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三『せめて消えるまで』

 目を覚ますと、やけに部屋の中が明るかった。

 ベッドの傍らに置かれた時計に目を向ける。

「しまった」

 随分と寝坊してしまった。

 一分一秒が惜しい時だっていうのに、なんて間抜け。

 急いで寝巻きを脱ぎ捨てて、箪笥から適当にシャツを取り出して着替えた。

 一階へと駆け下りて、顔を洗いながら千佳に声をかけた。

「ごめん寝坊した。朝飯どうした?」

 返事はなかった。

「千佳?」

 千佳の部屋の扉が少し開いていたから一階にいると思ったんだけれど。

 タオルで顔を拭きながら、居間へと進む。

 食卓の上にメモが置かれていた。

『少し出かけてくるね。夕方には帰ると思います。千佳』

 出かけてくる……か。

 ソファに腰かけて、なんとなしにメモを読み返す。

 僕と違って、読みやすい綺麗な字だ。

 母さんの字も、こんな風に綺麗だった。

『字にはその人の性格がでてくるんだよ。シンちゃんの字は元気がいいわね』

 字が汚い僕を慰めるためか、よくそういってコロコロと笑っていた。

 母さん、千佳は優しい子に育ったよ。

 僕の胸に、じわじわと痛みが広がった。

 千佳といられるのは、今日を含めてあと三日。

 ぐるりと居間の中を見渡した。

 今、家にいるのは僕一人。

 千佳が友達の家に泊まりにいったり、部活帰りに遊んできて帰りが遅くなったり、一人だけの時間なんて今までにもしょっちゅうあった。

 でも、今日はやけに寂しく感じた。

 落ち着かなくて、家中を歩き回った。

 父さんが遺してくれた家。

 一人で住むには……広すぎるよ。

 また居間に戻って、ソファにどっかりと腰をおろす。

 溜息をつくと、ふと、沢田さんの顔が思い出された。

 あの人も今、こうやって一人でいるんだろうか。

 ――笑ってよ。最後なんだからさ。

 立ち上がって、チェストボードの上においてある財布をジーンズのポケットに突っ込んだ。

 玄関に向かって自転車の鍵を手にとって、家を出た。

 前に酔いつぶれた沢田さんを送っていったことがあるから、マンションの場所は知っている。

 自転車にまたがって、勢いよく漕いでいく。

 ゆっくりするつもりだと行っていたから家にはいると思う。

 でも追い返されるかもしれない。

 それでも、いいや。

 行くだけいってみよう。

 途中見かけた店で、ケーキをいくつか買った。

 沢田さんの好みはわからなかったから適当に。

 家を出てから大体十五分くらいで着くことができた。

 小綺麗だけど、オートロックもついていないマンション。

 確か、ニ一五号室だっただろうか。

 郵便受けで名前を確認してから、階段を昇った。

 沢田さんの部屋の扉の前で立ち止まって、インターホンのボタンに手を伸ばす。

 最後の瞬間を邪魔してしまうんじゃないだろうか。

 彼氏もいないと言っていたけど、それは本当だろうか。

 急な弱気が僕を襲ったが、それらを振り切ってボタンを押した。

 甲高い音が響くと同時に、部屋の中で物音がした。

 はいはい、と部屋の中から沢田さんの声が聞こえて、扉が少しだけ開いた。

「どなたですかって、篠村くん?」

 チェーン越しに顔を覗かせた沢田さんが、ぱちくりと目を瞬かせた。

「どうも」

 軽く会釈する。

「ちょ、ちょっと待ってね」

 扉が閉まり、チェーンを外す音が聞こえた。

 その数秒後、今度は大きく扉が開かれた。

 ようやく見えた沢田さんの全身はいつもの印象とは違って、いかにも部屋着といったよれよれのシャツを着て、真っ白なジャージのズボンを穿いていた。

「どうしたの? 急に」

「あ、いや」

 沢田さんの当然といえば当然の問いに言葉を詰まらせる。

 何も考えずにここまで来てしまった。

 理由を強いて言うなら、会いたかったから。

 そんなこと言えるわけなくて、僕は視線を空中でうろうろさせながら、なんとか口実を探した。

「あ、なに? その袋。もしかして差し入れ?」

 いつまでたっても答えようとしない僕に業を煮やしたのか、沢田さんは話題を切り替えた。

「あ、はい。そこのケーキ屋で買ってきたんです」

「おー、気が利くじゃない。あがって。一緒に食べようよ」

 一歩下がって、僕を部屋の中へ招き入れる。

「お邪魔します」 

 中央に小さなテーブルと、部屋の隅っこには畳まれた布団とダンボールがいくつか置かれていた。

 たったそれだけ。

 部屋の中は、女性の部屋とは思えないほど閑散としていた。

「ごめんね。座布団でも出してあげたいんだけど昨日のうちに家具片付けちゃったのよ。あ、お皿はあるよ。ちょっと待って」

 僕を座らせて、沢田さんはダンボールの中身をあさりだした。

 自分が消えた後のために……か。

 一人で荷物を片付けていた沢田さんの気持ちを考えると居た堪れなくなって、僕は意味もなく頭をかきむしった。

「ごめん。フォークが見つからなかったから割り箸」

 申し訳なさそうに笑いながら、割り箸を乗せた皿を二つ、テーブルの上に並べた。

「連絡くれたらちゃんと準備もできたんだけどな。ちゃんと服も着替えられたし」

 怒ったような顔をして、テーブルを挟んで僕の向かい側に座った。

「すみません」

「冗談だって。さ、食べよっか。わお、四つもあるじゃない。二つずつ?」

「いえ、僕は一つでいいです」

「じゃあ三つ食べちゃうよ。好きなの選んでいい?」

「どうぞ」

「これと、これと……」

 真剣な顔で、ケーキを選んでいる。

 喜んでくれたみたいで、よかった。

「そういえばさ、社長に聞いたよ」

 ケーキを取り出しながら、呟いた。

「篠村くんの妹さんも私と同じなんだってね」

 僕とは視線を合わせず、沢田さんは続けた。

「今日来てくれたのは、私と妹さんを重ねて同情したから?」

「いえ……」

 咄嗟に否定しようとして、また僕は言葉を詰まらせた。

「そう……かもしれません」

 もし千佳に何事もなかったら。

 たぶん僕はここには来なかったかもしれない。

 大変だな、程度にしか思わなかったかもしれない。

「篠村くんは真面目だね」

 沢田さん上目遣いで僕を見た後、すぐに視線を手元へと落とした。

「嘘ついてくれた方が、うれしいときもあるよ」

「すみません」

 うつむき謝ると、沢田さんはクスクスと笑みをもらした。

「ほんと、真面目。冗談だってば。食べようか」

「……はい」

 沢田さんは箸を手にとって、ケーキを大きく開けた口へと運ぶ。

「おいしっ。知ってた? ここのケーキ、結構評判なんだよ」

 他愛もない話をしながらもう一口、頬張る。

「ほんとおいし……」

 そして急に、うつむいてしまった。

 その瞳に光るなにかがちらりと見えた。

 明るく振舞っていても、この五日間、いろんなものに耐えながら過ごしてきたんだろう。

 僕の無責任な言葉で沢田さんをひどく傷つけてしまった気がした。

 目をこすりながらケーキを食べる沢田さんに僕は何も言えず、ただ黙々と、同じようにケーキを口へと運んだ。

「ごちそうさま」

 僕がケーキを一つ平らげるのと同時に、沢田さんは三つ全て食べ終えた。

「ごめんね」

「いえ」

「誰かきてくれるなんて思ってなかったから……どんな理由でもうれしかった。ありがとう」

 そう言って、いつも通りの笑顔を僕に見せた。

 何か言おうと思った。

 だけど昨日みたいに、結局なにも言葉は出てこなかった。

「それで、悪いんだけど……そろそろ帰ってもらっていいかな」

 言いにくそうにして、沢田さんは目を伏せた。

「はい」

 対応の変化に多少驚きながら、立ち上がる。

「もう、そろそろだと思うから」

 その沢田さんの言葉に、僕の動きが止まる。

「消えるところなんて、見られたくないから」

 ひどく喉が渇いた。

 沢田さんが僕の背に手を置いて、玄関まで押しやっていく。

 何か一言でも残せたら。

 必死に考えた。

 でも何も思いつかないまま、さっき来た時のように、僕と沢田さんは玄関の前で向かい合っていた。

「本当にありがとう」

「いえ」

「篠村くんもつらいと思うけど……できるだけ妹さんの側にいてあげてね」

「……はい」

「それじゃあ、ね」

 ゆっくりと扉が閉まって、鍵のかかる音が聞こえた。

 結局、僕は何をしにきたのか。

 ポケットに手をつっこんで、階段を降りていく。

 不用意な言葉で、沢田さんを泣かせた。

 自転車にまたがって、力なくこぎだす。

 でも、ありがとうって言ってもらえた。

 それだけで、僕がここに来た意味はあったのかもしれない。

 ――誰かきてくれるなんて思ってなかったから

 沢田さんの言葉が脳裏をよぎった。

 ――うれしかった。ありがとう。

 自転車を反転させて、力強くペダルをこいだ。

 このままでいいもんか。

 せめて……せめて消えるまで……

 自己満足と言われてもいいから……せめて!

 自転車を捨てるように飛び降り、階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。

 間に合って……どうか!

 インターホンを押す。

 でない。

 もう一度押す。

 でない!

 開かないと承知で扉のノブに手をかけた。

 でもあっさりと、それは回った。

 扉を開き、そっと部屋の中へと入る。

 沢田さんの姿は……もうそこにはなかった。

 ケーキのクリームがこびり付いた皿が、テーブルの上にそのままになっている。

 テーブルの脇に、沢田さんが着ていた衣服が落ちていた。

 拾い上げる。

 まだ、暖かい。

「消えちゃったんだ……」

 僕の呟きが、むなしく部屋の壁に吸い込まれていった。

 確かにあの時、沢田さんは部屋の鍵をかけていた。

 どんな思いで消えていったんだろう。

 どんな思いで鍵をあけたんだろう。

 どんな思いで……僕が来るのを待っていたんだろう。

 職場だけの付き合いだった。

 特別に仲がいいわけでもなかった。

 でも、最後まで一緒にいてあげられたのは僕だけだったのに……

「馬鹿だな……僕は」

 拾い上げた衣服をハンガーにかけて、僕は主のいなくなった部屋を後にした。 


 玄関の扉を開けると、千佳の靴がだらしなく脱ぎ捨てられていた。

 二足の靴をきちんと整えて家へあがり、居間を覗く。

 千佳はテレビを見ていた。

「あ、おかえり」

 僕に気付いて、振り向く。

 ちらりと見えたその顔は、まぎれもなく千佳だった。

 でもたまに千佳を通して感じる母の面影が、消えてしまったように思えた。

「ただいま」

 そのまま居間を通り抜けて台所へ行き、手を洗う。

 タオルで水滴を拭いながら、千佳に声をかけた。

「夕飯、何がいい?」

 しばらく間をおいて、テレビの音と共に「からあげー」という声が聞こえてきた。

 冷蔵庫の中身を確認する。

 野菜はたくさんあったが、鶏肉は見当たらなかった。

「兄ちゃん、スーパーいってくる」

「あ、私も行く」

 靴を履きながら行き先を告げると、千佳も慌しく玄関へとやってきた。

「なにか欲しいものあるなら、買ってきてやるぞ」

「ううん、私も行く」

「テレビ消したか?」

「うん」

 てきぱきと靴を履いて、僕よりも先に家を出る。

 靴紐を結んで、僕も後に続いた。

「お兄ちゃん、夕日が綺麗だよ」

「うん」

 二人並んで歩く。

 そういえばこんなこと、最近はなかったかもしれない。

「今日どこいってたんだ?」

 見当はついていたけど、あえて聞いた。

「お父さんとお母さんのお墓に行ってきた」

 前を見ながら、そう答えた。

 千佳は何か嫌なことや、落ち込むことがあるとよく両親の墓参りに行く。

 別にそこに二人がいないことはわかっている。

 だけどそこにいけば、お父さんとお母さんが色々アドバイスしてくれるんだ。

 そう、千佳は言っていた。

「父さんと母さんはなんて?」

「うん。しゃきっとしろって」

「そっか」

 いかにも二人が言いそうなことだった。 

 千佳には母さんと過ごした思い出がない。

 だけど母さんの言葉を本能的に理解しているようで、それが僕にはうれしかった。

「なに笑ってるの?」

「いや、なんでもない」

 しゃきっとしろ、か。

 消えゆく千佳に僕ができること。

 沢田さんにはしてあげられなかったこと。

 僕の精一杯の力で、叶えてあげなくちゃいけない。

「千佳」

「なに?」

「なんか欲しいものあるか?」

「欲しいもの?」

 難しそうな顔をして、しばらくうなる。

「別にないかなあ」

「じゃあ、どこか行きたい所は?」

「うーん」

 腕を組んで、またうなる。

「あ、あそこ行きたいな。なんとか池」

「それじゃわからないな」

「なんだっけなぁ。神……神様の……」

「神の子池か?」

「そうそれ! そこ行きたい!」

「随分マニアックなところついたな。いいよ、明日行こうか。たぶん車で二時間もあればつくだろ」

「ほんとに? やったー!」

 今の僕に、唯一できること。

 それは、千佳の望むものを与えてやること、幸せな想い出を作ってやること。

 一つでも……一つでも多く。

 僕にはもう、それしかできない。


 妹が消えるまで、

 後、二日。 

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