優しい人は 3
翌日の朝。エリザはすっきりとした気分で目が覚めたが、昨夜のことを思い出すと顔から火が出るほど恥ずかしい気持ちに襲われた。
ルカの胸にすがって泣いたのだ。あれだけみっともない姿を見せてしまったというのに、その後ルカは寮に戻って食事を共にして部屋に戻るまで、エリザを励まし続けてくれた。
その優しさにエリザの胸の虚無感はほとんどなくなったけれど、代わりにルカへの恋心は更に大きくなってしまい、恋の苦しみは増したように思う。
それでもエリザはルカに救われた。今日も一日頑張ろうと、朝起きてそう思うことが出来たのだ。
それと同時に、ルカがエリザに言ってくれた言葉を、デヴィッドにもかけてあげたいと思った。エリザが一歩も前に進めていないのと同様に、デヴィッドも前に進めていないのだ。
ルカが、今のエリザを認めて弱くないと言ってくれたように、デヴィッドもまた認めてくれる人がいないと前に進めないのではないか。それがエリザでは意味がないのかもしれないが、エリザはデヴィッドと一緒に第一歩を踏み出したいと思った。
エリザは、今日の昼食はデヴィッドと取ろうと思った。少しでも早く話がしたい。そうしてデヴィッドも前に進もうと思ってくれたら、第一秘書官になる決心もつくかもしれない。
そうと決まればデヴィッドに会いに行こうと、いつもよりも早い時間に寮を出ると、真っ直ぐ朱月殿へと向かった。
案の定、朱月殿の財務大臣の執務室には、すでにデヴィッドの姿があった。親子揃って朝が早いと苦笑しながら部屋に入ると、突然やってきたエリザを見るなりデヴィッドは驚いて目を見張った。
「ここまで来るとは驚いたな。どうかしたか?」
「今日の昼食を一緒に食べようとお誘いに来ました」
「私は構わないが、アーサー殿下は大丈夫なのか?」
「まだ許可はとってないですが、一日くらい大丈夫だと思います」
「そうか。それじゃあ食堂で何か頼んでおこう。裏庭で一緒に食べようか」
「はい。では私は飲み物を持っていきますね」
分かったよと笑うデヴィッドの顔はいつも通りに見えたが、目の下には隈が出来ており覇気がない。こんなに朝早くから仕事をして、余計なことを考えないように気を紛らわせているのだろう。エリザは我ながらよく似た親子だと思った。
デヴィッドと約束を取り付けたエリザは、執務室へと戻ると早速仕事に取りかかった。婚約発表に使う便箋の発注や送り先のリストの作成をしていると、ルカとオーガスタ、少し遅れてアーサーがやって来て、簡単な朝礼がはじまった。
今週のスケジュールをルカが発表している間、エリザはそっとルカを観察した。
ルカはいつも通りぴしりと制服を着こなして、低くて落ち着いた声で淡々とスケジュールを読み上げている。手帳を手にした手は大きくて、あの手で抱きしめられたのかと思うと、顔が熱くなった。
スケジュール確認を終えてアーサーと会話をしながら疲れたように目をこすり、けだる気な表情で冗談を言う姿は少し色っぽくて。同じ寝台で並んで寝ていた頃、なぜ自分は平気で眠ることが出来たのだろうと不思議に思う。
見ているだけで、声を聞いているだけで、幸せな気持ちになる。その後で、でも決して手の届かない人だと思い至って、苦しくなる。
ふっとルカから視線を外したエリザはそっと息を吐き出して、だけど好きでいさせてほしいと何度目かになる願いを心の中で呟いた。絶対に気づかれないように気をつけるから、と。
朝礼が終わると、エリザは今日の昼食は父と取りたいとアーサーに申し出た。アーサーはあっさりと許可してくれた。自分の席に戻ったエリザは、ルカに小声で昨夜の礼を告げた。
「昨日はありがとうございました」
「ああ……。もう大丈夫そうだな」
「はい。ルカ様のおかげです」
「大げさだな」
「でも、本当に」
そうか?とルカはどこか照れた様子で、そんな姿が愛しくて堪らなくて、エリザはくすりと笑みを零した。
「感謝してます。これからも一生懸命働きます」
「昨夜とは一転して前向きになったな。いい傾向だ」
ふっと微笑んだルカの顔から中々目が離せなくて、エリザはしばしその横顔に見惚れた。
その後、エリザの仕事は驚くほど捗った。自分はこんなにも単純だったのかと、呆れてしまった。
そして正午。
エリザは紅茶を携帯ポットに入れると、デヴィッドの待つ裏庭へと向かった。
デヴィッドは裏庭の長椅子に腰掛けてエリザを待っていた。エリザが隣に腰掛けると、デヴィッドはランチボックスを取り出した。中にはハムサンドとポテトフライに、蒸した鶏肉と野菜が入っていた。
早速昼食をはじめた二人は、食事を口にしながら、他愛ない話からはじめた。アーサーの婚約話や、チャップマン財務大臣の長女も婚約が整いそうなこと等。
昼食をほとんど食べ尽くしたところで、紅茶を飲みながらデヴィッドがそれで、と口火を切った。
「なにか話があるんじゃないかい?」
「お父様……第一秘書官になる件は考えてくれましたか?」
「その話だが……まだ迷っているんだ」
「是非受けてくださいませ」
真剣な眼差しを向けると、デヴィッドは目を瞬いた。
「エリザ。何かあったのかい?雰囲気が変わったね」
エリザは小さく息を吸ってから、話しはじめた。
「私、お母様が亡くなってからは、借金を返すことを目標に働いてきました。それは、仕事に集中することで、お母様の死を受け止めることなく、事実から目を背けることが出来たからという理由もあります。今までは、悲しくて辛いことを先延ばしにして、何も考えないでよかったから、なんとかここまで歩き続けることが出来たのかもしれません。……でも、借金を完済した今、お母様の死から逃げ続けることが出来なくなって、虚無感と喪失感に襲われて、不安で仕方がなかったんです」
エリザは膝の上に置いた拳を握りしめた。
「今の私には何もない。お母様の死から未だに立ち直れていないと打ちのめされた時、ある方が言ってくれたんです。大切な人の死を受け入れたくないのは当然だと。自分は弱い人間だと弱音を吐く私を、そんなことない。強くて優しい人間だと、私の思うように生きたらいいと言ってくれました」
その言葉に救われた。ルカのあの言葉がエリザの不安をかき消してくれた。そんな風にデヴィッドの不安も消すことが出来たなら……。
「お父様。私達は、お母様の病気を治そうと、あらゆる手段にすがりつきました」
「あの頃の私は愚かだった……」
デヴィッドはポツリと呟いて、俯いた。
「お父様がそのことをずっと後悔されているのは知っております。私も同じでしたから。ですが……もういいんじゃないでしょうか?」
デヴィッドは俯いていた顔を上げた。
「そろそろ私達は、あの頃の愚かだった自分を許してあげる頃ではありませんか?」
マチルダの病を治すためならば何にでも手を出した。領地を担保にしようと言い出したデヴィッドに、すぐに賛同したのはエリザだった。
やがて戦争がはじまったが、二人は戦争どころではなく、マチルダの病を治す手段を探ることに心血を注いだ。それでも病は治らなくて、焦るうちにマチルダは死に、借金が残された。
ようやく目が覚めた二人に襲いかかった後悔の波は激しかったが、自分達を責めることでなんとか立っていられた。
そうして借金を返すために歩き出した二人は、今でもあの頃の愚かだった自分達を許していなかった。
だけど、そろそろいいのではないか。エリザはデヴィッドが自分を責めるのをやめてほしかった。何より、エリザはデヴィッドに許してもらいたかった。
「私は、お父様のことも自分自身のことも許して、一緒に前に進んでいきたい。そう思うことが……ようやく出来るようになりました」
デヴィッドは目を見開いてエリザを凝視すると、泣き出しそうに顔を歪ませた。
「私はお母様の死から、正直まだ立ち直れていません。それでも……私達は前を見て歩いていかなければならないと思うんです」
デヴィッドは両手で顔を覆うと、そのまま前のめりになって身体を震わせた。エリザがデヴィッドの肩に手を添えると、デヴィッドは恐る恐る顔を上げて、涙で濡れた目でエリザを見上げた。
「それで、マチルダは許してくれるだろうか?何も出来なかった私を……」
「もちろん。お母様ならば、きっと……許してくださいます」
「領民達は?領民のことをそっちのけで、家族のために領地を手放した私を……許してくれるだろうか?」
「それは……分かりません。無責任だと責める者もいるでしょう。でも、例え皆が許してくれなかったとしても、私がお父様を許します。だから、お父様も私を許してください。そして、二人で前を向いて生きていきましょう」
デヴィッドは言葉なくエリザを抱きしめると、何度も許すと言って涙を流した。
真昼の裏庭で親子揃って泣く二人は、周囲の目には異様に写ったかもしれないが、二人して散々泣いた後のデヴィッドは、どこか晴れ晴れとした顔をしていた。
「こんなところで泣いてしまったから噂になってるかもしれないな」
「その時はその時です」
回廊を歩きながらエリザが言うと、デヴィッドは腫れた目を細めて笑った。
「エリザ。なんだか強くなったな。……エリザを強いと言ってくれた人は、アーサー殿下かい?」
「いいえ。ルカ・ホーキンス卿です」
「そうか……。いい上司に恵まれたな」
「はい」
エリザは自分が褒められたような気がして嬉しくなった。そんなエリザを眺めながら、デヴィッドは決意したように頷いた。
「……秘書官の件だが、もう少し前向きに考えてみるよ」
驚いてエリザがえっと声を上げると、デヴィッドは穏やかな笑顔を浮かべた。
「エリザ。……ありがとう」
デヴィッドのこんな柔らかな笑顔を見るのは何年ぶりだろう。親子揃って肩の力が抜けて、ようやく前を向くことが出来た。二人共まだまだマチルダの死と向き合うことは出来ていないかもしれないが、少しずつでいい。ゆっくりと歩いていけばいいと思った。
その日、エリザは昼休憩を三十分も遅刻してしまった。真っ赤な目をして帰ってきたエリザを、アーサーは遅いぞといって叱咤し、オーガスタがたまにはいいじゃないといって擁護して、ルカは手紙の束を渡した後、小声で大丈夫かと心配してくれた。
それだけで、エリザはこれからも頑張れると思った。夢も目標もないけれど、今を精一杯生きようと、決意を新たにエリザは机に向かった。
もう大丈夫。明日を向いて歩いていける。心強い人達が周りにいてくれるから。




