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名付け

 視界の半分を拒絶するように流された、長い前髪を持つ女性が、こちらを見て口角を上げた。


「マジで魔眼じゃ~ん。すご~い」


 まるで緊張感に欠ける喋り方だ。


「…えっと、あなたは?」


「アタシ? 見ての通り、しがない給仕。あ、でもこの酒場の看板娘って呼んでくれてもいーよ?」


 女性はトレイを片手で器用に回しながら、リシェラの横の丸椅子に、どかっと腰を下ろした。


 酒場?何故そんな所に居るのだろうか?

 混乱する頭を抑え、辺りを見渡す。

 木の温もりが残る殺風景な一室。壁に掛けられた古びたランプが、かすかに油の匂いを漂わせている。

 ここは戦場ではない。かといって、聖職者が管理するような清潔な救護施設でもなかった。


「あー、ここね。一階が酒場で二階が宿屋になってんの。リシェラちゃんが、ボロボロのおにーさんを連れて必死に駆け込んできた時は、流石に「マジか~」って思ったけど」


 給仕の女性は、リシェラの頭をぽんぽんと叩いた。リシェラは少し恥ずかしそうに頷く。


「……リシェラが、運んだのか?」


「まさか~。こんな女の子に、意識を失った、年頃の男の子を運べるわけないじゃ~ん。実際におにーさんをここまで担いできたのはさ――」


 女性はトレイの端を指で弾き、皮肉を込めた笑みを浮かべた。


「あの機械的な男。クーガのやつだよ」


 予想外の言葉に、心臓を直接掴まれたような衝撃が全身を駆け巡った。



「……クーガが、俺を?」


「そ。アイツ、おにーさんをこの店の前にドサッと置いてから、そのままどっか消えちゃった」


 まさか、あのクーガが俺を運んで、回復の手助けをしてくれるとは…


「ところでさ~。気になってたんだけど、おにーさんとリシェラちゃんはどーゆー関係なわけ~?」


「……関係?」


 不意を突かれ言葉につまる。

 友達?いや違うか。赤の他人と言うと少しよそよそしすぎる気がするし…

 今の最適解は…


「拾い主と拾われものだ…」


 一瞬、沈黙が訪れる。しかし、その沈黙は、女性の笑い声によって破られる。


「ぷっ。それ、おにーさんが拾われものって言うこと?面白いこと言うね、おにーさん。リシェラちゃんはそれでいいの?」


「え?えぇ。まぁ合ってる、わ?」


 リシェラの戸惑い混じりの肯定に、女性はますます面白そうに肩を揺らした。


「ま、いいや。アタシはミレッタ。ミレッタ・ガネッシュ。この酒屋兼宿屋の看板娘。……で、その自称、拾われもののおにーさん。いつまでも『おにーさん』じゃ呼びにくいし、そろそろ名前、教えてくれない?」


「……名前、か」


 意識の奥底。いくら記憶の海を探っても、自分を証明する言葉は一つも浮かんでこない。

 失った過去は、今や取り戻し方の分からない空白だ。


「……名前は、ない。正確には、分からないんだ」


「「え?」」


 二人から、驚きの声が漏れた。


「名前が分からないってどーゆーこと?」


 片方しか見えない目を見張るミレッタの横で、リシェラが固まっている。


「もしかして、その反応…リシェラちゃんも知らなかった感じ?」


「え、えぇ」


「……文字通りだよ。名前も、他のことも、何も思い出せない」


 ただ一つ、再構築リビルドを除いて、だが――


「記憶……喪失、ってこと?」


 ミレッタが、片方しか見えない目をさらに大きく見開いた。リシェラも、隣で息を呑んでいるのが分かる。


「あぁ。リシェラと出会う少し前に目が覚めた時には、自分が何者かも分からない、空っぽの状態だった。リシェラにも、言う機会がなくて…」


「え、あ……ごめんなさい。私、そんなことも知らずに……」


 慌てて謝ろうとするリシェラを、俺は片手で制して言った。


「リシェラが謝る必要はないよ…」


「……へぇ」


 ミレッタは呆れたように、あるいは同情を隠すように鼻を鳴らした。


「道理で、変に透かした態度だと思った。中身が空っぽなら、そりゃあ愛想を振りまく余裕なんてないよね」


 彼女はトレイを小脇に抱え直し、先程の笑みを消し、少しだけ真剣な眼差しをこちらに向けた。


「でも、いつまでも『拾われもののおにーさん』じゃ不便でしょ?……ここから先をやり直すための名前くらい、自分で決めなよ。……何かあるんじゃないの? しっくりくる音がさ」


「…………」


 しっくりくる音。名前を無くしたこの俺に。

 空っぽのこの俺に。

 一つ、覚えている言葉があった。それは確か、からや無を意味する単語。

 記憶を失くした人が、歩き方、喋り方を忘れないように、これは記憶に定着していた単語だった。


 俺は薄く、自嘲気味な笑みを浮かべ、その音を唇に乗せた。


「……『ファイ』だ」


「ファイ?空っぽの?」


 ミレッタは不思議そうに眉を寄せたが、すぐに肩をすくめた。


「ふ~ん……。ま、おにーさんがそれでいいならいいけど…。じゃあ、改めて、よろしくね、ファイ」



 ミレッタはそう言うと、ふと思いついたようにいたずらっぽく目を細めた。


「でもさ、ただの『ファイ』だと物足りないし。……そうね、アタシが姓を付けてあげる」


「姓?」


「そ。クーガやリシェラちゃんみたいなのはまた別として……。姓と名、両方あった方がいいでしょ?それにアタシ、人生で一度は名付けやってみたかったんだよね~」


「そう、か……」


 あまりの話の進む速さについていけない俺を置き去りに、ミレッタは話をさらに進める。


「よし!ちょっと考えるから待ってて~」



 二分ほど唸った後、ミレッタが何か思いついたように顔を上げた。


「決めた!あんたの姓、『ニアス』ってのはどう!?」


「……にあす?」


 聞き慣れない響きに、俺は眉をひそめる。ミレッタは自慢げに人差し指を立てて、説明を始めた。


「意味は…忘れちゃった…。確か、新しい?真っさら?みたいな……。そこら辺はいーのよ、そこら辺は。重要なのは響き、でしょ?」


「ま、まぁ…」


「リシェラちゃんもいーと思うでしょ?」


「えぇ。爽やかでいいと思うわ」


「よし、決定!」


 ミレッタは満足げにパンと一つ手を叩くと、古びた宿帳を後ろの机から取り寄せた。


「え~っと……『ファイ・ニアス』っと。はい、これで宿帳への登録も完了!しばらくは泊まるんでしょ?稼ぎ時ね!」


「……勝手に決めるな。俺はいつまでここにいるとも言ってない」


「いいじゃない。行く宛ができるまではアタシが面倒見てあげるって言ってるの。文句ある?」


 ミレッタは少し意地悪く笑う。



 ファイ・ニアス――



 その音を、俺はもう一度、心の中で反芻する。

 新しいだの真っさらだの、彼女が並べた適当な意味。


 だが、過去を一切持たない今の自分にとって、その空虚さを肯定してくれるような爽やかな響きは、不思議と悪くない心地だった。

 リシェラが穏やかな微笑みを湛えながら、俺の顔を覗き込む。


「素敵な名前ね」


 俺は窓の外に広がる見知らぬ青い空を見上げた。


 ファイ・ニアス。

 誰でもなかった俺に、初めて与えられた仮初めの居場所。

 記憶を失くした俺の人生が、ここからどうなっていくのか――


「……ま、よろしく頼むよ。ミレッタ、リシェラ」


「ええ、よろしくね、ファイ!」


「こちらこそよろしくだよ~」


 ミレッタの明るい声が、リシェラの優しい声が、静かな部屋に心地よく響いた。



 ――同刻、路地裏


「おい、本当にこの街からでてねーのかよ~。賞金首の野郎~」


 カツ―― 音が迫る。


「バカッ、お前、他のやつに聞かれちまうだろう!?」


「でも、もう一日経ったぜ~?やっぱもういないんだよ~」


 カツ―― カツ―― 音が迫る。


「ヘッ、まさか。この街、『要塞都市』からそう簡単に出れるわけねーだろ?超高値の賞金首だぞ?」


「ま~。そうか~」


「だから、他のやつらに見つかる前に、俺らで捕まえて賞金は山分け!最高だろ~?」


 カツ…… 音が―止まる。


「うっし!頑張るか~」


「その話……」


「「へ?」」


動こうと腰を上げた、チンピラ風の男たちの動きが止まる。


「私にも詳しく話してもらえませんか?」


 そこに立っていたのは、黒いフードを深く被った、青い目の男だった――

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