50.夜明け
深い紺色の空が薄っすら白んで来た頃。平民街の広場には布に包まれた巨大な板状のものが運び込まれた。
吟遊詩人や旅芸人が使う舞台に木枠が組み立てられ、予定になかった騒音によりいくつもの窓が開いていく。
「なんだあれ?」
「収穫祭の準備にしちゃあ早すぎねぇか?」
「大きな劇団でも来るのかね?」
十月の末日、学院戦の三日間は民も一年の恵みに感謝し、翌年の豊穣を願って大きなお祭りが開かれる。
広場にある剥き出しの舞台は野外劇場へと変わり、昼夜問わず劇団が演劇を披露したり歌を唄ったりと大賑わいになるのだが、いまはまだ第一週の終わりである。住民は「今年はえらく早いうちから準備を始めるんだな」と不思議がっていた。
あっという間に出来上がった木の土台に、布に覆われた例の板みたいなものが設置される。
男たちが紐を解いて布を取り払った時、そこに命の加護を降ろしたような桃色混じりの朝焼けが映り込んだ。
「ありゃ鏡だ!」
「貴族が使う上等のもんだぜ」
時を同じくして、平民のなかでも富裕層が集まる区域では口を布で覆った男たちが紙束を配って回っていた。
ちょうど玄関先の掃除をしていた下女は「なにかしら?」と思って、箒を持ったまま門の方まで様子を見に行く。
横から「キイー……」と門の開く音がしたかと思えば、隣の屋敷から出てきた男と目が合った。
「おはようございます、こちらをそちらの旦那様に」
「うちに? 文字がびっしり。封もせずにどちらから?」
折り畳まれた何枚かの紙には簡単な図と文字があった。普通は丸めて蝋封するか折り畳んで封筒に入れるのに、これでは手紙の中身が読めてしまう。
「王宮からです。他のお屋敷にも同じものを配っておりますよ」
「あらそうなの。贅沢なこと」
よほど急ぎのことなのかしら、と表紙に書かれてある文字を少し読んでみる。下女である彼女にも「疫病」や「注意」といったよく使う言葉は読めた。
下女はお礼を言うと掃除を中断して慌てて屋敷に駆け込んだ。
「旦那様、王宮から書が届きました!」
「……ん、ぁ? 王宮から?」
商人が国王陛下から直接書を賜わることなど先祖数代遡って一度あるかないかだ。
男は慌てて飛び起きて下女の持つ紙束を受け取った。じっくり端から端まで舐めるように読み込んでいる。
「なんだ、これは……? 大変なことになったぞ……」
「旦那様、もしかして王都にも疫病が?」
「うむ。それよりも…… この書だ。市街にも配られるらしい。広場に行くぞ、準備しろ」
その紙には最厄期における疫病の正体や、それが学院生から広がったことで予想の数倍は凶悪だということが書かれていた。
それでも商人として広場に向かわずにはいられない。
男は急いで身支度を済ませると市場の通りを抜けて広場へ向かった。
どの店も売り子はおらず、積荷がそのままになっていたり、準備を始めた形跡すらない店が目立つ。かと思えば路地から飛び出てきた男たちが「急げ! こっちの広場も満員になっちまう!」と、団子になって走って行った。
王都にあるすべての広場で同様のことが起こっている。
曖昧な色味をしていた空はすっかり青々とした秋晴れへと変わっていた。男は「ゴーン……」と鈍く重い鐘の音と同時に広場へと足を踏み入れる。
「俺にもくれ! 一枚頼む!」
「おい、いま足踏んだやつ誰だ!」
「ヨォ、旦那! 遅かったじゃねぇか。こっち空いてんぜ!」
群衆の外れで見知った顔が手を上げるのが見えた。人をかき分けてそちらに向かう。広場の外周に沿った段にもぎっしりと人が腰掛けていた。
「すごい人だな。それよりお前、配られた紙を見せてくれ」
「いいぜ。でもちゃんと返してくれよ? あとで売れるかもしれねぇからな」
「おやまあ。お前さん、俺よりよっぽど商売の才があるじゃないか」
ヘヘン、と鼻を擦る男を横目に商人はあたりで配られているその紙を見た。自宅に届けられた“新聞”とは違って一枚だけの簡単なものだ。
言葉も分かりやすく要点だけが書かれている。
「コーキョージギョーってやつだろ、それ。お貴族様は太っ腹だねぇ」
「よさないか。民のためを思って身銭を切ってくださったんだぞ」
「元はオイラたちの税金じゃねぇか。マァ、喜んでる奴らは多いけどよ」
簡単な言葉の綴りであっても文章を目にする機会は貴重だ。
これまで日用品の名前や値段、工房で働く者は仕事で使う決まった言葉くらいしか読み書きできなかったが、これからは少しずつ読める言葉が増えていくだろう。
「それで、どれくらい読めたんだ?」
「ん? まあだいたいは。ずっと吟遊詩人が読んでくれてたしな」
広場の前方で紙を配る男たちに紛れて少々派手な服を着た男が声を張り上げていた。喧騒でかき消されて内容は聞こえないが、繰り返しこの書を読み上げているらしい。
そうこうしているうちに、舞台に設置された大鏡がパッと像を変える。
「お、おお…… 広場でというのはこういうことだったのか……」
「ありゃ誰だ?」
「宰相様だよ。宰相チャールズ・ロランス閣下だ」
「うわ! 絵が動いた! 動いたよな!?」
肖像画よりもずっと鮮明な絵は、一度目玉を下に向けたあとまた真っ直ぐこちらを見る。
鏡の両側に取り付けられたラッパのような飾りから「コホンッ!」とひとつ咳払いが聞こえた。
『オラステリアの民よ。私は宰相チャールズ・ロランスである——』
これが魔法か。すごい時代になったものだ……
大きな商家では高額な魔鉱石を購入して転送の魔導具を使ったりしているが、これほど大きな仕掛けは滅多にお目にかかれるものではない。
平民にとって魔法といえば神殿で受ける治癒だとか、祝祭に行われる儀式なのだ。
チャールズは疫病のことや王都の現状をゆっくりと噛み砕いて説明する。新聞に書かれていたことであったため、男は比較的落ち着いて聞いていられた。
王都に病が蔓延する可能性があると言われれば群衆はどよめき、原因となった貴族の娘が厳しい懲罰を与えられると聞けば憤慨する間もなく身をすくませた。
極刑に近しい処分だった。最厄期といえど、法を犯したわけでもない未成年の処罰がこれほど短時間で決まるというのは異例の事態である。
これがもし平民であったなら、家族まとめて——いや、村ごと消されてもおかしくない。緊張が走る広場にチャールズの穏やかな声が響く。
貴族と平民の分断が幸いし規律を守れば危険はないこと。
これまで治療困難だった病に対抗する新しい魔術ができたこと。
最厄期のうちは「悪意なき過失」であっても厳しく処罰すること。
他にも細かな決まり事や生活する上での注意点が説明される。
『——皆が日々の生活に注意を払えばこの病もじきに収束するだろう。身を清め、充分な食事と睡眠をとり、健やかに過ごしてほしい』
最後にチャールズは一枚の紙を広げて見せた。
条文の最後に王の署名と印章があり、その下にはずらりと元老院の署名捺印が並ぶ。
「これってよぉ、病気になったらしょっ引かれるってことか?」
「いいや。いまもギルドや関所で消毒だの検査だのしているだろう? それを拒否したり許可なく領地間を移動したりしたら捕まるってことだな」
「んじゃ、旦那も商売続けられるんだな」
「まあ…… 今後はどこから仕入れるか見極め直さなくてはならんだろうがな」
取引可能な領地のなかでもなるべく病の流行っていないところがいい。それか、しばらく商売は休んで新しい事業に手を出すのも良いかもしれない。
新聞には他領で始まっている人材派遣の事業についても書かれていた。伝手を頼りに噂程度しか聞いていなかったが、もし王都で一番に事業を成功させればギルド長になることも可能だ。
今日から忙しくなる。
きっと他の商人たちも同じことを考えているだろうから。
◆
山の頂上にある貴族学院は酷い有り様だった。
一番穏やかに過ごしていたのは検査で陽性となり隔離されていた病人たち。あとは戦力外の下級生くらいだろう。
突然自室に軟禁され、審問会では不安と緊張と怒りで感情を忙しくして、もう身も心も疲労困憊というところに、魔導具を使った大量の印刷作業。紙の準備からインクの補充、出来た紙面をまとめて折りたたみ、木箱に詰めて別室に運んだり。
成人の魔術士志望者たちはどうせ使うからと魔導具を作らされるし、どの作業にも向かない者は寮室の掃除をさせられ、結局中級生以上の生徒はみんな大忙しだった。
夜が明け、チャールズの演説が放送される頃にはヘトヘトになって寝台に倒れ込んだり、自室に戻る気力もなくラウンジの長椅子でダラダラおしゃべりしていた。
「ハー、やっと終わった」
「オレもう腕上がらんわ」
「木箱見るだけで吐きそう」
「俺は紙の匂いで吐く自信ある」
「え、いまの聞いた? クラブ出禁ってこと?」
「なに? なんか言ってた?」
いつもなら姿勢を正して真剣に聞く宰相殿の演説も今日はほとんどの者が聞き流している。
「貴族はしばらく外出を控えるようにだって」
「嘘、いつまで?」
「さあ? 二週くらいじゃない?」
「あ、そういえばあいつ昨日クラブ行ってたらしいじゃん?」
クラブのお姉さんに恋をした少年Aは遠くから「どうだったー?」と雑に聞かれて「うるさい死ね」とだけ返していた。
◆
昼過ぎ、シェリエルの寝室では。
高熱を出してウンウン唸るシェリエルの傍らで、二人の男が言い争っている。
「は? なんでお前が看病するわけ?」
「適任だから?」
「もう治療は終わったんだろ? だったらお前である必要無いはずだ」
「君の結界は心許ないだろう」
「命の加護があるので多少は平気ですぅー」
「みっともない喋り方はおやめよ」
「わざとに決まってるだろうが!」
「——お二人とも! 出て行ってください!」
「あ、アリシア?」
目を三角にして入ってきたアリシアの一喝に、二人はピタと口を閉じて目をパチパチさせた。
「わたくしが看病します」
「や。危ないよ。いまシェリエル結界張れてないし」
「シェリエルに貰った魔導具がありますので」
「アリシアも寝た方がいいんじゃ……」
「先ほどまで休ませていただいてましたので」
「そ、うか…… じゃあ……」
ディディエは大人しく部屋から出て行くことにした。もちろんユリウスを連れて。
シェリエルがユリウスと二人きりでなければそれで良いし、自分の結界よりもアリシアのペンダントに施されたシェリエルの魔法陣の方が優秀だからだ。
「では私も休もうかな」
「待て。お前、僕に話すことあるだろ」
「何かあったかな」
「なんでライア拘束したの」
廊下を歩く二人の間にはしばし重たい沈黙があった。けれど歩みが止まることはなく、足は自然とユリウスの寮室へと向いている。
階段を登って王族階に上がると人の気配もほとんどない。アルフォンスはまだ王宮で後処理をしているのだろう。
ユリウスが無言で扉を解錠すると、当然のようにディディエが先に部屋に入る。歩きながらジャケットを脱いで長椅子の背に放り投げると、シャツの首元で結んだ紐を緩めて座面に腰をおろす。
前のめりに脚を組むと「座れ」と言うように顎で向かいの長椅子を差した。
「それで?」
「……シェリエルに怒られた」
「それだけ?」
「それだけって。あの子が怒るとどんなに怖いか知らないのか?」
「お前なら何とでも言い訳できただろ。こっそり後を追って逃すでもすれば良かったのに」
「期待はしたけどね。手を貸すのは違う」
「マ、それもそうか」
疲労の溜まった二人の間には酒瓶があってもおかしくないが、今日は飲む気にはなれなかった。シラフで話したい気分。それに、ユリウスの感情を正確に読み取る必要がある。
「コンラッドの裁判に合わせてライアも裁判にかける」
「じゃあ来月には終わらせるってこと?」
「そうなるね。準備はできているし」
「せめて年明けにしない?」
「拘束しておくだけというのも不自然だ。あとで怒られるのは君だよ」
「たしかに…… でもさ。早過ぎるよ。予定より二年も早い。それに、この様子だと——」
「いや、終わらせるべきだよ。いい加減ね。ライアが本格的に狂ってしまったら私も残念に思うし」
「僕が何とかするから」
「君が得意なのは狂わせることだろう」
「……努力する」
「珍しいね」
「まだ遊びたいじゃん」
「今日だって充分楽しんでいたようだけど」
「そうじゃなくて!」
イライラして思わずガラッとした声になった。
ユリウスは涼しい顔で丁寧に紅茶を淹れ始める。
月あかりの差す窓辺で煙管を吸いながら酒を呷っているのも似合うが、陽の光差すリビングで茶器を扱う姿も悪くない。
ディディエにとってシェリエルが人生を照らす太陽ならば、ユリウスは夜そのものだった。
人の気配が去った夜の静けさは解放感があって、好奇心が疼いて、それから少し安心する。
「ディディエ、禍玉を回収しよう」
それはお誘いでも頼み事でもなかった。
すでに共犯として、相棒として、ディディエを認めているからこその言葉だ。それが分かれば首を横に振るなんてことはできなかった。
「仕方ないな……」
「ライアを尋問できるよう手配するよ」
「拘束したときは身に付けてなかったんだよね?」
「ああ。どこかに隠したか誰かに持たせたか」
「あのさ、今さらなんだけど。禍玉ってどうやって使うの?」
「さあね。あれは魔導具や古代の秘宝などではないから、本来の“使い道”なんて無いんだよ。ただ封印された魂というだけ。現世に縛り付けられた憐れな存在だよ」
思考することも体感することもできず、ただ穢れが運んできた負の感情に晒され続けるのはどんな心地なんだろう。
とりあえず、最悪だということだけは分かる。
「ゲルルトはその術をユリウスに使えると思ってたんだよね。実際、できるの?」
「ふふ、できるよ。魔術としては残っていないから、シェリエルが解析できればだけど」
「じゃあシェリエルだけは怒らせないようにしないと」
「ね。ちなみに、私に限った話ではないから君も気を付けるように」
「最悪。シェリエル極刑の更新が趣味なのかな」
「ははは、セルジオが聖人に思えてきた」
「父上は優しいよ。他人を苦しめたいって欲が一切無いからね」
「教育の成果か。なぜ君は失敗したんだろうね」
「いや、僕もべつに嗜虐趣味とかないよ? 快楽のために人を殺すわけでもないし」
もちろんシェリエルにもそういった趣味はないし、魂を封じる魔術の存在すら知らないが。
「でも君、人間を同族だと認識できていないよね? 君たちは他人を豚や猿のように感じている。見下しているというわけでもないが、意思疎通のできる限りなく姿が近い——“自分たちとは種を違えた存在”として見ている。だから共感できないんだろう?」
「あー、うん。そう言われるとそうなんだけど。共感できないから同族だと思えないのかもしれないよね。あと、お前が言うと感じ悪い」
「他人に理解されるのが嫌なだけだろう。シェリエルなら喜んで食い付くのに」
「ユリウスは他人じゃないけど……」
「ん?」
俯いてこぼした声は掠れて消えるように小さかった。
ユリウスにはたぶん聞こえている。聞こえていて、踏み込ませないように聞こえていないフリをする。
ディディエがどんな気持ちでいるのか分かっているくせに、踏み躙って、相棒みたいな顔をして、突き放して、優しく笑う。
シェリエルがユリウスに情を持つのもある意味仕方のないことだと思っている。
ユリウスは自分たちに似過ぎているから。
庇護すべき民でも、信頼できる家臣でもなく、敬うべき上位者でもなく、ただ血族みたいに心地良い。家族以外で、唯一同族のように思えた。
人の理に無理やり縛られた、不自由な魂に安堵するのだ。
——でもそれは恋じゃない。
「お前、シェリエルに変なことしなかっただろうな」
「急に話が戻ったな」
それから、疲れ果てた頭で脈絡もなく話をした。
挨拶をしてこの部屋から出て行くのが嫌だった。
意識が途切れる寸前までたらたらと呂律の回らない舌で喋りながら、とりとめのない話をする。
そういう気分だったのだ。





