二『撮らせてくれよ』
カーテンを開けると、空は憎たらしいほど晴れ渡っていた。
頭が重い。
どれだけ眠られただろうか。
疲れが全く取れていなかった。
一階に降りて洗面所に入り、鏡の前にたった。
目の下にひどいクマができていた。
冷たい水で顔を洗っても、頭にかかる靄を払うことはできなかった。
台所へ行き、朝食の準備をしようとしてふと気付く。
昨日の夕飯で使った皿を片付けていなかった。
時計を見ると、まだ千佳が起きてくるまでに十分な時間があった。
袖をまくって洗い物に取り掛かる。
二枚目の皿を洗い終えたとところで、背後から声をかけられた。
「おはよー!」
振り向くと、千佳がそこに立っていた。
寝癖で所々、髪の毛がはねている。
「ああ、おはよう」
僕の返事を待ってから、千佳はいつもの席についた。
千佳は学校の制服を着ていた。
「学校いくのか?」
「うん」
大きな欠伸をして、答えた。
千佳もあまり眠れなかったのかもしれない。
蛇口を捻って水を止め、トースターに食パンを二枚つっこんだ。
冷蔵庫から卵とレタス、ソーセージを取り出す。
「あんまり変わらないうちにみんなに挨拶しておこうと思って。今なら髪を染めたって言えばごまかせると思うから」
弱々しく笑う千佳の顔は、少しだけ肌が白くなっていた。
「そうか」
「それとなくね、お別れいいたいんだ」
僕の手の中でぐしゃりと卵がつぶれた。
「大丈夫?」
「ちょっと、力入れすぎた」
卵白でベタベタになった手を拭う。
「待ってろ。すぐ朝食つくるから」
「うん。お腹空いちゃった」
再度冷蔵庫をあけて、新しい卵を取り出す。
「あ、お兄ちゃん。ついでにジュースとって」
「ん」
紙パックを取り出して、千佳の目の前に置いた。
「これ、牛乳だよ」
「牛乳だな」
「ジュースがいい」
「一日一杯」
「もう」
「コップは自分で取れ」
「うん」
食器棚からコップを取り出して、そこに牛乳を注ぐ。
鼻を近づけて顔をしかめた後、嫌そうに一気に飲み干した。
その千佳の様子を見届けてからフライパンを火にかけて油を引き、卵をおとした。
あと何回、こうやって千佳のために食事をつくってあげられるだろう。
千佳はもう普段通りのように見える。
でもちょっとした仕草がどこかぎこちなかった。
無理をしている。
当然、僕も。
どうか、千佳のクラスメイトがいつも通り接してやってくれることを願ってやまない。
そうすれば、千佳も幾分か救われると思うから。
小皿を取り出してレタスを敷き、その上に目玉焼きとソーセージを乗せた。
もう一枚皿を出して、焼きあがったトーストを置く。
「運ぶの手伝え」
「うん」
食卓に四枚の皿が並ぶ。
いつの間に持ってきたのか、千佳の前にはオレンジジュースのペットボトルが置かれていた。
「いただきまーす」
トーストにイチゴジャムをたっぷり塗って、口いっぱいに頬張る。
おいしいそうに顔を緩ませた。
「今日は兄ちゃんも仕事いってくるからさ。家の鍵もっていくの忘れるなよ」
「うん。わかった」
昨日僕は、仕事を無断で休んでしまった。
携帯に何件も職場からの着信履歴が残っていたことに気付いたのが、夜の十一時だった。
そんな時間に電話をかけるわけにもいかず、結局まだ連絡はとっていない。
いくら気が動転していたとはいえ、随分と迷惑をかけてしまった。
「ごちそうさま」
僕がトーストを半分かじったあたりで、千佳は食事をすべて平らげてしまった。
食器を流しへ持っていき、居間を出て行った。
遠くから水の流れる音が聞こえる。
僕が食事を終えた頃、千佳は居間へと戻ってきた。
「もう行くのか?」
「うん。このくらい早く出れば電車も空いてると思うから。寝癖、大丈夫かな」
「ばっちり」
「よかった。あ、でも帽子かぶっちゃうから関係なかったかな」
ニット帽を手にとって、はにかんだ。
昨日と同じように顔が半分隠れるほど深く、帽子をかぶった。
「行ってくるね」
鞄を持って、玄関へと向かう。
「気をつけろよ。ハンカチ持ったか?」
「うん、もった。行ってきます」
「いってらっしゃい」
僕に手を振って、千佳は家を出た。
これが最後の見送りになるんだろうか。
嫌な考えを頭を振って追い出し、僕も身支度を整えた。
できるだけ早めに行ったほうがいいだろう。
しっかりと戸締りをして、玄関の扉を開けた。
徒歩で十分ほどすると見える小さな工場が、僕の職場だった。
今にもつぶれそうに見えるが、いくつか特許を取得しているためしばらくその心配はないらしい。
工場の前を通り過ぎて、隣にある事務所の中へと入る。
社長が一人、机に向かって書類と格闘していた。
扉を閉めると、その音に気付いた社長が顔を上げた。
「おお、真治くん!」
ボールペンを机の上に放り投げて、僕へと駆け寄る。
社長が立ち止まるのを待って、頭を下げた。
「あの、昨日はすみませんでした」
「いいよいいよ。それよりなんかあったのかい? 千佳ちゃん大丈夫?」
父の親友だった社長は、うちの家庭事情を少なからず知っている。
今まで僕が仕事を休んだときは必ず千佳が体調を崩したときだったから、昨日の無断欠勤は千佳に何かあったと察してくれたんだろう。
頭を上げると、少し僕より背の低い社長が、不安げに僕を見上げていた。
「もう心配で心配でねえ。電話も出ないし……事故とかじゃないよね? 入院とかしちゃったのかい?」
「いえ、事故とか……入院もしてないです」
「そうかそうか。よかったよかった」
父が亡くなってから、社長はよく僕達の世話を焼いてくれた。
千佳を自分の娘のように可愛がってくれていた。
そして、僕達が路頭に迷うことなく生活できているのも、社長が僕をここに拾ってくれたおかげだ。
この人に、千佳のことを話さないわけにはいかなかった。
「あの、社長」
「ん? なんだい?」
でも、なんて言えばいいのか、わからなかった。
「いえ……無茶を言っているのはわかってるんですが、すみませんが後五日……四日ほど休ませていただけないでしょうか」
「五日?」
社長の顔色が変わった。
「もしかして、千佳ちゃん……」
押し黙りうつむく僕を見て、社長は口をつぐんだ。その気遣いが、嬉しかった。
「そうか。千佳ちゃんがねえ……」
腕を組んで、大きな溜息をついた。
「うん。仕事のことは気にしなくていいから。ずっと千佳ちゃんの側にいてあげなさい」
「ありがとうございます」
もう一度深く、頭を下げた。
「ほんとに……理不尽だねえ。沢田くんも今日でやめちゃうし」
「沢田さんが?」
特別親しいというわけではなかったけれど、小さな職場だ。
顔を合わせば、よく立ち話なんかをしていた。
でも沢田さんがやめてしまうなんて話は初耳だった。
「どうしてやめるんですか?」
「それがね、うーん」
ちらりと僕の顔を見る。そこで、僕は理解した。
そうか、沢田さんも……
「とりあえず、仕事は大丈夫だからね。今日はもう帰りなさい」
「いえ、今日は千佳は学校いってるんで、仕事していきます」
「ダメダメ。そんなことしてる場合じゃないでしょう。帰りなさい」
「……はい」
押し切られる形で、僕は事務所を後にした。
扉が閉まる間際、三度頭を垂れた。
千佳に、沢田さん。
あのわけのわからない病は、確実に僕の周りを蝕んでいた。
この憤りをどこにぶつけていいのかわからず、ポケットの中で強く、拳を握り締めた。
「あ、篠村くんじゃない」
振り向くと、見知らぬ女性が僕に手を振っていた。
「無断欠勤なんて勇気あるよね。社長オロオロしてたわよ。面白かったんだから」
じっくりと声を聞いて、気付いた。
聞き覚えがあった。
「沢田さん?」
「あ、ごめん。わからなかった?」
にこやかに微笑んだその顔には、僕の知っている沢田さんの面影は全く残っていなかった。
「どう? 結構、美人になったと思うんだけど」
腰をくねらせて、不自然なほど整ったボディラインを強調した。
無理を、しているんだと思う。
明るい人ではあったけど、こんなことをするような人ではなかった。
「何日目ですか?」
「え?」
唐突に投げかけられた僕の質問に、沢田さんは目を丸くした。
「変わって、何日目ですが?」
沢田さんはしばらく地面に視線を落とした後、躊躇いがちに口を開いた。
「四日……かな」
「そう、ですか」
予想はしていたけれど、とても受け止め切れなかった。
「そんな顔しないでよ。私も気が滅入っちゃう」
「今日でやめるって聞きました」
「うん。今日中に仕事を片付けられるだけ片付けちゃって、明日は家でゆっくりするつもり。いつ消えるかわからないから」
「そう……ですか」
「家族にはなんて言ったらいいかわからないから知らせてないし、彼氏もいないから寂しいもんよね」
頭を掻きながら、笑って見せた。
その姿がなんだか痛々しくて、思わず僕は目を伏せてしまった。
「篠村くん、もう帰っちゃうの?」
「はい……しばらく仕事を休むんです」
「そうなんだ。じゃあこれでお別れだね」
「はい……」
俯く僕の額を、沢田さんが軽くこづいた。
「笑ってよ。最後なんだからさ」
「すみません」
精一杯、笑顔を作った。
でもたぶん、ひきつっていたと思う。
「うん。まあいっか。じゃあ、ね」
「……はい。それじゃあ」
沢田さんは僕に手を振って、事務所へと入っていった。
こんな最後でよかったんだろうか。
もっと何かできたのなら……でも、沢田さんに不安を取りのぞけるほどの言葉も余裕も、今の僕にはなかった。
家に戻って、居間のソファに寝そべった。
千佳がしっかりと授業を受けてくるのなら、帰ってくるまでまだ六時間ほどある。
それまでどうしてろっていうのか。
本心を言えば、仕事で気を紛らわしたかった。
体を起こしてテレビをつけた。
普段こんな時間にテレビを見ることはないから、しばらくは新鮮な気持ちで見ていられたけれど、一時間ももたなかった。
テレビを消して、またソファに身を投げ出す。
一人は、たまらない。
目を瞑って、千佳のことを考えた。
学校の友達とちゃんと話せているだろうか。
友達は千佳を避けずにちゃんと受け止めてくれているだろうか。
笑っているだろうか、なにか困っていないだろうか。
情けない願いだと思う。
でもどうか、何もできない僕の代わりに千佳の心の隙間を少しでも埋めてあげて欲しいと。
切に、そう願う。
目を開けると、部屋が薄暗くなっていた。
窓から夕日の淡い光が差し込んでいる。
視線を彷徨わせてなんとか時計を視野におさめる。
もう五時をまわっていた。
いつの間にか眠ってしまったみたいだった。
体を起こすと、毛布がふわりと床に落ちた。
「あ、起きた?」
台所から千佳が顔を出す。
「帰ってたのか」
「うん」
ジュースの入ったコップを持って、ソファの空いた部分に腰かける。
「学校、どうだった?」
「……うん」
コップに口をつけて、こくりと喉を鳴らす。
「学校、行かなかった」
テーブルにコップを置いて、バツが悪そうに笑った。
「すぐ近くまで行ったんだけど、急に怖くなって行けなかった」
「そっか。今までどうしてたんだ?」
「漫画喫茶で漫画読んだりしてた」
「すぐ帰ってくればよかったのに」
「……うん」
千佳がそうできなかった理由なんてわかりきっているのに、そんなことを口にした。
万が一僕が早く家に帰って来たときのことを考えて、心配かけまいと学校が終わる時間まで暇を潰していたんだろう。
でも嘘がつける性格ではないから、正直に話してしまったんだ。
「お兄ちゃんはどうしたの?」
今度は千佳が僕に質問をした。
「仕事さ、しばらく休むことにした」
「……そうなんだ」
「明日も仕事にはいかない。千佳はどうする? 学校に行くか?」
千佳はジュースを飲みながらしばらく考えた後、呟くように言った。
「友達には手紙書くよ。やっぱり、ちょっと怖い」
「そうか、じゃあうちにいろ」
「うん」
ぎこちなくはにかむ千佳の顔を見つめる。
千佳も沢田さんのように、あと何日もしないうちに別人になってしまうんだろうか。
「どうしたの?」
「いや、別に」
たぶん、なってしまうんだろう。
治してあげることは、僕には出来ない。
じゃあ何ができるのか。
「あ、そうだ」
「なに?」
いいことを思いついた。
「ちょっと待ってろ」
居間を出て、階段を駆け上がった。
自分の部屋に入って、机の一番上の引き出しを開ける。
たしかこの中に……あった。
千佳の高校の入学式の時に買ったばかりのデジカメを持って、居間へと戻った。
「そのままじっとしてろ。写真とろう」
「写真? いいよそんなの」
飲みかけのジュースを置き去りにして、千佳は台所へと逃げ出した。
千佳はあまり写真を撮られる事が好きじゃない。
だから千佳が写った写真はあまり家に残っていなかった。
「いいから、座れ」
「でも……」
台所から顔を半分だけ出して、小動物のような目で僕を見つめる。
「座れって」
「……」
「撮らせてくれよ」
「……うん」
観念したのか、僕が指定した場所に腰かける。
そして、カメラに向かって柔らかく微笑んだ。
母さんに、よく似ていた。
「こんな感じでいい?」
「ばっちり」
何度もカメラのシャッターを切った。
その度に、千佳は恥ずかしそうに頬を染めた。
せめて、千佳が千佳がなくなってしまうその前に、この愛らしい姿を一枚でも多く残して置いてやりたかった。
妹が消えるまで、
後、三日。