優しい人は 2
その日は予想通り夕方まで手紙の代筆をして、それが終わると、婚約発表に使用する便箋選びをはじめた。そうこうしている間に夜はすっかり更けて、ようやく決まったところで本日の業務は終了となってしまった。
仕事に集中するあまりに、アーサーとオーガスタが退勤したことにも気づかなかった。エリザが散らかった机を片付けていると、隣でルカが天井に向けて腕を伸ばしながら何気なく言った。
「エリザ。昨日は何かあったのか?」
ドキリとしてルカを見やれば、じっと瞳を見返された。ええと、と口籠ったエリザは逃げるように机の上に視線を落とした。
うまく誤魔化せたと思っていたが、ルカにはエリザの様子がおかしな原因が女官長ではないとバレているようだ。どうして誤魔化そうかと考えていると、ルカが尋ねた。
「父親と喧嘩でもしたか?」
「……いえ。父とは仲良くやっています。女官長のこともあったし、少し疲れが出たみたいです」
「それだけじゃないだろ。そんな嘘が俺に通用すると思うなよ」
ルカの強い視線を感じたが、顔を上げることは出来ずに黙り込んだ。このままいたらこの間のように引き下がってくれないだろうかと思っていると、ルカが深いため息を吐いた。
「エリザ……一人で抱え込むのはよくないと言ったばかりだろ。今朝のエリザはずっと心ここにあらずといった感じだった。手紙も何通か書き間違えていただろう?」
「ごめんなさい……」
「仕事のミスを責めてるんじゃないんだよ。俺はただ何かあるなら今ここで全部吐き出してほしいと思ってるんだ」
「それは……私の個人的な問題ですから」
「だが、エリザは自分の中で処理出来てないだろ。それなら、話すことによって気持ちを整理したほうがいい」
昼食の時といい今日のルカは一歩も引かない。強い眼差しでエリザを真っ直ぐ捉えて、視線を逸らすことも許してくれない。だから、エリザはつい口に出してしまった。
「……自分でも自分の気持ちが分からないのです」
「少しずつでいいから、話してみるんだ」
それでもエリザはまだ迷っていたが、借金返済のことはいずれ分かることだ。早いか遅いかだけの問題だ。ならば今言ったところで変わらない。ようやく決心して、エリザは口を開いた。
「実は……借金が完済しました」
エリザが喉の奥から絞り出すように言うと、ルカは座ったままこちらに身を乗り出してきた。
「何だと?!もう借金はないのか?」
はいと答えて、エリザも腰掛けたままルカに向き直った。すると、ルカは理解不能といった表情で首をひねった。
「それじゃあ……何をそんなに落ち込んでいるんだ?借金がなくなったのがそんなに悲しいのか?あれだけ必死に働いてきて、ようやく完済出来たんだろ。これからは借金のことを考えずに、自分の好きなようにお金を使えるんだ。こんなに喜ばしいことはないだろ?」
「そうですね……本来ならばそのはずですよね。だけど、私は今まで借金を返済することが働く理由で目標だったのです。それが達成されてしまったら……」
エリザには夢も目標もなかった。夢は未来を見据えた目標ではなく、過去の思い出の中にあった。ノースグリンで家族と過ごした幸せな日々。リスターと挙げた結婚式。
もう一度あんな幸せを感じることが出来たなら、どんなことだってするのに。そこまで考えて、エリザは力なく微笑んだ。
「今の私には……何もありません」
ついにエリザは認めた。今の自分には何も残っていない。その事実を認めた瞬間、目の前に現実が突きつけられた。
今のエリザは、この先どうやって生きていけばいいのか分からずに、呆然と立ち尽くしている迷子のようだった。
「夢や目標がなくとも、エリザはいつも一生懸命に今を生きているじゃないか?」
エリザは驚きのあまり、ぼうっとルカの顔を見上げた。
「今を一生懸命に……私が?」
「朝早くから夜遅くまで働いているだろ。それを一生懸命でなければなんだというんだ?」
「でもそれは……お金のためでしたから……」
「でも、エリザからは仕事を覚えようという意欲や、役に立ちたいという思いが伝わってきた。それはお金のためという理由だけで片付けられないだろ?」
ルカが優しく子供に言い聞かせるように言った。
「でも……」
「エリザは考え過ぎなんだ。目標や夢なんて後からついてくるものだ。ただ、自分のために生きればいいんだ」
「自分のために……?」
マチルダの病気を治すためでもなく、借金を返済するためでもなく、自分のために……?
「……そんなこと、考えもしませんでした」
「エリザの人生なんだ。好きなように生きればいいんだ」
そんな風に言われたのは初めてで、エリザは戸惑った。
「好きなようにって……?」
「美味しいものを食べたり買い物したりおしゃれしたり。なんでも楽しめばいいんだよ」
「私は……」
脳裏にマチルダの姿が思い浮かんだ。
マチルダはもういない。親子でファションショーは出来なければ、ウェディングドレスももう着れないだろう。
それなのに、今からおしゃれを楽しむだなんて出来るだろうか。あの幸せな日々を思い出す度に喪失感に襲われるのに?
マチルダが亡くなって残されたのは、どんな手を使っても病を治すことは出来なかったという事実と、借金だけだった。
悲しみにくれる間もなく借金返済のためにがむしゃらに働く日々がやってきて、エリザもデヴィッドも余計なことを考える暇はなかった。それが、二人にとって救いでもあった。
しかし、立ち止まったら、マチルダの死を受け止めなければいけない。エリザもデヴィッドも、十年経ってもマチルダの死を受け入れることが出来ていなかった。思い出すと喪失感に襲われてしまうから、ずっと目を逸らして生きてきた。
けれど借金がなくなった今、真正面からマチルダの死を受け入れなければならない。それは、何よりも辛いことだった。
エリザは脳裏に浮かんだ幸せな思い出を振り払うように、何度も首を振った。
「おしゃれなんて……私には出来ません。おしゃれが楽しかったのは、母がいてくれたからなんです。母がいないのに、今更……」
着飾ったところで昔のように楽しめるとは思えない。ドレスを着ても、痩せっぽっちで不健康そうな今のエリザにはきっと似合いもしなければ、虚しくなるだけだという卑屈な結論に至った。
「私はただ……」
思い出に縋って現実から目を逸らして、逃げてばかりいる。この胸に空いた穴の正体は、大切な人を失った喪失感と、事実を受け止められない自身の弱さだ。
エリザはなんだか泣きたくなって、唇を噛み締めて言葉を飲み込んだ。これ以上話してしまえば、もう堪えられないと思った。
話を切り上げて逃げてしまおうと決めた直後、ルカが椅子を引き寄せて距離を詰めると、知らぬ間に震えていたエリザの手を取った。
「最後まで話せ。今抱えてる気持ちを全て吐き出してしまうんだ」
握られた手が熱い。そこから身体中に熱が広がっていくと同時に、閉じ込めていた感情が込み上げてきた。
なぜ、こんなにも親身になってくれるのか。ルカの優しさがひしひしと伝わってきて、エリザは堪らず顔を逸した。
「エリザ」
優しく名前を呼ばれて、ついにエリザはこくりと頷いた。しばらく何から話そうか思案したけれど、結局考えはまとまらないまま、心のままに震える唇を開いた。
「私はまだ……現実を、母の死を受け入れたくないのです。二十四歳にもなって何をと思うかもしれませんが、私は……怖いのです。過去にすがりつき、未だに母に会いたいと恋しがる、ただの弱虫なんですよ」
自嘲して呟くと、喉の奥が痛んだ。目の奥が熱い。込み上げてきた涙を必死に飲み込もうとすると、掴んだ手を引かれた。そのままルカの胸にしなだれかかると、背中に腕が回された。優しく後頭部を撫でられて、エリザは息を止めた。
「大切な人の死を受け入れたくないのは当然だ。死んでもなお会いたいと思うのも」
抱きしめる腕に力がこもった。エリザは咄嗟にルカの胸に縋りついた。
「……エリザは弱虫なんかじゃない。強くて人を思いやれる優しさを持ってると、俺は知ってる」
「そんなこと……」
「でなきゃ、アーサーの下で働くなんてこと出来ないからな」
僅かに身体を離すと、エリザの顔を見下ろしてルカは小さく笑った。
エリザは息を吸った。泣くものかと思った瞬間に涙が溢れた。
「泣くなよ……どうしていいか分からなくなるだろ」
困ったように笑ったルカの胸に、こつんと額を押し当てた。ルカの手が再びエリザの背中に回されて、優しくさすった。
エリザの胸に空いた穴が、ルカの優しさで塞がれていく。優しくしないでと思うのに、その優しさに縋りついて、もっと優しくしてほしい。もっと自分を見てほしいという欲が湧き起こって、エリザを苦しめた。
エリザは声を殺して泣いた。せめて泣き声は上げるものかという、最後の悪あがきだった。




