五『ごめんなさいとありがとう』
いつも通りの時間に起きて、いつも通りに朝食をとった。
その後なにをするわけでもなく、居間のソファに腰かけていた。
つい先ほど昼食をすませて、また何か話すわけでもなく、ただじっと。
テレビがついているけれど、ほとんど頭には入ってこなかった。
時計をちらりと見る。
午後一時三十二分。
みぞおちのあたりに靄がかかったような、そんな気持ち悪さを感じる。
最後の日が、来てしまった。
沢田さんが消えたのが、確か夕方ごろだった。
千佳もそれくらいに消えてしまうのか、それとももっと長くいられるのか、短いのか。
そんなことを考えているとひどく喉が渇いて、気持ち悪さに拍車をかけた。
千佳はクッションをかかえて、ぼうっとテレビを見ていた。
もうその顔にも体にも、千佳らしさなんてどこにもなかった。
昨日の夜、眠れなくて色々なことを考えた。
夜が明けたら、千佳はいつも通りの姿で僕の目の前に現われるんじゃないか。
それから五日前のあの朝を、いつも通りにやりなおすんだ、と。
すべては悪い夢だったんだと。
そんな妄想を、繰り返した。
だから、千佳の顔を見たとき、僕は絶望してしまった。
そして、千佳の寂しそうな笑顔を見て気がついた。
最後の日、せめて笑って送ってやろうと、そう決めていたのに。
これほど自分を詰ったのは、初めてだった。
「お兄ちゃん?」
「ん?」
今日何度目かの言葉をかわす。
「私、自分の部屋に行ってるね。その方が落ち着くから」
「ああ」
立ち上がって、居間を出て行く。
その背中を僕は呼び止めた。
「千佳」
「なに?」
「兄ちゃんも行っていいか?」
ずっと一緒にいたかった。
沢田さんのように、一人で逝かせたくはなかった。
千佳がそれを望んでも、絶対にそれだけはさせたくなかった。
「うん、いいよ」
千佳は笑顔で、首を縦に振った。
千佳の後ろに続いて、二階へとあがる。
そういえば、千佳の部屋で話をするなんて初めてのことかもしれない。
一度、勝手に部屋の掃除をして怒られてからは、あまり部屋に入ったこともない。
「どうぞどうぞ」
扉をあけて、仰々しく頭を下げて僕を部屋の中へと通した。
「相変わらず散らかってるな」
「普通だよ。どこに何があるがわかってるから、いいの」
あの日以来、か。
千佳はここに座って泣いていたんだ。
「適当に座って」
「うん」
壁を背もたれにして、ベッドの上に腰を下ろす。
床に座ろうかと思ったけど、漫画やら教科書やらが散乱しててとても座れる場所なんかなかった。
千佳は部屋の隅でなにか探し物をしていた。
「あ、あったあった」
「なにしてんだ」
「いいから、ちょっと待ってて」
どこからか取り出した球体に足のついた奇妙な物を部屋の中央において、カーテンを閉めた。
「ちょっと明るすぎて見えにくいかもしれないけれど」
そう言って、球体の下腹部にあるスイッチをスライドさせた。
「なるほど」
「結構、綺麗でしょ?」
部屋の天井に瞬く、数え切れないほどの星達。
千佳は僕の隣に座ると、同じように天井を見上げた。
「去年の誕生日に買ってくれたやつ。よく寝る前に見てるんだ」
そういえば、こんなの買ってあげたな。
なかなか高かったのを覚えている。
当然そんな高いものを、千佳が買ってなんて言うわけがなくて、テレビで芸能人が紹介していたのをいいなあ、と呟いただけだった。
テレビの物よりは数段グレードは落ちてしまったけれど、プレゼントの箱をあけた時の千佳の笑顔は、今でもはっきりと思い出せる。
黙って、二人で星を見つめる。
不思議と気分が落ち着いていくのがわかった。
神の子池で感じた、あの不思議な感覚。
篠村真治と篠村千佳。
二人がそのまま自然にいられる、そんな穏やかさがあった。
「昨日ね。寝れなくて色々なこと考えてたんだ」
ぽつりと呟く。
僕は黙って、それを聞く。
「消えちゃうって不思議だなって。消えちゃった人はどうなるのかなって。それでね。思ったんだ。消えちゃった人は死ぬんじゃなくて、どこか別の世界に行っちゃうんじゃないかって」
千佳の息遣いが聞こえる。
「こことは全然違う世界でね。漫画の世界みたいなところなんだ。きっと楽しいよ。こっちじゃ経験できないこと色々できるんだ。きっと……たのし……よ」
そっと、千佳の肩を抱き寄せた。
千佳は僕の胸に顔をうずめて、小刻みに肩を震わせて、嗚咽をもらした。
どれだけ不安だったろう。
よくがんばったな。
結局僕はなにもしてやれなかったな。
ごめんな。
千佳の柔らかい髪を、優しく撫でた。
これくらいしかしてあげられない。
どんな慰めも、優しい言葉も、全てがうそ臭くなる気がして、言えなかった。
こみ上げてくる情動を必死に殺して、千佳が泣き止むまで、僕は撫で続けた。
せめて、気丈な兄でいてやりたかった。
「ごめん……絶対泣かないぞって決めてたのに」
僕から身を離して、千佳は照れくさそうにはにかんだ。
「シャツ、汚しちゃったね」
「いいさ。すぐ乾く」
精一杯、僕も笑顔を作ってみせた。
予感があった。
「お兄ちゃん、お願いしていい?」
「なんでも」
ああ、もうすぐなんだ……と。
「もう一回、ぎゅっとしてもらっていい?」
「おう」
千佳を抱き寄せて、さっきよりも強く抱きしめた。
「もう一個、お願いいい?」
「いくつでも」
「私の机の引き出しにね。友達宛の手紙が入ってるから、代わりに出しておいてください」
「任せとけ」
「それとね。最後にもう一個いい?」
「どんどん来い」
「このまま離さないでほしい」
「おう」
少しだけ、腕に力をこめた。
胸のあたりに千佳の息がかかる。
千佳のあつさを、そこで感じることができた。
こんな風に千佳を抱きしめることなんて、もう二度とない。
気が、狂いそうだった。
「お兄ちゃん」
千佳が僕を呼んだ。
不意に、僕の体にかかる千佳の体重が軽くなった。
「こっち見ないでね」
「わかった」
少しずつ少しずつ、軽くなっていく。
上を向いて、唇をかみ締めた。
最後の時を、この目に焼き付けたかった。
でも千佳が見るなというなら、そうしよう。
僕に許されるのは、ただ抱きしめて、千佳の言葉に耳を傾けることだけだ。
この体で耳で、千佳の全てを覚えよう。
「怖いよ…怖いよ、お兄ちゃん」
千佳が僕のシャツを強く握り締めた。
「死にたくないよ……!」
あふれ出た滴がこぼれぬように、目を閉じた。
千佳が初めて洩らした心の叫びを、必死に受け止めた。
「ごめんなぁ……なにもしてやれなくてごめんなぁ……」
この理不尽な五日間をどんな想いで千佳が耐えてきたのか、それを思うと胸が張り裂けそうだった。
ああ、神様……神様……!
「お兄ちゃん……」
千佳の体温が、少しずつ消えていく。
息遣いが、遠くなる。
「あのね」
僕の頬に、千佳がそっと手を触れた。
その手がぽろぽろと崩れて、僕ははっとして、千佳に目を向けた。
見るなと言われたのに、この瞬間だけはそうしなきゃいけない気がした。
「今までありがとう」
千佳が笑った。
その瞬間、千佳の輪郭がぶれて、消えた。
はじめから千佳という人間なんていなかったかのように、忽然と姿を消した。
「千佳……」
腕の中に抱いているはずの妹はいなくなっていて、千佳のお気に入りの服だけがそこにあった。
僕は、千佳の香りを色濃く残す衣服をずっと抱きしめていた。
母を知らずに育った。
父も早くに亡くした。
受けられるはずの愛情の半分も与えられないまま、十五年間生きた。
もうすぐ十六歳だった。
欲しいものもいっぱいあったろう。
おしゃれもしたかったろう。
これから恋愛もして、結婚して幸せな家庭を築いたはずだ。
千佳ならいい母親になっただろう。
千佳の子供を抱きかかえることが僕の夢だった。
千佳にも何か夢があっただろう。
僕は……僕は何一つ叶えてやれなかった。
もし本当に神様がいるのなら、なんでこんなひどいことをするんだろう。
あまりにも……あまりにも千佳がかわいそうだ。
千佳を幸せにしてあげたかった。
なんにも恵まれなかったから世界一幸せにしてあげたかったのに、僕にはできなかった。
できなかった……。
どれだけ呆けていただろう。
数分だった気がするし、何時間もそうしていた気もする。
千佳の衣服は、すっかり冷たくなっていた。
「そうだ……」
千佳に頼まれたことをやらなくちゃいけない。
立ち上がって千佳の机の引き出しをあけると、封筒の束がそこにあった。
宛名が書かれていて、既に切手も貼ってあった。
もう出すだけの状態みたいだった。
その中で一通だけ、切手のない封筒があった。
束から取り出して、宛名を確認する。
『お兄ちゃんへ』
僕宛だ……
震える手で封筒をあけると、可愛い便箋がおさめられていた。
最初から最後の行までびっしりと、綺麗な字で綴られている。
『お兄ちゃんがこれを読んでいる時には、私はもうお兄ちゃんの側にいないんだと思います。
私の最後はどうでしたか? 怒ってましたか? 泣いていましたか?
たぶんお兄ちゃんがいてくれたら、笑っていられたと思います。
ほんとはちゃんとお話したかったんだけど、たぶん照れくさくて言えないから手紙にしました。
私はお兄ちゃんから色々なものを奪いました。最初はお母さん。それにいっぱいの時間。
私がいなかったらお父さんとお母さんは生きてて、お兄ちゃんは好きなこと出来たんじゃないかなって何度も思いました。
お父さんが死んでからお兄ちゃんは嫌な顔一つせず、私のために時間を使ってくれました。
それがとってもつらくて、とってもうれしかったです。ごめんなさい。ありがとう。
覚えてますか? 私が小学校五年生のとき、授業参観があってお兄ちゃんは仕事休んで来てくれましたね。
お兄ちゃんはお父さんのスーツ着てたね。そのサイズが全然合ってなくて、きつそうにしてるお兄ちゃんみたらなんだか恥ずかしくなっちゃって、
あの時は知らんぷりしちゃってごめんなさい。
ほんとはすっごくうれしかったです。ありがとう。
それから小学校六年生の時、覚えてるかな。私が――』
僕でも忘れてしまっていたような思い出が、そこにいっぱい書かれていた。
謝るなよ千佳。
お礼もいらない。
僕はお前と一緒にいて嫌な思いなんてしたことないんだから。
『それから最後にお願いがあります。
どうか私がいなくなっても悲しまないでください。泣かないでください。
もうこれ以上私のために時間を使わないでください。
これからはどうか自分のために生きてください。
やさしい彼女見つけて、結婚して、子供をたくさん作って、やさしいお父さんになってください。
孫ができて、そのまたひ孫ができるまで生きてください。
それが私からのお願いです。
本当はもっと話したいこといっぱいあったけど、もっと一緒にいたかったけど、私はお兄ちゃんの側からいなくなります。
ごめんなさい。ありがとう。
千佳より
PS.でも私のことは忘れないでね。これは私の最後のわがまま』
手紙はそこで終わっていた。
胸をじわりじわりと広がる何かがあったが、歯を食いしばって必死で堪えた。
千佳の最後の願いをきいてやりたかった。
それから文字を指でなぞりながら、何度も何度も読み返した。
千佳の言葉をかみ締めるように一字一句丁寧に、何度も何度も。
そこで、気づく。
便箋の中央に文字が透けて見えた。
裏に何か書いてあるみたいだった。
ひっくり返す。
とびきり綺麗な字で、一行だけ。
『PS2.私は幸せでした』
心臓がトクリと脈打った。
千佳の最後の言葉。
ごめんなさいとありがとうで埋め尽くされた手紙。
そこには、僕にとっての救いがあった。
幸せだったと、千佳は幸せだったと。
「ち……か……」
必死で押さえつけていた衝動はすでに僕の心を支配して、今にも溢れ出しそうだった。
千佳、約束するよ。
いい彼女見つけて、結婚して、子供いっぱい作るよ。
約束する。
幸せになるよ。
お前のことだって、絶対に忘れない。
だけど今だけはこうすることを許して欲しい。
今だけ……今だけだから。
「おお……おぉぉぉぉぉ!!」
今日、
妹が消えた。