第十二話:最初の交渉
執務室の空気が、氷のように張り詰めていた。
アンナとサラは私の後ろで息を殺し、目の前に立つ女官長の威圧感に完全に呑まれている。無理もない。後宮の侍女たちにとって、彼女は皇帝陛下の次に逆らえない存在なのだから。
「どうぞ、お掛けになって。女官長」
しかし、私は落ち着き払っていた。にこやかにお茶を勧めると、彼女は値踏みするような視線を私に向けたまま、ぎこちなく椅子に腰を下ろした。
「単刀直入に伺います、リディア様」
女官長は、あえて私を「妃」ではなく「様」付けで呼んだ。それは、私を妃として認めていないという、彼女なりの牽制だろう。
「あなたのその『計画』とやらは、この後宮の長年にわたる伝統と秩序を著しく乱すものです。侍女たちが本分を忘れ、畑仕事だの菓子作りだのに浮かれ、規律が緩みきっている。そもそも、妃でありながらこのような真似をなさるのは、あまりに分不相応ではございませんか?」
矢継ぎ早に繰り出される厳しい言葉。それは、彼女がこの後宮の秩序を守るという、強い責任感から来るものだと私にはわかっていた。
「女官長のおっしゃる懸念、ごもっともです。突然の変化は、混乱を招きかねませんものね」
私はまず、彼女の主張を一度受け止めた。意外な言葉だったのだろう。女官長の眉が、わずかにぴくりと動く。
私はその隙を逃さず、手元の資料の束を彼女の前に差し出した。
「ですが、こちらの資料をご覧ください」
「……これは?」
「私の組合が活動を始めてから、この一ヶ月間の侍女たちの動向をまとめたものです。例えば、病欠率。先月比で三割減少しています。次に、備品の紛失・破損率。こちらは四割減少。そして、厨房から出る食料の廃棄率に至っては、半分以下になりました」
私の言葉に、女官長の目が驚きに見開かれる。彼女は信じられないといった様子で、資料に記された数字を食い入るように見つめた。
「侍女たちの労働意欲の向上は、結果として後宮全体の運営コストの削減に繋がっているのです。これは『浮ついている』のではありません。『効率化』です。彼女たちは、自分たちの手で職場環境を良くできると知り、仕事への責任感と誇りを取り戻しつつあるのです」
感情論ではない。具体的なデータと、それによってもたらされた紛れもない事実。
女官長はぐっと言葉に詰まり、もはや反論の言葉を見つけられないようだった。
私は畳み掛ける代わりに、そっと彼女に手を差し伸べるように言った。
「わたくしは、女官長が長年かけて築いてこられた、この後宮の秩序を壊したいわけではございません。むしろ、より良く、より強くしたいのです。そのためには、あなたの長年のご経験と、後宮の隅々まで知り尽くしたその知識が、どうしても必要なのです。どうか、わたくしにお力をお貸しいただけませんか?」
相手を打ち負かすのではなく、敬意を払い、仲間として引き入れる。それが、私の交渉術だった。
女官長は、しばらくの間、複雑な表情で私を見つめていた。侮蔑と警戒、そしてほんの少しの感嘆が入り混じったような、不思議な表情。
やがて彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
「……ひとまず、お手並み拝見とさせていただきます」
それだけを言い残し、彼女は静かに執務室を去っていった。
完全な勝利ではない。しかし、確実な一歩だ。
「や、やりましたね、妃様……!」
アンナとサラが、こらえきれずに駆け寄ってくる。私は安堵のため息をつきつつも、すぐに気を引き締めた。
「ええ、第一関門は突破ね。でも、本当の仕事はこれからよ」
私は壁に掛けられた後宮の巨大な地図を見据え、仲間たちに最初の「勅命」を下した。
「アンナ、サラ。後宮内にある全ての厨房……侍女用、衛兵用、そして妃様方のものまで、全ての責任者たちに召集をかけてちょうだい」
「えっ、厨房の責任者を、ですか?」
「ええ」
私は不敵に微笑んだ。
「勅命による、第一回『後宮給食改善会議』を開きます、とね」
壮大で、そして私らしい、後宮改革の第一歩が、今、まさに始まろうとしていた。




