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虚界書庫から来た悪魔は、知識を使うたび自分を失う  作者: 妙原奇天


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9/13

第9話 頁の縫い目――“好き”の位置と契約の位置

 返還された頁は、薄いのに重かった。

 〈川の石は、冷たくて、気持ちいい〉

 〈白い蝶は、水に映る白も“蝶”だと、思っていた〉


 それは「出来事」ではなく、「感じ方」の記録だ。

 可視=視る/わかる/再演できるの三条件に、好きは含まれていない。けれど、三条件の前に好きが置かれていると、三条件の回りが早くなる。逆に、好きが置かれた場所を間違えると、背徳災の歯車は簡単に軋む。


「縫いましょう」

 リズが言った。机の上には糸と針、そして糊ではなく細い紐。

「頁は綴じるより縫うほうが、やり直しが効きます」


「縫い目は合意の痕跡だ」

 私はうなずく。「好きを合意に入れる位置を、まず決める」


 私たちは黒板に簡単な契約図を描いた。

 目的(意図)/文言/運用――の三層。

 その外側に、きょうは円をもうひとつ。「好き」。

 好きは三層の外側に漂わせたままにすると、過剰合意を呼ぶ。内側に閉じこめると、白紙を呼ぶ。

 どこに置くか。


「三行にしてみます」

 リズがペンを取る。

 一、好きは目的を早める燃料。

 二、好きは文言に直接は入れない(比喩は禁止)。

 三、好きは運用の優先順で公開する(選好表の提出)。


 私は頷き、補足の札を一枚。

 〈選好表プリファレンス・ログ:行為の優先順と、その理由を三行で記す。更新可能。審級の閲覧可〉


「詩は?」

 リズが目だけで訊く。


「参考に置く。――ただし、川の石のように再演が効く詩は、理由の前に置いても壊れない」



 午前の授業を終え、私たちは中庭の蛇口で小さな再演をやった。

 桶、石、水。

 石を水に浸し、好きの位置を確かめる。


「視る」

 透明に濡れた石の表面。

「わかる」

 冷たさ=熱の移動。皮膚の受容器。

「再演」

 水を替えても、別の石でも、冷たい。

 ――この三つに一拍遅れて、胸の内側に好きが灯る。前でも後でもなく、三つを追い越さない位置。

 好きの縫い目は、ここだ。


 そのとき、掲示板の端で紙がはぜる音がした。

 無記名ビラの第四刷――「好き優先=甘え優先」。

 短く、稚拙。だが、反射は速い。

 私はまた棚に入れる。見出し強/理由無/再現無/反証容易。

 止血は不要。好きは理由に勝たせない。



 午後、規程委員会の一室。

 今日は契約書式の改訂会議だ。議題は**“好き”条の導入――選好表を運用に組み込むかどうか。

 席には、委員長、書記、ノエル、セレスティア、リズ、そして私。傍聴席の後列に、長衣の司祭。

 机上には、小さな木箱。翻頁吏が置いていった「縫い糸」だという。頁を傷めずに縫う**ための糸。支払いの一部なのだろう。骨のしおりの匂いが淡く残っている。


「案を読み上げる」

 私は羊皮紙を開く。

 〈好き条〉

 第一項 好きは目的の補助理由と位置づける。単独で目的にはならない。

 第二項 好きは文言に直接記載しない。比喩・曖昧表現での代替を禁ず。

 第三項 好きは運用の優先順として選好表に記録・公開する。

 第四項 選好表は反意行(三行)を併記して公開する。

 第五項 好きを対価に置く契約は無効(背徳災予防)。


 セレスティアが指で机をとんとんと叩く。「第五項、政治が匂う。恋文の契約を全部無効にするの?」


「恋文は詩だ。棚には参考として置く。正で対価にはしない」

 私は言う。「好きが対価になると、合意の力が人の内側を折る。――壊れる」


 司祭が腰をあげる。「好きは神の庭だ。規程で囲えば、枯れる」


「庭は外柵があるから花が守られる」

 セレスティアが静かに刺す。「外柵が迷路になるときだけ、詩が枯れる」


 ノエルが淡々と補う。「好き条は公開のためのインデックスだ。隠すほど背徳災は近づく」


 採決前に、私は実演を提案した。

 “好き”の公開は何を救い、何を壊すか――沈黙の反論で試す。

 黒板に四角(好き=燃料)、丸(好き=目的)、もう一つの丸(好き=対価)。

 四角は合意に接続できる。丸は合意を暴走させる。もう一つの丸は合意を腐らせる。

 言葉は最低限、構図だけを置く。


 審級(今日は委員・監査・代表の七名)による配点は、賛5/反2。

 好き条は可決した。

 ただし附帯――〈選好表の非公開枠を一件だけ許す(詩の呼吸)〉。

 「隠すための公開」だ。非公開枠を枠として公開し、中身は伏せる。


「縫いますか」

 リズが糸を持ち上げる。

 私は頷き、返還頁の端に三つ穴を空けた。石、映る白、そして好き。

 好きの穴には、選好表の番号を小さく記す。詩ではなく索引として。

 縫い終えた頁は、かすかに厚みを取り戻した。



 その夜、川へ向かった。

 司祭が昼間、さりげなく「蝶は、川に寄る」と言い置いたからだ。誘導にも挑発にもなる一言。

 セレスティアとノエルは塔で事務、私はリズと二人。

 学園の外壁を抜け、野を渡ると、浅瀬が月を砕いて流れていた。石は冷たく、泥は左足にまとわり、土は匂う。

 紙片三口が、ともに揃う場所。


「網は?」

 リズが小瓶を握る。


「広げない。好きと網は隣り合うと絡まる。今日は見るだけ」

 私は浅瀬の石に指を置く。

 視る/わかる/再演できる、と心の中で唱え、最後に好きを少し待つ。

 待ち合わせのように、好きは遅れて来る。


 目の端で、白いものがふわと動いた。

 蝶ではない。蛾でもない。薄い布切れだ。川上で誰かが洗濯をしたのだろう。

 布切れが浅瀬の石に触れ、映る白を作る。

 映る白は、本物の白より冷たい。

 私は思う。幼い走り書きの通りに――〈映る白も蝶だと、思っていた〉


 好きが胸を温める。

 私は指で二本の線を引いた。

 可視の三条件の外側に、好き/詩の細道を。

 道は合意にぶつからないよう、浅瀬を回り込む。


 そのとき、水音の裏で小さな鐘が鳴った。

 網の遠鳴り。

 ノエルではない。翻頁吏でもない。

 私は川面を覗き込む。

 白紙では、ない。

 過剰合意でも、ない。

 置換の余波――図書塔から薄い皺が延びてきている。


「明日、塔に行きますか」

 リズの声は落ち着いている。


「行く。支払いの次口を準備する」

 私は浅瀬の石から手を離した。好きは燃料。燃やしすぎないように。



 翌朝。

 学内の掲示板に、新しい煽りビラが貼られていた。

 第五刷。見出しは「好き条=情実条」。

 下段には、丁寧な罫線。反対が、今度は論証の形式を真似し始めたのだ。

 三行で書かれた反。

 反一、好きは公開されても虚飾を帯びる。

 反二、選好表は自己正当化の装置になる。

 反三、非公開枠が抜け穴になる。


 私は嬉しくなった。

 書ける反対は、資源だ。反が形式に乗ってきたら、次は反証が作動する。

 私は黒板に反意行の枠を引き、ビラの三行を棚に入れる。

 理由/再現/反証。

 理由は可。再現は未。反証は――実演でいける。


 昼休み、前夜祭で使った机をもう一度出し、公開実験をした。

 題:「選好表が自己正当化になる」を実演で試す。

 手順:

 1)選好表に、“夜は静かに書きたい”と書く(好きの公開)。

 2)反意行に、“夜の緊急対応が遅れる”と書く(逆流)。

 3)審級に配点してもらい、優先順を決める。

 結果:選好表だけでは自己正当化に見えるが、反意行と配点が入ると、優先順が他者の視線に接続され、自己の輪が小さくなる。

 ――つまり、自己正当化の装置ではなく、自己の縮尺を公開する装置になる。


 ビラの三行の下に、その結果を張りつけた。

 光は公開でできている。

 蝶はまだいない。人は集まる。



 午後、図書塔。

 翻頁吏は窓辺に静かに立っていた。

 「支払いは?」

 骨のしおりで机をとん、と叩く。


「L=公開、E=反証、T=担保。……それと、S=好きの位置を公開した」

 私は手製の小冊子を差し出す。

 〈好き条・実演記録〉

 ――選好表と反意行の運用、非公開枠の公開方法、自己縮尺の可視化。

 そして最後に、私自身の失敗記録を添える。

 〈“好き”に負けて置換しそうになった瞬間:総序列戦の黒箱。支払い計画を崩しかけた〉

 反証と再発防止の手順つき。


 翻頁吏はしばらく沈黙し、薄紗の奥で瞼を一度だけ下ろした。

 「受領」

 骨のしおりが空を切り、紙片がひとつ、頁が一枚、風に乗って落ちてくる。

 紙片には、一行。

 〈水切りの十一回〉

 頁には、幼い筆記の図。

 石の描線、弧の軌跡、手首の角度のメモ。

 ――わたしは可視の前に、好きで技を覚えようとしていたのだ。

 十一回。視る/わかる/再演できるの外から、反復だけで扉を叩いていた。


「返還頁、共同保管」

 ノエルが淡々と記録し、リズが証人として署名する。

 私は頁の縫い目に、好きの小穴をひとつ足し、選好表番号を刺した。

 好きは燃料。

 燃料は配線に接続する。



 塔を降りる途中、司祭アウレリウスが階段の影から現れた。

 白い蝶の刺繍は、相変わらず静かで挑発的だ。


「好きを棚に入れたそうだね」

 彼は笑わない。「詩は棚に眠るか?」


「眠らない。参考の棚は踏み台だ」

私は答える。「正は仕事。参考は呼吸。眠るなら枕を替える」


 司祭は少しだけ肩を揺らした。「蝶は眠らない」


「網も眠らない」

 私は返す。「けれど網は捕まえるためではなく、見落とさないために張る」


 彼は一歩だけ近づいた。「君の好きは、誰の好きで縫われている?」


 良い問いだ。

 好きは一人称で始まりやすく、二人称で壊れやすい。

 私はリズを見る。彼女は静かにうなずき、胸元のカードをめくる。

 反意行、三行。

 一、他者の好きは尊重だが、目的にはしない。

 二、他者の好きの代理は証言と委任が必要。

 三、他者の好きを対価にしない(無効)。


 司祭は瞼を伏せ、わずかに笑った。

 「詩の位置は近くなった。――蝶は川を離れることもある。風の日は、丘に出る」

 予告のように、助言のように、彼は音もなく立ち去った。



 丘。

 学園の裏手に、草の匂いが濃い小丘がある。風の日は、ここから校舎の影が長くのびる。

 夕方、私たちは上った。

 セレスティアは仕事の報告書を抱えて現れ、ノエルは網のログを携えて遅れて来た。


「好き条、周知は順調」

 セレスティアが書類をひらひらさせる。「煽りビラは第六刷まで。書き方が三行に上達してきたわ」


「上達は良い兆候」

 ノエルが言う。「白紙の芽は沈静。過剰合意は微弱。鐘は今日は鳴っていない」


 私は草の上に頁を広げ、縫い目を撫でた。

 川の石。映る白。水切り十一回。

 彼らは、技ではなく入口の地図。

 好きは入口に立つ灯だ。

 灯は契約の内側には入らないが、契約の道を照らす。


「次の支払いは?」

 セレスティアが手短に問う。


「他人の好きを扱った失敗の公開」

 私は答える。「代理を急いだ記録。証言と委任が不備だった。――反証と対策つきで出す」


「痛いけど強いわね」

 彼女は草に腰を下ろし、空を見上げる。「好きは政治の外にあるとみせかけて、ど真ん中にある。置換より怖い」


「だから、最後まで切らない」

 私は微笑した。「好きは刀じゃない。灯だ。切るものがない」


 風が一本、丘を渡った。

 白いものが、一瞬視界を横切る。

 布切れではない。蛾でもない。

 蝶――に似ている。けれど私は追わない。

 網は広げない。

 好きは燃料、追跡は段取り。

 私はただ、灯の位置を覚える。


 リズが小さく言う。「覚えます。丘の風。草の匂い。灯の弱さ」


「弱さは壊れやすさじゃない。敏感さだ」

 私は返す。「契約は鈍感でいい。好きは敏感でいい。縫い目で隣り合わせにする」


 セレスティアが笑って立ち上がる。「退屈しないわね」

 ノエルがログを閉じる。「退屈は安全の指標だが、成長の敵だ」


 私は頁を畳み、共同の封に戻した。

 支払いは続く。

 置換は最後。

好きは前でも後でもなく、横に縫う。


(第10話「他人の好き――代理と証言と委任状」に続く)


――――――


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