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第10話 他人の好き――代理と証言と委任状

 他人の好きは、触れるだけで軋む。

 自分の好きは燃料だが、他人の好きは負債にも担保にもなる。好き条の第五項――〈好きを対価に置く契約は無効〉――を通したばかりの学園で、最初の試練は意外な角度からやってきた。


 朝一番、礼法会の女子(前夜まで堂々と反意行を書いていた)――ミリーが、両手で封筒を握りしめて現れた。

「……代理を、お願いしたいんです」

 封筒には兄の委任状。病み上がりで教練を休んでいるらしい。中庭の掲示板に出す予定だった寄進理由三行を、兄の代わりに私の名前で提出してほしいという。


「寄進理由三行の代理提出?」

 私は渡された紙をのぞき込む。

 〈題:図書室の閲覧机を増設〉

 理由:

 一、夜の自習が床座で腰を痛める者が多い。

 二、閲覧の再現性を高めるため、机面の反射率の揃った机を増やす。

 三、負担の再配置(奉仕時間のシフト)と寄進枠を併用。

 ――端正だ。だが、根元に好きの匂いがする。

 添え書きに、兄の選好表が挟まっていた。〈紙の匂いが好き〉。


 リズが首をかしげる。「代理の条件は二つ。証言と委任。二人称の好きは証言が弱いとすぐ破綻します」

 私はうなずく。「委任状はある。証言は?」

 ミリーは戸惑い、袖を握った。「兄は、言葉が苦手で……小さいころから、紙の匂いを嗅いで、落ち着くんです。私が代わりに、ずっと見てきました」


「見てきたは証言になる」

 私は黒板に枠を描く。代理三行。

 一、証言:対象者の**“好き”の観察記録**(第三者が再現可能)。

 二、委任:対象者の**“好き”の範囲(用途・期間・撤回権)。

 三、責任:代理人の負担の明示(誤用時の反証の受け皿)。

 「この三行が揃えば、代理は立つ。好きを対価にしないこと――ここは絶対」


 ミリーはうなずき、鞄からもう一枚、くしゃくしゃのメモを出した。

 〈兄は、紙の匂いで呼吸が整う。試験前に机が木だと落ち着く。金属だと落ち着かない〉

 観察の言葉だ。詩ではないが、詩の近所に住んでいる。


「――揃いますね」

 リズがペンを走らせ、委任の範囲を確認する。

 〈用途:図書室閲覧机の増設に限る/期間:一学期/撤回:本人のサインで即時〉

 〈責任:代理人ミリーが反証の窓口〉


 私は確認のために、沈黙の反論を一度だけ置く。

 四角に「机増設=兄の好きの代理」。

 その四角の外に二つ丸。“兄の好き以外の者の不利益”、“兄自身の撤回の遅れ”。

 矢印で結び、負担会計へ橋を渡す。


「反意行も併記しましょう」

 ミリーが自分で三行を書く。

 一、机が増えることで掃除の負担が増す。

 二、机の素材が偏在すると他者の好きが削がれる。

 三、撤回が遅れると固定費が残る。

 良い反だ。自分の好きではない好きを守るための逆流。



 提出は昼休み、掲示板の前で行った。

 セレスティアが司会を買って出て、簡易の審級十名をその場で組む。代理案件の初回は、公開が良い。光は網より早い。

 私は代理三行と反意行を読み上げ、最後に委任状の範囲を確認した。


 そこへ、煽りビラの新作が風に乗って割り込んだ。

 第七刷。見出し――「代理=甘えの仕組み」。

 短い反三行が添えられている。

 反一、本人の言葉以外は信用できない。

 反二、代理は責任の隠れ蓑。

 反三、委任は偽造できる。

 ――整っている。だからこそ、反証が映える。


 私は棚に入れ、最小反証を置く。

 〈代理の可否は、“好きを対価に置かない”条件のもと、証言+委任+責任の三行で再現される〉

 〈偽造の検出は審級立会と撤回権で担保〉

 鐘は鳴らない。白紙ではない。過剰合意でもない。ただの議論だ。

 審級は点を打ち、代理提出は可決(賛13/反7)。机は木で、反射率を揃えること――附帯がついた。


 ミリーは深く礼をして、反意行のカードを掲示板に残した。撤回の窓口に自分の名があることを、隠さない。

 公開は光。光は責任を薄めない。厚みを作る。



 夕方、監査院から照会が来た。

 件名は冷たく短い。〈代理の越権疑義〉。

 添付には、別件の代理契約――寄進ではなく退出願。

 療養寮の男子が、親族代理で「学園を去る」にサイン。

 委任状はある。証言は薄い。撤回権が記載なし。

 ――好き条に触れていないが、好きが対価に置かれている匂いがする。

 〈“母の心配を軽くする”〉が目的として書かれていた。


「これは、好きが対価に置かれている可能性がある」

 私はノエルの机に〈臨時監査〉の申請を置く。「退出は本人の“好き”を代理で消す行為に等しい。委任の範囲を超えている」


 セレスティアが眉根を寄せる。「退出の動機が**“親の好き”に引っ張られているなら、白紙が生まれる前に止血**が必要ね」


 止血は二行。

 〈目的:本人意志の再可視化〉

 〈定義:退出代理は本人の“選好表”+“反意行三行”+“撤回権”を公開するまで効力保留〉

 審級十名を急遽招集。療養寮の前で公開する。

 病室の窓から、やせた少年がこちらを見る。

 彼の選好表は空欄が多い。だが、非公開枠が一マスだけ黒く塗ってある。詩の呼吸。

 私は非公開枠の存在だけを読み上げ、中身には触れない。枠の公開は公開だ。


 反意行は、少年自身の文字で三行。震えはあるが、構造ははっきりしている。

 一、退出が母の安心のための代替になっている。

 二、退出で自身の学習の再現が断たれる。

 三、退出後の再入学の条件が不明。

 ――退出願は保留となった。代理人(叔父)は反証を求められ、撤回権の条を付け足した。

 好きは対価にならない。目的の燃料であり続ける。


 病室を出るとき、少年が小さく言った。

「紙の匂いは、落ち着く」

 兄の選好表と同じ一行。世界は偶然で縫われることがある。



 夜。図書塔。

 私は翻頁吏に支払いの次口を差し出す。

 〈代理と委任の公開記録〉

 ――代理三行の運用、退出の保留、撤回権の雛形、失敗と修正の時系列。

 最後に、自分の失敗も一枚。

 〈昔、私は“他人の好き”を“助けたい”で勝手に代弁した〉

 ――虚界は敗北の公開によく応える。


 翻頁吏は薄紗の奥で目を閉じ、「受領」。

 骨のしおりが空を切り、紙片がまた一つ舞う。

 〈丘の風で乾かした紙〉

 そして、頁が半分――折り目の途中で切れている。

 幼い筆跡。

 〈誰かの好きに触るときは、冷たい手で〉

 〈温かい言葉で包んで〉

 ――手順だ。優しさの手順。

 可視の外にあるようで、可視に繋がる。


「返還頁、共同保管」

 ノエルが印を押す。

 私は頁の縫い目に、“代理三行”の索引穴をもう一つ開け、糸を通す。

 好きは冷たい手で扱い、温かい言葉で包む。

 契約は鈍感で、優しさは敏感でいい。

 両者は縫い目で接続される。



 翌朝。

 中庭の掲示板に、新しい反対三行が並んでいた。第八刷。

 反一、“冷たい手”は無情だ。

反二、温かい言葉は虚飾だ。

反三、委任状は血縁を優先する。

 ――書ける反対は、資源だ。

 私は黒板に沈黙の反論を描く。

 四角「冷たい手=判断の温度」。丸「無情」。丸「冷静」。

 矢印を引いて配線する。冷静は温度、無情は価値。混線を解く。

 言葉を節約し、構図だけを増やす。


 セレスティアが紙束を差し出した。

「委任状の雛形、学園標準にしたわ。撤回と反意行の併記が必須。非公開枠は一件まで」

 彼女はニヤリと笑う。「恋文は詩。参考の棚に栞を挟む欄を作った。棚は高いけど、梯子が多ければ怖くない」


 ノエルが淡々と結ぶ。「網は静穏。白紙なし。過剰合意微弱。――丘で風が上がる予報だ」


 丘。

 司祭が言った。〈風の日は、丘に出る〉。

 蝶は川だけではない。



 夕方、丘。

 草は前より少し乾いて軽い音を立てた。風は一定のリズムで、紙を乾かす職人のように吹く。

 我々は共同の封から返還頁を取り出し、丘の風で乾かした紙の紙片をその隣に置いた。

 紙は、水と風で同じくらいよく学ぶ。


「好きは冷たい手で」

 リズが小さく繰り返す。「温かい言葉で包む」

 彼女は他人の好きへの代理を何度も練習した。証言は観察、委任は範囲、責任は窓口。

 敏感さを訓練するのは、鈍感さを仕組みで支えるのと同じくらい難しい。


 丘の向こう、白いものがふわりと浮いた。

 布でも蛾でもない――薄い鱗粉が、斜めに光を折る。

 蝶か。

 私は追わない。

 網を張らない。

 好きは燃料。追跡は段取り。

 私の手は冷たく、言葉は温かいままでいようと決める。


 セレスティアが立ち上がり、髪をまとめ直した。

「退屈しない」

 ノエルが丘の端でログを閉じる。「退屈は安全、飽きは危険。今日の学園は安全に飽きない」


 丘の風で乾いた紙は、折り目がくっきりした。

 好きの位置、代理の手順、撤回の通路。

 蝶は、たぶんまだ先だ。

 頁の縫い目は増えた。

 釘も梯子も足りてきた。

 置換は、今日も最後のまま使わずに済んだ。


 薄闇。

 丘の端に、学内司祭アウレリウスの影が一瞬だけ伸び、消えた。

 「風は丘を覚える」という声だけが、草の間に残った。


(第11話「風の委任――“場”の意志と共同所有」に続く)

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