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少女と手をつなぎながら歩くペパーミントのあとに続くように、無機質な廊下を進んだ。照明がふたりの背中を淡く照らすなか、ヒメの歩幅は一定で、先ほどまで感じていた違和感のようなものはない。
けれど、床に埋め込まれた感圧センサーを使って彼女の体重移動を可視化すると、そこに記録される波形は、人間特有の揺らぎをほとんど含んでいなかった。まるで機械のように、完璧に計算された動きだった。
その数値を見ながら、先ほどの奇妙な会話──あるいは〝現象〟と呼ぶべきものを反芻していた。廊下は静かで、足音が床材に吸い込まれるように消えていく。照明は最低限の光量で、壁面を透かすようにして廊下を照らしていた。
受信完了の通知が浮かび上がると、カグヤが記録してくれた映像を確認することにした。拡張現実で浮かび上がるスクリーンは、現実の視界にほとんど干渉せず、透明な層として重ねられる。その中で再生されたのは、先ほどまで確かに行われていたはずのやり取りだったが、そこで私は、より不穏なものを目にすることになる。
そこに映し出されていたのは、それまでと変わらない様子の少女と、ひとり言のように話をしている私の姿だった。ヒメは終始無言で、ただこちらを見つめているだけだった。唇の動きも、喉の振動も記録されていない。音声ログにも私の声しか残っていなかった。まるで、最初から彼女は何も言葉を発していなかったかのように。
「俺は幻覚を見せられていたのか?」
思わず漏れた言葉に、カグヤが低く唸るような声で応じた。
『……どうだろう。たしかに会話は記録されていないけど、彼女の脳波は異常な数値を示していたんだ』
カグヤが映像を切り替えると、生体認証にも利用されるスキャナーが取得した情報が視界に重ねられる。会話が始まった直後、大脳の左半球、特に言語野の活動が急激に上昇していたことが分かる。
さらに興味深いのは、その活動パターンだった。通常の会話時に見られる応答的な波形ではなく、外部刺激に対する反応と自発的な発話の両方が同時に発生していた。
つまり、彼女は確かに会話をしていたことになる。しかしそれは、常識では説明できない現象を伴っていた。頭に直接――あるいは神経系に直接介入する形で成立した対話だった可能性が高い。
異界の女神の依り代となったことで、彼女は普通ならざる存在になっていたが、それが顕著にあらわれた形だ。いずれにせよ、既存の生理学では説明しきれないが、完全に非現実とも言い切れない現象だった。極端に言えば、超自然的な能力を介した〈念話〉。外部に痕跡を残さない、内在的な言語による会話だった。
でも、どうしてこのタイミングで、これまで沈黙していた女神が接触してきたのかは分からなかった。彼女は、ある意味では〝欲望の女神〟でもある。それなら誰かの願いを具現化した可能性もあったが、確かなことは何も分からなかった。
ふと横に視線を向けると、壁面パネルを透かすようにして製造工場の様子が確認できた。多層ガラスの向こう側に広がるクリーンルームでは、完全自律型の無数のマニピュレーターアームが、完全に同期した動作で機械人形の組み立てを行っていた。関節部の接合、配線の接続、外装の取り付け──すべてが誤差のない精度で繰り返される。
アームの先端で光が瞬き、金属片が溶接されるたび、ヒメの言葉が──いや、女神の言葉が脳裏に蘇る。
『死んだ人間は、なにも望まないものよ』
その言葉は、廃墟の世界に漂う〝死〟そのもののように、静かに胸の奥へ沈んでいった。私は歩みを止めず、ただ前を行くペパーミントとヒメの背中を見つめる。
少女の小さな手を握るペパーミントの姿は、どこか母親のような慈愛に満ちていたが、その隣にいるヒメは、まるでこの世界に属していない存在のように見えた。
あの会話は現実での出来事だったのか。それとも、異界の女神が見せた幻覚だったのか。答えはどこにもなかった。ただ、胸の奥に残る冷たいざわめきだけが、確かな現実感としてそこにあった。
すでにペパーミントとも情報は共有していたが、彼女も困惑していた。〈インシの民〉との騒動のあと、少女を保護してから今日まで、こんなことが起きたのは初めてだった。
これまでの身体検査でも異常はみられず、集合精神とのつながりや異界の女神の痕跡は見つけられなかった。脳をスキャンしても、インシの寄生生物や異物反応は検出されない。
それでも、理解できない現象が起きた。機械では検出できない何かが、彼女の内部で機能している。長い沈黙の期間のあと、再び力を取り戻した女神が動き出した可能性もあったが……それがどのような条件で発現するのか、まったく見当がつかなかった。この出来事が、ペパーミントの不安をつのらせていたのは言うまでもない。
整備室を出たあとも、彼女はヒメの生体データを何度も確認していたが、そこにあらわれる数値はすべて許容範囲内に収まっていた。むしろ、通常の人間よりも安定しているとすら言えた。その正常さが、逆に異常を際立たせていた。
けれど今は遠征の準備が最優先だった。不安を抱えたままでも、目の前の現実に集中しなければならない。思考を切り替えるように、視線を壁面パネルの向こうへと移す。
半透明の強化ガラス越しに見える小規模な製造工場では、機械人形の組み立てが途切れることなく続いていた。空間転移装置を介して〈第七区画・資源回収場〉から転移されてきた資材は、作業用ドロイドによって運び出されて〈ファブリケーター〉に投入される。
旧文明期の驚異的な技術によって、素材を分解し、必要な素材へと変換する。装置内部では高密度エネルギーが重力場により制御され、発光する反応層が周期的に明滅していた。外から見れば、それは発光する心臓のように見える。けれど、その鼓動は生命を維持するものではなく、物質を再定義するための光だった。
再構築された資材は即座にラインへと送り込まれ、多関節のマニピュレーターがそれを分解し、規格ごとに再構成していく。その動きには一切の無駄がなく、複雑な工程を同時に実行していく。
ここで製造されていた機械人形の多くは、戦闘用の改良型〈ラプトル〉だった。骨格フレームに人工筋繊維が編み込まれ、外装が装着される頃には、すでに人工知能がインストールされ、自律制御の初期テストが実行されている。
歩行試験を行う個体も見られ、ぎこちない動きで脚を動かしていた。生まれたばかりの生物のようにも見えるが、その内部では冷徹な戦闘アルゴリズムが構築されていた。
部隊が使用する各種装備品もラインで製造されていた。戦闘服や高機能スキンスーツ、ガスマスク、予備弾薬、徘徊型兵器──それらは個別に生産されるのではなく、部隊単位で最適化された構成としてパッケージ化されていた。
各拠点に設置されるセキュリティ設備のためのラインも組まれ、ドローン対策のためのネットや電波妨害装置、自動タレットも増産体制に入っていた。
エレベーターホールに到着すると、ペパーミントが操作パネルに触れる。そこから我々は拠点の下層に位置する区画へと向かう。扉が閉まると、振動もなく下降が始まる。重力の変化を感じないのは、優れた慣性制御が働いているためだろう。
下層区画は、大量の機械人形を導入して改修作業が進められていた場所だった。建設途中で遺棄された地下鉄網は、旧文明期の設計思想を引き継いだ形で補修されている。コンクリートの壁面には新たな支持構造が組み込まれ、度重なる自然災害で発生していたクラックには、ナノマテリアルによる自己修復材が惜しげもなく流し込まれていた。
無人輸送車両のためのトンネルは、局所的な重力場を制御して物体を浮遊させる設計が採用されていた。それは、ペパーミントが管理していた兵器工場でも見られた技術だ。レールが敷設されていたが、空間制御技術による筒状の軌道が形成されている。
エレベーターが停止して扉が開く。そこには、厳重なセキュリティによって保護されたプラットホームが広がっていた。床面には識別用の発光ラインが走り、立ち入り可能な範囲が明確に区切られている。天井には自動タレットとセンサー群が埋め込まれ、わずかな熱変化や振動にも反応するよう調整されていた。
その先には、薄暗いトンネルが果てしなく続いている。光は途中で途切れ、奥は完全な闇に沈んでいた。試験運用中の輸送ユニットが通過する際、周囲の空気が押しのけられることなく、滑るように移動していく様子が見られた。音はほとんどなく、ただ低い振動だけが壁面を伝って残る。
整備が進められている地下鉄網が完成すれば、各拠点がつながるだけでなく、物資や人員、情報など──すべてが遅延なく循環し、戦力の集中と分散がほぼ同時に行えるようになる。
しかし同時に、このトンネルは外部からの侵入経路にもなり得る。どれほど厳重に管理しても、一箇所で占拠されれば、拠点全体へと混乱が波及する可能性もあった。
だからこそ警備は徹底されていた。巡回する機械人形、軌道上を監視するドローン、そして異常を検知すれば即座に封鎖を行う隔壁など。すべてが自律的に連動し、侵入を前提とした防御構造が形成されていた。
その暗いトンネルの奥を見つめながら、ペパーミントの報告に耳を傾ける。現在、各拠点をつなぐ地下鉄網は、崩壊した都市の瓦礫を再利用する形で整備が進められていて、すでにいくつかの区画は稼働を開始していた。
〈施しの教会〉へとつながるトンネルもそのひとつだ。移動に数時間を要した距離が、今では数分で到達できるようになっていた。
地下鉄網は〈大樹の森〉にも接続されつつあり、鳥籠〈スィダチ〉や他の拠点とも連結される予定だった。森の地下に広がる根の迷宮を避けるため、既存の地下トンネルを利用していることもあり、整備には時間を要したが、概ね問題なく作業は進められていた。
特異な環境ということもあり、残念ながら〈砂漠地帯〉との経路は確保できていないが、調査と研究は進められている。
ゆっくりとした歩みではあるが、それでも我々の勢力圏は確実に広がっていた。廃墟と化した世界で安定した輸送網を持つことは、戦闘力以上の価値を持つ。物資や人員が滞りなく循環するだけで、他の組織とは比べものにならない優位性を得られる。
それに、〈ジャンクタウン〉近郊の電力施設への移動が可能になったことも大きい。電力を安定的に供給可能にするための整備や問題への対処ができるだけでなく、その最深部で都市を管理している〈カイロン6〉にも、ある程度の自由を与えることができた。
各拠点内での制限された自由ではあったが、それでも閉ざされた環境から抜け出し、息抜きできる場を提供することができた。それが慰めにならないことは分かっていたが、彼女に無理を強いている以上、我々は誠意を見せる必要があった。







