ』

「いえ、大丈夫ですよ」

 浮いた心を落としたくなかった。

「菜々子さんのことですか?」

『あぁ、二人で会ってみてどうだったか聞こうと思ったんだ。何か不快なことを言われたりしなかったかい?』

「全然、そんなことないですよ」

『よかった安心したよ』

窓ガラスに身体を寄せる。向かい側のビルに午後の日差しと千切れた雲が映っているのが見える。

「楽しかったです。意気投合して、とっても魅力的な子ですね」

『そう言ってくれたのは君が初めてだよ』

「彼女に会った女性も、私だけじゃないって聞きました」

『あぁ、でも大抵何か言われるか、言いかえすかして、向こうから音信不通になってね。キャバクラで働いていても、ベリーダンスを踊っていても、彼女、友達が居ないんだよ。わかるだろう? 世間離れしすぎていて、協調性がないんだ』

「責任・・・感じてるんですね?」

『まぁね・・・そんな世界に依存させてしまったのは、自分のせいでもあるからな。でも、同時に幸せも感じてるんだよ。彼女はどこを切り取っても、小説に美しい・・・そうだな、着物で言うなら金糸のような色を与えるんだ。小説から芸術が枯渇することも、物語が書けなくなる苦しみに陥ることも無い』

 何かに魅せられている人の声をしていた。

「彼女しかいないんですか?」

『あぁ・・・』

「・・・・・・」

 遠く離れた地面を眺めると、米粒くらいの小さな人たちが歩道を歩いていた。

「・・・何で大村さんが私と彼女を会わせたのかいまいちわからないんですよ。だって、昼の世界を見せるだけなら、大村さんは私なんかよりもずっとキャリアのある女性と話す機会があるはずですよね?」

『あぁ・・・まぁ、職業柄ね』

「その人たちと会わせたほうが、彼女のためになるんじゃないかなって思って。ちょっと変だと思ったんですよ」

『・・・というと?』

「本当は彼女のためと言っておきながら私に彼女を監視させたかったんじゃないんですか? 彼女と同い年くらいの友達を、自分の身近に作って・・・だから、彼女と正反対の自分に声を掛けた」

 息だけの声を携帯に当てていた。

『あぁ・・・』

「私を利用したいってことだったんですね?」

『・・・ん・・・』

 少しの間に呼吸を入れる。

『そう捉えられてしまっても仕方ないな・・・・・・否、その通り・・・か。もし友達のような関係になれたら、君に彼女のことをしっかり見てほしいと思っていた。真っ新な視点から今の彼女にアドバイスしてくれる存在が欲しかったのもある。でも、一番は、第三者から見た彼女の様子を僕が聞きたかった』

「身近に居てもわからないんですか?」

『そうだ。わからないんだよ』

「・・・・・・」

 ドアから人が出てきたが、こちらに気づかずエレベーターに乗り込んでいった。

『変なことに巻き込んでしまったね。申し訳なかった』

「・・・いえ・・・」

『もう、彼女と連絡取らなくても構わないよ』

「ううん。いいですよ」

『え?』

「彼女と友達になって、貴方に色んなことを伝えればいいんですね?」

 陽だまりに入っていた靴の爪先が、熱くなっていく。

『・・・・いいのかい?』

「私、利用されることに抵抗が無いんですよ。いいですよ。貴方や菜々子さんのいいように利用されても構わないです」

大村に好意があっての言葉なのか、日常から離れたいだけなのか、自分でもわからなかった。

「だから、今度、飲みに連れて行ってくださいね」

『あぁ、勿論だよ』

「じゃあ、私、仕事に戻らなきゃいけないので」

 『また連絡するよ』と言うのを聞いて、電話を切った。手を降ろすと、階段のほうから聞こえる声が気になり、急に職場に落ちてきたような心地がした。菜々子の近くに居れば、自分にも光があたって、何かしらの残像を残すことができるのだろうか。

 ふっと、職場に向かおうとした足を引っ込めた。携帯をメールの画面に切り替えて、文字を打っていく。


奥さんとは、別れないんですか?


送信すると、すぐに返信が来た。


別れられない


手首の力が抜けていく。木に引っ掛かっていたビニール袋が、ビルの間に舞い上がっていくのが見えた。『ずるい』という言葉を打とうとして、携帯をハンカチに包んだ。絨毯生地の床にヒールを埋めながら、仕事をしていた場所に戻っていった。




 自分が色を持たずに生きている限り、誰かに攻撃されることも、誰かを攻撃することも無く、社会に溶け込むことができた。でも、大村の小説に自分が描写されることも無いのだろう。彼の新作は駅前の書店で目に付く場所に積み上げられていた。手に取って中を読み進めていくと、すぐに菜々子らしき女性の姿に気づいた。彼女の美しさに嫉妬する度に迸る電流のような刺激を、心地よいとする芸術家の様子が描かれていた。大村の心と重なっているような気がしたが、彼の小説を読まない菜々子は何も感じることができないのかもしれない。

 ちらっとレジのほうを見て、本を置いた。大村のことを知りたい一方で、二人の関係の深い部分を見てしまうことが怖かったのかもしれない。

「優奈さん」

「はい?」

 振り向くと、三十代半ばくらいの男性が立っていた。

「君が優奈さんだね? 菜々子からは色々聞いてるよ」

「貝塚・・・さんですね?」

「あぁ」

 耳に入れていたイヤホンを抜いて、コードを丸める。顎に少し髭が生えていて、白いシャツに軽めのリュックを背負っていた。

「今、電話掛けようと思ったところだよ。その本、読んでないの?」

「そうですね。本はあまり読まないので」

「菜々子もそう言うんだよ。変だよね。本を読まないのに、小説家を愛してるなんて・・・」

 鼻に付くような笑い声だった。

「とりあえず行こうか」

「菜々子は?」

「今から行く店で、ちょっと踊ってから合流するって。まぁ、俺も彼女の踊りを見るのは好きだからさ、こっちから誘ってるのに付きあわせちゃってごめんね」

「いえ」

バッグのポケットに携帯を入れる。化粧ポーチの横に収まっていた折り畳み傘のボタンが解けていた。

「君は菜々子と友達なんでしょ?」

「はい・・・」

 『友達』という言葉が、切り取って貼りつけたような響きをしていた。

「珍しいね」

「そうですか?」

「あぁ、彼女の友達に会うなんて初めてだよ。どんな子が来るのかと思ったけど、案外普通で拍子抜けしたよ」

 傘の布を伸ばして、皺を整えながら巻きなおす。

「彼女って男性から見るとどう見えるんですか?」

人ごみの隙間を縫うようにして外に出ると、信号が赤になり、何台も連なっていた車が走り出していた。

「・・・つかみどころが無くて、魅力的な子・・・だね」

「そうですか」

 大村も同じことを言うのだと思う。

「顔は若いのに、大人びた女性のような話し方をするよね。あんな二回りも離れた既婚者のおっさんよりも、もっといい男がいるのに。小説を読まないなら、なおさらだよ」

「大村さんを憎んでるんですか?」

「あぁ・・・そりゃもう」

 すっと空気に切り込みが入るのを感じた。

「かなりね。今思い出しただけでも吐き気がする。一つの感覚を壊死させられた感じだよ。正直、一生許すことなんてできないと思う」

「・・・・・・」

 怒りを携えると、肌が若くなっていくように見えた。

「それはそうと、女性から見て彼女はどうなの?」

「嫉妬の対象になると思いますよ。きっと彼女が普通の会社に溶け込むことなんて無いと思います。男性から注目されてどこかで陰口を言われて、彼女も協調性が無いからなおさら虐めを受けると思います。他人のミスをなすりつけられたり、ミスをするよう仕向けられたり・・・彼女に熱を上げてた男性たちも最終的には、自分の地位を守るために菜々子を捨てる」

「へぇ、さすがリアルだね」

ずっと想像してきたからなのかもしれない。自分でも驚くほど、職場に居る菜々子の姿がすらすら浮かんだ。

「じゃあ、君は彼女のことどう思ってるの?」

「私・・・?」

 言葉を選ぼうとしていた。

「・・・私も嫉妬はあるのかもしれませんね。彼女と友達にはなりましたけど・・・・・・わからないです」

「ふうん。妬みを持った友達ってことね」

 軽く頷きながら、胸元のネックレスを弄る。

「貝塚さんと菜々子はどんな関係なんですか?」

「そうだな・・・」

 腕を軽く組む。前から来る人を避けるように、貝塚の斜め後ろに並んだ。

「愛情をちらっと挟んだビジネスの関係だよ」

「そうですか」

「変に思わないの?」

「別に」

 頬に掛かった髪を後ろにやる。

「菜々子の周りはそうゆう男性が多い気がしました。彼女がそうさせるのかもしれませんが・・・」

「まぁね、多少なりとも芸術的な感性がある人は、何かに憑りつかれたように若くて魅力的な彼女に惹かれると思うよ。彼女はどこに視線を向けていても、絵になるから」

貝塚は人に紛れても違和感なく溶け込んでいて、社会の中でも難なく呼吸ができるような気がした。大村や菜々子に近づこうとするのは、文筆家であることを捨てきれないからなのだろうか。

「どんなところがそうさせるんでしょうね? やっぱり、顔ですかね?」

 頬に手を当てる。

「彼女の踊る様子をよく見てみればわかるんじゃない? きっと彼女は、年老いた老婆になっても、少女のように踊るよ」

 



貝塚が頼んだ白ワインを飲んでいる間に、絨毯の敷かれたステージでは数人が踊っていた。剣を頭の上に乗せたまま、しなやかな身体を操って、肉体を芸術的に見せていた。何回も拍手が起こったが、彼女の表情は変わることなく、踊るということに真剣に向き合っているようだった。貝塚が時折、踊り方の特徴や衣装について説明してきたが、特に興味は湧かなかった。

編曲された映画のロミオとジュリエットの曲が流れて菜々子が出てくると、店内の空気が赤くに色づくのを感じた。ベールを肌色に滲ませながら腕を上げる。目蓋を重くすると、アイシャドウが艶めいていた。貝塚の話声は無くなり、大村と同じように身を乗り出して彼女の一つ一つを追いかけていた。長い髪を掻き上げながら、遠いライトを目指すように回っていた。純白の衣装が柔らかく広がって、雨粒を浴びる百合の花のように見えた。肌を慮出して踊っているにも関わらず、彼女を形作る全てが清らかなもので溢れているようだった。胸の谷間に浸み込んだライトさえ、美しかった。空に小さな十字架を切って、絨毯に倒れ込むと、一呼吸置いて波のような拍手が沸き起こっていた。

 ステージに立つ彼女の瞳は客席を見渡して、お辞儀をしても、どこか哀しいままだった。

「・・・彼女、大村の前ではあの曲で踊らないらしいんだよ」

 貝塚がざわめく客を横目に、我に返ったように呟いた。

「女性の意地みたいなもんなのかもね。僕はあれが一番綺麗だと思うんだけどさ」

「ロミオとジュリエットの曲ですね」

「そう。確か1990年代のほうだったかな」

「ロミオとジュリエットって最後はキリスト教の教会で死ぬのに・・・。ベリーダンスは中東で発祥したものだから、全然違うものじゃないんですか?」

「まぁ、全てが変だよね。でも、不思議と馴染んでる。彼女が何かを表現するなら、ベリーダンスしかないんだよ。どんなに苦しい感情堪えていたって、小説を書けるわけじゃないんだから」

「・・・・みんな・・・そうですよ。彼女だけじゃない・・・」

手で髪を梳く。彼女の黒髪と私の茶髪は、同じ東洋の女性のものでありながら、違うもののように見えた。

「菜々子のこと、綺麗だと思うでしょ?」

「・・・・・・」

 テーブルの端を見つめたまま、すぐには頷けなかった。貝塚は、女性が抱く何かを感じ感じ取ったのか、話題を逸らした。

 菜々子の後に踊る人は居なく、暗くなったステージは店内にぽっかりとした穴を開けていた。貝塚がこの店の店長と知り合いで、何度かダーツバーに行った話や、好きな小説家に会ったときの話をするのを、適当に相槌を打っていた。奈々子の持つものは魅力的で、自分に無いものばかりだった。彼女がもし会社に居たとしたら、私も他の女性と同じように、彼女の不幸ばかりを望んでしまうのだろうか。


 化粧を落とした菜々子は、普通の二十代の女の子だった。大村と居たときよりも力が抜けていたが、ほんのりとした甘い香りと、シックなワンピースが、身体を覆っていた。

「化粧落として会うのは初めてだったね。結構変わるでしょ?」

「そうね」

 薄いピンク色のカクテルを持って、貝塚の隣に座る。

「荷物は無いの?」

「楽屋に置きっ放しなの。後で取りに行かなきゃ」

 貝塚の目が少しだらしなくなるのを感じた。

「よくこうゆうステージってあるの? 初めて会ったときもこうゆう場所だったし」

「そ。幾つかレストランでレギュラー持ってるから」

 グラスの縁に唇の色が移る。

「まかないも出るんだけど、大抵知り合いの誰かが来てるから、こうやって席で食べちゃうのよね」

「ふうん」

「まぁ、他のダンサーとあまり仲良く無いから、一緒に食べたくないの。みんなは仲良くしてるみたいだけどね」

 クラッカーにアボカドソースを載せる。

「どうして混ざらないの?」

「混ざる必要ないでしょ。みんなはショーに出た後も写真撮り合って、フェイスブックに載せたりしてるの。馬鹿みたいよね」

「そうかな。みんな、自分の姿を見せたいんじゃない? せっかく綺麗なんだから」

「私はただこうゆう場所で踊れればいいの」

菜々子の答えが、自分の望んだものであることに、ほっとしていた。髪の長い女性のグループが通路を横切っていた。店内の人は、さっき踊っていた子が彼女だと気づかないのかもしれない。

「まぁ、俺も居るんだし、先に本題に移そう」

 貝塚が体勢を前に倒した。

「あ、そうね。私ね、大村さんの奥さんに居なくなって貰いたいと思ってるの」

「え?」

 カマンベールチーズにフォークを刺して、口に運んでいた。

「どうゆう意味?」

「率直に、死んでほしいのよ」

 仄かに回っていたアルコールが、下へ流れていくのがわかった。『死』という言葉を出した奈々子の表情は、咲き始めた薔薇の棘のようだった。

「あの女が居る限り、私と彼が一緒になることはない。何度も駆け落ちを望んだけど、奥さんと別れることはできないって言って、家に帰ってしまうの。そんなの、もう耐えられない」

「そんな・・・菜々子と浮気してたって知ったら、奥さんのほうから大村さんと別れるかもしれないじゃない。死ぬことに、すぐに結び付けることないでしょ」

 貝塚がちらちら周囲を気にしていた。

「別れないわよ。だって、奥さん・・・私のこと知ってるの」

「知ってて別れないの?」

「そうよ。私は、彼の家族に黙認されてるの。お父さんの愛人だって」

「・・・・・・」

 声がひんやりとしていく。

「彼の奥さんに電話したことがあるの。ううん、彼と一緒に居るときに、奥さんから電話がきて、私が出たの。もしかしたら、怒って別れるかもしれないって期待も込めて、話したんだけど・・・・・・彼がリビングに居るときは、普通のお父さんになってるんだって。リビングを出るときは、小説家になるから、外を出て何をしてても気にしないって言ってた・・・。彼にその後のことを聞いても、別れる気配があるどころか、夫婦の絆が深まったみたいに見えたわ」

青いラメの残った目尻が、少し滲んでいくのがわかった。奥さんから見れば菜々子は幼稚な小娘に見えるのだと思った。

「じゃあ、諦めないの?」

「・・・・・・」

「悔しいと思うけど、奥さんのほうが上手ってことだと思う。それって、どうあがいても菜々子に、勝ち目はないってことじゃない。私は大村さんのこと素敵な男性だと思ってるけど、妻子ある人だから絶対に好きにはならない。奈々子も他の男性を探した方が・・・」

「まぁまぁ」

 貝塚が切り込むように口を開いた。

「貴女は人を本当に愛したことがないでしょう? 彼の代わりを探す? 彼はこの世でたった一人しかいないのよ。代わりなんて居るわけないじゃない」

「でも、不倫でしょ? しかも、年齢も離れてるんだし・・・もっと他に居るでしょう? 『死』を望むなんて・・・菜々子は狂ってるよ」

 店員が通ると、隣の席を隔てているカーテンが揺れた。

「でも・・・一人の人として愛してるの。家族がいるとか、小説家だとか、年齢とか、関係ないでしょう。純粋な愛なの。愛する喜びも、愛する悲しみも、彼からしか生まれない。一ミリの隔たりも無いくらいに、一緒に居たいの」

「人の不幸を願わなきゃ、手にできない幸福じゃない」

「手にできない幸福じゃない。身体の一部が無いような感覚なの。その身体の一部が、自分の核となる部分だったら、どうにかして求めるしかないじゃない」

貝塚は深い呼吸をしながら、何かを飲み込んでいるようだった。菜々子と話すと自分が揺らいでいくのを感じた。

「ダンテの神曲の地獄篇に、肉欲に溺れてしまった人が陥る場所があるらしいの。まだ死んでないのに、そこに落ちているような気持ちよ。身体に付いた垢を掻きむしって、血を流しているよう」

 睫毛の先をグラスの縁に向ける。

「変なのにどうしてそんなに自信を持てるの? 本当は汚いことなのに・・・」

「自分が汚くなってしまっても構わないくらい彼が好きなの。今まで生きてきて、一度も経験したことがないのね。貴女は、これからもあるかわからないわ」

 憐れんだ目でこちらを見ていた。顔を逸らす。心臓が落ちていくような感覚だった。

「菜々子も、本題から逸れてるだろ?」

 貝塚がグラスをカタカタ鳴らしていた。

「でも、君も君だね。会ったばかりの彼女のことを放っておいて、適当に逃げればいいものを、自分の意見をぶつけて、まだここに座ってるなんてよっぽど菜々子のことが気に入ってるんだね」

「・・・そうですね」

水の入ったグラスで、手を冷やした。菜々子を見つめる。私も、彼女の魅力に惹かれてしまっているのだろうか。今まで出会った会社の中に居る人なら、ここまで関わろうともしなかっただろう。

「俺は大村に対して個人的に恨みが合ってね。具体的には菜々子から聞いてるでしょ? 大村が不幸になることなら何でもしてやりたいと思ってる」

「貝塚さん、貴方も菜々子と同じことをしようとしてるんですか?」

「あぁ」

 八重歯で唇を噛んだ。

「そんなの・・・やっぱり狂ってる。だって、おかしいことでしょう。奈々子のしようとしていることが、最終的に恨んでいる人と同じになるなんて」

 言いながら、自分の言葉が世間から作られたもののような気がした。

「・・・そうね。私は綺麗に人を愛せてないわね・・・」

「・・・・・・」

菜々子が俯くと、目蓋のラメがキャンドルに照らされて、踊っているときのように美しかった。

「私は協力できない・・・。人を殺すだなんて」

「まぁ、戸惑うのは当然だよ。大村は、あまり事情を知らなく、世の中からずれようとしない君なら、信頼できると思って菜々子に紹介したんだろうしね」

 ピザのチーズが固くなって皿にくっついていた。フォークで生地に掬っていく。

「協力と言っても、勿論君に何か特別なことをしてもらうとは思ってないよ。ただ、大村の息子と会って、どうにか僕たちに明確な時間を稼いでほしいんだよ。外に連れ出す、とかしてね。どうやら、彼は高校生なんだけど不登校で引き籠っているらしくてね。週に何回か家庭教師が来て、勉強を教えているらしいんだけど、菜々子の話だと上手くいってないみたいでね。このまま、大村と君が友人としての仲を深めていったら、息子と会わせることも考えるかもしれない」

「その子がいる限り、あの女はなかなか一人にならないの」

「彼を外に連れ出してほしいんだよ」

 爪の先のラインストーンを突いていた。

「それが何になるんですか?」

「俺たちは、奥さんが一人の時間に家に入りたいんだよ」

「何をするつもりですか?」

「それは言えないわ。ただ、何回か家庭教師をして、家を空けてもらえればいい」

 力の入った目に、ぞくっとした。

「待って。そんな上手く行くわけないですよ」

「大丈夫よ。彼ならきっとそうする。だって、優奈は高校の教員免許を持ってるんでしょ? それも優奈を気に入った理由だと思うの。彼の子、見てみたくない? 憎いあの女の子供であっても、やっぱり彼に似て可愛いのよ」

「でも、教師じゃないし・・・そんなことに付き合えない」

「きっと、優奈を会わせようとするわ。だって彼から見れば、私と初めて友達になれた人なんだもの」

ぼやけた瞳が自信に満ちていた。二人が空想の中に生きているようで、どこか滑稽だった。鮮やかな人生を目指した分、精神の一部を欠損させているようにも見えた。

「貝塚さんは、小説家の夢を無くしても、編集者として名が通ってるって聞きました。そのキャリアを危険に晒してまで、菜々子の話に乗ろうとしてるんですか?」

「そうだね。勿論、捕まるつもりはないけど・・・」

「社会に出てるならわかりますよね。満員電車に揺られて、会社に着いて、周囲に駄目だしされて、終電で帰って、休日だって仕事の日もありますよね。そうまでして、やっと築いたキャリアを危険に晒すんですか?」

「優奈さん・・・君はさ、人の人生って勝者と敗者に別れて成り立ってるって感じたことが無い?」

 顎の髭を摩っていた。

「そりゃ・・・ありますよ」

 コピー機の横から眺める会議室を思い浮かべていた。

「俺は、敗者の上にほんの一握りの勝者が居る。勝者になれば、みんながうらやむような人生を送ることができる。でも、敗者はどうだろう。いつか勝者になれることを夢見るか、敗者だということを自覚しながら、残りの人生を敗者として生き続ける」

「私から見れば、貝塚さんは勝者ですよ」

「いいや。俺はね、勝者になりえた敗者なんだ。そして、もう勝者になることはできない。夢を見ることもできなくなった。一瞬にして奈落に突き落とされて、残りの人生を敗者として生きていくしかなくなったんだ」

錆びたナイフのような貝塚の瞳を、今までどこかで見たことがあるような気がした。光沢は無くなり、何かを切ることもできずに、刃の折れるときをひたすら待ち続けなければいけない、彼のような人間を・・・。

「君にもあるだろう? 勝者になりたかったことが」

「いえ・・・ありませんよ」

「でも、勝者を落とす快感を経験してみたくなったことはあるだろう?」

 ぼんやりとした時間の流れに、勝敗の意識は無かった。ただ、色落ちしてしまった自分の感性は、どこをかき集めても戻らないような感触があった。

「ありません。私は何者でもないんですから」

「嘘よ」

 ふっと振り向く。菜々子の声はワイングラスを鳴らしたときのような音をしていた。

「とにかく・・・私にはできません。ごめんなさい」

「ちょっと待って・・・」

「私、もう出るので、お支払だけします。幾らになりますか?」

 バッグを持って、財布からお金を出そうとする。

「え、あ、お金はいいよ。ただもうちょっと話を聞いて」

「いいの。貝塚さん」

「否、駄目でしょ。だってこの話は・・・」

 菜々子が立ち上がろうとした貝塚の腕を掴んだ。隣に座っていたカップルのテーブルの、小さなキャンドルの火が揺れた。

「ううん。優奈は絶対また、私に連絡してくるわ。そのときを待ちましょ」

 細い肩を下げて、グラスにシャンパンを注いでいた。振り切るようにして席を立つ。透明なガラスに費やす時間も、菜々子に染まっているのだ。アルコールのせいか、やんわりとした毒が身体に回っているような心地がしていた。




 大村に菜々子の様子をメールすると、短い文字の中に愛情が通っているのを感じた。でも、小説家なら、綺麗な言葉を綴って、菜々子を空想の中に迷い込ませることができる気がするのだ。奈々子が奥さんに対してしようとしていることは、すぐにでも伝えなければいけないことなのだろう。でも、伝えようとして打った文字を何度も消してしまっていた。薄暗い照明の中で踊る菜々子の、陰鬱な表情が頭に焼き付いているからなのかもしれない。

 新人の子たちが、ビールのピッチャーを持って上司に注いで回っていた。狭い座敷席の座布団を避けながら、おじさんたちの昔話に相槌を打つ姿は、つい数年前自分が経験したものと変わらなかった。

「日比野さん、最近仕事どう?」

 中尾課長がビールを持って、こちらににじり寄ってきた。

「そうですね、順調に楽しくやってますよ」

「何か嫌な子とかいない? 人間関係は上手くやってる?」

 昼ご飯を食べているメンバーが思い浮かんだが、空揚げと一緒に飲み込んだ。

「いませんよ。仲良くやってます」

「ふうん、じゃあよかったけど・・・」

 周囲を見渡すと、スーツを着崩した会社員ばかりだった。愚痴をこぼしながら笑い合い、お互いの傷を舐め合う姿は、社会に生きる人間らしかった。一人一人の感性は薄れ、大きな一つの個体を見ているようだった。ここは同じ飲食する場所だったが、大村や菜々子は息苦しく感じる場所なのかもしれない。

「日比野さんって控えめだよね。学生の頃からそうなの?」

「そうですか? 結構自分の意見を言うほうだとは思いますが」

「否、そうでもないよ。この前、新井さんに聞いたら出るわ出るわ。壁筒抜けてるんじゃないかって思って、聞いてる俺のほうがはらはらしたよ」

 てかった顔をこちらに向ける。

「お酒、あんまり飲まないんだっけ? 顔色変わらないね」

「あまり、こうゆう場じゃなきゃ飲みませんね。家でも飲むんですか?」

「最近家で食べてないからね。家で食べるって言ったら、何でもっと早く言ってくれなかったのって奥さんに怒られるからさ」

 重たい酒の匂いが臭かった。

「中尾課長、いつも遅くまで残ってますもんね」

「まぁね」

「奥さんは何かお仕事されてるんですか?」

「いや、息子が産まれて辞めたよ。今は二人とも昼間は学校に行ってるから、家で近所の主婦を集めてお茶会してるらしくてさ。この前半休取って家に居たら、友達来るから会社に行ってって言われたよ」

店員がピッチャーを隅田に渡していた。奥さんのことをからかわれているのか、顔を赤くしながら注いでいた。

「新婚はいいね。日比野さんは、彼氏とか居るの?」

「いえ」

「うちの社員とかどう? 大手だし安定してるよ? まぁ、あんまいいのいないか」

「そんなことないと思いますけどね・・・・・・」

 身体を少しずつ離しながら、愛想笑いを浮かべた。新井が遠くのほうで若い男性社員にお酌しているのが見えた。

「今、派遣で働いてるでしょ? 社員になりたいとか思ったことないの?」

「そうですね。今は派遣で落ち着いてますけど」

「俺はね、ゆくゆくは日比野さんや新井さんに社員になってもらいたいと思ってるんだよ」

「どうしてですか?」

「だって、社員の事務はおばちゃんばっかでしょ?」

 頷くのを躊躇った。中尾課長は私が同意したものだと思って、続けていた。

「やっぱり俺としても若い子を入れたいよね。おばちゃんじゃ、仕事頼みづらいしさ、若い可愛い子のほうがいいよ」

 腕が軽くぶつかる。

「今度、大阪の子会社のほうに営業案件出そうと思ってるんだよ。直接話に行かなきゃいけなくて、資料の作成とか頼みたいんだけど」

「・・・大丈夫ですよ。パワーポイントも使えますし」

 丸くなった氷を転がす。新卒のときに出会った上司が思い浮かび、体が震えた。

「大阪出張、付いて来てくれない?」

「え?」

「向こうはいいよ。美味しいものもたくさん食べれるし。いい店、紹介してあげるよ」

正面に座っていた子会社の男性と目が合ったが、すぐにグラスを持って鍋の前に移動していった。

「資料の作成は、指示を頂ければできますし・・・私が直接行く必要ないと思いますが・・・」

「あ、そう」

 汚い笑みが、一瞬だけ取れて戻った。

「行ったほうが勉強になると思ったんだけどね。まぁ、資料の作成はお願いすることになるかもしれないけど、宜しくね。この話は新しく来る事務の子に頼むことにするよ」

「はい・・・。すみません、私ちょっとお手洗いに」

「ん、あぁ」

ハンカチと携帯を持って席を立った。手で髪を梳きながら、右肩へ流す。オレンジのライトに群がる虫のように、中尾課長が立ち上がって上司の元へ擦り寄っていくのが見えた。穢れた視線がこちらに張り付く。残り少ない髪を指に巻き付けて、引き抜いてやりたかった。

 『正義とは、この狭い都会では細々と流れている筋のようなもの』だと、大村が言った。富や名声の煩い場所や、人間としての幸福の状態では見えなくなり、貧困や恥辱に塗れた場所や、人間としての不幸に直面した場合は、煌々と浮き出てくるのだと言う。でも、今の自分には正義を振りかざす力も無かった。何もしていないにも関わらず、何もしていないことへの気怠さが取れなかった。



 

 隣で女子高生が吊革を斜めにしながら友達と話していた。電車の窓の景色が色の跳ねた線のように流れていく。正面に座っていたサラリーマンがイヤホンの片耳を外して、遅延している電車を伝える車内アナウンスを聞いていた。

携帯で非正規雇用者が企業に抱いている感情を検索すると、世の中への不公平を語るものばかり表示された。否、そうゆうものを探していた。使い捨てのブラック企業から派遣に移った人や、大卒で就職が見つからずに非正規雇用を選んだ人、歳を取ってから会社をリストラされてアルバイトになった人の、やり切れない思いが鬱々としたネットの掲示板に書かれていた。画面から書いている人の顔は見えなかったが、彼らの表情は想像できた。ネットの中では大きく罵声を浴びせていたが、きっと現実には何もできないのだろう。陰口を言えば言うほどきつく締め上げられ、間からはみ出して鬱血していく感情が晒し出されていた。勝ち組と言われる人たちの下で光を当てられることは無く、このまま生きていかなければいけないのだろう。

派遣会社から連絡があったのは、飲み会が終わった次の週だっただろうか。中尾課長から派遣元の担当者に連絡があり、次回の更新は無いことを告げられた。理由は、業務上の都合らしい。三か月後に職が無くなってしまうので、派遣会社からは来月中旬以降から他の派遣先を紹介すると言われた。


体重を掛けて、吊革を握り締める。

「間もなく、中目黒、中目黒。中目黒の次は・・・」

ドアが開くと、押し込むようにして人が乗り込んできた。中年のサラリーマンが、我先にと優先席の端に飛び込んでいた。お婆さんが手摺に、皺のよった左手に骨が浮き出るほどの力を入れて、しがみ付くのが見えた。右手に持っていた紙袋が中年のサラリーマンの膝に当たっていたが、腕を組み直して俯いていた。

胸の内側からちりちりとした怒りが込み上げてくるのを感じた。寝たふりをして、やり過ごそうとする男性を睨みながら、口の中の皮膚を噛む。じんわりと血の味が広がった。赤の他人である二人に対して、糸を引くような視線を向ける自分が不気味だった。決して、初めて見る光景ではないのだ。何度も見ないふりをしてきた光景だった。

人間の形をした汚らわしい獣が項垂れているようだった。マグマのような感情が脳内を這いずり回り、正常な思考回路を焼き切ってしまったのだろうか。浅くなっていく呼吸を抑えると、目の内側に水が溜まっていき、視界を少しずつ覆っていった。


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